will-o'-the-wisp
あるいはただのまぼろし その3

行と文字の間にあるもの

 ことばを記すために文字がある。
 ことばは思いをあらわすための方法のひとつだから、文字は思いを記すためにあるとも言える。

 目は口ほどにものを言うが、文字も負けじと雄弁である。
 してみると、目は耳ほどに声を聞く、かもしれない。
 これが今回のテーマだ。

 とあるものを表現しようと思いたつ。
 そう、たとえば時である。
 ある人とであった。その「時」をどのように表現するか。
 もっとも簡単に思いつくのは時間である。18時、としよう。
 この場合、表したいのは時間という数値だ。それ以外の要素は重要でない。

 18時ごろ、彼はそこにたたずんでいた。

 次に

 街灯の淡い光が、暗がりの中に浮き上がった。その弱い光の中に、彼はたたずんでいた。

 この場合、表したいのは時間そのものではなく、出会った場所の景色である。
 暮れ行く夜道で出会う。街灯が灯るものの、その光は弱い。
 黄昏時の明暗の中でも主に「暗」を主張している。
 これを、

 夜道を、街灯の淡い光が照らしていた。その暗がりに浮ぶ光の中に、彼はたたずんでいた。

 とすると、明暗の「明」の部分を強調する。
 また、

 立ち並ぶ家の灯が、夜道に影を作る。そこに、彼はたたずんでいた。

 などとすると、「家庭」とそこには属さない空間にいる彼の対比を見ることができる。
 彼がどんな人物であるのか、想像を掻き立てるのは、「18時」よりもあとの3つのほうである。
 つまり、この場合、表現したいものが時間なのか、物語の背景なのか、彼そのものなのかによって、選択されるべき表現が、ある程度限定されてくるということがわかる。
 18時、と表現されていたなら、その後の物語の展開の中でその数値が、景色が描かれていたならその景色が、彼の持つ雰囲気が重要視されていたなら彼自身が、重要な役割を果たすであろうことが予測されるのである。

 もうひとつ、試してみよう。
 着る物の色を表現する。

  1. 彼女は赤っぽい紫の振袖を着ていた。伊達襟には深い緑が使われていた。
  2. 彼女が着ていたのはワイン色の振袖だった。
    胸元にはラインを引いたように、深いグリーンの襟が重ねられていた。
  3. 彼女が着ていたのは躑躅襲(つつじかさね)の振袖だった。

 1.は色そのものである。柄や雰囲気は二の次。着物が赤紫であること、伊達襟が緑であることが重要なのだ。遠目だったのかもしれないし、人ごみの中で見かけたのかもしれない。どちらにしても、じっくりと検分したのではないことがよくわかる。そこには彼女と語り手の間に存在する距離が表れる。空間的、心情的な距離であるし、詳細を思い出せないのであるとするならば、そこには時間的な距離もある。
 2.は、ワイン、ライン、グリーンなど、外来語が使用されることで、おそらくその柄が今様のモダンなものであると思わせる。つまり、纏っている人物の存在が、少なくともワインを日常的に目にするようになった時代以降のものであり、振袖の色を表すのに外来語をごく自然に使用する時代であることも暗に示している。
 少し穿ってみるならば、彼女は常日頃振袖などは着ない女性であることが想像できるし、伊達襟という言葉を知らない語り手もまた、和装の知識に乏しいことがよくわかる。
 3.はその反対だ。通常、振袖には襲色目の表現を使用することは少ない。あえてこれで表現したのであれば、そこには何らかの暗示がある。
 そう、躑躅(つつじ)という文字、さらに襲色目の表現からは、「見ている人物が古風であるか、日本の伝統に対して博識であるか、もしくは雅やかな好みを持っている」などの語り手の嗜好を窺うことができ、かつ、その嗜好が、物語の展開や結末に大きく係わってくることが、想像できるのである。
 同時に、この場合、読み手が同じような好みの持ち主であれば、語り手が彼女を見た季節が春であることも、一目瞭然なのだ。
(同じような色目でも、秋ならば躑躅ではなく竜胆という)
「赤紫の振袖」がどのように表現されているかで、行間を読むことができる。
 振袖姿の女性と語り手の関係や距離、所属する社会、時代、文化などを、こと細かに語らずともわかるのである。

