嵐の去った朝、父の元に瑞江さんを迎えにきた隆正さんは、けれど彼女を連れ帰らなかった。
だが彼女は連れ帰ってほしいと願っていたのではないだろうか。
無理やりにでも連れ帰り、怒るなり、叱るなりしてほしかったのではないか。
俺は空行の続く日記を閉じた。
表紙を閉じても綴られる文字がなくても、目を閉じてさえ、ここに残る思いや記憶が俺には見えてしまう。
父が瑞江さんを伴ないあらためて仰木を訪ねたのはそれから数日後の暮れだ。
当初父は己さえここを去ればよいと思っていた。
しかしひとときの夢と思い切るにはその思いは深すぎた。
針の筵となるだろうここに、彼女一人を残して去ることはできなかった。
瑞江さんとの仲を許してくれと父は請う。
怒りと困惑を露にするその父母に対し、隆正さんは冷たいほど静かだ。
俺は知っている。
隆正さんは自身が瑞江さんに抱く思いを、このときはまだ正しく理解してはいなかった。
その後を知っている俺にはわかることが、けれどそのときの二人にはわからない。
隆正さんの沈黙に瑞江さんの傷は深まり、瑞江さんの傷に父の思いは一層深くなる。
そして父の瑞江さんへの思いが、隆正さんを怯ませ更なる沈黙の中に追いやってゆくのだ。
それでもそれだけであったなら、遠からず父がこの町を追われて済む話だった。
けれど兄がいた。瑞江さんのお腹に兄がいたのだ。
馬鹿な子ね、どうしてこんなことをと瑞江さんを抱いて泣くのはその母か。
お腹が目立たぬうちにと、瑞江さんは振袖に手を通すことなく白無垢を纏う。
秋も深まった高い空の日だ。夏の日差しとは趣を異にする遠い光に白はよく映える。
無垢でない白は、初めて隆正さんの目に鮮やかに沁みた。
けれどそれはあまりにも遅きに過ぎたのだ。
宿る思念の中に時を追えば、父の直向な愛に瑞江さんの凍えた心も少しずつ解けてゆくのがわかる。
いや、こうなってしまってからは、父だけが彼女の寄処(よすが)だったのか。
それでも長い時をかけて育まれた思いは、すぐには消えない。
鐘に差す西日はなお深い秋の様相をなし、周囲を赤く染める。見る間に傾く日に二人の影が長く伸びる。
『わたしは』と言いかけた瑞江さんを隆正さんが止める。
『およし、瑞江。それは言わないほうがいい』
言葉は少ないが、その声は温かい。そこに誰かを責める響きはない。
その優しさと温かさがどこから生まれるものなのか、二人は気付けなかった。
もう遅い。けれど、だからこそ一度だけでも言葉にして伝えあいたいのだ、と思念は語る。
しかしそれを読んだように隆正さんは瑞江さんを諭す。
『一度だけ、もう一度……。それではいつまでも終わらないよ。さあ、もうお行き』
二人の思いは最後もまたすれ違う。
俺はここを出ようと思う、と隆正さんは瑞江さんに告げる。
『俺がいることは、今はもう誰のためにもならない』
どこにいても幸せを祈っているよと告げる声が落ちる夕闇に遠ざかる。
結局隆正さんが仰木を出ることができたのは瑞江さんの死後だった。
当初彼女の両親は、瑞江さんを外へ出すつもりだった。
近い将来生まれる瑞江さんの子と、やがて隆正さんに妻を迎えて生まれる子を縁組しようと考えたようだ。
それは隆正さんの生家への配慮でもあった。
しかし瑞江さんの母は心労から体を壊し寝つき気味になる。
桜にもわずかながら異変が現れ、見鬼である隆正さんも仰木の血を引く瑞江さんも、どちらもがここを離れられない状況が生まれてしまった。
ぎこちなさを内包したまま、それでも日々は穏やかに過ぎる。
桜を案じつつもささやかに優しい時は続いた。
それぞれが抱える傷もやがて表からは見えなくなってゆく。
しかし完治には至らぬ長い時間を残して、まず瑞江さんの母が、そして父が、ついで瑞江さんもまたこの世を去っていった。
あとの顛末は、時を探るまでもない。
俺は一枚の絵をとった。
恋の妄念に囚われていたのは父のほうだが、その父がここに描く苦悩は瑞江さんのものだ。
鷺娘――盲目の恋が題となる舞踊。
