鬼喰 ― たまはみ ―

閑話 白鷺の蛍火に溺る

三.彰考に求む

 休みの間だけ手伝ってくれ、と言われて遠縁の知人の元にゆくことになった。六月のはじめだった。
 遠縁というのは染物屋で、手伝う先は反物を扱う店だった。
 いつから行けばよいかと尋ねたときに、今すぐでも、というので俺は早々に休みを取って出かけた。
 休みを取るといっても俺は働いているでもなく、学生でもなかった。それほど綿密な手続きは必要ない。師事する人に、ふた月ほど留守にします、と言うだけだ。
 だからこそ、この話が俺のところに回ってきたのだろう。
『土産は気にしないでくれたまえ。むろん気にしてくれても構わないがね』
 師はそういって快く送り出してくれた。
『いい絵を描いてきなさい』
 餞別にと手渡されたのはスケッチブックだった。

 俺は従伯父の描く友禅が好きだった。繊細で大胆で、華やかで楚々とし、鮮やかでどこか遠い。そんな絵が好きだった。
 俺が絵を学ぶ原点は、おそらくそこにあった。
 だから従伯父の描いた作品を――そう、俺にとっては商品ではなく作品だ――多く扱うというその店を手伝えば、そんな絵をたくさん見られるかもしれないという期待があった。
 が、思惑ははずれ、俺の仕事は外での力仕事が中心だった。
 よくよく考えてみれば、高価な品を扱い方も覚束ない俺に触らせるはずもない。
 少々ガッカリしたが、それでも時間が空けば店主は俺にそれらの品を見せてくれた。
 店主の話は実に興味深く俺はそれだけでも十分に満足していたし、休みの日に絵筆をとり、山を、空を、樹木を描くのは楽しかった。
 紹介された下宿先での暮らしも悪くはなかった。自炊だけは大変だったが――外食しようにも店がないのには泡を食った――俺は気楽な田舎暮らしを心から楽しんでいた。

 その日は、たまたま中を手伝っていた。
「ごめんください」
 そういって中年の婦人が上品な仕種で暖簾を潜る。「いらっしゃいませ」と言いかけて、俺の声は止まった。
 その後について店に入ってきた娘に、俺の目は釘付けになった。
 俺よりも四つ、五つは年下だろうか。線の細い娘だった。
 ぼんやりとしてしまっていた俺に、女性は主はいるかと尋ねる。俺は少々うろたえながら店主を呼んだ。
「ああ、これはこれは」
 俺の声に出てきた主は二人を見るやいなや相好を崩す。そして下にも置かぬ様子で主は二人を奥の座敷へと案内した。
 それだけで終わってくれたなら、と今でも思う。
 だが運命は狂った歯車をそこに挟み込んだ。
「彰英くん、お茶を頼むよ」
 ……持ってなど行かなければよかったのだ。

 お茶を淹れて――といってもその日は随分暑く、冷たい麦茶をお出ししただけなのだが――座敷を訪ねると、主は婦人と歓談していた。
 どうやら娘さんの振袖を選びに来たらしい。
 主の口調から、随分な上客なのだろうと思った。
 ちらりと目の端で娘を伺う。
 これまでに見たことのないような楚々とした風情の娘だ。
 気が強く喧しく、それを誇りのように語る女たちに囲まれうんざりしていた俺の目には、まるで夢のように映った。
 ふと水辺の花を思う。
 あれはなんと言っただろう。白い羽を広げた鳥のような花だ。もうひと月もすれば花の頃を迎える……そう、鷺草だ。
 開花を間近に控えるその気配が、一層美しいと思った。

