鬼喰 ― たまはみ ―

第四話 追憶 七

 その日の午後、数日帰りが遅れることを連絡するためにわたしは電話をした。と、珍しく神主さんが電話口に出てくれたのだが、それを喜ぶ間もなく「急がなくてもいいですよ」とそっけなく言われてしまった。
 帰省の予定が延びた事情を話しかねたからかもしれないが、事情を話したら話したで「そういうことなら、帰ってこなくてもいいですよ」と言われたような気もする。いや、さすがにそれはないだろうか。
 どちらが良かったのかわからないが、もやもやとした思いは晴れないままにその日は暮れ、翌日も過ぎ、あっという間にその日は来てしまったのだった。

 麦だけを伴って、わたしは枯野にいた。
 ここまで車で送ってくれた洋は、事が終わるまで近くで待機してくれると言った。
 しかしわたしはそれを断り、洋を帰すことにした。
 彼女が(おそらくは)一人である以上、わたしにだけ立会いがあるのは申し訳ないと思ったのだ。
 理由は告げず、「家で待っていてくれ」とだけ言うと、洋は少しの間、迷った様子を見せた。
「帰りはどうするの? 徒歩で帰ってくるには距離がありすぎると思うけど」
 運転席の窓に肘をかけたまま、洋はわたしを見上げる。
「迷惑じゃなければ、明日の朝来てもらえればありがたい」
「迷惑じゃないけど、それじゃ凍えちゃうでしょ。遅くなってもいいから電話して。迎えにくるから。笹野で時間つぶしてるよ。それなら十五分くらいで来れるし」
「モールの閉場には、きっと間に合わないぞ」
 いつ彼女が現れるか分からないが、おそらく再会自体が日暮れ以降だろう。事が片付くのは、早くても深夜になるに違いない。
 だが、「野暮言わないの」と洋は笑った。
「兄さんじゃないんだから。暇つぶしの相手には事欠いてません。まあ、適当に、あのあたりで過ごしてるから大丈夫」
 決着がついたら連絡してほしい、という。
「兄さんじゃないんだから」には参ったが、洋のことだ。分別はつけているだろう。
「……じゃあ、そうさせてもらう。悪いな」
「いいよ。大したことじゃない。それより本当に一人で大丈夫?」
 これにわたしは「たぶん」とだけ答えた。
 必ずと約束は出来ないが、大丈夫であるようには努めたい。
 仕方がないといったように軽いため息をついた洋は、乗り出すようにしていた身を引いた。
「一応、信用しておく」
「うん。おまえも、その……友だちは大切に。ええっと、適当はほどほどにしろよ」
 暇つぶしの相手というのがどの程度の間柄の人なのか測りかねたために妙な言い方になってしまった。
 運転席の洋が、再度小さく笑う。
「俺の心配をする余裕があるなら、大丈夫そうだね。大事の前に兄さんに心配させるのもなんだから言っておくけど、さすがに今日、女の子に声をかける気はないから安心して。それじゃ、後で」
 坂を下っていった車がカーブの向こうへと消えるのを見送って、わたしはそこから徒歩で事故現場へ向かった。
 ガードレールを跨ぎこして慎重に斜面を下る。
 数日前に枯野の中に花を見た、その場所へと。