みだらと知ってなお止め処なく、日々思いばかりが募りゆく苦悩。そして良心の呵責。
瑞江さんの思いは決してみだらと言われるようなものではなかった。けれど隆正さんを恋い慕う思いが、いつからか彼女の負い目になっていった。
彼女と隆正さんの末を定めていたのは「仰木」の都合に他ならない。そこに私情の入る余地はない。たとえ互いの意に副わなくとも、変わるものではなかった。
にも拘らず隆正さんを慕わしく恋しく思うそれを、彼女は邪(よこしま)であると思い込んでしまった。
隆正さんが瑞江さんの思いから目を逸らし続けたことが、その大きな要因だろう。
彼女の思いは隆正さんには届かず、心を半ば残したままにやがて父へと向かわせる。
絵を見ているだけで胸を裂く痛みに引きずられそうになる。引きずられずに済んでいるのは、俺が女性ではないからか。
それにしても吹雪に晒されて耐える鷺ではなく、蛍火に誘われるこの鷺の、なんと象徴的なことだろう。まるでその後を暗示するかのようだ。
「無垢じゃない白、か……今初めて見たなら、結構まずかったかもな。溺れそう」
背筋を走るのは甘い痺れだ。
四年前、俺はまだ幼かった。だからこの絵を見て覚えたのは官能よりも恐怖だった。ここに篭る念の凄まじさが俺を萎縮させたのだ。
あの日俺は、知ってしまった事実を一人胸に収めることができず、この絵のことを父に聞いてしまった。母の眼前で。
ひどいことをしたものだと思う。
そして兄の帰りを望むことができなくなった。それを願うことは俺には許されないと思った。
「すごい絵だよね」
描かれている人を見ることがすでに罪悪であるかのように思わされるのに、目を逸らすことができない。
これが父が瑞江さんに抱いていた思いなのだろうか。
完成しなかったという絵は、けれど俺の……見鬼の目には完成しているように見える。
描かれなかったはずの娘の顔は言うまでもなく瑞江さんのものだ。
きつく閉じた目に溜まるのは涙、わずかに開く唇からこぼれるのは吐息。
頬の白さに対し一際鮮やかに目元を染める紅。ふと「涙の色」とは血の色を指すことを思い出す。
その血の色に、首から背にかけて仄かに色づく白い肌の匂い立つような美しさ。
筆ではなく父の目と心によって描かれた面(おもて)だ。
もしかしたら隆正さんの目にも、この絵はそう映ったのかもしれない。
見鬼の目は、見なくてもよいものまで透かし見てしまう。
それらを見なかったことにできるようになるまでには、長い時間がかかる。
見たものに惑わされぬだけの戒めを己の心に科さねばならないし、なおも乱れる心を周囲から隠し通すだけの嘘も身につけなくてはならない。
それらは己を守るためのものでもあるけれど、同時に他者から己を隔て、己の心からも己を閉ざすものにもなってしまう。
俺にそれを教えてくれたのは、他ならぬ隆正さんだ。
鬼に怯え泣く俺を理解してくれたのは、父でも母でもなく隆正さんだった。
『鬼なんて怖がるほどのものじゃない。怖いのは鬼を恐れる自分の心のほうだ。見たくないと目を瞑れば、一層深い闇が目の前を覆う。ほら、しっかり目を開けて見てみろ。なあ、よく見れば愛嬌のある顔をしてるじゃないか。何、悪戯が過ぎるヤツはこうして、ちょっと躾けてやればいいんだ』
ぴしゃりと小鬼の鼻先で数珠を鳴らす。小鬼は驚いて飛びずさる。
『目を開けてねえとできねえぞ。当てちまったら可哀そうだし、遠すぎたんじゃ意味がない。ほら、やってみろ』
俺は泣く泣く目を開けた。そして隆正さんに抱えられたまま、その大きな手に支えられて、俺は初めて数珠を振るったのだ。
五歳になる真際、夏を予感させる梅雨の晴れ間だった。
『よし、できたな。もう目を瞑るんじゃねぇぞ。目はいつでもしっかりと開けておけ』
目を閉ざすなという言葉に、どれほどの思いを込めてくれていたのだろう。
隆正さんの見えすぎる目が、隆正さんの目を閉ざし心を眩ませたのだとしたら。
盲目なまでに彼女を思う父が、瑞江さんを得たのは仕方のないことなのだろう。