 しかし長々と見惚れている間はなかった。
 主に頼まれいくつもの反物を座敷に運んだ。
 なかには従伯父が手がけたものもあった。
 婦人と主はそれらを広げ、姿見の前に立つ娘の肩に掛ける。
 ときどき半襟をあわせて様子をみる。
 そうして様子をみたものを左に、それ以外のものを右にと主は積みわけていった。
「これは片付けてくれて構わないよ」
 言われ、その右の山を俺は片付ける。
 残された山をもう一度合わせる。
 楽しげな婦人と主を娘もまた幸せそうな表情でみている。
「あれもこれも迷ってしまうけれど……」
「まずは五つくらいに絞りましょうか」
「でもこの子の場合、お振袖はすぐに着られなくなってしまうでしょう」
「お色直しにも使えますよ」
 五回もお色直しをしたら夜が明けてしまいますよ、と婦人は笑い、主もそれは婿殿がお気の毒だと相槌を打つ。娘の白い頬がわずかな朱に匂う。
 そうか、もう決まった相手がいるのだと気持ちが塞いだ。
 塞いでから、どうして気が塞ぐのだろうと思い、まさか一目惚れかと思い、その瞬間に俺の心は囚われた。

 それからさらに一時間ほどを掛けて反物はやっと五つに絞られた。
 そのうちの三つを仕立てるのだという。
 しかしそこからはなかなか話がまとまらない。
 主は深い緑の地に白い八重桜が描かれているものを推していた。枝には金箔をいぶした総柄の清楚ななかにも華のあるものだった。
 婦人が選んだのは淡い色合いの総絞り。流水を模して重ねられた雪輪の中に百花が、やはり絞りで染め上げられている。これも娘にはよく似合うだろう品だ。
 しかし残るひとつをどれにしようかと、話はそこで堂々巡りだ。
「夏にも、となればこれかこれ」
「しかし夏に着る機会があるかというとなかなか……」
「用意しておけば困らないけれど、やはり袷のほうがいいかしら」
 そしてあろうことか店主は、部屋の隅に控えていた俺に聞いた。
「彰英くん、君ならどれがよいと思うかね」
 こちらのかたは、とそこで初めて婦人が俺の素性を尋ねた。
「蓬屋の染匠の従甥ですよ」
 と、主が誇らしげに紹介する。俺をこの場に置いた、それが理由だと思った。
「まあ。玄彰さんの」と婦人が目を輝かせる。
 いや、俺はそういったことには詳しくないので、と断る間もあればこそ。
「彰英くんは東京で絵の勉強をしてるんですよ」
 勉強しているから絵がわかる、というものではない。それどころか、わからないから未だに師事しているといってもいいのに。
 俺の焦燥とは別に二人の話は膨らんでゆく。
「それじゃ、瑞江。こちらの先生に選んでもらいましょうね」
「先生って、そんな……!」
「ああ、それはいいですねえ」
「おじさん!!」
 俺の抗議はとことん無視される。
「それでいいかしら」と婦人が娘に尋ねる。瑞江と呼ばれた娘が頷く。
 逃げ場はない。
 俺は仕方なく選んだ。
 三つのうちでもっともよく彼女に似合うと思ったものを。
 それは二重織りの紋紗だ。表は白く、裏は艶やかな桜色をしている。遠目には白いが光の加減で裏の桜色が浮ぶ。織柄の他には染も刺繍もない。金砂子がかすかに散らされてはいるものの、地味と言ってもよいだろう。
「そうねぇ、やっぱり夏物もあったほうがいいわ。それにこれなら仕立て直して長く着られそうね。それじゃあこれを小振袖に仕立ててもらえるかしら」
 どうやら婦人はそれともうひとつで悩んでいたらしい。
 話は決まった。
 採寸と柄合わせが始まり、俺は選ばれなかった反物を片付けた。

 二時間ほどして婦人らが帰ったあと、片付けをしている俺の肩を店主がご苦労さんと叩いた。
「てっきり従伯父さんのものを勧めると思ったんだけどね」
 言われて俺は苦笑した。そんなことはまるで念頭になかった。
「そうすればよかったですかね」
 言うと店主は「いやいや」と首を振った。そして「こういった商いには誠実が一番だから」と笑う。
「彼女にはよく似合うだろう。わたしもあれが一番似合っていたと思うよ。ただこの先彼女に夏物の振袖を着る機会が何度あるかと思うとね」
 買わせたいものを勧めるのではなく、その人が今このときに欲しいと思うもの、そしてこの先も手に取るたびにあってよかったと思えるものを先に読んで取り寄せる腕がものを言うのだと続ける。
「よい出会いを導く。などというと大仰だが、そういうつもりでわたしは商いをしている」
 そういうものかと感心して聞いていると、しかし店主はこう続けた。
「だけどね、彰英くん。あのお嬢さんはダメだよ」
 そんなにあからさまだったろうか。
 顔色も声も失くしてうろたえる俺に店主は笑う。
「君がとくに、というわけじゃない。どこの子も同じだってことだよ。彼女は目立つからね」
 改まってその美を語るほどの容貌ではない。彼女以上に美しい女はいくらでもいる。だがなぜか目を引く。そういう娘だ。
「聞いていたからわかっているだろうけど、瑞江さんにはもう決まった方がいらっしゃる」
 結果は決まっているし、たとえ結果を覆すことができても手放しに喜べるものにはならないことも、また明白だ。
「近づかない方が誰にとっても幸せだ」

