鬼喰 ― たまはみ ―

第四話 追憶 序

 彼女を傷つけた白いボールが視界の端ではねながら遠ざかってゆく。
『ばっか、おまえどこ見て打ってんだよ』
 隣に座っていた友人は後輩を怒鳴りつけ、それを拾いに走った。
 おそるおそるといった様子で彼女は左の指を包んでいた右手を開く。
 中指と薬指、浮いた爪から滲む血に思わず手を取った。やわらかい。見た目以上に小さな手だった。
 大丈夫だから、と掴んだ手はやんわり解かれる。
『平気。少し引っかかっただけだから』
 痛みを堪えて浮かべた微笑に、かえって胸が痛んだ。
 彼女はいつものように救急箱代わりの空き缶からガーゼを取り出す。手馴れた様子でそれに消毒液を吹きつけた。だが滲んだ血を拭うその一瞬、彼女が小さく息を呑んだのがわかった。沁みたのだろう。次いで取り出したテープを、しかし彼女は切ることができない。
 痛みで指先に思うように力を入れられなかったのだ。
 はさみに伸ばされた手を再度わたしは取った。
『貸して』
『いいよ。自分でできるから』
『左』
『え?』
『利き手だろ。無理だよ』
 テープを切る。本当は緩まないように貼ってから切るほうがいいのだが、傷ついた指にほんの少しも負荷を掛けたくなかった。
 指の腹から背に向けてテープでそっと包む。強く押さえないようにしたつもりだったが、取った手に緊張が走るのがわかった。
 テープにささくれて固くなった自分の指が彼女の手をこれ以上傷つけないよう、慎重にわたしはテープを巻く。
 まずは指の付根を支え、第二関節の少し上から斜めに巻き上げた。
 指の先端でテープは方向を変え、今度は先端から付根へと巻いてゆく。
 一番細いテープなのに自分の指に巻いたときよりもずっと幅広に見える。
 あらためて小さな手だと感じた。
『上手だね』
 彼女の評価にはわたしの背後から返事があった。
『そりゃこいつだって伊達に二年ベンチを温めてんじゃないっての。それくらいできるようになって当たり前』
 ボールを拾って戻ってきた友人がわたしの肩を叩く。
『ひどいよ田宮くん。そういう言い方はないでしょ』
 傷も痛みも忘れたように食ってかかる彼女を田宮はからかった。
『あっれー? スコアラーは大事な仕事なんじゃなかったっけ? スタメンだけが偉いんじゃないって啖呵きったくせに、ベンチはひどいってんだ? へえ?』
『それは……そうじゃなくて』
 わたしの顔色を窺う彼女には構わず、田宮はボールをコートの向こうに打ち返した。
『できもしねえくせにスパイクサーブなんかすんじゃねえっての。てめえにゃまだ早え』
 口調はいつもとさほど変わらない気さくなものだったが、フローターで打ち込まれたボールには、手加減はまるで見られなかった。
 受ける間もなく顎にボールを叩き込まれ、後輩は大きく仰け反った。
 大柄な体がフロアを叩く音が体育館に大きく響く。
『なんてことするの!』
 どおん、という音に、コートの反対側で一年生の指導の補佐に当たっていたマネージャーが振り返る。そして悲鳴まじりの声をあげた。
 田宮に悪びれる様子はない。
『今日も冴えてるなー。寸分の狂いもねえ。さすが俺』
 つまり偶然でも事故でもなく、田宮は最初から後輩の顎を狙って打ち込んだと言うことだ。
『隈田くん、大丈夫?』
 倒れた後輩に駆け寄ったマネージャーが後輩を起こしながら田宮を睨む。
『ちょっと田宮! 仕事増やさないでよ!』
