部屋に戻ろうとして俺は足を止めた。
古木を見慣れていたせいだろうか。新たに植えられた若木がひどく頼りなく見えた。それがあいつを思い出させる。
夜風に細い枝を揺するさまは、まるで俺を手招いているようだ。
誘われるままに俺は庭に下りた。
桜の前に立ち、なあ、瑞江と呼びかける。
姿を思い浮かべる必要はない。瑞江はそこに居る。
だがはっきりとは見ることのできない幽かな人影にもどかしさを覚えた。
「……」
何かを言おうとしたのだが、言葉がでてこない。
瑞江、と名で呼びかけたのも、仰木の家を出ると決めたあの日以来のことだ。
あれからはここに養子に入る以前のわずかな期間に呼んでいたようにしか呼ばなかった。
許婚ではなく、兄でもなく、ただの昔馴染みになりきるために俺はそう決めた。
傍目にも空々しい決め事でしかなかった――養父はそんな俺に繰り返し馬鹿だと言った――が、続けるうちにいつかはそれが真実になるはずだった。
しかし時は半ばで断たれてしまった。
「……」
何を言うつもりだったのか、考えれば考えるほど言葉は遠ざかる。
しかたなく俺は別のことを話した。
「ときどき思ったよ。もしあのとき連れ戻していたらどうだったろう。俺はここに居て、おまえが隣に居て、子供たちがいて……そういう時間があったかもしれない、と」
桜はとうに植え替えられ、小さかった苗が大きく枝を伸ばす姿に昔を懐かしむような時間があったかもしれない。
繰り返し思うほど、そうはならなかった現実が俺を苛んだ。
懐の短冊を俺は衣の上から軽く押さえる。
『隆正さん』
厠に向かう俺を洋が引き止めた。
瑞江の血を引かぬこの子供は、だがその兄よりも今は瑞江に似ている。
仰木の負う務めの中に生きることを決めたその心が、こいつを瑞江に似せているのか。
『これはあなたがお持ちになってください』
洋が差し出したのは古い短冊だった。褪せた紺色に見覚えがあった。
あの夏の七夕のものだ。八月、よく晴れた夜だった。
三人で出かけたそれが最後だった。
『……どこでこれを?』
『日記に挟んでありました』
誰のと問う必要はないだろう。
笹に短冊を掛けようとする瑞江に、何を書いたのかと俺たちは問う。
素っ気無く、内緒、と言って見せてはくれなかった。
俺や彰英が何度かふざけてのぞこうとしたから、結局掛けられなかったのだろう。
何が書かれていたのか。墨は水に流れ滲んで読めない。
それを知る術は、もはやない。
だが読めなくともこれに滲みこんだ願いが、見鬼の目には映る。
――約束を思い出して。わたしを放すことを願わないで。
忘れたつもりはない。放すことを願ったことなどない。幼い約束に瑞江を縛ることをしたくなかっただけだ。
「……」
幼さゆえと軽んじた約束に縛られていたのは俺のほうだったのだろう。
瑞江が俺のもとを去ったのはその数日後だった。
短冊の墨を流したのはあの晩の雨かもしれない。
「さっきな、おまえを見た。いや、違うな。おまえによく似た娘をみた」
おまえが袖を通すはずだった振袖を着ていた。
「よく似合っていたよ。おまえにもきっと似合っただろうな。さすが彰英の見立てだ」
悔しいが俺はそういうことはからきしだったからな、と肩をすくめる。桜が枝を揺らしてそれに応えた。
「でな、どうやらその娘さんはおまえの息子のことを憎からず思っているようなんだが……あいつはどうもはっきりしなくてなあ。まんざらでもねぇクセによ」
俺や彰英に酌をする娘を見るもどかしげな表情を思い出す。
「すぐにわかった」
あの夏の彰英によく似ていた。
「あいつもあんな目でおまえを見てた」
三人で出かける。行く先々でふと視線を感じて振り返ると何を描くでもなく彰英は俺たちを見ていた。
『どうした』
彰英の様子に瑞江から離れ、岸辺に向かう。