そしてひたすらに真っ直ぐに父を見る母が、彼女が居たはずの場所にいることも。
ならば兄や俺がここにいることも、必然なのだと信じたい。
決して居てはならぬ者、居ないはずの者ではないのだ、と。
兄が家を出てからは、いろんなことがあった。
母が兄を追い出したのではないか、という噂もあった。
その噂にもっともらしい形を与えてしまったのが田崎の伯父――母の実兄――だ。彼は我が物顔でここに出入りし、仰木の跡取りは俺だといって憚らなかった。
仰木の最長老でもある曾祖母が、その振舞いを窘めなければ、おそらくは今も続いていたに違いない。
窘められたときでさえ、伯父はそれに納得しなかったのだから。
曾祖母を陰で罵っていたこともある。
『あの人はいつまでたっても田崎の家には馴染まない。馬鹿にしてるんだ、俺たちを』
だが伯父は方々から非難を浴び、黙るしかなくなった。
父も母も俺も仰木の姓を名乗ってはいても、厳密には仰木の者ではない。
俺や母は曾祖母を通して仰木の血をわずかばかりはひいてはいるが、血をひくだけでは仰木の者とは認められない。
俺たちは仰木の姻族でしかなく、親族ではないのだ。
そんな俺たちを「仰木」と繋いでくれていたのは兄だった。
兄の家族であるからこそ俺たちは仰木であることができた。
その兄がいなくなり、俺たちは互い以外にはどこにも属すことのできない存在になってしまった。仰木を名乗り、この家に身を寄せていても仰木ではなく、もちろん河野でも田崎でもない曖昧な存在に。
それを憐れに思えばこそ、伯父は俺たちを仰木の者であると周囲に徹底させようとした。方法は最悪に近いものではあったが、根が素直なだけに短慮に走ってしまったのは仕方がないことだろう。
愚かな人だとは思うが、俺は伯父が嫌いではない。
あれもまた中途半端な立場に置かれている俺たちへの、肉親の情からのことだったのだから。
今、仰木の者と言えるのはこの世にただ一人、かつて「居るはずのない者」であった俺の兄だけだ。
厳密には兄の大叔父や俺たちの高祖叔父の縁者がいるのだが、瑞江さんの死後、彼らは仰木の家と距離を置くようになった。
次の柱にされることを恐れたのかもしれない。
そんな中で、兄も寂しい思いをしただろう。
父は仰木を預かるだけで手一杯だったし、母はその父のためにいた。
たまに訪れる隆正さんもまた、父や母への遠慮からここには長居をしなかった。
もっとも仰木に近い縁者が継母の祖母では、簡単に頼ることはできなかったに違いない。
俺たちには半端な存在になってしまった俺たちを案じてくれる伯父が居た。けれど兄にはなかったのだ、ただの一人さえも。
兄が思いつめこの家を出るに至った理由、そしてここが本当の意味で帰る場所になり得なかった理由を思うと、何も知らず甘えてだけいた日々を申し訳なく思う。
そして桜を守る務めをともに担えたことに安堵せずにはいられない。
俺は仰木ではないけれど、この先は「仰木」である兄とともにその務めを負うことができるのだから。
瑞江さんが袖を通すことのなかった振袖も絵と同じ葛篭にしまわれていた。
包みを解き触れるとそれらにもさまざまな人のさまざまな思いが宿っていることがわかる。
父を瑞江さんに引き合わせなければよかったという不二野庵の主の思念。
もっと早くに隆正さんに嫁がせてしまえばよかったという、これはおそらく瑞江さんの父母のものだ。
出会いを悔いる父の思い。
隆正さんの思念は複雑すぎて今の俺には追いきれない。
母の思いもわずかだが感じられる。大好きだった再従姉を失った痛みと、かすかな妬み。
そして瑞江さんの思いも。
さっさと供養してしまったほうがいいのだろう。
人の手に渡ることがなければよいが、万が一にもそんなことがあれば、得た人に何を齎すか。決して良いことではありえない。それだけの妄念を宿している。
あの鷺娘にはなおさらに。
それでも俺は心を決めかねたまま、葛篭の蓋を手にしてどうすべきかを繰り返し考えていた。
