鬼喰 ― たまはみ ―

第四話 追憶 二

 あちこちを見て回り食事をし――店主が旧友で互いに驚いた――祥子さんに頼まれたものをひと通り買い終えて車に運ぶ。
 購入したものの中には食材もあったのだが、特に傷みやすいものはない。「この天気なら大丈夫」と荷物は車のトランクに預け、徒歩で高校方面に向かう。
 歩き始めて五分もしないうちに洋はまた知人に捕まった。
 たまの帰省であることは洋もわたしと変わらない。わたしの都合にばかりつき合わせるのも悪い。
 時間を決めて待ち合わせをすることにし、そこで一旦洋とは別れた。

 モールに人が集まるからなのか、駅前だというのに人通りはまばらだ。
「目抜き通りだったのにな」
 けれど知っていて知らない道を歩くのは悪くなかった。
 電車の時間待ちに利用していた喫茶店は随分雰囲気が変わっていた。本屋はシャッターが下りていた。定休日なのか、閉められてしまったのか。文具店は雑貨屋になっている。高校の制服をあつらえた店は移転していた。
 思い出の名残を見つけては楽しむような道行きだ。
「この先にあった蕎麦屋もよく利用したんだ。揚げ玉大盛りにしてもらったりね」
 頭の少し上を漂っている麦を相手にガイドごっこをしているようでもあった。
 あとひとつ通りを渡れば高校が見える。気持ちが逸っていたのかもしれない。
「わっ」
 急に肩を叩かれ、わたしは声をあげて振りかえった。
「仰木くん?」
 わたしの驚きぶりに驚いたのか。躊躇うようにわたしを呼ぶ。
 知っている。わたしは彼女を良く知っている。
「あ」
 急激に記憶を遡ったからだろうか。かすかな眩暈を覚える。
「……川畑さん?」
 今朝、夢の中では思い出せなかった名前がするりと口からこぼれた。
「ああ、よかった!」
 そう言って、彼女は明るい笑顔をみせた。
 以前より少し大人びた、けれど変わらない笑顔だった。

「久しぶりでは足りないくらい、久しぶりだね」
 雲を通しての弱い日差しに、顎の当たりで短く切りそろえられた彼女の髪が透ける。
 透かしてなお黒い髪に、ふと彩花さんの髪のやわらかな明るい色を思い出した。
「何度か呼んだのに振り返らないから、人違いかと思ったんだけど」
「……ごめん。聞こえてなかった」
「うん。そんな感じだった」
 軽く息が切れているのはわたしを追いかけたせいだろう。
 それほど急いでいたつもりはなかったが、歩幅の差を思えば小柄な彼女はきっと小走りになってしまったのだ。
「違う人だったらどうしようって思ったけど、呼び止めてみてよかった」
 ほっと一息ついてから、あ、と彼女は口元を押さえる。
「急ぎだった?」
「いや。特に急ぎというほどのことは」
 そこで初めて安堵したかのように、彼女の肩から力が抜けた。
「帰ってきてたなんて、全然知らなかった」
 教えてくれてもよかったのに、と眉元が語る。
 夏に帰省してから、古い友人たちを思い出し、帰省していることを伝えようと幾度も考えた。けれど誰にも言わずに家を出た手前、「帰ってきた」と言うのもはばかられてしまったのだ。
 中学校からの同級生とは田宮の計らいで夏に会った。
 だが高校での友人とは暮らす町がそれぞれに違うこともあり、十六年前に別れたきりになっている。
 中学、高校と共に過ごした友人らから、高校の友人たちにもある程度はわたしの噂が広まったかもしれないが、きっと彼女には伝わらなかったのだろう。
 伝わるはずもないのだ。
 同じ部活動に所属していただけの、取り立てて親しい間柄ではなかったのだから。
「ごめん」
 ごめんしか言わないのね、と彼女が笑う。ごめんともう一度言いかけてわたしは頭を掻いた。
「変わらないねぇ、仰木くんは。少しのんびりしてるところも、そのまま」
 ――お山さんの坊ちゃんはのんびりしている
 十六年前のわたしの総評だ。
 変わらないという彼女の言に悪意はない。「のんびり」を好意的に受けとめていてくれているのも感じられる。しかし、十六年が過ぎて「変わらない」と言われるのは成長が見られないようで、やはりむず痒い。
 軽い苦笑がこぼれた。
「川畑さんは……」
 今はどうしているのかと問いかけて気がつく。
「川畑さんでよかった?」
 友人たちの多くは家庭を持っている。姓が変わった友人も少なくない。
 彼女もおそらくは、と訊ねたわたしに、彼女は小さく笑い肩をすくめた。
「うん。出戻りしちゃったからね」
 軽やかな返事だったが、わたしは胸をハンマーで打たれたような衝撃を覚えた。
『お嫁さん』といって笑っていた彼女が、と思うと言葉が出てこなかった。
「……ごめん。不躾なことを聞いてしまって」
 いいの、と彼女は首を振る。
「卒業して、駅前の銀行に就職したのは知ってる?」
「うん」
 何かの折に互いの進路を話したことがあった。
 進学する(予定だった)わたしに、「でも卒業したら帰ってくるんだよね?」と彼女が尋ねたことを覚えている。
 聞かれてはじめて「たとえ一度外へと逃れても、いずれ帰らないわけにはいかないのだ」と気づかされたことも、はっきりと覚えている。
 あのころのわたしは、逃げることばかりを考え、待っていてくれる人のことには思い至らなかった。
「七年目に本社から来てた人と結婚したの。でも、向こうでの暮らしに馴染めなくて。少し前にとうとう帰ってきちゃった。今は家業(うち)の手伝いをしてるの」
 着ているジャケットの胸元を川畑さんは指差した。川畑花店と刺繍されている。
「お花を届けたり、ブーケをアレンジしたり、最近は式場のデコレーションを依頼されることも増えて……向こうにいるときにね、時間だけはあったから。それでフローリストの勉強をしていたの。でも……勉強を始めたときには、もう帰る覚悟があったのかもなあ」
 屈託なく話してくれたが、話の内容は軽いものではないだろう。
 話をどう続けたらいいのかわからずわたしは口ごもってしまった。
「……ええっと」
 相槌さえ思い浮かばない。
 やっと探し出した言葉はわたしを迎えてくれる人がいつもくれるものだった。
「お帰りなさい」
 今朝見た夢のように彼女は一瞬動きを止める。
 見張った目に映りこむわたしの像が揺らぐ。
「いや、その」
 夢の中の隈田と同じようにわたしは慌てて次の言葉を探した。
 見つからない。
 緩やかに落ちる沈黙のなかで、彼女が微笑みを浮かべた。
 雲を透かして注ぐ日差しは暖かい。
「うん。仰木くんもね。おかえりなさい」

