鬼喰 ― たまはみ ―

第四話 追憶 終

 目の奥から湧きあがる熱をこらえ、わたしは茫洋と広がる空を見上げた。
 冷たく冴えた星が激しく瞬いている。
「変わることを望まぬのであれば、変わり果ててなお在るは憐れというもの」
 雪白さまが仰った。
 わかっている。
 それは雪白さまの実感でもあり、わたしへの思いやりでもある。
「よき夢に眠れ」
 餞にとその指先に灯した白い光を雪白さまは彼女を封じた桜へと投げた。
 封じられ眠る彼女の見る夢が、せめて穏やかなものであるようにとの計らいだ。
 光は柔らかな尾を引きつつ峠の向こうへ消えて行く。
 わたしは雪白さまに深く頭を下げる。

 けれど在る限りにおいて凝りを抱いたまま見続ける夢は、それがどんなに心地よいものであっても「よい」ものであるとはわたしには思えなかった。

 心地よいばかりではなくとも、わたしは彼女に今を……今のわたしを見てほしかった。
 互いの間にしか存在しない朧な過去(とき)を確かめるでもなく、ただ、ともに語らうときがあってほしかったのだ。
 たとえ彼女が今や人でなくとも。

「帰るぞ」
 志野に促され、わたしは件の花を目にすることなく帰途に着いた。
 志野について坂道をとぼとぼと下りながら、わたしの心は強く後ろへと引かれていた。
 それでも後ろを振り返る勇気はなく、ただ足元だけを見つめて歩いた。
 十分ほど歩いたころだったろうか。
「お疲れさま」
 洋の声に顔を上げる。
 運転席のドアに寄りかかるようにして立っていた洋がわたしたちを認め、身を起こしたところだった。
 あれだけの空間を維持していたにも関わらず、洋に疲れた様子は見えない。
 そのことに安堵して吐いた息が白く濁る。
「帰ろう、兄さん」
 それ以上は洋も志野も何も言わない。
 洋が促すように開けた後部座席のドアから志野と並んで車に乗り込んだ。
 膝上に置いた幣がかさりと音を立てる。
 誰も言葉を発しない車内にはラジオの音だけが静かに流れていた。

 気遣われている。
 その空気を持て余し、わたしは目を窓の外へと向けた。
 東の空には低く浮ぶ白い月があった。
 今にも消え入りそうな淡い月だ。
 通り過ぎる木々の隙間に見えては隠れ、隠れては見えるその姿をわたしは追う。
 ふと十六年前によく聞いた音楽がラジオから流れ、わたしは目を瞑った。
 賑やかな曲にも関わらず、胸が詰まった。
 目裏に浮ぶ月の残像に、わたしは数日前に見たいつかの夕月の夢を思い出していた。
 まなうらで春の月が夕空に白く溶けてゆく。
 わたしの肩に鼻先を埋める麦の温かさが切なかった。

 帰宅したわたしたちを玄関で迎えたのは隆正さんだった。
 およそのことは推察したのだろう、隆正さんはわたしの肩を軽く叩いた。
「お帰り」
 それだけを言うと隆正さんは奥へ引っ込んでいった。
「帰ってきたのか」「ああ」という親父と隆正さんの短い会話が聞こえた。
 よかったと息をつく祥子さんの声も聞こえた。
 出かけるときには遅くなるとだけしか言わなかったのだが、それがかえって三人を心配させることになってしまったらしい。
 いつもこうだな、とぼんやりと考えた。
 言わないほうがいいとそのときは思う。そして言わなかったことを後になって悔やむ。ちゃんと話しておけばよかった、と。

 事情があるからここに帰れないのではなく、帰りたい場所が他にある。だからここへは戻らないのだと正直に伝えておけばよかったのかもしれない。
 あのときの彼女なら……あるべき場所を探していた彼女なら、ありたい場所を得たわたしを祝ってくれたのではないだろうか。