 その忠告を聞かなかったことを、俺は生涯悔いる。

 店が休みの日にはやっぱり俺は絵を描いていた。それ以外にすることもないからだ。しかし山を見ても、空を見ても、せせらぎを見ても、晴れても曇っても雨が降っても思い浮かぶのはたった一人の面影だった。
 自然、俺が握る筆は無意識にあの娘を描こうとする。
 思い浮かべるとそれだけで幸せで、けれど叶うことはないと思い出せば憂鬱だった。
 その迷いと憂さを晴らすそのためだけに絵を描く。
 いずれ時に消えてゆくだろう面影を、絵の中にだけでも封じて留めておきたかった。
 いっそ訪ねてしまおうか、会って話せば案外簡単に覚めるかもしれない。それとも堪えるべきだろうか。
 迷いのままに筆を走らせる。
 もう一度だけでも会うことができたなら思いきれるとも思い、次に会えば一層辛いことになるとも思った。
 だからあの邂逅は、天意か、それとも魔が差したのか。

「まあ」
 小さな声に俺は顔を上げた。幻かと思った。
 そこにいたのはあの瑞江という娘だった。
 白い日傘が鷺の翼を思わせる。
「こんにちは」
「……どうも」
 微笑まれ、俺はぎこちなく挨拶を返した。
「お兄さま、こちらの方よ」
 娘は肩越しに連れを振り返った。連れがいたことに、俺はそのとき初めて気がついた。
「不二野庵さんでお振袖を選んでくださったの。絵の先生なんですって」
 へえ、と兄と呼ばれた人は――俺より二つ三つ年上だろうか――俺の絵を覗き込んだ。
 慌てて隠す俺にその人は笑う。
「もったいぶらずに見せてくださいよ。先生」
「えっ、いや、そんな、先生じゃないから」
 絵描きを目指しているだけで、絵はまだまだ勉強の最中なのだと説明する。
「蓬屋の玄彰先生のご家族の方なのよ」
「あの友禅の? そりゃすごい。じゃあ、君もいずれは友禅を?」
「いえ、違います。俺はただの遠縁で」
 言い募る俺には構わず「まあまあ、いいじゃないですか」と絵の前に立つ俺を除ける。
「この小川をお描きになってるんですか」
「あっ、いや、それはっ」
 絵を見た男はまず驚いて目を見開き、そして首を傾げた。
「美人画を? わざわざ屋外で? ……それにしても大胆だなあ、君」
 美人画と男は言ったが、単に美人画と言うには刺激の強い絵になってしまっている。
 それは鷺娘を題にとってはいる。しかし俺の妄執に引きずられてか随分と艶めいたものになっていた。
 その程度たるや、瑞江が顔を赤らめて目を伏せるほど。
 まだ顔を描いていなかったのは、幸いだと思った。
 俺や瑞江の動揺には気付く様子もなく、いつ描きあがるの、と男は陽気に問う。
「お兄さま!」
 責める瑞江の声に、その兄は笑う。
「だっていい絵だよ。この鷺娘がどんな顔をしているのか気になるじゃないか。ねえ、君」
 俺は応えられない。まさか眼前の娘のそれだとは告げられるはずもない。
 しばらくして男の言う顔が表情であることに思い至り、俺はますます言葉に窮した。
 とても言えない。
 袖を引く――そのときになって兄と呼ばれる青年が僧形をしていることに気付く――瑞江には構わずその兄は俺の絵を絶賛する。
「素晴らしいよ。妄執の雲晴れやらぬ朧夜の恋に迷いしわが心、だね」