 聞きようによってはこれも随分な言葉だ。
『おいおい、中澤。最初に仕事増やしたのはそいつだぜ、この俺に玉拾いなんかさせやがって』
『顔にボールを打ち込むなんて! 推薦、取り消されても知らないわよ』
『直接ぶっ叩けって? 冗談! 指痛めるのはごめんだ』
『口で言えばいいでしょう! 舌でも噛んだら一大事じゃないの! 危ないことをしないで』
『危ない? 何言ってんだよ、コントロールできねえのに力任せにスパイクサーブぶっ放すアホウは危なくねえってのかよ。危うくこいつの顔が』
 そういって彼女を振りかえる。
『そうなるところだったんだぜ? 首の太さ比べてみろ。まともに当ってたらそんなんじゃすまねえぞ』
『まともに当てた人間がそれを言う!』
 コートを挟んで二人は大声で言い合っている。
 いつものことだから仲裁に入るものはない。間に立っても暴言の集中砲火を浴びるだけなのだ。
 一瞬だけ途切れた練習は何事もなかったかのように再開される。
 肘を軽く二度叩かれてわたしは彼らから彼女の方を向き直った。
『あの、ごめんね』
 何がと言いかけて「ベンチ」のことだと察した。
『何が?』
 わたしは空とぼける。彼女に謝られることではない。
 上背を買われて入部したものの、選手としてのわたしは今ひとつだった。時折センターとしてコートに立つ以外、結局わたしは入部以来二年の月日の多くを彼女たちマネージャーとベンチで過ごしている。
 ベンチ要員であることはわたしの実力に対する正当な評価であったし、むしろちょっとした役得のようにも思っていたようにも思う。
『それより手は平気? 突き指は?』
『どうかな。今はそんなに痛くないけど』
 いかにもなんでもない様子で指を動かすが、それが嘘だということはすぐにわかった。わたしも同じような怪我を何度もしてきた。これは察するというより実感に近い。
 その都度、彼女に手当てをしてもらった。
 記憶を振り返り気づいた。
『あ、先に冷やした方がよかったんだっけ。ごめん』
『ううん、大丈夫。たいしたことないから。それにこんなの、皆はいつもじゃない』
 だがわたしの指も田宮の指も、こんなに細く華奢ではない。
 田宮を継ぐ主砲と期待される後輩の、加減知らずのサーブが爪の先を掠めて行ったのだ。痛くないはずがない。
 どうしたものかとテープの巻かれた左手の指を見ていると、彼女は右手で包むようにして傷ついた左手をわたしの目から隠した。
 平気だから、と言いかけたのか。
 彼女が口を開いたそのときだ。
『ちっくしょうっ』
 傍らに立つ田宮の大声にわたしたちの背筋が伸びた。
 見ればどうやら今回も田宮は中澤さんに言い負かされたようだ。
 足元に転がるボールを取ると田宮は不機嫌そうに二度三度床との間を弾ませる。
 中断することなく基礎練習を続けながらも、皆が二人の口論の行く末を見守っている。いや、言い負かされた田宮が次に何を言い出すのかに、後輩たちは戦々恐々としていた。
 何とかしてください、と彼らの声なき声が視線となってわたしに向けられる。
 確かにこのまま放っておけば、田宮は「グラウンド外周五十周!」くらいは言い出しかねない。
 それが必要な練習であるのならしかたがない。だが田宮の鬱憤晴らしにしかならないのであれば止めるべきだろう。
『なあ田宮、基礎練習はもういいんじゃないか』
『ああん?』