 溜め息を吐いた。
「もしも」は無力だ。

 風呂と食事の仕度はできている、あとは適当にやってくれと襖越しに隆正さんの声が聞こえた。
 見れば食卓には三人分の食事が用意されている。
 志野が来ることは折り込み済みだったのかと思い、洋を振り返った。
 そこで、この日初めて洋がうろたえた様子を見せた。
「話してない。友人が来るとは言ったけど、それ以上は何も話してない」
 隆正さんは見鬼であることを差し引いても察しの良い人だから、それだけで「何か」気がつくことがあったのかもしれない。
 洋は許しを請うように続ける。
「その、……隆正さんには、何も話してないってことなんだけど」
 そしてちらと志野をみる。
 志野にはある程度のことを話したのだろう。
「いや、責めてるんじゃないんだ」
 志野に知られて困ることでもない。
 わたしは洋に頭を下げた。
「おまえが志野を呼んでくれなかったら、封じることはできなかった」
 志野は彼女の描いたあの「もしも」の世界には決してない存在だからだ。志野がいる、それだけで「もしも」を根幹から否定する。
 洋が志野に助けを求めたのはそのためだろう。
 洋では「もしも」の世界を否定することはできない。むしろ肯定してしまうかもしれない。
 そう考えて、洋は志野を呼んでくれたのだと思う。
「ありがとう」
 そしてわたしは志野に向き直った。
「来てくれて助かった」
「……行けと言われて叩き出されたんだ。礼を言われることじゃない」
「うん。それでもありがとう。これも嬉しかった」
 持っていた幣を見せる。
 志野が表情を微かに緩めた。
 この幣も、「もしも」の世界では手にすることはなかったものだ。
「それは……いや、いい。なんでもない」
 疑問には思ったが、言いかけてやめた志野を問い詰めることはしなかった。
 問いただしたところで言わぬと決めたことを口にする志野ではなかったし、そんな余裕もなかった。

 あらためて傷の手当を受け、食事を済ませる。
「二村くん」
「志野でいい」
「じゃあ、志野。悪いんだけど、今日は客棟が使えなくて」
 明日の法事で客棟を親族控え室として使うためらしい。
「布団は客用のものを用意しておいたから、今日は俺の部屋を使って」
「……あんたは?」
「俺はこっちで寝るから。炬燵もあるしね」
「俺が炬燵でも構わない。どうせ着替えも持ってきてない」
 視線が示す先には小ぶりのバッグがある。
 確かに宿泊するにしては荷物が少ない。本当に最小限しか用意してこなかったらしい。いや、用意する前に追い出されたのか……。
「ここでごろ寝も悪くない」
「寝間着くらいならすぐに用意できるけど……何を持ってきてるの?」
「面倒くさい。炬燵でいい」
 その後「一応はお客さんに」「一応とはなんだ」など二言三言交わした後、結局二人で炬燵でごろ寝をすることに決めたらしい。
 志野が風呂に行き、洋が着替えを用意する。
 その隙にわたしは傷を理由に部屋に篭った。
 しばらく一人になりたかったのだ。

 いつものように部屋の真ん中に寝転び、ぼんやりと天井を見上げる。
 そしてこれもまたいつものように腹の上でまるくなった麦の背を無意識に撫で、彼女の夢を見た朝のことを思い出していた。
 十日も前のことではないのに、ずっと昔のように感じられる。

 あんな夢を見た。それが始まりだった。
 もしも夢さえ見ていなければ、彼女を思い出すことがなければ、彼女は今も無害な思念の残像だっただろうか。
 いや、彼女が変じ始めていたからこそ、わたしが夢を見たのか……。
 答えの出ない問いを繰り返す。
「兄さん」
 襖越しにかけられた洋の声にわたしは身を起こした。
 麦はふわりと身を浮かせる。
「お風呂空いたよ」
 直後漂った香りにわたしはきつく目を閉じる。志野が湯から上がってきたのだろう。
「……傷が痛むから、今日はこのまま休むことにする。世話をかけて悪いが志野を頼むよ」
 そこにいる志野には気づかないふりをして、わたしは襖を開けぬままそう返事をした。
「わかった。お休みなさい」
 志野は一言も発しない。
 いないふりをしてくれたのだろう。
 そのことに安堵し、わたしも挨拶を返した。
「お休み」
 志野がいることにわたしが気づかないふりをしたことを、おそらく二人は察したに違いない。
 それでも「なぜ」とは問いたださずにいてくれた二人の心遣いが嬉しかった。
 気配が十分に遠ざかるのを待ってから、わたしは襖に向かって頭を下げた。

