鬼喰 ― たまはみ ―

春なれば

「てっきりご自宅にいらっしゃるものだと思っていました」
 そういう自分の声が上ずっていて、可笑しくなった。
「お邪魔でした?」
『いや、別に構わない』
 返された言葉、その声のトーンがまるで構わなかったのでもないことを告げる。
 思わず笑ってしまいそうになり、わたしは口早に用件を伝えた。
「さっそくですが」

「長期休暇は帰省する」
 そう告げて志野さんがここを出たのはひと月前のことだ。
 和さんの長期帰省に里心がついたのか、それとも分担の増えた家事に音を上げたのか。
 二人がそれぞれのお家に帰ってしまった今年、父と二人だけで迎えたお正月はとても静かなものだった。
 そして、つい、いつもの調子で作ってしまったおせち料理は、五日すぎまで食卓に上ることになった。

「こちらへはいつごろお戻りに?」
 出発の朝、戻る日を訊ねると彼は首を傾げた。
「さあ」
 特に仕事がなければ、休暇期間はずっと向こうにいたいのかもしれない。
「そうですか」
 それが当然だと知りながら、困った、と思った。
 人が総じて陽気でいたお正月も遠ざかる。
 寒さの厳しい季節には、人の心は陰に籠もりやすい。籠もる陰気は、ふとした切欠で表へと噴きだしてくる。そういうときは鬼がらみの事件も起こりやすいのだ。
 和さん不在の今、志野さんにまで帰られてしまうのは……。

 もうふた月以上、帰省したままの和さんに、これを理由に戻ってもらえたなら……。

 迷ったのは、ほんの一瞬。
 帰ってくるまで待つと決めたのだから。

 何かあったときには、志野さんに戻ってもらうしかないけれど……。
 帰らないでほしい、早く戻ってほしいとは決して言えない。
 志野さんにここにいてほしいと思うのはまだ戻れない和さんのためであり、できうる限り早く戻ってほしいと思うのもまた和さんのため。
 あるいはわたし自身が志野さんに帰らないでほしいと思うのであれば、ずっと口にもしやすかったのに。
 できるだけ早く帰ってきてほしいことを伝えたくて言葉を探すわたしに、彼は一枚の紙を差し出した。十一個の数字が並んでいる。志野さんの携帯電話の番号だということはすぐにわかった。毎月請求書で見ている数字だったからだ。
 わたしの迷いは顔にでてしまったようだ。
「一日あれば戻るから、待たせておけ」
 待たせておけ、とはおそらく「あいつを呼び戻す必要はない」と言うことだろう。
 何事かあったときにはすぐにでも駆けつけてほしい、と口に出さずに済んだ安堵のため、肩の力が抜けた。
 彼はかみ殺すようにして小さく笑う。
「あんた、結構わかりやすいんだな」
「お互いさまです」
 にこやかに応じるとむっとしたように志野さんは口を閉じた。
 もう少し口の軽い人なら、可愛くない、とでも口にしたかもしれない。けれど志野さんはそれをしない。
 いや、しないのではなくて、思いつかないのだろう。

 わたしたちの距離は昨年の春以来、少し近づいた。
 こんな風に打ち解けて話せる日がくるなんて、はじめて会った二年前は思いもしなかったのに。
 むっとした顔を見せてくれるようになったことがまたうれしくて、わたしの笑みは深くなる。
 それを見て彼は諦めたように一度引き結んだ口元の力を抜いた。ため息のようにこぼれた息が白くけぶる。
「とにかく、呼んでくれればすぐ戻る」
 呼ぶまでは帰らないつもりですね、とは言わず、わたしは頷いて返事に代えた。
「じゃあ」
 やってきたバスに彼は乗り込む。
「いってらっしゃいませ」
 座席に着いた彼に、わたしはいつも仕事に赴くときと同じ言葉をかけた。窓越しでは聞こえないかもしれないけれど、聞こえなくてもこれといって困ることもない言葉だ。
 しかし律儀な彼はいつものように返事をしようとし、口を開いてわずかの間躊躇い――帰省に「いってきます」が相応しいのか、考えてしまったのかもしれない――、結局「……いってきます」といつもと同じ言葉をガラス越しに返した。
「お気をつけて」
 バスはゆっくりと動き出す。遠ざかるバスの窓から彼はまだこちらを見ている。
 わたしではない。わたしの上にわたしたちと暮らすあの「家」を見ているのだ。
 ふと思う。
 志野さんにとってあの家が「ただいま」と言える場所であるのは、いつまでのことだろう。
 彼はいつか「ただいま」という場所を、他に見つけここを出てゆく。
 こうして送り出したまま再び「ただいま」を聞くことはなくなることに、わたしは寂しさとよく似た感情を覚える。
 仕事に赴く二人の車を見送るときと同じように、会釈で見送ろうとし思いついて止めた。
 手を軽く振ってみる。面食らったような表情が、一瞬だけ小さくなった彼の上をよぎる。
 けれどためらいがちに上げられた彼の手は小さくわたしに挨拶を返した。
「皆様にもよろしくお伝えください」
 聞こえたとは思えないわたしの言葉に、うん、と彼が頷いたのがわかった。