 日暮れは近い。
 午後の日が急激に傾いて山の端に消える。
 大きく伸びた山の影に呑みこまれた一帯から、わずかに残っていた秋の香は消えうせ、周囲は冴え冴えとした冬の気配で満たされてゆく。
 仰ぎ見る空はまだ青さを残している。しかし西の空は穏やかに赤みを帯び始めている。もう一時間もしないうちに、空は一面茜色に染まり、すぐさま夜の色を濃くしてゆくだろう。
 道路から六メートルほど降りたその場所は、白く枯れた草で覆われている。
 寂しい景色だった。
 わずかな立ち木と地を覆う枯れ草以外には何もない。
 枯れた草が風に揺れる音が、やけに大きく聞こえる。
 視界を遮るもののないその枯野は、しかし視線の先三十メートルほどで唐突に途切れている。
 さらに二,三メートル下に、その数メートル下方にもまた、と階段状の崖が続いているからだ。
 崖の際まで進むと、はるか下方を流れる川の音と、列車の音が聞こえた。
「せめて秋なら、もっときれいだったろうにね」
 頬に寄り添う麦の頭を撫でる。
「麦なら分かるだろ? このあたりは夏から秋にかけて野の花で覆われるんだ。その頃だけは、少しだけ人通りも多い。わたしも一度見に来たことがあるよ。田宮や中澤さん、隈田と……彼女もいたよ。九月の連休だったな」
 秋に咲く桜があると聞いて見に来たのだ。
 その桜は峠を越えた、もう少しだけ先の斜面に生えている。
 十月も終わりごろから花をつけるその桜は、残念ながらまだ咲いてはいなかった。
 そのかわりここには小さな花々が咲き群れていた。花野の散策をそれぞれに楽しみ、
「今度は桜を見に来ようと約束した」
 彼女との約束というのではなく、その場にいた者みんなでそう言い合った。
 来月、再来月でもなく、来年、再来年でもなく、ただ何となく「今度は」と。
「『今度』があると、みんな思っていたんだろうな」
 毎日毎日顔を合わせる日々が三年続いた。それが当たり前だった。
 それぞれの道が分かれ、会うこともない日々が訪れるとは、想像しなかったのかもしれない。
 わたしでさえ、あの年の三月まで……家を出るという明確な決心はなかったのだから。
 立ち枯れて白茶けた女郎花が風に立てるかさかさという乾いた音が寂しい。
 視線を足元から空へと移す。
 赤く染まり始めた空に大きく描き出された山の影を見つめていると、十六年前の旅立ちが思い出された。
 この町を発つ、その車窓からも見た景色だったからだ。
 そのときに見た山はもっと深い色合いの空を背景にしていたが、直に眼前の景色も同じ色合いに染まるだろう。
 わたしが旅立ちに見た景色は、彼女の終焉の景色になった。
 次にわたしがこの場所を思い出すとき、わたしはどちらの日の空を思い浮かべるのだろうか。
 十六年前の春なのか、それとも今日の……。
 そこまで考えて、苦い笑いがこぼれた。
「思い出す、か」
 わたしの呟きに麦が首を傾げる。
「十六年、わたしは思い出しもしなかった」
 思い出は胸の奥に仕舞われたままだった。ひっそりと仕舞いこまれたままだったその記憶を、取り出すことさえ思わなかった。
 それがどうしたとでも言うように麦は鼻を鳴らす。
 そうだね、とわたしは麦を撫でた。
「思い出はきっとそういうものなんだろうと思う。何かきっかけがあって思い出す。きっかけがなければ思い出すことはない」
 ただ、とわたしは続けた。
「それが申し訳ないと思う」
 何をと問う様子を見せた麦が、しかしその白い額を、わたしの顎に摺り寄せる。慰められているのだろうか。
「なにより、今もまた『思い出』になることを前提に考えてしまうことを、すまないと思う」
 わたしにとってはすでに終わりを迎えた過去に、いまだ心を残している彼女に。

 鬼の、あの独特の気配を感じ、わたしはそちらを徐に振り返った。
 朧に浮かぶ影は彼女だ。
「本当に、ごめん」
 彼女だった影は嗤うように揺らめいた。

 ホシイ

 言葉にすればそんな思念だったろう。
 直後、激しい勢いでぶつけられたそれをわたしは手にしていた桜の枝の先で祓い退けた。
 母の宿る桜の枝ではない。
 祖父と母がわたしのために植えた桜の枝だ。
 幣を持ち合わせていなかったので、拝借してきたのだ。
 わたしの枝にはじかれたそれが枯れ草に覆われた地面を抉る。
 形のない、しかし重いものをぶつけられた枯れ草が千切れ飛ぶ。
 舞い立った土埃を吸わぬよう注意をしながら、わたしは麦に呼びかけた。
「頼む!」
 四隅に立てた幣代わりの小枝をつなぐようにして描かれた光の線が、薄い闇に淡く浮かび上がる。
 直後りんと鈴を振るような音を立てて、界が結ばれた。
 わたしを中心としたおよそ三十メートル四方の空間だ。
 予め、彼女が現れたら結界を張るように麦には頼んでおいのたである。
 これでこの空間は、わたしと彼女だけのものだ。
 よほど注意深くこのあたりを探さないかぎりは、ここで何が起こっているのか、外からではわからない。
 だが、この結界を維持しようとするかぎり、麦の助力も頼めない。
 一対一だ。
「川畑さん!」
 わたしは第二波を祓うと同時に踏み込んで、影に手を伸ばす。
 まずは捉えたい。

