鬼喰 ― たまはみ ―

第四話 追憶 四

 正門をくぐり、校舎伝いにわたしたちは体育館へと向かう。
 わたしたちが共有する思い出の場所は体育館だけだからだ。
 校舎と体育館をつなぐスロープは当時のままだった。
「懐かしいね、仰木くん」
「うん。あのころみたいだ」
「お互い歳はとったけどね」
 おばあさんのような彼女の物言いが可笑しかった。
「でも仰木くんは、見た目もあんまり変わってないね」
「そうかな」
 そういう彼女も随分と若く見えた。
 彩花さんといくつも変わらない雰囲気だった。
「うん、仰木くんは変わらない。さすがに高校生には見えないけど」
「それはそうだよ。まったく変わらないんじゃお化けだ」
 笑いながら応えると、川畑さんも軽く笑った。
「あ、そうか。仰木くんは昔から少しおじいさんみたいだったからかもしれない」
「おじいさん!?」
「うん。のんびりしてて、ちょっと遠い感じで。そう、他のみんなとは少し違う時間が流れてるような」
 半分あの世に足を突っ込んでいるという意味では似たようなものかもしれないが。
「『おじいさん』はさすがに堪える……」
 思わず額を押さえると、彼女は軽やかな笑い声を立てた。
「え、褒めてるのに」
 人気のない校内は、思い出話をするにはちょうど良かった。
 わたしたちは変わらないものだけを選んで目に留めながら、いくつかの懐かしい話をする。
 古くなった体育館の軒を見上げる。冬の月が紫を帯び始めた夕空に白く浮いていた。
「そういえばこの実を食べたんだよね、田宮くん」
 川畑さんが見る先に小さな黄色の実がなっている。
 そのときのことを思い出し、わたしは吹き出した。
「そうだった」
「あきちゃんと賭けをして、ね」
 冬休み、後輩たちの練習試合を見学したあとだった。
 どういう流れだったのか、この実が食べられるものなのか、という話になった。
『皮と種ばっかりですよ。きっと』
 この半年で立派なエースになった隈田が田宮を止める。
『やめたほうがいいんじゃないですか? まずいのは確定として、腹、壊すかもしれませんよ。ていうか、壊します。絶対に』
 さらに「食べられるはずがない、食べられるものならこのように放置されているはずがない」と笑った中澤さんに、田宮は賭けを持ちかけた。
『俺がこの実を食えたら、おまえどうする?』
『あんたの勝ち。土下座でも何でもしてあげる。そのかわり一口でも吐き出したりしたら、わたしの勝ち。一生下僕になってもらうから、やるならその覚悟でね。今なら温情でドローにしてあげるけど?』
 勝利を確信する中澤さんによく見てろと言い置いて、田宮は実を丸ごと口に放り込んだ。
 田宮が見せた見事な百面相のすべてを思い出すことはできない。
 とにかくも凄まじい酸味と苦味に四苦八苦しながら、辛うじて実を飲み下した田宮は賭けに勝ったはずだった。しかし
『下僕にしろ』
 酸で焼け、かすれた田宮の声に、はらはらと見守っていた中澤さんはポカンとした様子で聞き返した。
『……何て?』
『二度は言うか!』
『…………えー、一生?』
 そこでわたしたちは、呆気にとられて硬直している隈田を引っ張ってその場から離れた。
 その後何がどうなったのか詳細は知らないが、洋から聞く様子では、約束どおり今も田宮は中澤さんの忠実な下僕(?)だ。
「田宮くんらしいって思ったんだ。『俺が勝ったんだからな』って『おまえ、負けたんだから断わるなよ、絶対断るなよ』って」
「そう。酸っぱさに咽かえって、涙目になりながら『何でもするって言っただろ』。あれには笑わされたなあ」
 ひとしきり田宮を種に笑いあう。
 そういえば。
 田宮を通して彼女の連絡先を聞こうとしていたことをわたしは思い出した。
「そうだ。この間はごめん。失礼なことをしてしまって」
 慌しい別れになってしまったことをわたしが詫びると、彼女は軽くうなづいて「気にしないで」と言ってくれた。
「急ぎの用だったんでしょう?」
「でも挨拶もろくにできなくて」
「本当に気にしないで。それより、あれが弟さん? 小さい弟さんがいるって聞いてたけど」
「うん。大きくなったんだ」
 十年以上だものねぇ、と彼女が笑う。