 傷ではない。本当は違う。
 知らず止めていた息を吐く。
 志野から微かに匂った湯の移り香にわたしは怯んだのだ。
 本来は心地よいはずの香りが鼻の奥に刺さった。
 ――柚子の香りだ。
 今日は冬至だったから、祥子さんが湯船に浮かべてくれたのだろう。
 あれだけ志野に匂いが移っているのだから、随分豪勢に放り込んだのに違いない。
 わたしが柚子湯を好んだからだ。
 それを十六年、覚えていてくれたことはありがたい。

 けれど今は何よりもわたしがそれを覚えていたくはない。思い出したくなかった。
 なぜ、柚子湯を好んだのか、その理由を……。

 今夜を――彼女の誕生日を――意識して選んだのではなかった。
 それは偶然だった。
 彼女を封じる詞を探す最中、まったく唐突に今日が彼女の誕生日であると思い出したのだ。

『数日のうちには帰りますから、もう少しの間、よろしくお願いします』
 六日前の電話でわたしは彩花さんにそう言った。
『どうぞゆっくりなさって来てください』
 そのように答えた彩花さんは少しの間を置いてこう続けた。
『冬至かぼちゃ、たくさん作っておきますね』
 小豆とかぼちゃを炊いたそのメニューはわたしの好物のひとつだ。
 今日の夕食にも並べられていた。
『柚子もたくさん用意いたしましたから』
 だから、それまでに『お戻りをお待ちしています』と……。
 冬至がそんなに楽しいですかと神主さんにからかわれたことがある。
『死に一番近い日などとも言われる日ですよ。これから寒さもますます厳しくなるのに、それをまあ毎年毎年なんとも楽しそうに』
 あれは神主さんのところに転がり込んだ三度目の冬だったと思う。
 これといって格別に心当たりはなかったわたしは首を傾げた。
『さあ……冬至かぼちゃが好きだから、ですかね。柚子湯も好きですし。それに今日が一番死に近い日なら、明日からはまた死から遠ざかるということですよね。なんだかおめでたい日のようにも感じますが』
『呑気な人ですねぇ』
 そう。わたしはこれもまた、覚えていなかったのだ。
 冬至が彼女の誕生日であることも、なぜ冬至を心にかけるようになったのかも。
 そのうえ彼女のための詞を紡ぐそのときに、彩花さんとの会話を思い出していたことが許せなかった。
 封じると決めたのは、本当に彼女のためだったのだろうか。
 こんなことはさっさと終わらせて待つ人のもとへ早く帰りたいと、そう思ったのかもしれないことがわたしを打ちのめしていた。

 帰れない。

 彼女一人を永久(とこしえ)の闇に封じて、わたし一人だけがぬくぬくと居心地の良いところへと帰ることはできない。

 畳の上にわたしは再度身を投げ出した。
 明かりを避けるように手の甲で目を覆う。
「……っ」
 吐き出した息と共にこぼれた声は嗚咽だったのか、あるいは自嘲のためのものであったのか。
 温いしずくが耳元へとゆっくり流れた。

 翌朝帰宅する志野に切符を譲り、わたしは実家にしばらくの間留まることを告げた。
 それに対し何か言おうとした志野だったが、このときも「わかった」と短く答えただけだった。
「すまない。せっかく迎えに来てもらったのに」
「いや、俺は別に……あんたを迎えに来たわけじゃない。呼ばれたから来ただけで、……連れ帰れとも言われてはいない」
 数秒の間を置いて志野はまっすぐにわたしに目を向けた。
「戻ってくるんだろ」
 黒々とした瞳に怯む。
 何もかもを見透かしそうな眼差しだ。
「……」
 答えられないわたしに代わり、洋が言った。
「もちろん。年明けには返すから、お姉さんにはしばらく貸しておいてって伝えて」
 洋の「お姉さん」との言葉に胸の辺りがぎりぎりと痛んだ。
 あえてお姉さんと表現した洋の意図は察したが、わたしはそれを否定も肯定もできなかった。
 無言を貫いたわたしを目の端でちらと眺めた志野がため息をつく。
「……俺が言うのか? それを? 『お姉さん』に?」
「適任だと思うけど? 俺からの伝言なら、連れ帰れなかった言い訳にも丁度いいんじゃない? それとも俺が直接言うほうがいい? 『しばらく返せません、悪しからず』って?」
 嫌そうに眉を寄せた志野に洋が笑った。
「そうだね。ごめん。ちゃんと本人にも」
 軽く顎でわたしを示した洋は言う。
「説明はさせるよ。電話になっちゃうけど」
 その返答に渋々といった様子で志野が頷いた。
「年が明けたらだな? そう伝えていいんだな?」
 念を押した志野に洋が答えた。
「年季奉公十五年とは言わないから安心して」
「安心できるか!」
 志野が再度わたしを見た。
「伝えるだけは伝える。だがその後は俺も帰省するからな! あんたが戻らないうちは、俺もあそこには帰らない!! 覚えとけ」
 そして洋の車に乗せられて志野は去って行った。