「洋。そこにいるのか」
「ここだよ」
兄の声に応える。
何をしているのだと言いかけて、兄の動きが止まる。
振袖に、そして鷺娘に目が留まる。
刹那、兄は眩暈を起こしたように蹈鞴を踏み、片手で目を覆った。肉眼で見ているわけではないからそれは無駄な行いだ。しかし覆わずにはいられない。俺もそうだった。
バランスを崩し倒れかけ、危うく踏みとどまる。そして四年前の俺と同じように数奇屋の畳の上に両膝をついた。
大きく息を吸い、ゆっくりと吐く息にのせて意識の中に混じった他者の思いを、兄は器用に取り除いてゆく。息を吐ききるころには青ざめた顔色も常の色を取り戻す。こうやって兄は様々なことに耐えてきたのだろう。
「悪い。それ、片付けてくれ……いや、違う。見せてくれ」
どうぞと俺は場所を空ける。
しばらくそれらを見つめた後で兄はもう一度大きく息をついた。
声にはできない。憐れも愚かも、時を隔てて見るからこそ。生々しく残る思念に触れて紡げる言葉ではない。
兄が先刻父を慰める言葉を紡ぐことができ、一昨日の晩
『なにもおまえの母親とどうにかあったわけじゃねぇ』
あの隆正さんの己を抉るような言葉に『そうでしょうとも』などと返せたのは、これを知らなかったからだ。
父の悔いは瑞江さんを失ったことで確定したが、得た瞬間から抱いていたものでもあった。隆正さんは二度、瑞江さんを失った。言葉もなくただ見送るしかなかったその傷は、父のそれに劣ることはない。
隆正さんが父ほどに傷を晒さずに済んでいるのは――兄にさえ気取らせることがないほど――己の内面を隠す術に長けているからに他ならない。
だから瑞江さんの死は避けがたいものだった、というだけでは二人の傷は決して癒えない。
二人が傷を抱え持つ限り、母の心が晴れることもない。
それらのことには触れず、供養したほうがいいか、とだけ尋ねると兄は眉根を寄せた。
何かを透かし見るように目を眇め、指先を絵に伸ばす。触れるか触れないかの距離で描かれている娘の上を手がなぞる。
兄は首を横に振った。
「祓ってもまた積もる。まだ生きてる」
なるほど、以前見たときよりもさらに深い念を感じるのは、現在進行形で念が降り積もっているからなのか。
明確な意識とはならずとも、心の奥底で悔い、思い巡らす限り、念は途切れることなく延々と積もって行くのだ。
「焼き清めてしまうしかないのかな」
「いや」
兄は即座に否定した。
「これを焼き祓えば、また別の何かに思いが向けられるだけだよ。母の気配が残る他の何かに。たとえばその振袖やこの数奇屋、家屋、それから」
「桜、だね。それは困る」
そんなことになれば、せっかくの封印も無駄になってしまう。二度できるとは限らない。
三十五年前封印が衰えたきっかけも、人々の後悔だったのかもしれない。
もしも時を遡り、戻せるならば、帰れるならば、返せるならば、叶うことなら……
そういう思いが封印を還してしまった可能性は否めない。
「でも、このままにはできないでしょう」
ここに凝る妄念は当人の思惑とは無関係に周囲に暗い陰をまき散らしてゆくだろう。
「絵は完成させられるならそれがいいと思う。だけど」
そこで兄は言葉を濁した。
たしかにあるべき結びを迎えなかったいくつもの思いが連なるようにしてここに宿っているのなら、これを完成させることはひとつの終り、いや終りを象徴するひとつのきっかけとなるだろう。
「そうだね。今の父さんに、とてもこんな」
艶めいたと言いかけ俺は口篭る。描かれているのは仮にも兄の母である。それに艶を覚えたというのは申し訳ない。だが兄は気にした風もなく笑う。
「こんな色っぽい絵を描いていたとはわたしも思ってなかったよ。怖いくらいだ」
単に色気というにはあまりに凄まじい気を放っているのは、三十年以上の時間をかけて重ねに重ねられた念のためだ。
「でも親父って、枯れてるって言っちゃ悪いんだけど、食い気に逃げてるところがあるんだよね」