 こういうときの田宮には常の明朗さとは全く異なる凄みがあった。わたしがその田宮に口を利けるのは付き合いの長さに尽きる。中学生からの五年間をともに過ごしているからだ。
『三年の練習参加は今日までだろ。まあ、おまえはこの後もこっちだろうけど。最後はゲームでしめないか?』
 実のところ新学期になってからも練習に参加していた三年生はマネージャーの二人の他にはわたしと田宮だけだった。
 明日からは特別に事情のある者以外の部活動への参加は、原則として禁止される。
 受験勉強に専念してください、ということだ。
『それもそうだな。よし、おまえとおまえはあっち、おまえはこっち……』
 先刻までの憤怒の相はどこへやら、後輩たちを実に適当にチーム分けをする。
 それでもどちらか一方に実力が偏ることはない。
 田宮が良い選手であることは誰もが認めている。そしてコーチとして優れたセンスを持っていることも。
『じゃ、負けたほうが今日の片付け!』
 中澤さんの声に「げえ」という声が上がる。
『ボールも全部、真っ白になるまで磨いておいてね。わたし、明日の朝、それだけ確認に来るから』
『この古びたボールを全部真っ白にか!? 面白れえ。よし、それでいくぞ』
 隣にいたはずの田宮はいつの間にかエンドラインから五、六歩さがったところに立っている。サーブを打つために左の手のひらにボールをのせる。
『ちょっと待て。俺はどっち』
 たぶんいつものようにスコアラーだとは思ったが、一応移動に備えて立ち上がる。田宮は言った。
『おまえはあっち』
 指差す方向には体育館の扉だ。
『負傷兵の搬送、頼むワ』
 くいと顎で示されたのは隈田だった。
 たしかにその体格からいってもわたしが肩を貸すのが順当だと思われる。
『じゃあ、わたしがスコアつけるね』
 わたしがベンチに置いたノートを彼女が取った。
 利き手を怪我しているのに大丈夫だろうかと思ったが、だからといって止めるほどの傷ではない……いや、やっぱり止めた方がよいのだろうか。
 軽い思案の中、とりあえず壁際で目を回している「負傷兵」のもとへとわたしは向かう。
 相当の衝撃があったのだろう。隈田はまだ顎を押さえて蹲っていた。
 だがわたしが手を貸そうとすると、ふらふらとしながらも彼は自力で立ち上がる。
『……大丈夫です』
 立ち上がった隈田に田宮が声をかけた。
『隈田』
『はい』
 隈田は頭をひとつ振るとそちらを向いて直立する。
 顎を動かすことも辛いのかもしれない。隈田の返事はくぐもっていた。
『痛いだろ』
 田宮がわかりきったことを聞く。隈田は頷いた。痛みに眉が顰められた。
『……はい』
『それがおまえのサーブを顔に喰らう人間が味わう痛みだ。よく覚えとけ』
『はい。ありがとうございます』
 隈田が深々と田宮に頭を下げた。
『いいって。それより口ん中、切っただろ。血、飲み込むなよ。腹壊すぜ。ちゃんと漱いで、面はよく冷やしとけ。ついでに保健室いって首に湿布張ってもらうんだな。戻ったらおまえ、今日は主審な。コートの大きさもしっかり見ておけ』
 そこで田宮は再度わたしを見た。
『途中でぶっ倒れると拙い。一応付いていってやってくれ。中澤は隈田が戻るまでは主審、スコアも頼む。ま、適当に』
『はいはい』
 中澤さんはため息混じりに返事をし、二年生、一年生のマネージャーにラインジャッジを命じた。
『ゆず、あんたも保健室行っておいで』