「帰らねぇのか」
 遠ざかる車から目を離さず、わたしはその問いかけに頷いた。相対することに怯みがあった。
「後悔することになるかもしれねぇぞ」
 重ねられた問いは、この人にしては優しい口調だった。
 わたしはよほど痛々しく目に映っていたのだろう。
「後悔したくないんです。だから今は帰れません」
 気持ちの整理がつかないままに帰っても、何一つ変わらない。変えられない。しかし今のままでもいられない。
「……そうか」
 隆正さんが昨晩と同じ調子でわたしの肩を叩いた。
「選んだ端から過去になる。だがその後にしか、未来(さき)はねぇ」
「はい」
 車は坂を下りきり左折した。
 わたしは隆正さんを向きなおり一礼した。
「しばらくご厄介になります」
「よせやい。面倒くせぇ真似は」
 本当に面倒臭そうな口調に、どうしてだか慰められた。
 腫れ物に触るような対応をされるより、気が安らぐ。
 知ってか知らずか、
「まあ、なんだ。一応、おまえはここの総領なんだ。遠慮はいらねぇよ」
 そう言って隆正さんは踵を返した。
「面倒ついでに俺にできることがあるなら引き受けてやる。おまえは、手遅れにならねぇうちに帰る算段をつけるこった」
 その後姿にわたしはもう一度深々と頭を下げた。

 そして一週間が過ぎた。
 この一週間、当たり前のように懐かしい部屋で目覚め、食事は家族とともに卓を囲み、一日を過ごした後はまた部屋で眠った。 誰もがわたしが不在だった十六年には触れなかった。
 十六年前、もしも家を出なければこんな暮らしがあったかもしれない。
 そんなことを考えながら年末を迎える。