 あれからおよそひと月。
『ねえ、誰?』
 受話器から聞こえたのは可愛らしいささやき声だ。
『誰? ねぇ』
 小声で問いかけは繰返される。
 携帯から漏れ聞こえたわたしの声に、その可愛らしい声の主が焦燥を覚えている。
 誰と問う口調はそこそこ親しげだった。
 けれど、その声のはらむ緊張が「そこそこ」でしかない二人の親しさをわたしに教える。
『少し待って』
 彼の口調も親しい。穏やかなそれには、彼が和さんや父に、時折はわたしにも見せる棘は一分さえない。
 だからこそやさしくて遠い冷ややかさがあった。
 晩冬の風に似ている。
 やわらかく微かに春めいてなお冷たく、時にはそのやわらかさゆえに一層の冷たさを感じずにはいられない。
 一緒に暮らすようになった頃の彼は、誰に対してもそうだった。
『……うん』
 彼女も寒さを覚えたのだろうか。
 声音は焦燥より不安を強く伝えている。
 彼の袖をためらいがちに、控え目に、そっと引く姿がなんとなく思い浮かんだ。
 あとで、と声にせず彼女を宥める言葉を紡ぐ彼の口の動きまでもが見えた気がする。

 ばかね。
 世話になってる家の人だと、一言答えれば済むことでしょうに。

 彼の帰りを求める事態が何であるかについて説明はいらない。
「お戻りいただきたくご連絡さしあげました」
 それだけを伝える。
 一秒でも早くこの通話を終わらせたいと思ったのだ。
 彼のためか、彼女のためか、あるいはわたし自身のためか。
 夕食後の時間なら、自宅にいるだろうと予測してのことだったのだけれど……なんて間の悪いときに電話をしてしまったこと!
 けれど、そう、志野さんに戻ってもらうことだけは譲れない。
 わかったと彼も短い返事を返す。
『すぐに帰る』
「申し訳ございません」
 え、という声がまた聞こえた。
『行っちゃうの?』
 帰る、と言った彼の言葉に含まれるものに、彼女は敏感に反応している。
『大事な用だから』
 そこまでを彼女に向けた彼は、次にわたしに応えた。
『今から出ると、そっちに着くのは明日の朝だな。待てるか』
 待てるか、は、依頼主の状況がそれを許すか、ということなのだけれど、彼女にはそれはわからない。
 声にならない不安と苛立ちが、電話を通してわたしの元に流れ込んでくる。
 その人は誰? どうして行ってしまうの? なぜ「帰る」なの? 大事な用ってなに?

 可愛い。

 彼女への微笑ましい感想と同時に、わたしが思いだしたのは和さんのため息だ。
『すみません。今はまだ……』
 帰れない、と言葉にできないまま告げるあの人が、ふた月前、らしくもない力ずくの封じに挑んだことをわたしは知っている。
 力でねじ伏せたのは鬼だけでない。心もだった。
 ――そして。
 鬼喰に喰われた鬼は、いつか鬼喰とともに天地に帰る。
 同化してしまっているかもしれない、分離できるのかもしれない。
 それはわからないけれど、いつかこの天地の中に戻ってゆく。
 けれどあの日和さんが封じた鬼に戻る未来(さき)はない。消え去るまでそこに存在し続けるのだ。封じられたままに。
「どうぞごゆっくりなさってください」
 理由を糾さず、帰りも求めないことに驚いたのは電話の向こうの和さんではなく、一足先に戻ってきた志野さんだった。
 そのまま二言、三言を交わして受話器を置く。
 何かを言いかけた志野さんに首を振る。
「いいんです」
 もの問いたげな眼差しに、わたしは笑みだけを返した。

「いいえ、それには及びません」
 すぐに帰ると答えた彼の言をわたしは即座に却下した。
「今そちらを発ってくださっても、駅からのバスがございませんもの。お迎えもやれませんし」
『は? え?』
「ですから、お帰りいただくのは明日の始発で結構です」
 急ぎの用件なんですけどねえ、と父が茶の間から廊下へと顔を出す。
 後ほどご説明しますと目で伝え、口では彼に向かいこう言った。
「大変失礼いたしました。それではどうぞごゆっくり」
 え? あ、うん、と応えた彼の声は戸惑いに揺れる。
 用件が終わったことに気づいたのだろう、声の主がもう一度『誰?』と訊ねる控え目な声が受話器から聞こえた。
 それについて彼が何をどう答えたのかは聴かないことにする。
 わたしは電話を切った。