 表現が、暗に「語る」ものだということはわかった。
 では、文字そのものに好みや思考、視点などが表れる場合はどういうことだろう。
 せっかくだから、先ほどの「躑躅」という文字を例に、試してみよう。

  1. 庭の白い躑躅の隣にそれはあった。昨年死んだ愛犬の墓だ。あれは晩年、あの場所をよく好んだ。
  2. 庭の白いつつじの隣にそれはあった。昨年死んだ愛犬の墓だ。あれは晩年、あの場所をよく好んだ。
  3. 庭の白いツツジの隣にそれはあった。昨年死んだ愛犬の墓だ。あれは晩年、あの場所をよく好んだ。

 極めて和風な印象を受けるのはやはり1.だろう。たとえば、整えられた枯山水の庭に、ひっそりと葬られている光景、などを想像する。
 その墓に静寂を見る。止まった時の向こうに、愛犬を見る。それはもしかしたら、白い躑躅が咲き乱れる季節に別れを迎えたのかもしれない。出会ったのかもしれない。躑躅を通して見る過去の姿、そして、今はもういない静けさを思う。
 家庭的ともいえる身近さを感じるのは、2.だろう。こじんまりとした、でも、日差しの暖かい庭ではないだろうか。死んだ犬への愛情も、いまだ温かく続いているようにも思われる。
 そこには犬と飼い主の思い出がある。花の向こうに楽しかった時があり、切なく、やさしく、あかるい日差しを思う。ふりかえる思い出もまた、やさしく温かい。
 3.は花の名前をカタカナで表記しただけだが、2.とは異なり、やや距離を感じる。
 「ツツジ」と表記することで花というよりも、品種が印象付けられるためかもしれない。物語性よりも、どちらかといえば手記のような印象を持ちはしないだろうか。
 犬の死の時期と重なる、なにか別の事象を思わせる空気がある。ツツジと犬と飼い主が別個に存在する。時を共に過ごしても、そこにはそれぞれの独立性のようなものを感じる。
 これはあくまでもわたしの感想だが、きっとみなさんもそれぞれに異なる印象をお持ちになるのではないかと思う。
 もしかしたら、その前後の物語さえも違って感じられるかもしれない。
 余談だが、つつじという表現そのものを変えてみるとどうなるか。

  1. 庭の白いアザレアの隣にそれはあった。昨年死んだ愛犬の墓だ。あれは晩年、あの場所をよく好んだ。

 などともすると、前出の3つとはまた、全く異なる情景が描き出されることだろう。
 アザレア、と洋名で表記しただけで、その庭は日本庭園ではなくなるし、時代は江戸以前ではない。江戸時代であるなら、かなり特殊な立場にある人物であることが知れる。ついでに言うなら、犬の名前はゴンタやハチではないだろう。もし、ゴンタだったなら、かなり深い物語がありそうだ。
 白いアザレアとゴンタ。
 物語ナシで済ませて欲しくない組み合わせだ。気になって仕方がない。
 特異性を含ませると、そこからまた別の時空が生み出されてゆく。

 ものを表すとき、それに対するあなたの好み、思考、視野、知識、文化などがさらけ出される。
 表されたものを受け取るときにもまた、あなたの存在が白日にさらされる。
 そう言ったのはわたしの(心の)師であるが、まさにその通りだと思うこのごろ。
 思いを語るためのことばを、そして文字を、正しく選び取るための時間を、あなたもやがて必要とするようになるでしょう。
 あなたへと放たれたことばと文字をより好く受け止めるための時間もまた、必要とするようになるでしょう。
 静かな声を思い出し、遠い過去に贈られたことばを思う。
 ……では、隠しておいたらいかがでしょうか? 語らず、記さず、隠しておいてはどうでしょう?
 ……そういうのを、腹黒いというのです。
 笑う声を思い出す。
 少なくとも、黒くはないな、と今の自分を見て思うのだが。
 潔白かと問われれば、必ずしもそうでもない。
 この色を、灰というか、鼠というか、燻、薄墨、二藍か。
 選ぶことばで、素性が、知れる(笑)
 さてさて。
 さしずめ今なら、「限りなく夜に近い、明けの空の苦色(にがいろ)」