 モドリタイ

 あの頃に、だろうか。
 涙声に聞こえた。
「そうだね。戻れたらいいのに」と同意してやれないことが辛い。
 戻りたくはない。それが正直な気持ちだからだ。
 わたしに見えているもののことを誰に打ち明けることもできなかったあの時間に、わたしは戻りたくない。
 何を語らずとも受け入れてくれる人と出会ってしまった。
 たとえあの空寒い日々に温かなひと時をくれた彼女の願いであっても、それに応えることはできない。
 手放して得たものがある。失って見つけたものもある。
 それをなかったことには出来ない。
 彼女にもそれはあったはずだ。
 時を重ねてゆけば「思い出」として完結するはずだった日々と、そして新たに続く日々が。
「過去を、無駄じゃなかったと、そう言っていただろう? 帰ってきて良かったと思いたいと、言っていたじゃないか」
 それを思い出してほしかった。
 彼女を掴もうと伸ばした手が払われる。

 モドシテ

 それは悲鳴だった。
「時は戻らない。君も戻れない」
 やり直しはできない。後戻りも出来ない。前に進むしかない。
 過ちも悔いも、乗り越えることでしかやり直せない。
 乗り越えることでしか、傷は癒せないのだ。
 しかしそれは進む未来を失った鬼には何よりも残酷な事実でもあるだろう。
「川畑さん、悔いにひきずられちゃダメだ」
 しかしこの事実を認めさせられなければ、わたしには彼女を討ち祓うか、封じるかしかない。
 彼女の抵抗を力で押し切ることが可能だからこそしたくなかった。

 カエリタイ

 見たこともない泣き顔が脳裏に浮かんだ。
 慰めてやれないことが辛い。
「還ればいい。この天地に。そしてもう一度」
 イヤダ
 言い終わる前に、わたしは彼女の放った力にかなりの距離を弾き飛ばされた。
「っ」
 右肩から地に打ち付けられたが、深々と茂る枯れ草のおかげで「痛い」以上の傷はない。
 跳ね起きながらわたしは思う。
 むき出しの地面に頭でも打ちつけようものなら、こんな程度ではすまない。
 痺れた肩を軽く回す。痛い。だが、動くなら今はそれでいい。
 戻りたい、帰りたいと一途に願うその思いが、野分のように吹き荒ぶ。
 眼前に枝を構えて視界を確保する。
 止めきれなかった力が全身を襲ったが、少々の切り傷に構っている余裕はない。
「川畑さん」
 一つの願いだけに凝ってしまった鬼から、「彼女」の自我を呼び覚ますことが出来ればとわたしは呼びかける。
「川畑さん」
 応えはない。

 戻りたい。帰りたい。ふるさとへ。温かく迎えてくれる人のいる場所へ。
 傷つき、けれど帰ってきたはずの場所に、かつてのような彼女の場所はなかった。
 新しい形での居場所は決して辛いものではなかった。
 彼女の仕事を認めてくれる人たちがいて、彼女の傷心を我がことのように思う人々もいた。
 しかし、それらは彼女が傷を負って戻ってきたことの証でもあった。
 無傷だったころと決して同じではない。
 同じでなくてもいいのだと、新しい故郷を受け入れようとした彼女の、小さな、痛みさえ定かではない傷は、しかし日々増えていった。
 帰りたい、あの頃に。戻れるのなら、あのときに。
 故郷にあってなお帰郷を願う、その思いにはわたしも覚えがある。
 失われた、立ち戻ることの出来ない「もしも」の世界への思慕。
 前向きに生きようとしていたときには覆い隠されていた思いが、死した今になって表へと現れたのだろう。

「幻だ。叶うことはない」
 わたしの否定にそれが咆哮する。

 カエシテ

 あるいはそれは彼女の、不条理な運命への精一杯の反抗だった。
 これに耐えることが出来れば、勝機が見えるとわたしは直感した。
 刃のように襲い来る風が、頬に、肩に、腕に、脚に傷を刻む。
 だが癇癪に似た思いの暴発さえ治まれば、凝りを解くことも出来るだろうと、わたしは枝を構えたまま踏みとどまった。
 彼女の望みを受け入れることはできないが、彼女が味わった痛みをほんの一部でも受け止めてやりたい。
 しかし。

 返してくれ……!