 男はよい声で長唄を口ずさんだ。
「思ひ重なる胸の闇せめて憐れと夕暮に……これは蛍? 夏の鷺娘とは粋だねぇ。ああ、傘さえももう投げ出して、水辺に座り込んでしまったのだね」
 白無垢の肩を大きく落とし、露わになった白い背に半ば解けて流れる黒髪を見つめ、男はため息をつく。
「せせらぎに広がるこの白無垢の裾も、まるで透けるようじゃないか。裾の緋を割る足がまた見事だ。膝裏の窪みのこの線は実にそそるよ」
 この肩をごらん、とは誰に語りかけているのか。
「まだ薄い。これがいい。脂ののった妙齢の女の艶にはまだ及ばぬ、されどその一歩手前の儚さが一層の危うい色気を醸しだしている。ああ、この鷺を腕の中ではたはたと羽ばたかせてみたいものだね。その肌合いはさぞや柔らかく心地よいに違いない」
 こいつは本当に坊主なのか。
 彼の解説を聞いていると、描いた俺でさえそのいかがわしさに目が回ってくる。
 いや、事実いかがわしい絵には違いなのだが。
「降りかかる雪の冷たさに震えながら耐えて佇む風情も捨てがたいが、蛍火に誘われて乱れる様はなおよいね。濡れ鷺のみだらな恋が匂うようじゃないか」
「お兄さま! み、御仏にお仕えする人が、なんて……なんてことを」
 言葉にもできぬ様子で一時も早くその場から逃げようと瑞江は頬を赤く染め、目をきつく瞑ったまま兄の袖を強く引いた。
 どうやら男は俺の絵をだしに妹をからかっているようだ。
 見られたくないものをはからずも晒してしまった俺のために、笑い事にしてくれている気配もある。
「美しいものを愛でる心まで御仏は禁じたりはしないよ……ああ、そんなに引っ張るとわたしが着崩れてしまう。坊主が片肌脱いだって、何の愉快もありゃしないのに。こら、少しお待ち」
 早足に去る娘に半ば引きずられるように男は遠ざかる。
 失礼をしてすまないね、と彼は手を引かれつつ俺を振り返った。
「描きあがるのを楽しみにしてるよ」
 もう一度、お兄さまと詰る瑞江の声があった。
「俺は仰木隆正。葱嶺寺にいる。君、名前は」
「河野。河野彰英」
「良かったら訪ねてくれ。その鷺娘と一緒に」
 朗らかな声に俺は手を振った。

 俺は葱嶺寺に出入りするようになった。
 隆正は気さくな人物で、親しくなるまでに時間は必要なかった。
 互いの仕事の合間を縫ってともに出かけることも度々あった。そういうときはだいたい瑞江もついてきたから、俺たちは三人で出かけることが多かった。
 隆正が、瑞江の許婚であることも程なく知った。
 瑞江も彼を慕っているようだったし、彼も瑞江を可愛がっていた。
 案内される山で、川で、渓谷で、俺は二人を描いた。
 隆正と瑞江の姿はどこにあっても対のようだった。
 それは常の恋人の姿とは異なる、しかし恋などよりも、もっと確かな絆に結ばれているようにも見えた。
 きっと幸せになるだろう。
 かすかな痛みを伴なう、けれど満ち足りた確信だった。

 本当に疑いなどしなかった。間を割ることを望みなどもしなかった。
 ひと夏の、蛍のような思いだと、この先折に触れ思い出しては、ほろ苦さとかすかな甘さを楽しむだけの思い出になるのだと、俺はそう信じていたのだ。