「似てるね。兄弟だってひと目でわかるくらい」
 そうだろうか。
 わたしは首を傾げた。
 洋が幼い昔から、たびたび「似ている」とは言われてきたが、わたしはさほどとは思わない。
 洋もわたしも、造作はそれぞれの母親似だと思うのだ。
 写真で見る母と祥子さんに似たところはない。
 それに
「弟さんのほうが仰木くんより凛々しい雰囲気だけど」
「ああ、うん。それも皆にそう言われるな」
 その通りであるだけに肯定するしかなかったわたしに川畑さんがくすくすと笑う。
「仰木くんは本当に変わらないね。普通なら応えにくいことがあっても誤魔化したり、話をすり変えたりはしないの。正面からそうだねって言えちゃう。すごいって思ってた」
「……そういう気が回らないんだ」
 実際神主さんにも隆正さんにも、いつもそれでやり込められている。
 こんなところが親父に似なくても良かったのに……。
 いつかあの二人には一矢報いてやりたいが、そんな日が来るのか疑わしい。
 まあ、来なくてもそれはそれでいいと思うところもあるが。
「でも、しっかりした弟さんで安心だね。お兄さん」
「うん。それは本当に」
 兄馬鹿だと思われるかもしれないが、これは本音だった。
 洋がしっかりしていてくれるから、わたしは故郷を後にできるのだ。
 親父や祥子さんのこと、隆正さんのこと、田崎の大叔母のこと、寺や檀家さんのこと――洋が寺を継ぐとなれば、今は疎遠になっている仰木の親類との間で一悶着あるかもしれないが、洋ならそれもうまく纏めてゆけるだろう――、亀さんたちのこと、そして桜の……母のことも。
「あいつになら、全部任せられる」
「全部……任せる?」
 考えにふけってしまっていたわたしは彼女の声で我に返った。
「あ、いや、弟に押し付けるつもりはないんだけど、……うん。いろいろと安心してられる」
「弟さんに任せてって、じゃあ、仰木くんは? 仰木くんはどうするの? せっかく帰ってきたのに……? 何か別のことをするの?」
「帰ってきたといえば、帰ってきたんだけど……」
 わたしは言葉を探す。
「帰宅じゃなくて、帰省、かな」
「帰省? じゃあ、こっちで暮らすんじゃないんだ?」
 暮らすと聞いて一瞬脳裏をよぎったのは神主さんの家だった。正確にはそこに暮らす人々か。
「ええっと……仕事が在って」
 それをあえて仕事と表現したのは、それらの人々をなんと呼び表したらよいのか、咄嗟に思い浮かばなかったからだ。
 強いて言うのなら「家族」というのが一番近いのだが、「家族がいるから」では誤解が大きすぎる。
 父や祥子さんに「誤解を招く言動は慎んでほしい」と言っておいて、自分から誤解を招いてはいけない。
 もっとも日倉の大川さんにまで知れ渡った以上、今更という気はしないでもないが、それだからといって誤解をさらに深める言動はいただけないだろう。
 しかしそうは言っても「知人」や「世話になっている人」では説明は一層難しい。
「離れがたく思う人」では、これまた意味深長すぎる。
「仕事?」
 問い返され、わたしは繰り返した。
 嘘ではなく、けれど本質ではない答えを。
「うん、そう。仕事があって。それで、こっちのことは洋に……弟に任せることにしたんだ。幸い弟もそれを受け入れてくれていて」
 仕事の内容を聞かれたらなんと答えよう。
 わたしはそう思ったが、「そうなんだ」と彼女はわずかに落胆した様子で俯くだけで仕事の詳細には触れなかった。
「残念。じゃあ、こんなふうに会うのは、難しいね」
 その姿にわたしは半年と少し前の洋とのやり取りを思い出し、少なからぬ後ろめたさを覚えた。
 しかしあのときとは違い、わたしには彼女に謝ることもできない。
 洋とは違い彼女に対しては、わたしは何一つ責任を負ってはいないからだ。
 責任がないというのは、そのまま権利がないということだ。
 もし、「ごめん」と一言告げることのできる関係を彼女との間に作れていたのなら、わたしはどうしていただろう。
 ひょっとしたら、故郷を離れることはなく、ここに居場所を見つけることができていたのだろうか……
 もしあのときに戻れるのなら、今とは違う今を作れるのだろうか、今を変えられるのだろうか。帰れるだろうか。

