鬼喰 ― たまはみ ―

閑話 白鷺の蛍火に溺る

断章 思ひ草の緋に匂う

 洋からの手紙が届いた。
「めずらしいな」
 何かあったのだろうかと少々不安を覚えつつ、わたしは封を開く。
 きれいに畳まれた便箋を広げると、几帳面な文字がそこには並んでいた。

 読み進め、どうやら父はあの鷺娘の絵を仕上げることを決めたらしいことを知る。
 隆正さんと一緒に、描きかけのあの絵を前に、ああだのこうだのと二人で言い合っているという。
 それが『御仏も聞けば卒倒するような』言葉だというのも、二人らしくてよいと思う。
「目に浮ぶなあ……」
 声までもが聞こえそうだ。
 きっとその場に居たら耳を塞いで聞かなかったことにしたい会話に違いない。
 二人の描こうとする鷺娘があまりにも扇情的なので、祥子さんは旋毛を曲げているというようなことも書かれていた。
 母の命日に一人堂に篭る父の背を見ていた祥子さんの寂しげな様子を思い出す。
 それでも母への遠慮や負い目からか、そういったことを一人胸に収めてきた祥子さんが父に対しヤキモチを露わにできるということは、よい傾向だと思う。
 父は拗ねる祥子さんに「おまえも描いてやるから」などと言って、隆正さんに砂を吐かせているそうだ。
 先だっては隆正さんに寺をあずけ、二人で旅行にも出かけたらしい。
 初めてのことではないだろうか。
 父は祥子さんを大切にしていたし、決して蔑ろにはしなかった。だが、母にしてやれなかったことを祥子さんにすることを躊躇うようなところがあった。
 そして母には何もしてやれなかった、と思っている父は、それゆえに祥子さんにも何もできなかった。
 誕生日も、記念日も、日常に紛れて淡々と過ぎて行くだけだったのだ。
 母の死を境に凝り続けた時が、やっと流れ始めたように思う。
 祥子さんはそういうことをまめまめしく洋に電話しているようで、手紙には
『俺も砂を吐かされている』
 とも記されている。
「よかった」
 安堵の息を吐き、それからあらためて母のことを思った。
 父と祥子さんを見る母は何を思うのだろう。

 あの日、洋が見つけた書――驚いたことに洋は文庫にあった書を長屋門の二階に移す際、その全てにざっとではあるが目を通し目録を作っていた。即座に思い出せなかったのは園芸書に混じっていたからだという。「樹の衰えたるときのための覚書」と素っ気無く記された薄い手綴りの書が園芸書に混じっていたのでは、見落とすのも仕方がないだろう。古木の残骸にその書の存在を思い出したことだけでもわたしは驚嘆する――には「桜の守」についての記述があった。
 それによるとあの封じを「桜の守」と呼ぶのだそうだ。
 その守の力が弱まり、封じを喰い荒らそうとする鬼に抗せなくなると、桜は衰えを見せ始める。
 守は得難い。ゆえに桜に衰えが見られるようになった際には柱を立ててこれをあらためよ、とそこには記されていた。
 古くは桜を祭る社の長が、一門の中から柱となる者を定め、これを桜に奉じることで封じを存えさせてきたのだという。
 人柱を立てることで桜を守ってきた過去を知り、「あんまりだわ」と祥子さんが呟く。
 しかし。