 彼女の叫びに、彼女とは異なる思念が共鳴した。
「何が……っ!」
 避けるはおろか受け流す間もなく、轟然と襲い掛かってきた力の奔流をまともに食らう。
 咄嗟に歯を食いしばり身を縮めたが、どの程度効果があったのか。
 勢いよく地べたを転がされたわたしの目に麦の結んだ界(さかい)の揺らぎが映った。
 転がりながらわたしは声を張り上げる。
「麦、解くな!」
 先刻までとは比較にならないこの力が外部に漏れたら、少なくとも山肌が抉れるくらいの被害は出てしまう。
 抉られた土が崖下を襲えば、大事になる。
 この下には少ないとはいえ民家もあれば、線路もある。川に流れ込めば下流にも影響が出るだろう。
 結界を解いてわたしを助けようとした麦を止める。
 止めたことに誤りはなかった。それは確かなのだが
「……っ!?」

「これは」

 返してほしい。返してほしい。返してほしい。

 一途にそれだけを願う思念。
 音はないはずの思いだが、わたしの耳はその「声」を知っていた。
「隈田?」

 返してほしい。返してほしい……
 返してほしい、彼女を……
 ゆうちゃん、ゆうちゃん
 ゆうちゃん……!

 生霊とでも言うのだろうか。
 隈田の凝った思念と彼女の願いが共鳴している。
『強い後悔に支配された場所が、過去を求める鬼にどんな影響を与えるのか、俺には想像がつかない』
 洋の言葉が思い出された。
「こんな……これじゃ祓うわけにもいかないじゃないか!」
 放たれた力が頬を掠める。一瞬の灼熱感の後に生温かいものが首へと伝い落ちる。
 何とか体勢は整えたものの、そこから先が思いつかない。
 彼女だけなら無理にでも封じてしまうべきなのだろうが、二つの念は交じり合っている。
 これを死霊と同じように祓ってしまってもよいものか。
 隈田に影響は出ないだろうか。
 対応を決めかねる間に、わたしは格段に勢いを増した風の刃を胸に受けた。
 痛みよりも衝撃に、わたしは片膝をついた。
「何?」
 軽い傷でもなかったが、問題はそれではない。
 血が流れ出す代わりに傷口から暗く冷たい何かが入り込んでくる。
 鬼気だ。
「うわ」
 痛みはないが――傷の痛みも覚えなかった――総毛だった。
 反射的にそれを払い落とそうとしたが、上手くゆかない。
 まずいなあ、まずいんだろうなあ、とは思ったがこれも具体策は見つからない。
 やばい、まずい、やばい、まずい。
 わたしの動揺が麦に伝わったのか。

 結界が解ける!

 薄い硝子が割れるような音と同時に、わたしを取り巻いていた重苦しい気配が薄れた。
 それは界の内に、外の気が流れ込んできたことを意味する。
「麦、界を結んで」
 しかし麦はわたしに喰らいつく思念を追い払おうとくすんだ靄に牙を剥く。
「だめだ、麦。わたしのことはもういい。いいから、界を閉じ」
 言いかけた言葉は途中で途切れた。
 麦の向こうに人影を見とめたからだ。
 同時に声が降ってくる。
「よい。子狐。そなたはそなたの主の身を守れ。こちらはしばし吾が引き受けよう」
 わたしの言葉を遮ったのは
「雪白さま……どうして」
 傍らに立った人物を呆然と見上げる。
「……志野」

「呼ばれた。あんたの弟に」
 ぶっきらぼうに答えた志野が、わたしの胸に走る傷を一瞥し舌をちいさく鳴らした。
「ひどいありさまだな」
 言われ、急に痛み出した傷に顔が歪んだ。
「大丈夫か?」
 久々に聞く志野の声に不覚にも安堵しそうになる。
「痛い」
 だろうな、と志野が頷く。そして
「どうしたい?」
 訊ねられ、わたしは口篭った。
 その一瞬で、志野は察したのだろうか。
「決まるまで鬼の相手は引き受けてやる。決着がつくまでに決めろ。大した相手じゃない。長い時間はないぞ」
「いや、でも、だけど界は閉じなくちゃ」
 我ながら的外れな応答だったが、これには雪白さまが答えてくれた。
「界はそなたの弟が閉じておる。四方三里とは、なかなかのものじゃ。そなたより見所がありそうじゃな」
「ええっ?」
 洋が? どうして? というか、そもそも志野がなぜこの場に、いや洋が呼んだのだが、しかし呼んだって、どうして洋が志野を呼ぶのか。
 わたしの混乱を尻目に志野が言った。
「『さっさと片をつけて、早く帰って来い』」
「は?」
「伝言だ。それからこれ」
 無造作に投げ渡されたそれは、御幣だった。