 モドリタイ カエリタイ

 麦がわたしに鼻を寄せた。ひやりとした鼻先の感触にわたしは気が付いた。
 ほんの数十分前にくだらないと笑ったことを、わたしはまた考えている。
 さまざまに形を変えて、しかし思考が先ほどから同じところを巡り続けている気がした。
 ひどい不安を覚える。
 わたしのものではない、後悔と寂寥、その中に燻る憤懣とも言えるだろう激しい感情。
 強く凝った思念が、じわりと染み込むようにしてわたしの中に入り込んでくる
 よく知っている、けれど身に馴染まないこれは。
 鬼がいる。近い。しかし、どこに。姿がない。わたしに見えない。
 ……志野がいない。麦がいる。わたしに対処できるだろうか。
 断片化された思考がさまざまに浮かんだ。
 わたしの異常に気づいたのだろうか。川畑さんがわたしに声をかけた。
「どうしたの? 仰木くん、顔色が悪いよ」
「少し冷えたのかな。コート忘れてきたから」
 するりと嘘がこぼれた。
 洋や父には決してつけなかった嘘が、いとも簡単に滑り出たことをわずかに悲しく思った。
 わたしと彼女の間は、こんなにも遠いのだ。
 近くにいたこともあったような気がするのに。
「川畑さんは寒くないの?」
 彼女のジャケットも簡素なもので、冬の夕暮れの中では決して温かそうなものではなかった。
「うん。お花の鮮度を保つには少し寒いくらいがちょうどいいの。だから作業着は見た目より暖かく作られてるんだ。貸してあげようか?」
 彼女の冗談に、わたしはやっと笑みを作ることができた。
 小柄な彼女の上着がわたしに着られるはずもない。
「いや、ありがとう。気持ちだけで」
 気の利いた返事もできないわたしの応えに鼻白むこともなく彼女は頷く。
「もう少しゆっくりしたかったけど、このままじゃ風邪引いちゃうね。帰ろうか」
 彼女が来た道を戻り始める。
 鬼がいるここからは離れたほうがよいことには、わたしも同意だった。
「うん」
 だが名残惜しさからか、わたしは彼女の後にすぐには続けなかった。その場に立ち止まったまま先を歩く彼女の小さな背中を見る。さらに数歩進んだところで彼女が振り返った。
「仰木くんはいつまでこっちにいるの?」
「……週末までかな」
 二、三日のうちには帰るつもりだったのだが、曖昧に数日引き伸ばして答えた。
「そっか。あと少しだね。もう一度、会えるかな」
 それは今日のように偶然出会うことだろうか。それとも日時を定めてのことだろうか。
 一瞬の迷いに返事の機会は彼方に逃げ去ってしまう。
 答えなかったわたしに川畑さんは別の問いをした。
「次に帰ってくるのは来年の夏?」
「春かな」
 頬に寄り添ってくれる麦の温かな気配にか、ふと白狐さまの赤いお社が思い出された。
 白狐さまに、そして神主さんに守られていた十五年間が、過去へと深く沈む心に穏やかな光を灯す。
 鬼の気配はそのままだったが、人心地を取り戻したわたしはそっと息をつく。
「春か……桜がきれいだよね」
 歩きながら短い会話を続ける。
「うん。きれいだろうね」
 歩きながら見上げる先には、桜の枝がある。
 夕空を背景に黒々と浮き上がる枝に、花の記憶を重ねる。
 先ほどまでとは異なり、過去を思うことに苦痛も悔恨もなかった。
 穏やかに蘇る思い出の中には、少女の川畑さんもいる。

