will-o'-the-wisp
あるいはただのまぼろし その5

うちなるもの

 もう、随分昔になるのだけれど、喫茶店でアルバイトをしていたとき、
 お客さんの要望に咄嗟に応えられなかったことが、二度ほどある。

 一度目。まだ、入店数日目だった。
 お客さまはわたしより少し年上の、清楚な印象のお嬢さんだった。
 ご注文はスコーンと紅茶のセット。
 そのスコーンの皿を指差して、お嬢さんは言った。
「チンして下さい」
「……は?」
「えっと、『チン』してほしいんですけど」
 ゆっくり、はっきり繰り返したお嬢さんは、穏やかな笑顔をわたしに向ける。
 よくわからないままに、「かしこまりました」と皿をもって席を下がり、マスターに聞いた。
「マスター、お客さまが『チンして下さい』っておっしゃるんですけど、『チンする』ってなんですか?」
 マスターは笑いながら教えてくれた。
「電子レンジで温めてあげて。1200Wで5秒くらいね」
 腑に落ちないながらも、わたしは電子レンジにスコーンを入れ、
 きっちり5秒温めた後、お客さまにそれをお持ちした。
 お嬢さんは「ありがとう」と優しげな声で言い、おいしそうに食べていた。
 一礼して厨房に戻ったわたしは、マスターのサスペンダーを引っ張る。
「マスター。なぜ電子レンジで温めることを『チンする』と言うのですか?」
「昔のレンジは、調理終了のときになるタイマーの音が『チン』だったんだよ」
 そうなのか。記憶にある限り、我が家の電子レンジは「ピー」という電子音だ。
「へぇ」
 なるほど、そういう電子レンジもあるのか、と感心するわたしの頭越しに
 テラス際の席に座るお嬢さんを見たマスターは言う。
「彼女のお母さんが最初に買ったくらいのレンジがきっとそうだね」
 それから、マスターはこう続けた。
「お家で、お母さんに『これ、チンしてちょうだい』と言われてるんだろうねぇ」
 ほほう。わたしの母はなんて言っていたかしら。
 思い当たらない。
 なぜなら、わたしは手伝いをあまりしない子だった……いまでも、なんだけどそれは余談。

 二度目。
 そのメニューは、やはりスコーンに紅茶だった。
「フレッシュ下さい」
「は?」
「あの、フレッシュ下さい」
 この日も、かしこまりました、と退出し、マスターの元へと駆け込んだ。
「マスター、お客さまが『フレッシュください』っておっしゃるんですけど、『フレッシュ』ってなんですか?」
 マスターは苦笑しながら、少し温めたミルクをミルクサーバーに注いで、わたしに持たせてくれた。
「きっとあの方のお家では、紅茶に入れるミルクは『フレッシュ』なんだろうねぇ」
 フレッシュはフレッシュミルクからもじってつけられた商品だよ。
 他にもスジャータ、とか、マリーム、とか、クリープなどとおっしゃる方もいるね。
 フレッシュ=新鮮、スジャータ=お釈迦様の女友達(ちがうけど)、というわたしにとって、
 この事件は忘れられない出来事になった。
 そういえば、我が家ではそれをクリームという。
 クリームと言うにはやや液状だが、何故かそう言っている。
 たぶん、「生」が省略されているのだと思う。
 なぜなら、家では生クリーム(あわ立てる前の)を使用しているからだ。
 生を生鮮、つまりフレッシュとするなら、正解からさほど遠くない(と思う)。
 そのため「フレッシュ」という商標名に、まったくなじみがなかったのである。

 こういった経験を通して、わたしが学んだことは、
「自分が日常使っている表現が、一般的であるとは限らない」だった。
 たとえばいまさら「チンする」ってなにさ、ということにはならないだろうが、
 それでもご年配の方には意味が通じないことがある。
「部長、これもっかいチンしてもらったほうがいいですよね」
 なんて酒席で、冷めたつまみを指して訊ねる「若いの」のことばを、
「もう一度温めなおしていただきましょうか」
 と、通訳しなければならないことが時折あるのだ。
「フレッシュ」に至っては判別は難しいのではなかろうかと、今でも思う。