 隈田にも会えぬままだった。
 田宮はあの日のうちに隈田に連絡をしてくれたのだが、彼女を封じた翌日から隈田は寝込んでしまったのだ。
 鬼と交じり合うほどの念を返されたのだ。当然かもしれない。
 それを教えてくれた田宮とは大晦日の晩に居酒屋で会った。
「悪ぃな。隈田も喜んでいたんだが……過労だってよ。ここ数年、仕事だけに打ち込んできたからなぁ、あいつ。時間ができると辛いってさ。目が覚めてから寝るまで、余計なことを考える時間を作らないようにしてたらしい」
 田宮の話を聞いてわたしの胸はさらに痛んだ。
 彼女のことを考えないようにしてきた。それはいつ何時であっても、彼女のことだけを思い続けてきたに等しい。
 わたしの無言に田宮もそれを察したのかため息を吐いた。
「酒の一杯でもやれればよかったんだけどな。あいつ、あの日から酒を飲むのもやめちまったから」
 田宮が物憂げに杯を見た。
「けっこう飲んだんだぜ? それが飲めなくなっちまった」
 自分が自棄酒を煽っている最中に、彼女は逝ってしまった。
 それが重荷になっているのだろう。
「俺はなあ……明子を慰めるのに手一杯で、それでかえって救われたところもあるんだが。小さいのもいたしよ」
 だが、隈田はずっと一人だった。
「田宮」
「ん?」
 田宮が空けた杯に、わたしが酒を注ぐ。
「その、……しばらくの間こっちにいることになったから、隈田の都合がつくようなら、また連絡してくれないか?」
「あの様子じゃ、ひと月はかかるぞ。年明けには戻るんだろ」
「ああ、うん。そのつもりだったんだけど……大丈夫」
 ひと月くらいでは、到底帰れそうにない。
 自嘲を浮かべたわたしに、田宮は少し眉を上げたようだが「わかった」と応えた。
 何故、どうしてとは田宮は聞かない。
 昔から相手が話そうとしないことは問わない主義なのだ。
「それと、もし、もしもなんだけどそのときわたしがいなかったら、隆正さんを訪ねるように言ってくれないか」
「えーっと、たしかお前の……伯父さんだよな?」
 刹那口篭った田宮の様子にわたしは笑みを作った。
「田宮はきっと知ってると思うから、詳しくは言わない」
 隆正さんのことを、『田宮』が知らぬはずがない。田宮の母は、わたしの母の友人でもあったのだから。
 三十数年前に仰木の家に何があったかくらい知っているはずだ。
 田宮はまた頷いた。
「隆正さんは……そう、あの人なら、隈田の気持ちもわかると思うから。何か理由をつけて、会わせてやってほしい」
 隈田が今後も凝りを抱えるようであっても、隆正さんなら対処できるだろう。
 凝りを祓うだけなら洋のほうが確実かもしれないが、祓うだけでは「凝っては祓う、祓っては凝る」の繰り返しになる。
 隆正さんなら、凝らないように隈田の心を未来(さき)へと向けることができるような気がしたのだ。
「わかった」
 それからニヤリと笑い田宮はこう言った。
「いっそ仏門にでも入っちまえって顎に一発叩きこむのも面白そうだな。こう、がつーんとさ」
 過激な発言にわたしは苦笑した。だがわたしの苦笑を制して田宮はさらに続けた。
「笑ってるが、おまえもだぞ」
「え?」
「おまえもさ、いろいろ考えることはあるんだろうが……。たとえば川畑のために頭丸めて一生涯を捧げる覚悟ってんなら俺も止めない。でもただ思いに任せて哀れむだけなら、いっそさっぱり忘れてやったほうがいい。自分を慰めるために都合よく思い出をを弄りまわしても、何にもならない」
 あの晩何があったのか知らないくせに、田宮はわたしに必要な言葉を的確に発した。
 その通りだ。
 それはわたしが彼女に向けた言葉でもある。
「……うん」
 わたしは田宮からそらした目を杯に落とした。
 まあ、飲めと田宮が銚子を傾ける。
「うん」
「これも食え。うまいぞ。うちが卸してる野菜だからな」
「うん……なあ、田宮」
「ああ?」
「おまえ、先生だな……」
「当たり前だ」
「テスト一つ作るのにひいひい言ってても先生なんだな……」
「大きな世話だ」

 互いに「良いお年を」と声を掛け合って田宮とは別れた。
 帰宅し、一言二言を親父たちと交わしたあと、わたしは部屋に戻った。
 洋が突く鐘の音を聞きながら、もしここで十六年を過ごしていたのならそれも悪くなかったと、はっきり思う。
 けれど同じくらい明らかに、この十六年を神主さんの元で送ったわたしがいまさらこの日々に馴染むことは決してないと、そのこともわたしは知っていた。
 知っていてなお戻る決心がつかない。
 麦が鼻を鳴らす。
「うん。わかってる。本当は今すぐにでも帰りたい。でも、どうしてそう思うのか、それを明らかにしてからじゃないと帰れない。ただ居心地がいいからという理由で、……ここから逃げ出すためだけに戻る、それは許せないんだ。……」
 生死の境を越えたことで望む方向は逆になってしまったが、過去も未来も最後まで諦めなかった彼女を思うとなおさら強くそう思う。
 言葉を途切らせたわたしを、促すように麦が見る。
「帰るよ。必ず。でも、もう少しだけ時間をもらってもいいかな」
 麦はもう一度、今度は仕方がないとばかりに鼻を鳴らすと額をわたしの頬に押し付けた。
「ありがとう」

 年が明ける。
 十七年ぶりにわたしは故郷で正月を迎えた。