 卒業の日、停学中だったわたしはここで最後のホームルームが終わるのを待っていた。
 友人たちを待つその間、次々に通り過ぎてゆく人々を眺めながら、わたしは彼女を探していたのではないかと、そんな気がした。
 結局その日、わたしは彼女と会うことはなく、それっきりになった。
 停学になる以前から彼女とは会っていなかった。よくよく思い出してみれば、田宮が唐橘の実を食べたあの日が、彼女とまともに会話を交わした最後の日だったのかもしれない。
「春に帰ってきたときには、一緒に花を見られるといいね」
「うん。ぜひ」
 正門まで戻ると川畑さんは「それじゃ、またね」と行って、一人で坂を下りてゆこうとした。
「駅まで」
 一緒に行こうと言おうとしたわたしに彼女が足をとめる。振り返り、少し笑った。
「実はまだ仕事が残ってるの。これからもう一件、日倉までお花を届けなくちゃいけなくて」
 車を近くに止めているらしかった。
 車まで送ろうとしたわたしを彼女は制する。
「遠回りになっちゃうから」
 それでは体が冷えてしまうと彼女が言う。
「仰木くん、本当に顔色良くないもの。本当は送ってあげられるとよかったんだけど……あ、でもこの時間なら、まだ、急げば何とかなるかもしれない」
 左手の腕時計に目を落とした彼女にわたしは首を振った。
 華奢な手首に、可愛らしいベルトの時計が見えた。
「いいよ、いいよ。迷惑になる」
 日倉とわたしの実家では笹野を挟んで反対方向になる。
 山越えをしてわたしを家へ送り届けた後で、再び日倉に向かうのでは時間がかかりすぎる。
 カーブの多い道のり、急いで万が一のことがあってはいけない。
「ありがとう。大丈夫だから」
「うん、じゃあ、ここで」
「川畑さん」
 呼び止めて、どうしたものか。
 躊躇で言葉を見失った。
「……気をつけていってらっしゃい」
「うん、いってきます。ありがとう。またね、仰木くん」
 夕方から夜へと移り変わる時間。街灯もないこの場所で、少しはなれた彼女の表情は見えるはずがない。
 それでもわたしには見えた。
 記憶の中と同じ笑顔で手を振って、彼女は坂を小走りに駆け下りて行った。
「……あ」
 その背中を見送って、また連絡先を聞きそびれたことを思い出し、わたしは一人苦笑した。
「まあ、いいか」
 田宮に聞こう。
 彼女の十六年を聞くこともできるだろうか?
 帰ったらさっそく田宮に連絡をしてみようと思った。
 駅へと歩き始める。
 歩を進めるにつれて、鬼の気配が遠のくことに安堵し、わたしは帰途に着いた。

 すっかり日の暮れた景色はなお一層昔を思わせる。
 山間に点在する家の灯りのぬくもりを、電車の窓越しに見ながら、里心を覚えた。
 それから少し可笑しく思った。
「可笑しいね、麦」
 小声で話しかけると、肩の上でとろとろとまどろんでいたらしい麦が首を上げる。
 何が、と問うような視線にわたしは答えた。
「帰る、と思う先は神主さんのところなんだ」
 麦はそんなことかと言いたげな様子で鼻を一度鳴らすと、再びわたしの首に鼻先を埋めた。
 先ほど鬼と遭遇したときの狼狽を思い出す。
 そして、わたしは今もこんなにも彼に守られていることを思った。
 この関係を保ったまま次には進めない。
 対等というには届かないとしても、少なくとも神主さんの庇護下から巣立つことは最低限必要だろう。
「帰ったらちゃんと口をきいてもらえるように頑張らなくちゃな」
 やわらかい毛並みに軽く頬を寄せると、温かい日の匂いがした。