 ところで仰木くんは何をしていたの、と問われ、久しぶりの笹野の町を散策していたことを言った。
「楽しい?」
「そうだね。変わってるところと変わってないところを探しながら……間違い探しをしているようで面白いよ」
 モールに人が集まるからだろうか。かつての商店街はなんとなく閑散としていた。
 時間帯のせいもあるかもしれない。
 通勤時間には遅く、食事時でもない通りは人通りもまばらだ。
 それがこの町の今と昔の姿を重ねあわすには都合がよかった。
「そうかぁ……そうだね、わたしも帰ってきたときは、同じことをしてたなあ」
 変わらないところを探しながら、と、彼女が左手の丘に視線を投げた。
 ここからは見えないが、木立の向こうにわたしたちが通っていた高校がある。
 今朝方夢で見た五月の夕暮れを思い出し、それとほぼ一緒に「彼女はあれから柚子の花を見ただろうか」との思いが頭をよぎった。
「……歩きながら、どこで間違っちゃったんだろうって思ってた」
 声に滲むかすかな翳りに痛みを覚えた。
「変わってしまったものを見つけるとね、懐かしくて切なくて、変わらなくてもいいのにって。でも変わらないものを見つけると、自分はそのころのままじゃないことが辛くて」
 わたしも彼女も一度、この地を離れた。
 離れ、再び目にする故郷は、離れる前に見ていたものとは同じではない。
 そこにはどうしても「時間の段差」ができてしまう。
 それ自体は決して特別なことではないと思う。誰にとってもそういう段差のひとつやふたつはあるものだ。
 そして多くの人にとってその段差はなだらかな階段状のものだろう。
 けれど時として、その段差が壁となって立ちはだかることがある。
 離れていた時間の長さではない。離れた理由、戻ってきた理由。それがささやかな段差を壁に変えてしまう。いや、壁のように感じさせてしまう、というべきか。
 彼女の感じた「段差」は決して小さくはなかったと思う。
 かける言葉も思いつかず、わたしは彼女の横顔を見ていた。
「あ、ごめんね。こんな話、面白くないね」
 わたしに向き直った彼女は、身近な人にはなかなか聞かせられない、ついね、と苦笑した。
 ほんの数日前に別れたかのような、以前とまるで変わらない態度が嬉しかった。
「いや、わかるよ」
 彼女の抱え持つ感覚にも、わたしは馴染みがあった。
「俺もなかなか身近な人には言いにくかったから。心配をかけたくなかったし、誤解されたり失望されるのは怖かったし……身近な人にほど、伝えにくいこともあるよ」
 彼女は首をわずかに傾げた。
「仰木くん、何か悩み事があったの? ……それで出ていったの?」
「簡単に言うとそうだね」
 今思えばちゃんと話せばよかったとわかるのだが、当時はそうは思えなかった。
 ふと、親しい人々に心を打ち明けることを彼女に勧めようかとも思ったが、人から勧められてできることではないと思い直し、それは言わなかった。
 いつか彼女がその胸に抱える思いを、話せる人が見つかるといい。
 何とはなしに隈田のことが思い浮かんだ。
 彼はどうしているだろう。
 顔はもうはっきりとは思い出せない。図体に比べて格段に幼い表情をしていた、という印象だけが残っている。
 風にあおられた枯れ葉が数枚、わたしたちの足元を転がっていった。
 街路樹の影が薄い縞模様を歩道に描いている。
 乾いた葉はからころと歌いながら遠ざかる。
 隈田のことを聞いてみようか、と思いわたしは顔をあげた。
 そのとき、吹き過ぎていった風に添うように、彼女が問う。
「今も?」
 解決したこともある。していないこともある。
 どう答えようかと刹那の間迷ったが、気の効いた言葉は思い浮かばなかった。正直に答えた。
「うん、今も。解決できたように思っても、まだ終わってないこともあるし、他にも次々とね」
 同じだね、と彼女は頷く。
「わたしもいつまでも実家に居候するわけには行かないから……出戻りの小姑なんて、ありがたくないものね。それで部屋を借りて家は出たんだけど、仕事はまだまだ手伝わせてもらってるし、独立するには全然心もとなくて。うーん、本当に悩みは尽きない」
「尽きないね」
 神主さんの顔が浮かぶ。
 ここ数ヶ月、まともに口をきいてもらったことがない。
 志野にも「いい加減に俺をメッセンジャーにするのはやめろ」と言われている。
 苦笑したわたしに彼女もまた苦笑めいた笑みを返した。
「間違ったことを惜しんでも仕方がないってわかってるの。だけど、気持ちが弱ってくると考えちゃう。あのときに戻れたらなあって」
 彼女はそう言ったが、表情は明るく穏やかだった。
「時間が戻ったって、うまくゆくとは限らないのにね。だから、それよりもこれからのことを考えなくちゃって、無理矢理気持ちを奮い立たせたりして……もしこの先が拓けるなら、過去も間違いじゃなかったと、きっとそう思えるような気がするから」
 その言葉はわたしの心にもすとんと落ちてきた。
 間違ったように思えていたことも、ある日を境に正しかったのだと思えることがある。
 わたしにとってのそれは、あの春の日の出来事だ。
『おまえがここを出て、神社に転がり込んだのはこれを正すためだったのかもしれねぇな』
 十六年前、ここを出なければ、神主さんには出会わなかった。神主さんに出会わなければ、「神」について知ることはなかった。
 もしもこの十六年を、わたしがここで過ごしていたならば、わたしか洋か、どちらかの命は失われていただろう。
 もちろん、あの日の隆正さんの言葉は「真実」ではない。
 けれど、拠り所としてそのように考えることくらいは許されてもいいはずだ。
 もしそうであるならば、母と隆正さんの行き違いにも、父と母の出会いにも、祥子さんと父の縁にも、洋が生まれたことにも、すべてに意味を見出すことができる。
「やっと帰ってきたんだもの。これでよかったって思いたい」
 だからわたしは彼女の言葉に頷いた。
「うん」
 同時に「帰ってきた」と言える彼女をまぶしく思った。
 どれほどの時を経ても、違う箇所がいくつできていても、ここは彼女の故郷なのだ。
 明るい笑顔を見せた彼女の様子に安堵し、ここを帰る場所とはできなかった自分の弱さを情けなく思った。
 懐かしく、慕わしく、けれどここはもうわたしの場所ではない。
 わたしはここから逃げて、他に居場所を見つけてしまった。
「そうだ。仰木くん、このあとは? 何か予定がある?」
「えーっと。弟と来てるんだけど……時間はまだ少しあるな」
 よければ一緒に学校を見に行こうと言おうとしたそのときだった。
「兄さん」
 十歩ほど離れたところに洋がいた。
「探したよ」