 そうだ。彼女は友人たちからゆずと呼ばれていた。
『本当はゆうこなんだけど、柚子って書くから。冬至生まれなの』
 そういって笑っていた。

 二人につきそって体育館を出る。
 淡い紫色の空には夕月が白く浮いている。
『柚子もこんな可愛い花だったらいいなぁ』
 学校を取巻く生垣の枸橘の白い花を彼女が見つめる。
 涼やかな香りがしていた。
『ゆずはもっとずっときれいだよ』
 隈田の言葉に彼女は動きを止めた。
 徐に向き直った彼女とわたしに、隈田はしばらく考える様子を見せたが、直に気が付いて慌しく片手と首を振った。残る一方は腫れた頬を押さえている。
『ああ、違うじゃなくって、違います。ゆずって、ええっと、先輩じゃなくて木の、花の、柚子のほう』
『へえ、そう。そこでワザワザわたしじゃないって教えてくれるんだね? それはどうもありがとう。そうだよね、花とわたしは違うよねぇ』
『えっ? や、いや、違います、そうじゃなくて、違う……ああ、もう。すみません』
 隈田は大きな体を小さく屈めて小柄な彼女に頭をさげる。
 そういう意味じゃないです、と懸命に取り繕う隈田に彼女はふざけて頬を膨らました。
『別にいいけど。間違ってないし。本当だし。少ーし傷ついただけだから、隈田くんが気にすることじゃないよ』
『……ゆうちゃん』
 情けない声で隈田は彼女に許しを請う。そういえば彼女と隈田は幼馴染みだと聞いたことがあった。
『ここでは、先輩、でしょ』
『……先輩』
 飼い主に叱られた犬のようだった。
『隈田は柚子の花、知ってるんだ』
 途方にくれる隈田の助け舟になればとわたしは話をふる。いや単に親しげな二人の様子が気に食わなかったのかもしれない。
『はい。俺の祖父さん柚子作ってるんで。こんなひょろひょろした花弁じゃなくて、もっとずっときれいですよ』
 絵に描いた橘のような花だと隈田は言う。わかったようなわからないような説明だがなんとなく姿は思い浮かんだ。枸橘よりもしっかりした五つの花弁が星のように開いているのだろう。
 嬉しい、と彼女は笑う。
『見てみたいなあ』
『うーん。きれはきれいですけど、わざわざ見に行くほどのものではないかと……』
『だって実しか見たことないから。花も見てみたいよ』
 そういう人は多いらしいですね、と隈田が言う。
『黄色くなったのを冬至に風呂に浮かべるか、皮そいで茶碗蒸しや吸い物に入れるか。そんなところですっけ』
『違うのか』
『はい。ジャムにしたり、まだ小さい若い実は丸ごと砂糖漬けにして。えっと金柑みたいに。青いんですけど。色づく前の実は薄い輪切りにして吸い物にいれたり、皮をおろして薬味代わりにとか。今時分だと花も吸い口にするんじゃなかったかな。あれ、もうひと月くらい後だったっけ……どうだったかな』
『いい加減〜』
『や、だって、俺柚子作る人になるわけじゃないし』
 隈田の曖昧な柚子談義を聞きながらわたしたちは保健室へ歩いた。
『そうか。リョウくんはやっぱりお父さんの事務所を継ぐの?』
『うーん、やっぱり最終的にはそうなるでしょうね。それまでにやりたいことをやっておこうとは思ってますけど』
 隈田の家は会計事務所だと聞いたことがあった。
『ゆうちゃんは? お花屋さん?』
『どうかなあ。家はお兄ちゃんがいるし、わたしは職業は特に……あ、でも、なりたいっていうとあれかな、やっぱり』
『何?』
 会話に入れずにいたわたしが尋ねると、はにかんだような笑顔を彼女が向ける。
『お嫁さん』
 その答えにどう応じたものかわたしは隈田と顔を見合わせる。
『先輩は?』
 隈田がわたしに話を振った。
『やっぱりお家を継がれるんですか?』
『……どうかな。俺はまだ、どうしたいってものがなくて』
 わたしには継げないと思い込んでいた。
『悠長ですね』
 隈田の指摘に彼女が笑う。
『そういうときは余裕がありますねって言うの』
 そんな話をしながら、のんびりとわたしたちは保健室へと向かった。

 その後なんとなく興味をもって柚子のことを調べてみたのだが、詳しいことは忘れてしまった。
 結実までに十数年、という一文だけが記憶に残っている。

『仰木くん』
 わたしを呼ぶ彼女の声は今も鮮明に思い出せる。
 しかしわたしは彼女を何と呼んでいたのだろう。
 ……思い出せない。
『ゆず』
 友人たちが彼女を呼ぶ度に、可愛らしい名前だと思った。彼女には良く似合うとも思った。
 聞くごとに、見たことのない白い花と、涼やかな香り、そして微かな苦味をもつ手のひらほどの実を想起していた。
 だがその名前をわたしが呼ぶことは一度もなかったはずだ。

 記憶の底に疑問を置き去りにし、わたしの意識は緩やかに覚醒へと向かう。
 目を開き、懐かしい天井にため息をついた。
「……」
 もう十六年も前のことだ。ずっと思い出すことのなかった記憶を呼び覚ましたのはこの部屋かもしれない。
 盆以来、四ヶ月ぶりの帰省だった。