 茶の間に戻るすがら、菓子を用意する。先日和さんのお家から届けられたものだ。
 銘は「松寿」 鮮やかな松葉色のきんとんに氷餅粉がまぶされている。よい香りがする。中は梅餡だろうか。
 添えられた一筆箋には和歌が達筆で記されていた。

 ときわなる松のみどりも春なれば いまひとしほの色まさりけり

 古今集だ。洋さんらしいメッセージに、わたしは小さく笑う。
 待て、ということか。春まで? 随分先のことになりそうだ、と思うと笑みに苦味が混じってしまう。
 菓子器に四つ取り分け、今は二人しかいないことに気づく。
 お皿にすればよかった。
 あらためる気にはなれなくて、そのまま茶の間で待つ父の元へ向かった。
「お友だちとご一緒でいらしたのです」
「そうですか」
 こんな時間に一緒に過ごすお友だちがいたんですねぇ、と、父が軽いの驚きを交えた様子で時計を見た。
 今はふた月に一度くらい友人をここに迎える志野さんだが、この家を訪れた当時の志野さんには友人の存在を窺うことはできなかった。父の驚きもよくわかる。
「ええ、お親しいご様子でした」
 察したように父は軽く頷いた。
「早いに越したことはないのですが」
 あらためて柱にかけられた時計を見れば、短針は二十二時近く差している。上手く乗り継げば、夜明けまでにこちらに帰れるかもしれない時間だ。もちろん失敗すれば、翌朝まで途中の駅で過ごすことになるだろう。
「駅舎で一晩はかわいそうですね」
 庭はうっすらと積もった雪の仄かな光に包まれている。
「数時間ぽち、大差ございませんでしょう?」
 火急であるなら、父がここに安穏と坐しているはずもない。
「ええ、まあ……しかし、明日の始発でとなると」
「志野さんには、3時ごろ、お家を出ていただくことになりますね」
 明朝始発でこちらに向かうことをお家の方にお話をして(ご了承も得て)、荷物をまとめる時間を考慮するとそうゆっくりもしていられないはずだ。
 おそらく理由は語らず事情を話し、急ぎ足で彼女を家に送り届けることができるかどうか。なだめすかして次を約束できたら上出来というものだ。
「意地悪ですねぇ、彩花さん」
 明日の昼でもよかったでしょうにと父が微笑む。
「ええ、意地悪なんです」
 だって志野さんだけに上手をさせるのは、面白くないんですもの、と胸中で呟く。
「あと数年は、もたもたしててくれなくちゃ」
 小さく声に出してみる。
 聞こえたのか、聞こえなかったのか、父の表情に変化は見られなかった。

 十六年ぶり――そろそろ十七年ぶりになろうとしている――の父と二人だけの時間にどこか慣れなくて、持て余しているのでもないけれど、落ち着かない。
 夕食後の時間はいつもみんなでここに集まっていることが多かったから、自室に戻るのも不自然に思えてしまう。
 することもなく、改めてお茶を淹れるわたしを父が呼んだ。
「彩花」
 話のすべてがその声音に宿っている。帰りを促したい人がもう一人、いるのではないか、と。
 それが明確な言葉となる前にわたしは応えた。
「人は過去に生きることはできません。過去を思い続けることは不可能です」
 過去と今とをひきくらべ、過去を選ぶことはできない。人は常に今をしか生きられないのだから。
「そしてわたしは過去ではありません」
 だから促す必要はない。
 言い切ったわたしに父は頷き、湯呑みをとる。それから軽く口の端をあげた。
「あれから二十年以上。わたしは今でもあなたのお母さんを思い続けていますが?」
「過去ではないからでしょう」
 わたしの返答はいたく父の気に入ったようだった。
 珍しく声をあげて笑う父の笑顔が、厳しい冷え込みにぬくもりをくれた。
 もうお一ついかがですか、とわたしがきんとんを勧めると、父は笑みの中で頷いた。

 翌朝、わたしは玄関前の掃除をしていた。悴む手に息を吹きかける。
 思えばわたしがこうして玄関前を掃除するのも久々のことだった。最近ではわたしが朝食を用意する間に、和さんや志野さんがやってくれていたからだ。
「何年ぶりかしら」
 呟き、そしてわたしは人の気配に顔を上げた。
 ようやく日が差し始めたばかりの薄明かりの中に、人影を見る。
 この時間にここにいるということは、昨晩のうちに向こうを発ったのだろう。
「……駅から歩いてらしたんですか」
 ただいまと言おうとしたのだと思う。
 乾いた冷たい風に凍えた咽喉は音を紡がなかったけれど、わたしには聞こえた。
「……おかえりなさいませ。すぐにお食事をご用意いたします」

 風は仄かに梅の香りを含む。
 少しだけ早い春の訪れだった。