「無意味に禁欲的なところがあるからなぁ。祥子さんも気の毒に」
どの口が言うかと一瞬だけ思う。
自分の棚上げに気付くことなく、これを父が描くことを俺の母は嫌がらないだろうかと兄は俺に問う。
「多少は妬くだろうけど、それだけでしょ」
絵の中の娘への嫉妬にいまさら動じるような人なら、とうに田崎に逃げ帰っている。父は決して瑞江さんのことを忘れはしないのだから。
「じゃあ、描きたいと思わせるような契機さえあればいいのか」
「それもこの瑞江さんをね……あ」
ふと思いついたことを言おうとしたのだが、口にする前に「却下」と言われた。
「事情を話せば協力してくれるんじゃない? 形代を頼むだけ頼んで」
彼女はどこか瑞江さんに似ている。外見ではない。おそらく抱える思いが二人を似せているのだと思う。
「こんな格好をさせられるか! 俺は嫌だ!」
一人称がわたしから俺になるとき、兄は非常に素直だ。
「でも……兄さん、今想像したよね」
「……」
そうでなければ言われもしないうちから察して却下するはずがないのだ。
兄は答えない。
「俺は気にしないけどね。兄さんが自分の嫁さんに何を思っても」
そういう言い方をするなよ、と兄は情けない声を出した。今日は方々から散々に言われて――未来の奥方についてだが――否応ナシに意識させられているらしい。三十路も過ぎて随分晩生なものだと思う。
「お姉さんっていいよね」
「洋……」
あまり苛めてまた帰ってこなくなっても困るので、俺はそこで話を元に戻す。
「じゃ、こういうのは? その振袖を母さんに見せる」
「……祥子さんなら飛びつくだろうな」
どれにする、と三枚を畳みに並べる。兄が迷うことなく選んだのは、まだこの季節には早い二重織りの紋紗の小振袖だった。
限りなく白らかな、けれど仄かな紅を含むその色は、まさに瑞江さんの色だろう。
俺たちの読みどおり母は喜んだ。常々娘がいたならと言っていた人だ。当然だろう。
「ねえ、和さん。せっかくですもの、あのお嬢さんに少しだけ着ていただかない? ね? 少しだけ貸して。お願い」
一応兄に確認をするのは、この着物の本来の持ち主の許しが得たいからなのか。それとも「貸して」の目的語は振袖ではなくお嬢さんのほうなのか。
兄が承諾すると、母は手を叩いて歓声を上げた。
「絶対に似合うわ。帯も襦袢もあったはずよ。洋、探してちょうだい」
そうして俺たちはすでに探し出しておいた一式を母の元に届ける。
あらかたの着付けが終ったところで、俺たちは呼ばれ部屋に入った。
母は彼女に化粧を施す。髪を結い、紅を差し、簪を挿す。
母の記憶の中に瑞江さんはまだしっかりと生きているのだろう。
別人の上に、ぞっとするほど的確に母は瑞江さんの影を載せてゆく。
母が幼いころから憧れ続けた姿をそこに描き出しているのだ。
そうか、これは母が抱く瑞江さんへのさまざまな感情――喪失の痛み、罪悪感、嫉妬、そして父の隣にあることの許しを得たいと願う心――の供養なのだ。
重ねられる瑞江さんの影が濃くなるにつれて、彼女自身の気配は抗うことなく遠のいてゆく。
ふと兄に目をやると、複雑な表情でそれを見ていた。
「どうしたの?」
なんでもないと否定するその声と表情に、俺は理由を察した。
彼女の上に重ねられた瑞江さんから、先ほど見た鷺娘を想起してしまったのだろう。
そうして出来上がった瑞江さんの映し身を、次は父と隆正さんに見せる。
酒を酌み交わしていた二人は唖然とし、酒を溢れさせた。
父は徳利を起こすのを忘れ、隆正さんは猪口から溢れた酒が手を塗らす熱さにも気付かない。
母に指摘され、それぞれが慌てて手を引いたために畳は散々なことになってしまった。
しばし振袖姿の彼女を見つめた後、さすがに隆正さんは俺たちの意図に気がついたようだ。
「やってくれるなあ」と猪口に残った酒を嘗める。
苦笑まじりのその顔は、しかし俺の目には何時になく晴れやかにみえた。心を告げることも詫びることもできぬまま瑞江さんを見送らなければならなかったことが、やはり彼の中にも深い傷となって残っていたのだ。
