鬼喰 ― たまはみ ―

第四話 追憶 六

 翌日も仕事のある田宮とは、十時前には別れた。
 別れ際に、おまえは八つ当たりはしなくてよいのかと訊ねると、
「おまえに八つ当たりするほど覚えてないんだ」
 と田宮は笑っていた。その顔はやや寂しげに見えた。
「記憶はあるんだ。だが気持ちが思い出せない。今の俺には明子がいる。いや、十六年前に、もう明子がいたからな」
 田宮は続ける。
「実のところ、俺は明子が泣くからなんとかしてやりたいんだ。おまえが彼女に花を手向けてやれば、明子の気持ちが安らぐだろうと思うから、そうしてもらいたい。隈田とは、違う」
 田宮の言い分はもっともだった。
「わかった」
「今でも可哀想だとは思うんだ……幸せになってくれたらよかったのに、とも」
 よかったのにと思う、しかしそれ以上にはなりえない。
 田宮やわたしにとって彼女はまったくの「過去」だからだ。
 今もまだ彼女を思う者と同じようには思えない。
 それがまた、田宮の隈田への負い目になっているのかもしれないと思った。
「うん。わかるよ」
 しかし、自分もだ、とは続けられなかった。
「そうか」
 それでも田宮はかすかな笑みを口元に浮かべた。
「隈田には田宮から」
「ああ、わかった。二、三日のうちには、都合をつける」

 それらの話を迎えに来た洋に伝える。
 家に戻ってからでは話しにくいことを察してか、洋はぐるりと道を迂回した。
 それで何十分と稼げるのではないが、そもそも長い時間は無用なのだ。
「特に何があったってことじゃないなら、なおさら難しいね。いっそ田宮さんが言うように、何かあってくれたらと思ったけど……」
 話を聞き終えた洋がこぼした感想を、わたしは否定できなかった。
 起点が定かでない出来事から彼女を救い出すのは困難を極める。心残りとなる原因を取り除いて即解決、とはゆかないからだ。
 対向車のライトが鋭く目を射る。軽くまぶたを伏せると別れ際の彼女の顔が浮かんだ。
 鬼であると気づかなかった理由の一つには、彼女がそれと分かる傷を抱えていなかったからかもしれないと思った。

 見鬼は残された念から過去をさかのぼることができる。
 正しくは、「過去の思考や感情の断片を見る」のだが、そこからある程度のことが推察出来てしまう。
 何事もなかった。
 田宮の言う「裏切り」も、彼女の心をひどく痛めつけるような出来事ではなかった。
 それはきっと隈田の申し出を、一番傷つけない方法で断ろうとした彼女の方便だったのだろうと思う。
 なぜならそれは、すでに互いの心が離れたあとに起きた事だったからだ。
 そこに至るまでの2年半の間に、ただただ静かに緩やかに、しかし確実に互いの心は離れ、遠ざかり、道を分かった。
 彼女は過去の具体的な何かに心を縛られているのではない。
「何もないところから、どうやって救い出すか、か……困ったね」
「ああ」
 洋はそれらのことを知ってしまったのだろう。わたしと同じように。
 田宮から得た確証に、わたしたちはそろってため息をこぼした。
「ある程度のことは分かっていたけど……」
「難しいな」
 決定的な何事かがなかったというそれは、裏を返せば日々小さな傷を負い続けていたのだともいえる。
 格別の原因はなく、けれど何気ない毎日のすべてが原因というのは、なんと辛いものか。
「やり直したい起点が兄さん……高校を卒業してからの全てをやり直したいなんて」
 注意深く言葉を選びなおした洋の頭を小突く。
「わたしにそこまで遠慮しなくていい。そんなに探り探りじゃ、こっちも話がしにくい」
 だけど、と言い淀んだ洋の先を制してわたしは言葉を続けた。
「離れるに至るまでの経緯はいたって緩やかなもので、そこに大きな事件はなかった。その後も彼女をひどく傷つけるような出来事はなかった。彼女は今、幸せだった時間とわたしを重ね合わせている。それだけわかっていれば今回の件には十分だ」
 頷いて洋は先ほど言いかけた言葉を継いだ。
「彼女が取り戻したいと願っているのは、兄さんとの時間」
「わたしがいた時間、だ」
「同じことだと思う。少なくとも彼女にとっては」
 歯に衣着せぬ物言いだが、洋の表情にはまだわたしを窺う様子があった。
「そうかもしれない」
 わたしが認めると、ほっとしたように洋の肩から力みが消えた。
「生前の彼女には、この世に恨みを残すほどの暗い思いはなかった。……本当に難しいよね、どう働きかけていいのか」
 隆正さんなら知ってるかなあ、とつぶやいた洋に釘を刺す。
「相談するなよ」
「適当にぼかして聞くのもダメかな」
「ぼかして聞いて、ぼかされたまま応えてくれたことがあったなら」
「……」
 洋の返答はない。さもあろう。
 あの人はそういうタイプではないのだ。
 根掘り葉掘り、さも重要なことを聞く調子で要らぬことまで掘り探り、後々のからかいの種にするつもりでいるのだから堪らない。
 抗議をしても「老い先短い年寄りの、数少ない楽しみに小うるさいことを言うな」などといけしゃあしゃあと言いのけるのだ。田崎の大叔母なみに長生きする気でいるくせに老い先短いとは笑わせる!
「絶対に言うなよ」
 そう念を押すと洋は降参と言うように軽く肩をすくめた。
「わかりました。聞きません。隆正さんには絶対に相談しません」
 わたしが安堵の息を吐いたとき、車もまた小さなため息を吐いて駐車場に止まった。
 おかえりなさい、とわたしたちを迎えに出てきた祥子さんの影にふと別の人の影が重なった。