暑気あたりかと問う俺に彰英は横に首を振った。
『いや。なんでもない。少し、……そう、構図に迷っただけだよ』
『木陰に移るか?』
大丈夫だと答えて彰英は筆を取る。
岩に腰かけ、川に足を浸していた瑞江が彰英を呼んだ。
『ねえ、河野さん。瑞江を描いてくださらない?』
『……ごめんね。人物画は得意じゃないから』
あんな絵を描いていたくせに、と瑞江が頬を膨らます。
あんな絵というのがあの鷺娘であることはすぐにわかった。人物画は得意じゃない、というのは明らかに嘘だ。
参ったな、と呟いて彰英は筆を置いた。
瑞江を描きたくないのか、今は人物画を描く気分にはなれないのか。
困惑を露わにする彰英の様子に俺は軽口を叩く。
『彰英はもっと艶っぽい婀娜な女が好みなんだってさ。おまえじゃその気にならないんだと』
俺の軽口に「いや、違うよそうじゃない」と筆を投げ出す勢いで立ち上がり、くどくどと言い訳をする彰英とは対照的に、瑞江は「そう」とだけ呟いて対岸に視線を投げる。
人物画は得意じゃないと言っていた彰英のスケッチブックが瑞江で埋められていたことを知ったのは、ずっと後になってのことだ。
洋からの涙まじりの電話に駆けつけたのは四年前だったか。
真実を知ってしまった祥子が、以前と変わらぬ様子を懸命に装い、俺に向けた寂しげな笑みを忘れることはないだろう。
ごめんなさいをひたすらに繰返す洋が俺に見せたもの。それがあのスケッチブックだった。
一冊だけではない。何冊も何冊も、そこには瑞江だけが描かれていた。しかし、どれひとつとしてあいつを正面から描いたものはなかった。描かれている瑞江は、いつも彰英ではないものを見ていた。
もし、気付けていたのなら……。
何を思い出しても虚しい仮定は繰返される。
それでついつい嗾けちまった、と告げる。
桜が笑うように枝を揺する。
「手遅れになって気付くほど苦しいことはないからな。それくらいなら一生気付かないほうがいい」
どこか俺を気遣うような気配に俺は「気にするな、おまえのせいじゃない」と首を振る。
「見鬼ってのは、損なもんだ」
見なくてもよいものを見る。そのために、見鬼は見えているものから目を塞ぎ心を眠らせる術を、早くから覚えてしまう――覚えなければ、いずれ気狂いと呼ばれるようになってゆくしかない。己を守るためには覚えずにはいられない。
しかし幾重にも重ねた封印の向こうで惰眠を貪る心は、いずれ何も感じなくなる。
それでも眠りについた心がそのまま目覚めさえしなければ、温いまどろみの中で一生を終えられるのであれば、いっそ幸いというものだ。
だが、いつか夢は醒める。
そのときになって目の前に降りた紗を急ぎ上げても、次は眠らせ続けてきた心の、想像だにしなかった獰猛さに慄くしかない。
御し方がわからず、持て余し、うろたえるその隙を時は待たない。
「あの晩、……」
古い家に育ったお前だ。夜半に俺を訪なう、それにどれほどの勇気を要しただろう。
俺を兄とでなく名で呼んだ、あれが最初で最後だった。
――おやめ、瑞江。こんなことをしてはいけない。部屋に帰りなさい。
おまえの手を解く俺の口調はことさらに冷く平坦になってしまった。それにおまえはどれほど傷ついたことか。
おまえを諭して帰したのは決して
「いや、言い訳は止めるか……そうだな、こういうことも考えた。もし、俺が目を塞いでいなかったら、おまえを失わずに済んだのだろうか、と」
自分の心と向き合うことを怠けていなければ、おまえを嵐の中に追い払うようなまねをせずにすんだろうか。
翌朝、おまえが家にいないと知ったときの喪失感を直視できただろうか。
彰英のもとでおまえを見つけたときの焦燥を伝えられただろうか。
「もし俺が見鬼でなければ……おまえを連れて帰ることができただろうか」