 帰宅後に電話をしてみると、田宮は不在だった。
 たまたま店舗のほうから子供たちの夕食を作りに戻っていた中澤(旧姓)さんが電話を取ってくれた。しかし
『ごめんね。せっかく電話してくれたのに。あの馬鹿、試験問題作るのに手間取って、明日試験なのに今日印刷してるらしいの。何をテストすればいいのかわからないんだって。毎回だよー。ホント、何やってるんだかね。相変わらず頭のほうは空っぽだから』
 田宮は今母校の体育教師をしているのだが。
 それを聞いてわたしは脱力してしまった。
『どうかした?』
「実は今日、学校に行ったから……職員室にも寄ってみればよかった」
『そうだったの? あらー』
 相変わらず仰木くんは間が悪いねぇと中澤さんが電話の向こうで笑う。
『あ、でも、じゃあ、体育館は見た? 懐かしかったでしょう? だけど年明けから建て替えなんだって』
「そうなんだ……それじゃ、そこは間が良かったのかな」
『そうかも。理科棟は去年なくなっちゃったし、図書室は卒業した翌年には建て替えだったし。体育館の次は音楽室だって。たまに行くこともあるんだけど、もう母校じゃないみたい。老朽化してるから仕方がないんだけど』
 受話器を通しての会話は、やけに親しい調子で進んだ。
 互いの顔が見えない分、十六年の時間を感じずに済んだのかもしれない。
『それで、用件って? わたしでも足りるようなら聞くよ。貸しは馬鹿につけておくから安心して』
 彼女の変わらない面倒見の良さにここは甘えることにした。
「えーっと、うん。じゃあ、その、聞きたいことがあって」
『うん。何でも言って』

 しかし
「その、川畑さんのことなんだけど」
 わたしがそう言った途端、中澤さんの声が途絶えた。
『……聞いたんだ? 仰木くん』
 数秒の間をおいて返された声に先ほどまでの陽気な様子はない。
 彼女が戻ってきた経緯を知っていれば、声の調子も落ちて当然だろうと思った。
「うん、大体のところは教えてもらった。それで」
 連絡先を知っていれば教えて欲しいと言おうとした矢先。
『戻ってきたときは、本当に辛そうだったの。明るく振舞ってたけど、無理してるいるの、すぐにわかった。付き合い長いから』
 中澤さんが川畑さんのことを話しはじめる。一通り聞き終えてからでもいいか、とわたしは相槌を打った。
「小学校から一緒なんだっけ」
『うん。わたしが転校して来てから、ずっと一緒だったの。高校を卒業してからも、休みの日には一緒に遊びに行ったり』
「そうだったんだ」
『ゆずはあまり話したがらなかったけど、落ち着いたころに一度だけ、少し聞かせてくれたの。相手の人、仕事がすごく忙しかったらしくて……ずっと家に一人だったって言ってた。一日、誰とも話をしない日もあったって。朝早くに出勤して、夜遅くに帰ってきたって』
「うん」
 知人のいない慣れない土地での暮らしの寄る辺なさは、わたしもよく知っている。
『ひどいよね。一人で放って置くくらいなら、ここから連れて行かなくたってよかったのに。それで……帰ってきて、やっと元気になって、だからわたし、良かったって……』
 中澤さんの声が途切れた。
『ねえ、知ってた? ゆず、仰木くんのこと好きだったんだよ』
 知っていたような気もする。初めて知ったような気もする。
 知ってしまったことにわずかな怯みを覚えた。
 それを知って彼女の連絡先を聞くのは難しいとも思った。
 わたしは応えることができず、無言を通す。
 中澤さんもわたしの答えは求めなかった。
『帰ってきて、元気になって、本当に良かったって思って』
「……うん」
『思ってたのに……』
 思って「いた」のに……?

 過去形で失われた言葉の続きにぞくりとした。
「え?」
 首筋から背中にかけて、ひやりとしたものが流れ落ちる。

『なのに、あんなふうに死んじゃうなんて』

 連絡先を書きとめるために手にしていたボールペンが、ゆっくりと指の間から滑り落ちる。
 かつん、とペン先が床を叩く音が、空っぽになった頭の中に大きく響いた。