 明けて翌朝、それぞれの朝の仕事が終わった後でわたしと洋は北口から裏山に登った。
 そこでなら誰憚ることなく話ができるだろうという推測からだった。
 家の中で話せば隆正さんたちに聞かれないとも限らない。といって外で話せば知人の耳に入るかもしれない。
 裏の墓地で話すことも考えたのだが、こんな時期であっても稀には墓参の人が来ないわけでもないのでこれも大事をとって止めにした。
 ドライブしながらという案もあったが、考え事をしながらの運転はあぶないとのことで、これも棄却。
 わたしたちはハイキングよろしく木の根に腰掛けて話をしている。
 水筒にお茶を持参での一見長閑な中での会話だが、内容は穏当ではない。
 いかにして彼女の凝りを解くか、あるいは打ち祓うか。
「祓うことに関しては、俺がやるにしても、兄さんがやるにしても力量的な問題はないと思う。執着は強くても、ただの死霊……えーっと、兄さんたちは鬼って呼んでるんだっけ? ただの鬼だからね。念を解くとなると難しいけど、これは出たとこ勝負にならざるを得ないから、考えるだけ無駄かも。解ける念かも定かじゃないし」
 どうぞ、と差し出されたお茶をわたしは受け取る。
 湯気が冬の風に吹き散らされてゆく。

 手の中のお茶で暖を取るには寒すぎる。
 手近な場所にカップを置き、わたしはジャケットの襟を立てた。
 またねと言っていたのだから、こちらが望みさえすれば会えるだろう。問題は
「どこで、か」
 彼女とわたしに共通する場所が、もっとも相応しい。
 となれば、自ずから場所は限られてくる。
「学校か、その周辺か」
 呟いたわたしの言葉を洋が検分する。
「どっちも人目につきやすいよね。学校は冬休みだし、夜間ならなおさら人気はないけど、まったく誰も来ない保障はできない」
 わたしたちが夜間忍び込める程度に出入りが自由ということは、誰にでも入り込めるということだ。
「見られても誤魔化し様はあると思うけど……」
 洋が首を傾げた。
「兄さん、本当に学校しかない? 彼女との縁(よすが)になるような場所は他にないの? どこか二人で出かけたりしなかった?」
「人気のない場所にか?」
「……あー、うん、そうだね。うん、兄さんならそうだろうね。うん、ごめん。役に立たないことを聞いちゃって」
 ため息とともに、何かを諦めたような口調でそう言いながら、洋があらぬ方向を見た。
「随分と含みのあることを言ってくれるじゃないか」
「……ああ、一応気付くには気付くんだね」
「洋……」
 渋面を作ると、洋が嬉しそうに笑った。
「ごめん。兄さんとこんなふうに話せるようになるとは思ってなかったから、ちょっと嬉しくて」
 再会以来、ずっとわたしを気遣ってきた洋の様子を思い出す。
 子供のような癇癪を見せたのも、春の騒動のあとの一度きりだった。
 洋が父や祥子さん、隆正さんに対して見せる厳しさは、寺を継ぐ意識の為せるものと信じてしまっていたが、よくよく考えてみればわたしへの気遣いに起因している。
 そもそも寺を継ぐことさえもが、わたしへの気遣いのようなものであるのに。
 わたしがまた帰ってこなくなったらどうしよう、と、それを思うとどうしても態度は遠慮がちになってしまうのだろう。
 そしてわたしが家族との久しぶりの再会に緊張していたように、洋もまたわたしとの再会に緊張していただろうことに、わたしは初めて思い当たった。
「……頼りにしてるんだから、まじめにやってくれ」
 いまさら謝るのもはばかられ、わたしはそう言って小さいころよくやっていたように、洋の鼻先を指で軽く撥ねた。
 くすぐったげな顔をして首をすくめた洋は、しかしすぐに表情を改める。
 まじめにやってくれというわたしの願いを聞き入れてのことだ。
「学校は避けたいね。人目はもちろんなんだけど、あそこ、何かあるでしょう?」
「そうなんだ」
 川畑さんの念に影響を受けていたあのとき、聞こえた声があった。
 彼女の声ではないあれはおそらく
「他界に通じる綻びがあるんだと思う」
「他界? 浄土のこと?」
「必ずしも浄土と言うわけでもないというか……春先の騒動も、綻びた結果だと言えばわかるか」
「……あれが、他界」
 洋が言葉を飲み込んだ。
 軽く身を震わせたのは寒さからのことだけではなさそうだ。

