2009年3月 1日

ものより思い出

今日の外出は午前中、と決めて出かけたのに、帰宅したのは16時でした。
予定は未定の見本のようです。
今日は港方面に出かけ、遊覧船に乗ったり、近くの遊園地に足を伸ばして観覧車に乗ったりと、まるで息子の接待日でした。
息子が船に乗るのは昨年夏から2回目。
乗船中、最初は緊張した面持ちで
「ちょっとこわいね」
などと言っておりましたが、慣れてきてからはすこぶるご機嫌でした。
帰路の車中でも
「お船に乗れて嬉しかったの」「ぼく、お船、好きの」
等々、一生懸命話してくれました。帰宅してからも
「観覧車乗りたい、真っ暗で乗りたい(夜だけど乗りに出かけたい、の意)。ひとりで行ってくるね(ひとりでも行きたいくらい行きたいから連れて行って、の意)」
とたびたび玄関に走って行っては、
「今度ね」
と旦那に連れ戻されておりました。

「うれしかったの」という息子の言葉が、わたしには何よりうれしい。

ものより思い出、というCMのフレーズがありますが、今日はまさにこれだと思いました。
ちょっと、意味は違っちゃうんですけどね。

親はいろんなものを子供に与えているつもりですよね。
物品はもちろん、経験や知恵、社会通念や考え方その他。
いろんなものを与えているけれど、でも、わたしが息子に与えるそれら諸々のものよりも、息子が感じてくれた「うれしかった」気持ちと、それを一生懸命に伝えてくれた記憶と、共有できた楽しい時間。
こういった息子がわたしにくれる「思い出」のほうが、よほど価値があるんじゃないかなあ、と……。
長い人生の中での、冒頭での出来事ですから、いずれ今日の記憶は息子の中に沈んでしまうのでしょうが、折り返し地点も近いわたしは、大切な記憶としてずっと覚えていたいです。

それでも気持ちが急いているときにはついつい忘れがちになってしまうんでしょうけどね。
伝えたいことが山とあるのに、わたしが息子にそれらをうまく伝えられなくて、もどかしくて苛々してしまうときとか(毎日だ!)。
そんなときに今日の「うれしかったの、ありがとう」を覚えていられたら、きっと苛々せずにいられるような、そんな気がするので。

ああ、わたしの「嬉しかった、ありがとう」も誰かのよい「思い出」になれればいいなあ。