父は随分の間、呆然と見つめ続けた後、目を逸らす。
だがそれは不快なものをみたという様子ではなかった。
空になっていた父の猪口に隆正さんが酒を注ぐ。
注がれた酒を一息に呷ったあと、かすかに震える長いため息がこぼされた。
兄は彼女に何の説明もしなかったけれど、某かを察したのだろう。
彼女は一度ずつ二人にお酌をした。
一度ずつしかしなかったのは母が止めたからだ。
「なんだよ、祥子ちゃん。独り占めしないで、ちょっとくらい貸してくれよ」
隆正さんの言葉に母が「ダメ」と笑う。
「万が一にもお振袖にこぼされちゃたまらないわ」
畳にこぼれた酒を母は指差す。
仕方ないといった様子で肩をすくめた隆正さんと、まだ猪口を見つめたままの父の前から母は彼女を連れ出した。
ありがとう、と彼女に言う母の目は少し潤んでいた。
居間を下がった彼女は、しばらくこのまま着ていてもいいですか、と兄に問う。
ええ、よろしければと兄は応える。
「よくお似合いですよ」
などと言えたのは兄にしては進歩かもしれない。
嬉しそうに微笑んで、彼女は言った。
「志野さんにも見ていただいてきます」
兄は声も掛けられずにその後姿を見送った。
呆然としているらしい兄に、母が笑う。
「あー、まさか二の舞になるかな。誰のとは言わないけど。ねえ、お義兄さん」
厠にでも立ったのだろうか。隆正さんがにやにやと笑いながら背後から兄の肩に手を載せる。
「歴史は繰返す、か?」
「親の因果が子に報い、なんて言うしね。俺もせいぜい気をつけなくちゃ」
俺の言葉の半ばで彼女を追って走った兄が、客棟前の廊下でその人の袂を肘ごと引いた。
思い切りつかんでしまったようで彼女の体は後ろに倒れ掛かる。
その両肩を支え捕まえたまま、なにやかやと話している様子が伺えたが、その先を見るのは野暮と言うものだろう。
俺は母と隆正さんを居間に押し込める。
「お振袖、片付けなくちゃいけないのに」
「兄さんが片付けますよ」
「俺は用が足したいんだがな」
「二十数えてから西廂を回って行って下さい。今晩は客棟への出入りは禁止です」
「客棟にはもう一人邪魔なのがいるんじゃないのか」
「あれだけ寝入ってたら少々のことでは起きたりしませんよ」
「少々か。ふふん、そりゃ気の毒になあ」
最後にちらりと振り返ると、彼女の手を取って中庭に下りる兄の姿が見えた。
今日は冷え込んでいる。紗(うすもの)の着物では寒いだろう。
時を置かず部屋に戻るに違いない。
その先は、まあ、少々なり多少なり……多々なりとも好きにしてくれればいいと思う。
もっともあの兄に、少々以上の何ができるのか疑問にも思うのだが。
翌朝兄はあるべき場所に帰っていった。
そしてふた月と半が過ぎて、俺は今、兄に文をしたためている。
父は先ごろ絵を描きはじめた。
いや、あの白鷺を描くための習作に入ったようだ。
そこには三十年の空白がある。勘を取り戻すにはまだ時間がかかるだろう。
机の傍ら置かれた日に焼けたスケッチブックには、たくさんの瑞江さんが描かれていたらしい。
『みいちゃんばっかりね』と言った母に、父は『俺のミューズだ』などとうっかり応えてしまったようで、数日間の家庭内別居もしたそうだ。
母からの電話でそれらのことを知らされたが、仲良くやっているようなので特に心配はいらないだろう。
あの鷺娘も夏には描きあがるはずだ。
おそらくは三人の運命を変えてしまったあの日とよく似た暑い日に。
だから、この夏には、必ず帰ってくるように、と俺は手紙を結んだ。
帰ってこなかったらどうしてやろうか。
「鷺娘といっしょに白無垢でも送りつけてやるのも一興かな」
白無垢か……さてその白は如何ほどなものだろう。
それが巻き起こすだろう騒動を想像し、俺は笑った。
窓の外を舞いはじめた蛍に、ふと悪戯を思いつき筆をとる。
あはひの鷺の いかで呼ばはむ
はたしてあの兄がどう返すか、楽しみは尽きない。