 かつて桜に聞いた話をわたしは洋に聞かせた。
 この世と重なるようにして存在する別の世がある。
 それが交わらぬように結ばれた界(さかい)の綻びを、仰木の桜は守っている。
 それと性質を同じくするものが、あの敷地にもあるのではないかとわたしは思ったのだ。
「たぶん、講堂の近くだと思う」
 洋は頷いた。
「講堂の床下に大岩があるらしいよ。昔は近くに小さな祠があったって話だけど、詳しいことはわからないんだって。今度の工事で動かすかどうか揉めたって聞いてる。でも結局残すことになったみたい」
 基礎の邪魔になる位置ではないこと、動かすのは大掛かりに過ぎることなどが幸いしたらしい。
「詳しいな」
「工事請け負ってるのは中西さん家だから」
 鶴さんの実家だ。
「秋に梅さんから少しね」
 では石のことはあるいは鶴さんに聞けばわかるのかもしれないが、それはまた別の機会でいいだろう。
「きっと鬼は、本来はあちらにあるべきものなんだろうね。鬼籍に入った人は、他界に向かう。あちらに行き損ねた存在、もしくは残留した思いが『鬼』になるというところなのかな」
 綻びの向こうが死者の世界であるとは限らないが、そう考えるとしっくりする。
 あの靄には人らしさは感じられなかったが、そもそも別の世界に存在する、とうに人でなくなったものなのだから、それも当たり前なのだ。
「それじゃ他界しなかった鬼が人と変わらないように見えるのも当然か」
「人であり続けたかったんだものね」
 そこで洋は一度口を閉じた。一呼吸の間をおいて言う。
「そういうことならなおさら刺激したくないな……過去を望む鬼をあの場所に呼ぶのは危ない気がする。それに、二つも三つもあの結界を負うことになるのは御免こうむりたいな」
 洋はすでにわたしとともに桜の結界を負っている。いや、むしろ結びの主体は母と洋であって、わたしは添え物に近い。
 祀られる守の力や資質如何にもよるだろうが、現状では洋の身が損なわれることが、即ち結界の揺るぎにもつながる。そのことによる精神的な負担は小さくないはずだし、そうでなくともあの危険にこの弟を二度も晒したくはない。
「わかってる。それにわたしもあれをそう何度も繰り返したくはないよ」
 細波の守る桜で一つ、母の守る仰木の桜で二つ、八雲の桜も含めれば三つ。その上さらに繕いをさせられるのはわたしも勘弁してもらいたいところだ。
 しかしそうなると彼女と接触する場所がない。
 どうしたものかと息を吐いたとき、脳裏によみがえった景色があった。
 枯野の中に鮮やかに咲く花だった。
「事故現場」
「え?」
 わたしのつぶやきに洋が聞き返した。
「事故現場はどうだろう。彼女が現実を知るには一番の場所だと思わないか」
 洋が木々を見上げた。つられて目を上げる。枝の合間からは刻まれた青い空が見える。
 ここを去った日も、同様の空を見、同じ人のことを考えていた。
 冬にしては幾分やわらかい風がわたしの額を撫でて行った。
「日倉へ向かう峠だったよね……。人目にはつきにくいけど」
 空からわたしへと洋が視線を戻す。
「けど?」
 言いよどんだ洋にわたしは聞き返した。
「別の誰かの思いが染み込んでるとなると、それはそれでやりにくいかもしれない」
「別の……」
 前に通ったとき、と洋は言う。
「強い思念を感じたんだ。何かを悔いるような……あれは、たぶん、生きている人のものじゃないかな。それも繰り返し重ねられたものだよ。以前のあの絵に、とてもよく似ている」
 洋が言うあの絵とは、かつて父が描いていた母の絵のことだろう。
 あれには母への恋慕と懺悔が塗り重ねられていた。
「兄さんも、見たんでしょう」
「花だった」
 答えると洋が頷く。