迎えに行って気がついた。おまえの中のおまえではない存在の気配に。
人の魂がいつ形成されるのか、いつ宿るのか俺は知らない。
だが、おまえの中に宿る別の存在を、どうしてか俺は知ってしまった。
動転のままにおまえを彰英のもとに残して帰宅した。
「手を引いて帰ればよかったよ。三十年以上過ぎてまだ悔いるくらいなら」
思えば俺は瑞江の手を引いたこともなかった。俺の手を取るのはいつも瑞江で、それが当たり前のように思っていた。
「もしあのとき、俺がおまえの手を取っていたなら」
おまえは俺についてきてくれただろうか。
ぬかるむ道を一人歩きながら、連れ帰り、無理やりにでもこの手に籠めてさえしまえば、今ならまだ真実はおまえにもわからないに違いないと思った。
俺の振舞いを、おそらくは養父母も黙認するだろう。囲いこみ、閉じ込めて、そのまま一生黙ってさえいればとも考えた。
身勝手な思考に、俺は己に恐怖と嫌悪を覚える。
迎えに行こうと何度も繰り返し腰を浮かせては、ひどい所業に及んでしまう予感に恐れ、拒絶されることにはさらに懼れを覚え座り込んだ。
迷いのうちに数日が過ぎる。
おまえのために土下座をする彰英に、俺は何も言えなかった。
「彰英は悪くないんだ。それなのに俺は周囲から責められるあいつを、本当の意味では弁護してやれなかった」
町の人々の白眼視にも、あいつはおまえのためだけに耐えていた。おまえを一人置き去りにしないためだけに。
声にされぬ責句に苛まれる彰英を見ながら俺はそこでも何もできなかった。
おまえの子に向けられる「この子さえ生まれなければ」というひそやかな声にも、あいつは沈黙を守った。
おまえがいなくなってからの三十年、あいつは俺以上に辛い思いをしただろう。
『おまえだって俺がいなければよかったと思っているくせに!』
俺に向けたそれがあいつのただ一度の泣き言だ。
そのたった一度を、俺は突き放してしまった。
「彰英は悪くない、おまえも悪くない。悪いのは俺だ。だが誰もそれを信じなかった。彰英もだ」
だが己こそが諸悪の根源だと思い込んではいても、彰英には他を選ぶことはできなかった。
たとえ幾度あの夏を繰返しても、あいつは同じ選択をする。
「まっすぐにそれだけしか知らない目でおまえを見ていたよ」
責苦に抗うことも責苦から逃げることもせず、ただおまえだけを思うあいつにひきかえ、俺は逃げることを選んでしまった。
無駄な足掻きとも気付かずに。
逃げようもなく突きつけられたのは、おまえが彰英のために白無垢を纏ったときだった。
俺の子ではない子を抱くおまえを見て、何度胸を抉られたことだろう。
俺はその子の父になりたかった。
ならばこの定めを避けるべきは俺だったのだ。
俺はあの選択を彰英にさせてはならなかった。あいつの前にその選択肢を置いてはいけなかったのだ。
責められるべきも、白眼に晒されるべきも、悔い苦しむべきも、すべて俺だ。
「俺は誤ったんだろうな」
大切なのは見えたものではなかった。見たうえで何を思い何を望むか、だった。
そんな単純なことさえ、長い間鈍らせていた心では判断がつかなかったのだ。
「見鬼でなければ、と何度も思った。務めや約束に惑わされることなしに、おまえを真っ直ぐに見ることができたかもしれない。彰英を巻き込むこともきっとなかった」
俺は桜に手を伸ばす。朧な人影を通して触れた木肌はまさに樹木のものでしかない。
それでも俺の手のひらは瑞江を覚えている。細い肩の手ごたえが蘇る。
「だけどな、瑞江。俺が見鬼でなければ、俺は仰木には迎えられなかった。おまえにも彰英にも会わなかった。いろいろ悔いはあるんだが、それでもおまえたちに会わない人生を、俺も選べない」
だからこれは必然なのだとつい先刻俺は気付いたのだ。