 学校を見に行くことはできなかった。
 洋の伝手でよい魚があると聞き、それを受け取りに行くことになったからだ。
 笹野からは山を越えることになる。
 急ぎ移動を余儀なくされ、わたしは慌しく彼女と分かれたのだ。
 駐車場へと急ぎながら洋はざっと説明をしてくれる。
 伝手は高校のときの友人らしい。
「日倉の、海沿いの旅館で板前修業中なんだ。今日は久々の休みで笹野に戻ってきてたらしいんだけど、事情を話したらそこの先輩に電話をしてくれてね」
 その先輩というのが檀家繋がりでもあったことから、とんとん拍子で安く分けてくれることになったようだった。
「付き合いが広いなあ」
「そうでなきゃ困るでしょ。ところで兄さん、さっきの人は?」
 車のドアを開けながら、洋が聞く。
「高校のときの知り合い。部活動が一緒で……そう、田宮の奥さんの親友だったんだ」
 深く訊ねられたくなかったわたしは、乗り込みながら矢継ぎ早に答えた。
「田宮さんって……」
 洋にとっての「田宮」は田宮の父だったらしい。田宮の母を思い浮かべた様子で少し考えたあと、洋は聞き返した。
「ああ、そうか。明子さんの?」
 中澤さん(旧姓)の名前はそんなだったかなー、と思いながらわたしは頷いた。
「うん」
「……そう」
 考え深げな様子で洋は頷いた。
 何か気になることがある様子だったが、わたしはあえてそれを問わなかった。