 ――御柱にて此れを結ぶ 血を以って成す可し

 わたしは口中でその一文を幾度か繰返す。
 意味がわかるに連れて冷え冷えとした可笑しさを覚えた。口元が歪む。
 どうしたの、と洋が聞く。聞かれなければ答えたくなかった。
『違う。人柱じゃないんだ』
 どういうことだと隆正さんは表情を硬くする。
 人柱でないのだとすれば、祖父や母の死はなんだったというのだ、というところだろう。
 無駄だったのかと問いかける視線にわたしは目を伏せる。桜の守と記された箇所を指差し、答えた。
『これは守(もり)とではなく、おそらくは守(かみ)と読むのでしょう』
 応えはなくわたしは顔を上げる。意味を解しかねたのか、三対の眉はそれぞれに顰められていた。
『御柱は守(かみ)の宿る場所。封じの要は柱ですが、その柱には守(かみ)がなくてはならない』
 ただの樹ではなく、守が宿る樹だからこそ封じの要たるのだ。
『この桜の守とは、桜に坐(いま)す守(かみ)のこと』
 もしそうであるのなら、守こそが封じであり、樹はその依り代にすぎない。
『だからこそ、守(かみ)となり得る者は得難い、と……』
 続けようとした言葉は咽喉にかかり出てこなかった。
 守となる者に何が求められるのか、それはわからない。
 わかるのはひとつ。祖父はダメだったが、母はそれに適ったということだ。
 洋が口元を押さえた。それじゃあと呟く声に震えが混じる。
『そう。これは守(かみ)を立て、その霊威(ち)によって封じる、という意味で……贄として樹に命を捧げよと言っているんじゃない』
 封じの桜を「柱」と記したことが、誤認への始まりだったのかもしれない。
 すでにあの書にも柱を贄のように解して記している箇所がいくつも見られた。
 無理もない。柱となる樹を改めるのは百数十年に一度。生涯に二度、改めに立ち会う者はなかったろう。
 どこかで誤認し、それを疑うことなく信じてしまった。
 かつてそれに相応しい者を守として封(ほう)じたはずの祭祀は、誤った解釈の中、時を経るにつれ、やがて弱者に贄として押し付けられるものへと変わってゆく。
 けれど不適切な者を無理に立てても、守にはなれない。瞬く間に鬼に食い尽くされ、桜は再び衰え次なる守を求める。
 神体となる依り代を改めることをせず、新たな守を衰えた依り代に無理に封じるそれは、まさに鬼への御供(ごくう)としか呼びようのないものだ。
 誤解を重ねたあまりにも惨めな歴史に、誰もが息を呑み、ため息をこぼす。
 おまえが、と隆正さんがわたしを見た。
『ここを出て、神社に転がり込んだのはこれを正すためだったのかもしれねぇな』
 答える言葉をわたしは持たなかった。
 運命か、と呟いた隆正さんの声が、今も耳に残っている。

 守は一度封(ほう)じられれば、その任を解かれることはまずない。
 やがて祭祀を忘れられ変じるか、消え去るか……その前に鬼に喰いつくされるか。

 どうであれ、母があの桜から放たれる日は永劫に来ない。
 父がこの世を去り、祥子さんが去り、わたしや洋が去った後、あの桜が枯れても次に植えられる樹がある限り、母は一人そこに残るのだ。
「……」
 仰木の都合に縛られ傷ついた人を、わたしが桜に繋ぎとめてしまった。
 もしそれが母を永久に繋ぐことになると知っていたなら……いや、知っていても、きっとわたしは母が守であることを望んだに違いない。
 洋や祥子さんを犠牲にして得る一時の安寧を、わたしは決して願えないのだから。
 薄情な息子だ。
 痛みを胸の奥底へと封じこみ、わたしはさらに先に目を通す。

 だが次の数行を読み、わたしは溜め込んだ息を吐くことができた。
『隆正さんは前触れもなく唐突にやってきては桜の下で日がな呆けているらしい。母はひどく心配している。呆けるのには早すぎるのに、と』
 でも、と洋は綴る。
『それは呆けているのではなく、単に惚けているのだと思う。三十数年ぶりの逢瀬なのだから邪魔はしないように、とは言っておいた。でもどうだろう。あの人のことだから、今は桜しか目には映していないような気がする』
 面白くなさそうに遠くから眺める父と、その父を抓る祥子さんと、二人の視線の先の光景が脳裏に浮ぶ。
 隆正さんはきっと無造作に地面に座り、まだ若い木の幹に背を預け、葉ずれの音に母の声を聞き、木漏れ日に母の影を見ている。
 封じが成る直前に、隆正さんが名を呼んだときの母の表情を思い出した。少女のような笑みだった。
 どこか寂しげな印象でしか思い出せない母の、あの華やいだ顔を、おそらくはずっと隆正さんだけが知っていた。
 三十年以上前のあの日、桜にひどく冷たい目を向けていた隆正さんは、今はどんな目を向けているのだろう。
 母のあの笑みにどう答えているのか。
 母と隆正さんの係わりに、複雑を覚えないといえば嘘になる。
 さまざまな思いは複雑に絡み合い、もはや列挙さえできない。
 だが不快ではなかった。
 結局のところ、隆正さんとわたしは同じなのだ。
 失くした過去を「もしも」と愛しみ、けれどその「もし」が現実であった場合には、別の大切な存在を、またかけがえのない出会いを失うことになる。
 そういった迷いと苦しみを経て得た安息を、わたしには否定できない。
 わたしが生まれなければ、二人が決定的に割かれることはなかった。それでも生まれなければ、わたしはここにはいられなかった。
 そして母が生きていたなら、きっとわたしは今もあの家にいて、やはりここにはいないのだ。