 鷺娘は完成しなかった。
 いや、絵とは異なるまったく別の形で完成した。
 隆正への思いと諦めの間で揺らぐ白鷺は美しかった。

   添ふも添はれず剰へ
    邪慳の刃に先立ちて
     この世からさへ剣の山

 瑞江が隆正に向ける思いは、妹が兄に向ける思いではなかった。明らかに恋慕であると俺の目には映った。直向なそれは一層俺の心を揺さぶった。
 だが隆正は己の瑞江への思いを妹へのものだと見誤っていた。そして瑞江が己に向ける思いも兄に向けるそれだと信じていた。
 二人は互いに縛られていたのだ。
 隆正は瑞江に自由を与えたがった。家や約束に縛られる必要はないのだと、言葉にはしないままに、折あるごとに繰り返し瑞江に諭した。
 けれど彼女の求めるものは自由などというあやふやなものではなく、隆正という確かな存在だったのだ。
 隆正の気遣いは度々瑞江を傷つけた。傷ついた瑞江に隆正が心を砕けば砕くほど、瑞江の迷いは大きく育ってゆく。瑞江の迷いを知れば隆正は一層気遣う。悪循環だ。
 俺はそれを知っていて、けれどどちらにも教えなかった。
 大きく育ってゆく行き違いに心底胸を痛めながら、けれどどこかでそれを望んでもいたに違いない。
 分などなかったはずの俺に利するその誤解がより大きく育ってゆくことを。

 連れて行ってください。
 瑞江はそう言った。
 わたしをここから連れ出してください。
 雷が隆々と轟く中、激しい雨に打たれて俺の元に逃げ込んできた。
 何があったのかは知らない。
 知っていたのは、彼女がここへ来たのは俺への愛情ゆえのことではない、というだけだ。
 彼女は自由になりたかったのだろう。それを隆正が望むために。
 俺はたまたま都合よくそこにいたに過ぎない。この町の他の男たちのようには、瑞江から距離を置かなかったからだ。
 それでも俺は構わなかった。濡れそぼった肩を抱き寄せる。
 水を含み背に張り付いた髪は、それでも淡い香気を含んでいた。

 俺は白鷺を手に入れた。
 腕の中で力なく抗う羽ばたきに俺は深く身を沈める。

 俺がこの夏を振り返るとき、なにより許せないのは、それでも彼女は隆正のもとに帰ると馬鹿のように信じていたことだ。
 この町を俺が去り再び訪なうことがなければ、何事もなかったように月日は流れると都合よく考えていた。
 遊びで触れたのではない。一時の戯れだとは思わなかった。
 それでもいつかは夢のように醒めると信じていた。
 永久に醒めぬと知ったとき、夢は悪夢になった。

 桜を――死を前に義父は言った。
『隆正、あれを許してやってくれ。愚かな娘だが……』
 そのあとを続けなかったのは、俺への心遣いだったのか。
 しかし義父は隆正に後を頼むと言い残して死んだ。
 俺がこの家に入って以後、義父母は決して俺に辛くあたることはなかった。だがそれでも、彼らの中で俺は異分子だったに違いない。その事実を突きつけられた気がした。
 俺と瑞江はその枕に近づくこともできず、冷たくなった義父の傍らに控える隆正の背中を見るしかなかった。
 そして二年後、俺は違えることの許されない約束を、再び隆正に捨てさせた。
 桜に挑もうとする俺たちを瑞江が諭す。
『血を絶やすことはできません。わたしが桜を長らえさせましょう。だから、植樹の方法を探してください』
 血が絶えることになっても構わない、とは俺には言えなかった。
 これ以上「仰木」を乱すことを俺は願えなかった。
 隆正にも言えなかった。
 血など絶えてしまってもかまわないと思っていても、俺の子の死を、あいつは口にするわけにはいかなかったのだ。
『俺に……守れない約束を、またさせるのか』
 隆正の声は血を吐くようだった。方法は散々探した後だったのだから。
『ごめんなさい』

 俺には何も見えなかった。桜を前に立っていた瑞江が力なく崩れる、それしか見えなかった。
 駆け寄った俺が瑞江の体を抱き起こす。
 だが隆正は桜の幹に縋りつき、木肌に爪を立てていた。まるで幹を引き裂こうとでもするように。桜の内にとらわれる瑞江の魂があいつには見えていたのかもしれない。
 冷えてゆく瑞江の体。隆正の声のない慟哭。
 すべて俺のせいだ。
 これは罪だ。一生消えることはない。

 俺は生涯、後悔し続けるだろう。
 だが幾たびあの夏をやり直しても、これ以外の未来など選べなかったことも、俺は知っている。