 走り出した車中には軽い沈黙がおりた。
 中央線のない細い山道を洋は器用に車を走らせて行く。
 軽トラックとのすれ違いの後、洋がちらりと左前方の谷に目をやった。
 視線を追う。途切れたガードレールの向こう、なだらかな斜面を覆う白っぽい枯れ草の中に、ぽつりとひとつ鮮やかな色彩が残されている。
 小菊だ。
 冬もそろそろ本番というのに、そこにだけ秋の名残があった。

 ぼんやりとしていたのだろう。
「兄さん……兄さん。大丈夫?」
 いつの間にか景色はぐっと開けたものになっている。フロントガラスの向こうには鈍く光る海が、ゆっくりとうねっていた。
「……え? 何が」
 呼びかけられて数度目に返事をしたわたしに、洋が言いにくそうに切り出す。
「その……わかってるとは思うけど」
 お姉さんに心配をかけないで、と言いかけた洋の言葉に気づかぬ振りで言葉をかぶせた。
「そういえば、いい魚って何だ?」
 遠い昔のやわらかな記憶に、今は触れられたくはなかった。
 そして慌ただしく分かれてしまったために、彼女と次に会う約束ができず残念に思っていることは察されたくもなかった。
「献立しだいで買い足さなきゃならないものがあるんじゃないのか」
 ほんの一瞬の間があったが、洋はわたしの問いに答えてくれた。
「『まかせとけ』って言ってたから詳しく聞かなかった。注文をつけるように思われても困るしね」
「ああ、そうか」
 なるほど、とわたしは洋の表情に軽く浮かんだ苦笑に頷いた。
 いまどき坊主の生臭を気にする人は多くはないかもしれない。しかしご好意で寄せられるものならまだしも、精進であるはずの寺が「魚」に注文をつけるのは気がひける。
「春に兄さんが帰ってきたときも、実はお世話になってるんだ。あのときはつみれ汁になっちゃったけど」
 志野が解体した鮮魚を思い出し、わたしは吹き出した。
「せっかくの魚をすまなかったな」
 あれはあれで美味しかったのだからかまわないと洋は言う。
 それから少し考えるそぶりを見せてから、洋はわたしに訊いた。
「二村くんはどうしてるの?」
「二枚下ろしができるようになったよ」
 それはすごい進歩だと洋が笑った。
 お姉さんがと言いかけて、洋は思いついたように言いなおした。
「彩花さんが教えたの?」
 そのなまえに、なぜか落ち着かないものを覚える。
 落ち着かない気持ちか、あるいはそのなまえ自体を打ち消すためにか、わたしは言葉を続けた。
「そう。でもうろこを取るのはだめなんだ。一度やってるところをみたんだけど、二の腕が粟立ってたな。それで煮魚はじゃりじゃりに」
 志野の姿とその後の食事風景の想像がついたのか、洋は声をあげて笑った。
「じゃりじゃりしない煮魚もいいけど、俺は今回はお造りがいいな。兄さんは」
「うん。いいんじゃないか。親父たちも喜ぶだろうし」
 そうだね、と洋が頷き、車は目的の旅館に着いた。
「いつみても大きいなあ」
 前回は十六年前。電車の車窓からみた。笹野から日倉を経由してわたしは家出をしたからだ。
「敷地、うちの三倍あるって」
「三倍か……すごいなあ」
 他愛のない話をしながら通用口へと回る。
「こんにちは、仰木です」
 そう洋が声をかける。威勢の良い返事があった。