和語と漢語の別をご存じだろうか。
たとえば、とる、という言葉。これは和語である。
「とる」の本質は、「える」に似ている。
これを漢語で書くと「獲得する」になる。
試してもらえば一目瞭然。
「とる」と入力して、変換するとたくさんの「とる」が現れる。
取る、採る、摂る、獲る、盗る、などなど。
そのどれもに共通することは「それまでなかったものを得る」というニュアンスだ。
転じて、とったものを使う、振るうという意味が含まれて、執る、がある。
つかさどる(司る)でもある。
こうして見ると、和語の幅広い「とる」に漢字を当てることで意味を厳密化、細分化していることがわかるだろう。
同音異義語などとは言うが、その大本の感覚は共通しているのだ。
それらを、漢語「取得」「採用」「摂取」「獲得」などに置きかえている。
そう。初めに和語があり、そののちに漢語が、厳密化、細分化のために、日本語に採用されるのだ。
さて、和語である「とる」は他にも「捕獲」であったり、「窃盗」であったりと、いろいろな漢語に置き換え可能であることはわかった。
ところが、和語に置きかえのできない漢語も、なかには存在するのである。
その理由は、和語、つまりは日本人の感覚の中にその概念が存在しないからだと言われる。
まったくの間違いではないだろう。
が、しかし、わたしはある言葉の和語をさがすときに、いつも、思うことがある。
概念が存在しないのではない。その存在に対する、あるいは事象に対する姿勢が違うのではないか、と。
その、ある言葉とは「自然」である。
対応する和語はない。
自然、これを和語だけで説明するのなら、
おのずから、あるようにあること、もしくはあるようにあるもの。なすがまま。
とでもなるだろうか。
別の漢語で説明するならば、人為的でない存在、あるいは現象、及び状況か。
こういった概念がない、ゆえに漢語「自然」に対応する和語がない、となると、日本にはまるで「自然」が存在しないかのようにも思えるではないか。
漢語の「自然」が輸入される以前から自然は日本人の近くにあったはずである。
と、いうことで、自然なることばがだいたいいつ頃から使われるようになったのかを調べてみた。
詳細をここに述べると論文並になってしまうため、結果だけ。
明治初期、である。
もちろん、古い文献の中にもこの漢語は登場しているのだが、広く一般的に使用されるようになるのは、このあとなのだ。
つまり、外来語を日本語訳したときに、その一つとして「自然」なることばが導入された。
では、それ以前の日本人は、「自然」をどのようにあらわして来たのか。必ずそれをあらわす和語があるはずだ。
何か。
これを古来、日本人はなんと呼んできたのか。
すばり「もの」である。
古来、日本人は人外の存在を「もの」と呼んだ、と言ったとき、ある男性はこう反応した。
なんて高飛車な! 人以外の命はものだというのか!? 僕はそういう考え方は好きではない!!
違う違う(笑)
まあ、待てよ。話しは最後まで聞け。
付喪神をご存じか。
ものにも魂がある。心がある。
自然をものと呼び習わしてきた古の人々はそれを知っていた。
もののなかには当然ひとも含まれた。
だからこそ、ひとであるものと、ひとでないもの、の別が必要だったのだ。
彼は首を傾げた。
意味がわからない、という。
つまりね、とわたしは言った。
「こういうこと。古の人々にとって、ものとは物体のことではなく、存在のことだった。そしてすべての存在に魂があることを知っていた。ひともまたものであることも知っていた。ひととはものの一つであり、すべてのものにはひととおなじく魂と呼ばれるようななにかが宿ることも知っていた」
なるほど、と彼は頷く。
「もの、を物体、あるいは物質、と漢語に置きかえた瞬間に、ものの魂は忘れ去られた」
彼の表情になにかが閃いた。
わたしは言葉を重ねる。
「また、ものを自然と呼び習わしたときに、ひともまたものであることを忘れた。
そう、漢語で言うならば、自然と人が相対する存在であるかのように錯覚した。錯覚している。
自然から人を切り離した。切り離しておいて、外側から見ているつもりになっている」
わたしはそこで、言葉を切った。
「和語にその概念がないわけではない。和語の持つ意義を、個別に明確化する性質を持つ漢語には、『もの』のように広義の意味をもつ言葉を受け止めるだけのキャパシティがないんだ。
和語は砕けた印象、拙い印象を与えやすいという。
だから公の文書ではどうしても漢語が多くなる。
採ります、じゃなくて、採用します。撮ります、じゃなくて、撮影します。
でも本当だろうか。和語は拙いのだろうか。
それは日本のものよりも外国のものが素晴らしいという、一時の熱に浮かされた時代の名残ではないのか。
和語よりも漢語を尊ぶのは、和語が日常の言葉だからではないのか。
ケ(日常)よりもハレ(非日常)を尊ぶのは日本人の性分だから、仕方のないことかもしれないけれど。
あるものを『もの』、そして目に見えないものさえも『もの』と呼んでいた人々にあったものへの畏敬の念が、今の日本人にはかけていると、君は思わないか?
あえて採用などと、漢語を使わずとも、とることがきまりました、の表現で、問題はないじゃないか」
「採用」を「とる」と表現した書面に渋面を向けていた彼は、わかった、と頷いた。
「君の言いたいことは実に正しく、また、和語が美しい言葉であることも事実だと認めよう。が、しかし」
これは問題外だ。
彼の指差す先にあるものを見る。
採用通知書、と表題があった。
目を通す。先週人事担当者が作成していたことを思い出す。
追加採用の連絡書面だ。
「どれどれ。〜〜により、あなたを……?」
通常ならここでは「あなたの採用が決定いたしました」などが入るはずの場所である。
……。
……。
「あなたを獲ることが決まりました」
口元がふるえる。ふるふるとふるえる。
「……ヘッドハンティング?」
口の端をふるわせながら問いかけたわたしに、彼は爆笑した。
「誤字だよ、誤字! 誤表記、変換のミス!! 和語の唯一にして最大の弱点だよ」
彼らしくもない、高らかな笑い。
どうやら書面を見つめての渋面は、笑いをこらえていたためらしい。
しかし、はたして、笑っていてよいのだろうか。先週末に、発送したのではないのか。
それでいいのか!
「獲られた人も笑ってくれるといいけどね」
和語が拙いとは思わない。そのまろくおだやかな響きも、ひろくふかい意義も、わたしは大好きだ。
だから何もかも漢語に置き換える必要はないと思う。
同じように、カタカナに、アルファベットに換える必要もまた、ないと思う。
だから、「採用が決定した」などといわずとも「採ることが決まりました」でも、かまわないだろう。
ただ。
その場合には、誤字はまずいだろう。誤変換はまずすぎる。
いや、ウマいのか?
「ところで」
「ん?」
「先刻の『もの』の話しは面白かった。実に興味深い」
あらためてそう言われると、何と反応してよいものやら。照れるではないか(何ゆえに?)
「そうか。それはよかった」
とりあえずそう答える。
「見かけによらず、博識なんだな」
「それじゃ、見かけがバカだとでも?」
「……」
最後の問いかけについての返答は未だない。