 さて、まったく意味が通じないのと同様に、
 使われ方が違うために誤解を生むことも、世の中には少なくない。
 灯油を石油という人がいるのはわりとよく知られているが、
 美術部だった友人が石油と言うときは油絵の筆を洗うための(?)ホワイトガソリンだった。
 伯父が船と言うときの船はタンカーだが、叔父が船と言うときの船はポンポン漁船である。
 タンカーを船という伯父の石油は、当然原油を指しているし、
 ポンポン漁船の叔父の石油は、もちろん重油だ……たぶん軽油ではない。
 そして我が家では石油という単語をそもそも使わない。それに類する単語はガソリンである。
 旦那のスタンドはガスステーションで、わたしのスタンドは「何かを立てかけるもの」だし、
 漫画好きな従弟の言うスタンドは、たぶん「式神」か「護法」のことだとわたしは理解している。

 背景となる文化の差は、意思疎通を阻害する。
 方言はその最たる例だ。
「あ、それ、ほかっといて」
 と、言われて、放置したら、
「ほかっといてって言ったのに、なんでほかってくれなかったの!?」
 と、詰め寄られたことがある。
 わたしは「ほかっておく」が「捨てておく」ことだとは知らなかった。
「○○さん、見えます?」
 と聞かれて、
「見えません」
 と答えていたのだが、その「みえる」が「いる」の敬語・名古屋便バージョンだったことを知ったのは、
 入社後半年くらいすぎてからのことだった。
 その日も訊ねられて、「見えません」と答えたわたしに先輩が、
「身内に敬語を使っちゃダメ。ちゃんと『おりません』って言って」
 と、教えてくれたからだ。

 他地方出身の人間には方言的が理解できないように、
 方言でなくとも、同じ文化を共有しない人には通じない表現があるということを意識させられた。
 特に幼児語は世代によっても大きく異なるから、家庭内で幼児語に属する簡易語を多用していると、
 外に出てもとっさに一般的な表現が思いつかなくなってしまう。
「軽く温めなおしていただけますか」
 が、
「ちょっとだけチンしてくださいっ」
 では、支障をきたすこともある。それに、
「チン」する機械に馴染みの薄かった世代の人や、
「チン」は奥さんがしている旦那さんや、
 電子音しか知らない世代にとって、
「電子レンジで再加熱する=チンする」は、あまり一般的な表現でないことに思い至らないのでは、
 知能が、なのか、配慮が、なのか言及はしないけれど、「足りない」といわれても、不思議じゃない
(今はこの表現も、随分浸透していると思う。未だにわたしはとっさに使えないけどね)

 で、結論。
 それは一般的な表現でない、一般的な表現を使用しろ!
 と、言うのはあまりに暴言だ。それに疲れる。
 新しい表現を否定するよりも、そんな表現もできるのだ、と受け入れるほうが楽でよい。
 旧知のことばを誤用、転用するのとは違い、
 あたらしい表現が生まれることには、なんの問題もないのだから。
 あるとすれば、なじみが薄いので伝わりにくいことだけだろうし、
「チンする」のようにそれなりに世になじんでしまえば、それでまかり通ってゆくものである。
 ことばのストックが多ければ、選択肢が増えると言うことで、
 選択肢が増えれば、相手に合わせたコミュニケーションをはかりやすい。

 ただし。
 ここからが大切。
 ことばは相手にあわせて選択するものだから、
 判断に迷うならより一般的である表現を尊重することを、わたしは強くオススメする。
 お客さまの前で、より親しくありたいと、
「てゆーかぁー、やっぱ、とか、な感じでぇ」
 を連呼していた若いのや、
「がっときて、ぐわっと」
 なナガシマ語の達人、そして接待の席で
「チンする」
 を使ってしまった某は、ともに
「幼稚で浅薄。人柄が信頼できない」と顧客からのクレームをいただき担当を外され、
 内勤に回されたうえ、先月とうとう、リストラ対象として名前があがっていた……。
 彼らは選択を誤ったのである。(それだけが理由ではないだろうけど)

 選ぶことばで、その内実を測られる、ということを、
 しみじみと思い知らされ、ふと思う。

 そういえば外見で人を判断するのはやめよう、とはよく聞くが、
 ことばで人を判断するのはやめよう、とは聞かない。
 ことばは内実をあらわすもののひとつとして、世の中に定着しているのだ。

 そんなわたしのことばの評価は、「古典的」
 ありていに言って「頑固で古臭い」
 大きなお世話だと思う反面、たしかにその通りだと思う。