 どうぞとお茶を勧める声に、わたしは手紙から視線をそちらに移す。
 やわらかな眼差しに強張った頬が笑みを返そうと動く。
 気付かないうちに入っていた肩の力を抜き、手紙を封筒に戻すと湯呑みを取った。
 咽喉を通るお茶の温かさが心地よい。凍えるような痛みが穏やかに引いてゆく。
 その温もりの中で、わたしは盆にはきっと帰ろうと固く思う。
 わたしが今ここに在るその始まりを示すあの絵も、きっとそのころには描きあがるはずだ。
 あの家に三十年以上澱み続けた数多の悔いと迷いが今やっと晴れてゆくことに、わたしがひと息ついたときだった。

「おや」
 手紙を仕訳けしていた神主さんが手を止めた。
 洋くんからもう一通ありますよ、と差し出された絵葉書を受けとる。
「お上手ですねぇ」
 その声に志野もまた手紙を読む手を止め――このところ友人と手紙を交わしているようだ。何度か葉書きを見せてもらったが、お元気ですかの応酬は、なんと言うのか「山羊さんゆうびん」を思わせる。さっきの手紙のご用事なあに、というあれだ――身を乗り出して絵を覗き込む。
 描かれた鳥を見て、志野は首を傾げた。
「鶴か?」
 志野はどうやら花だけでなく鳥にも疎いらしい。
「鷺だよ。小鷺かな」
「コサギ?」
 すらりと伸びた冠羽、緩やかな弧を描く背と胸の飾羽を指摘する。
 足元の葉は稲苗だろうか。葉陰にふたつ、みっつ、蛍が仄かな光を放っている。
 墨の濃淡だけがその色彩であるはずなのに、絵は葉の緑、蛍火の色を思わせた。
 父が書いたのかと落款を見る。どうやら洋が描いたようだ。
 多才なやつだ。
 しかしどういうことなのだろう。
 何か書きそびれたことでもあったのだろうか。
 いぶかしみつつ、何度か両面を見る。鷺の隣には達筆で、歌が書かれていた。
「……あはひの鷺のいかで呼ばはむ」

 読み上げたわたしの手元を神主さんが興味深げに見た。
「ははあ、連歌ですか。風流ですねぇ」
「はあ……」
 連歌なのか。じゃあ上の句を返せばいいのだろか。
 とは言うならば、まずはこの下の句をどう解くか。
「あはひの鷺のいかで呼ばはむ、か」

 あはひは間(はざま)だ。岸と水との境だろうか。
 そのままに受け止めるなら「水際に立たずむ鷺をどうやって呼ぼうか」というところだろう。
 それとも「水際の鷺に呼びかけるにはどうしたらよいか」か。
 呼ばふは単に「呼ぶ」というより、繰り返し呼ぶ、呼び続ける、という意味合いのほうが強い。
 ……呼び続けているのだから帰ってきてほしい、とか? しかし、たしかに手紙には必ず帰れとあるが、もともと盆には帰ると言ってあるのだし、わざわざこんな回りくどいことをする必要があるとは思えない。
 意味がわからず、わたしは首を傾げた。
 何かの謎かけだろうか。

