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あるいはただのまぼろし その4

似てことなるもの

きれい、と、うつくしい。
きれいは形容動詞で、美しいは形容詞。
語の分類からの差異についての説明はいらない。

では、この二つの語の使い分け、というか、差ってなんだろう。

これが、今回のテーマ。

まず、例によって例のごとく、語源から考察する。

「きれい」は「綺麗」とかかれることが多い。
勘の良い人なら、おそらくここでピンと来る。
きれいの語源は「綺羅」に通じている。
綺は織物。特に光沢のある厚手の織物を言う。
地に織り込まれた文様が、光の加減で浮き上がり、また消える。そういう、艶やかさ。
羅は綺とはことなり、薄物を指す。
下に重ねられた衣が仄かに透かし見える。軽く薄く、たおやかな、そんな織物である。
とにかくこの二つの文字で綴られる「綺羅」は、
織物の素晴らしさを現し、それは衣装を、後にはその姿を賞賛する言葉となってゆく。
同様に、きら(綺羅)びやか、も、
姿を褒め讃えるときに使われることばである。
ここで重要なのは、あくまでも褒めるときに使われる、ということ。
もし、このきらびやかさが好意的に受け止められない場合、
きらびやかとは言わず、けばけばしい、けたたましいなどの表現を使用する。
あくまでも「きら」は好ましいものに使用する言葉なのだ。

その綺羅の綺が麗しいのだから、しっとりとした「艶」を指して、
― そう、艶である。薄物から透かし見るような儚い風情ではなく、
しとりと肌に馴染む感触と滑らかな手触り、光に印象を違える綾織物の艶なのだ ― 「綺麗」というのだと思う。

次に「うつくしい」を考えてみよう。
うつくしい、は、古語うつくしから変化している。
うつくし、は、いつくし、とも言い、
いつくし、は、もちろん、慈しみ、のいつくしである。
ようするに、「うつくし」の対象は「慈しむ」対象である。
「慈し」の感覚は「愛し」によく似ている。

そう。
綺麗、の対象が、愛でるものであることに対し、
美しい、の対象は、愛しむものなのである。

さて、なにゆえにこれの考察をするに至ったかというと、
綺麗な人と美しい人の違いは何か、という問いかけをされたからである。
前述のように考察したわたしは、
「綺麗な人、というのは、その見た目が好ましい印象を与える人。
 美しい人、というのは、その存在が好ましく目に映る人」
そのように答えたのだが、伝わらなかったらしい……。
どうやら、質問者は、観念的な話ではなく、
「綺麗な人の典型」「美しい人の典型」といった具体的な話がしたかったようだ。

ゆえに、わたしの解釈は黙殺された。
いたしかたのないことだと思う。

話はどんどん流れ、次に
「かわいい人」とは何か、という議題が出た。

先ほどの失敗があるので、黙ったままわたしは「かわいい」について考えた。

かわいい、は、かわいそう、と同じルーツをもつ。
おもわず憐れみを催すような存在に対して使うことばだった。
この場合の憐れみは、同情ではなく、慈しみに近い感情だ。
もののあはれ、などというと難しいが、愛しさに胸が震えるような、
そういう感じなら、誰しも一度くらい経験があるのではないかと思う。
単なる慈しみと違うのは、そこに「庇護したい」という明確な気持ちがあるところだろう。
庇護するとは所有するということで、
と、いうことは、かわいい、は、
わたしこそが、それを守りたい、ということかもしれない。
庇護欲とは通常、自分よりも弱い存在に対して抱く感情であるので、
おそらく対象は子供や、小動物、
弱弱しさ、稚さを内包する存在に対して使用する言葉だといえよう。

そこまで思考が進んだとき、どう思うかと話をふられた。

自己の内側で思考していたわたしの、現実空間における記憶は、
「かわいい」とは何か、という議題が出た。
というところまでだ。

「かわいい、は、庇護欲をかきたてるような弱弱しい存在を好意的に形容する言葉」

そう答えた。
しかし、「こういう人がかわいい」というように、
具体的なイメージで話をしていたらしく、この答えは瞬殺された。
当然の成り行きだと思う。

きれい、うつくしい、かわいい、ときて、次にお題になったのは、
すてき、だった。

すてき。
素敵、とも当て字されるこのことば。
広辞苑には以下のようにあったように記憶している。

1.とてもすぐれたこと。ぬきんでたようす。すばらしいこと。
2.程度や分量がはなはだしいこと。極めてぎょうさんなこと。

これを考えると、優れていることとたくさんであることが
ほぼ「=(イコール)」で結ばれている。
富こそが、優れている、と解すのか、
優れているものは豊かである、と解すのか、微妙だが、おそらくは後者だと思う。
豊かである対象は、金品にとどまらず、情緒であったり、風情であったり、
それがかもし出す雰囲気までを現すだろう。
なんとも気の利いた言葉である。

さて、他にも1と2の間に共通する概念がある。
それは、ぬきんでた、はなはだしい、極めて、の三語に現されている。
この三語は常識範疇を逸脱していることを示すことばであり、
そのぬきんでた方向が上方か下方かの指定はなされないので、
1と2に共通するのは、常でない、ということだ。

つまり並々でないことを指して「すてき」というのだ。

脳内に保存されたいくつかの辞書の項目を繰り、
ここまで考察が進んだとき、またしても話題をふられた。

いっそふって欲しくなかったというのが本音だ。

「どんな人がすてきだと思う?」
「普通じゃない人」

横たわる青白い沈黙。

即答したわたしの何がいけなかったのか、わかりたくないのだが、

「まあ、あなたは充分にステキだと思うよ?」

そういう評価を頂くにいたった理由は、明白すぎるほどに明白だった。

せめて、「優れた人」か、「豊かな人」であったなら、
フォローのしようもあっただろうに。

返すことばもないままに、「恐れ入ります」と頭を下げたわたしが、
しばしの間、ステキさんと呼ばれたことも、恥ずかしながら併記しておく……