「俺には花は見えなかった。それに特に注意を払わなかったから、あれが彼女に関わるものなのか確かではないけれど、あのときの兄さんに一番影響を与えていたのは彼女だよね。おそらく彼女に縁のある思念なんだと思う」
 誰かが彼女に手向けた花の影だった可能性は高い。
 洋は視線を足元へと落とした。
「強い後悔に支配された場所が、過去を求める鬼にどんな影響を与えるのか、俺には想像がつかない」
 確かにその通りだ。
「……困ったな」
 学校しか彼女との接点がないことをあらためて思う。
 それはあらためて考えるようなことではなく、当たり前のことなのかもしれない。
 こんなことに遭遇しなければ、わたしだって考えることはなかったに違いない。
 近年では思い出すことさえなかった僅か三年の、それも限られた場所での交わりを、しかし彼女は大切にしてくれていたのだろう。
 十数秒置いて洋が言った。
「それでも、学校よりは俺はマシだと思う。あとは兄さん次第かな」
 では峠でと答えると、いつにすると重ねて問われた。
「明日……明後日の晩」
 早く終わらせたいと思っていた。
 といって、解くのではなく、祓うことになった場合を思うと、今夜とは言えなかった。
 明日、いや、明後日と、先送りにしたわたしに洋はただ頷く。
「うん。わかった」
 手伝いはいるかと訊ねるかと思ったが、洋は話は終わったとばかりに立ち上がる。
 いくつか断る言葉を探していたわたしが拍子抜けをしたのがわかったのだろうか。
 苦笑と言うほどではない笑みが洋の口端にのぞいた。
「実力的に手伝いがいる案件じゃないでしょ。まあ、万が一の時には後のことは全部俺が引き受けるから、安心して」
「全部って?」
 彼女を祓うこと以外に何があるのだろうとわたしは首をひねった。
「全部。兄さんが彼女に引っ張られて行っちゃった場合、兄さんの供養も、彼女の供養も俺がちゃんとしておくし、お姉さんのことも、まあ、気にはかけておくから」
「は?」
「だって、俺が引き受けるのは無理だから。お嫁に来てもらうわけにもゆかないし、といって俺も婿入りはできないし」
と、続けられた洋の言葉が冗談であることに気づくまで数秒。
 わたしの間抜け面に洋が吹きだした。
「わかったでしょ? 兄さんはもうどうするのか決めてる。だから俺の出る幕はない」
「……そうか」
 幾分心もとないような気がしながらも、「決めている」ことを認識し、心は少しだけ軽くなった。
 そうだ、わたしはもう選んでいる。過ぎ去ってしまった時間に沈み込むつもりはない。ならば成すべきことは一つ。
 傍らに立つ洋を見上げて、ふと志野のことを思い出した。
 あの春は志野が、過去に拘泥するわたしを――自覚してではないだろうが――支えてくれた。
 そして気づく。
 心もとないのは、鬼と化した知人と向き合うことではなく、かつての知人とはいえ、たった一人で鬼と対峙することなのかもしれない。
 わたしはこれまで一人で鬼と相対したことがないのだ。
「……情けないなあ」
 わたしの呟きに、木々を見上げていた洋が振り返る。
「情があるから迷うんだと思うけど。俺は曰く『薄情』だから迷わない」
「迷わないのか?」
 訊ね、数日前に洋を「薄情」と言い表した少女の顔を思い浮かべた。
 わたしと彼女より、洋とあの少女の関係はよほど近しかったに違いない。それでも
「余地がない。秤にかけるまでもなく」
 断言した洋の、おそらくは見鬼としての「覚悟」のようなものを知る。
 わたしに欠けているものは多いが、これもその一つだろう。
 十六年、溜めてきたツケが一気に回ってきた気がした。
 もう一度ため息を吐く。思ったよりは軽いそれに安堵しつつ、わたしも腰を上げた。
「切符、買いに行こうかな」
「何それ」
「うっかり情に流されないように。……明々後日の昼の切符を」
 それは何よりのお守りかもね、と洋が笑った。