 謎かけであるなら鍵がある。
 鍵はなんだ。
 葉書きを見る。手紙を読む。
 何か共通することがあるはずだ。
 ……
 絵と、鷺。

 唐突に目裏に白い翼が広がった。羽ばたきの音が耳をよぎる。

「あっ」
 心臓が鷺に摘まれた魚のように跳ねた。

 腕を打つ羽の肌合い。
 かすかな紅を孕む白。

 まさかあいつ、という声は寸でのところで飲みこむことに成功する。
 しかし大きな声をあげてしまったからだろう。三人がいっせいにわたしを振り返った。
「なんです、いきなり。びっくりするじゃないですか」
「……いえ、すみません。なんでもありません」
 神主さんの問いに笑顔で――引きつっていなかったと自信をもっては言えない――応える。
 だがわたしはそこでうっかりその「鍵」を見てしまったのだ。
「いかがなさいました?」
「いや、何も……」
 小首を傾げられて、あわてて目を逸らすその先でにやりと笑ったのは、おそらく志野ではなく雪白さまだ。
 なぜならあの時、志野は疲労から正体なく寝くたびれていたのだから。
 頭が熱い。背が寒い。
 飲み込んだ魚が咽喉の奥に引っかかり、心臓の真際で激しく跳ね続けているように感じる。
「すみません。急ぎ返事をしたいので……失礼します」
 わたしは走らないよう精一杯努力をして二階の自室へと向かった。

 閉めた襖を背の支えに座り込む。
 まさかもなにも、知っているのだ。おそらくは。
 知ったと言うより、察した、か。どちらにしても
「あいつは……どうしてこういう」
 わたしは顔の上半分を右手で覆う。
 瞼の闇に浮ぶのは父が描いた母の絵だ。
 鷺は白鷺、鷺娘。
「あはひ」は間で間柄、もしかすると「淡い」「緋」の鷺で、あの日の着物の色もかけているのかもしれない。
 それとも「どうとも言えぬ微妙な色合いの」で「白じゃない」とでも言いたいのか。
「呼ばふ」は……
 だから、つまりは「娘さんとのその後はいかが?」だ。
「いかにも人の興味をそそるようなやり方で……」

 ちょっとした悪戯だとは思いもしたものの、ひやりどきりとさせられてあまりにも腹立たしかったので、わたしは一筆箋に上の句だけを記して返した。

 蛍火に なほ白らかに 見えななむ
(鷺は真っ白!/超意訳)

 後悔するまでに十日はいらなかった。

 間もなく返歌があったのだ。

 神主さんから先日と同じように葉書きを手渡された。無言で差し出されたそれを受けとる。
 前回と同じ墨絵だが、今度はわざわざ色がさしてあった。
 艶やかな桜色が、二箇所。
 鷺の目元と、そして足先に。
 わたしは歌を読み上げた。

「白らかにあらまほしとて朱鷺なれば 思ひの色に匂はしくものを」
(今さら何白々しいこと言ってんの/超意訳)

 ……
 ……
 よくも。
 よくもやってくれたな! 洋!!

 わたしが取り落とした葉書きを拾い上げた志野が得意げに「朱鷺じゃないぞ。これは小鷺の婚姻色だ。図鑑にそう書いてあった」などと言う。
 言うな、やめろと叫ぶ間はない。

 もし事も無く、盆には帰省できるなら、そのときは派手に兄弟喧嘩をするつもりでいる。
 絶対泣かす気でもいる。
 しかしその前に
「どういうことだかその歌意を、はっきりとご説明いただけないでしょうかねぇ」
 と、にこやかに口元だけで微笑む家主をどうやり過ごしたものか。
 彩花さんは真っ赤になった頬を両手で押さえたまま黙ってしまった。
 その様子に志野も気がついたのか、何度か気まずげに目を泳がせた後、そ知らぬ顔を作ると葉書きをそっとわたしの前に戻す。
「……それは……その、ええ」
「ええ。なんでしょう?」
 ……潔く辞世の句でも詠むべきかもしれない。

 隠れなし さしもな鳴きそ深山にて 経読む鳥に三瀬なづそふ
(わかったから口を閉じてくれ/超意訳)

イラスト:物的箱庭