will-o'-the-wisp
あるいはただのまぼろし その1

あるべきもの、あらざるべきもの

ことばにはイメージがある。
ことば本来のもつ意味とは別に、そのことばから受ける心象がある。
日記でも少しだけ書いたが、このイメージは意外と曲者だ。

井戸と煙突のもたらす雰囲気については先に日記で述べたとおりだが、
参照するのも面倒なので、こちらにも簡単に記しておく。

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 修飾語の威力は凄まじい。一例だが
【煙突のある家】
 童話、あるいは昔話的。暖かくてほのぼのとした空気を感じる。
【井戸のある家】
 湿々としている。サスペンスの空気が漂う。
 煙突と井戸の機能を比較する。
 煙突は屋内から屋外へ換気をするためのものであり、その発生源は室内。
 台所であり居間の暖炉である。
 井戸は屋外にあり、地下から水を汲み上げるためのものである。
 煙突が天に向かっていることに対して、井戸は地中に向かっていること。
 煙突の元にある暖炉や竈の温かみに対して、深い井戸の冷たさ。
 煙突からやってくる聖人と井戸から現れる女鬼。  ……そんなデータが頭の中から無意識の内に引き出されるからだろうか。
 ことばから引き出されたイメージが「〜のある家」にまでも被さってしまう。
 さて、では「煙突のある家」という題名でサスペンスを書いてみる。
 冒頭で暖炉の灰の中から人骨が発見される。
 と、暖炉のぬくぬくほのぼのとした空気が急激に冷え込む。
 いったい何がどうしてそんなことに! これは誰だ! そして誰が! 乞うご期待。
 ところが「井戸のある家」でぬくぬくほのぼのを書こうと思うとなかなかに難しい。
 つるべに絡まる朝顔の蔓を、そっと他にうつしかえた心優しい主人公が、
 朝顔の精だか井戸の神さまだとかに窮地を救われる……。
 いささかインパクトに欠ける。
 陽のイメージを覆すには人骨一欠片で事足りるのに、
 陰のイメージを覆すには神さまのご出馬が必要だったりする。
 ご出馬いただいても、今ひとつ効果の程は定かでない。

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たまたま話題のきっかけになったのが、煙突のある見事な邸宅だったので、
煙突のある家、となったが、おそらくはこれを「囲炉裏のある家」としても
さほど大きな違いはないだろう。

囲炉裏と煙突の間には、井戸と煙突ほどの差は生じない。
それは機能の上でも、また心象の上でも。
煙突≒囲炉裏≠井戸だ。

他にも、
縁側に座る老婆、と、屋根裏に座る老婆では、やはり心象が違う。
前者のおだやかな暖かさに比べ、後者の鬼気迫る冷たさはなんだろう。
縁側のもつ空気、屋根裏の持つ空気が座る老女の纏う雰囲気を
がらりと変えてしまうのだ。

井戸、屋根裏それ自体には、陰鬱さはないはずにも係わらず。

ふと思ったのは、日常空間にあるか、否か。
それがことばの心象を左右するのではなかろうかということ。

煙突も井戸も、都市部では目にすることはめっきり減った。
減ったというよりも存在を確認することは難しい。
だから目にしたときに、「あ、あの家には煙突があるよ」と話題になったりもする。

さて、煙突は日常空間ではないが、その元である暖炉は日常空間だ。
多くの場合、家族の集う居間にしつらえられる。
たとえ利用する機会がエアコンの普及によってなくなっても、
団欒の場にあり、日常的に目にすることでそれは日常的なものとなりうる。
囲炉裏などはまさに、それだ。
機能しなくなっても、囲炉裏端での会話には、ほくほくとした温みがある。
いっぽう井戸は庭の片隅で、現在では蓋をされたまま使われないとなれば、
もう、日常的に目にするものではなくなってしまうのだ。
井戸端会議に興じるのも、そこが井戸として機能していればこそ。
使われなくなった井戸。
もはやそこは非日常空間であり、異界への扉として、人の意識に映るようになる。
同様に、縁側は日常だが、屋根裏は日常でない。
生が日常であることは望ましいが、死は日常であってほしくはない。

そういった観点から存在のもたらす心象の陰陽を問うと、非常に興味深い。
日常の空間から外へとつながる回廊は、
日常の及ぶ範囲では「陽」である。
しかし非日常の空間から日常の内へとつなげられた回廊は、「陰」なのだ。

して考えてみると、
日常でないものへの恒常的畏怖が人には存在するのではないか。
日常でないものへの畏敬、または恐怖もしくは漠然とした不安感。
それらを払拭するために、
つまり非日常空間を、日常の空間へと転じるために、
井戸の神さまとか、屋根裏の神さま、
果ては浄土などの非日常空間にあるはずの力を借りねばならないのだとすると、自分を含め、
まあ、なんて人は愚かで愛らしいのだろうと思えるのだ。

愚かで愛らしい。そう。
けれどこの愚かさと愛らしさを手放してしまった者を
人としてあるべき念を抱かぬものを、
はたして人と呼べるのかどうか。

日常でないもの、日常であることが望まれないものを呼び寄せることに
なお、嬉々としていられる存在を思うにつれ、
鬱々とした陰惨さを背中に感じずにはいられない。

そういう異常性を忘れて、正義の名の下に非日常を呼ぶものを目にするのは、
屋根裏に座る老女を見る以上に……

わたしには恐ろしい。

なんといっても屋根裏の老女は人(もしくはかつて人であったもの)だが、
あるべきを感じず、あらざるべきものを平然と呼ぶものは人と言い切れぬのだから。