気付いて思うことはただ一つ。
だがそれを言うことは許されるのだろうか。
躊躇う俺の耳に懐かしい声が聞こえた。
「うん。俺もだよ。今もな。たぶん、これからもずっとだ」
「だから、おまえ、彰英の隣に祥子がいることを許してやってくれ」
祥子は本当にいい子だ。
あの祝言のときも、あいつがいてくれたことが皆の笑顔をさそった。
でなければ、誰も笑いも祝福もしない式になったろう。
おまえが去った日も、あの子一人が声をあげて泣いてくれた。
誰もが何事かを憚る場で、あの子だけが素直に祝い、また悼んでくれた。
俺には救えなかった彰英を救ってくれた。真実を知った後も、変わらず彰英を支えてくれた。
「ああ、おまえがそれに怒るとは思ってはいない。おまえはあの子を可愛がっていたものな」
だが桜に宿るおまえは、この先も二人を見続けることになる。
いや、二人がこの世を去った後も、この地に残ることになるだろう。
おまえの子が世を去り、その子もまた去り、おまえを知るすべての者が息絶えた後も、おまえは一人ここに残る。
再び人の肉を持つこともなく、輪廻も解脱もなく、永劫にここに縛られる。
それが「守」になるということだ。
いずれ鬼に食い荒らされるか、己がなにものであったかさえわからなくなり消えゆくまで縛られ続ける。
「瑞江。寂しくなったら俺を呼べ。いつでも来る。おまえが満足するまでこうして話そう」
俺には彰英には見えないおまえが見える。
彰英には聞けない声を、俺は聞くことができる。
おまえの言葉をあいつに伝えてやれる。
たとえ朧にしか見えない影であっても、切れ切れにしか聞こえない声であっても、そこにおまえがいることが俺にはわかる。
「俺は見鬼でよかったと、今初めて思うよ。瑞江」
「もう一度、俺を呼んでくれるか……兄とではなく」
吹き抜ける風に俺を抱く細い腕を思い出した。薄い夜着を隔てるのみの肌の匂いまでもが蘇る。
年甲斐もなく赤面し、俺はこめかみを掻いた。
「そうだな。もう十年くらいは待たせちまうんだろうが」
それはきっと余花に雨の降りしく夜だろう。
夏の訪れを予感させる、けれど夏にはまだ至らぬ。
白に限りなく近い仄かな紅は風に落ち、わずかに残った花が雨に打たれてきっと俺を待っている。
やがて紗のような雨は通り過ぎ、花は灯火のようにその白を鮮やかにする。
そして遠い日に失くしたものを、俺はやっと手にするのだ。
そのときにはと、俺はらしからぬ思いをめぐらす。
心のままに抱きしめて、髪を梳き頬を撫で、口付けよう。
繰り返し、時が果てるまで寄り添って過ごすのだ。
まだ俺が目を、心を塞ぐ前、あの幼い日に交わした約束のように。
だから満願成就の日を待ちつつ、まだしばらくは続くこの日々を、俺は緩やかに過ごしてゆける。
「結構、楽しめそうだぜ。嗾けたり混ぜっかえしたりしながら遊べそうだしなあ」
瑞江によく似た面立ちの、俺よりもなお見鬼の才に優れた若造をからかうのはきっと楽しいだろう。
俺と同じく目と心を塞ぎがちになるあの青年が、俺と同じ轍を踏まぬようおまえに代わって見てゆくのだ。
もしあの夏に今の俺がいたのならと、少々の苦味を覚えながら。
だがたとえ俺がいなくても、おまえの息子は俺とは違う道を歩く。彰英の子なのだから。
「それがまた腹立たしいんだがな。……瑞江」
「 」
意を決して囁いた俺の声を風がさらう。
だが瑞江には聞こえたはずだ。
瑞江は応えない。
それでも微笑んだらしい気配に、俺はその枝に手を伸ばす。
ほころび始めた早咲きの蕾が一輪、指の先に触れる。
指を伝い手のひらに流れ込んできた露を口に含む。甘い匂いが口中に広がる。
交わせなかった杯の、これが代わりだ。
俺の名を呼ぶ幽かな声に、三十五年前伝えそこなった言葉を、俺は再度繰返した。