鬼喰 ― たまはみ ―

閑話 白鷺の蛍火に溺る

二.穹隆に願う

 久々に訪ねてみたら、いなくなっていた。
「出て行った?」
 俺は耳を疑った。
「どういうことだ」
 子供がわあわあと泣きじゃくっている。
「いつ?」
 子供の泣き声はますます大きくなる。土間の天井で反響するその声の凄まじさには頭痛さえ覚えるほどだった。
「ふた月? 探したのか?」
「そろそろ三月(みつき)です。ご相談したかったのですけど」
 俺はあちこちを転々としていて連絡が付かなかったのだろう。
「そうか、悪かったな」
 もはや顔を近づけないと互いの声が聞き取れないほどの大声で子供は泣き叫んでいる。
 とてもではないが話にならない。
 よく聞けば「にいちゃがいないー、どうしてー」を繰返しているようだった。嗚咽まじりでそうとは聞こえない箇所も多いのだが。
「……あれは祥子ちゃんの子か。いくつになった」
「三つです……和さんが居なくなってから、もうずっとあんな感じで」
 ふた月以上も続いているからだろうか、どこか諦めているような、慣れてしまっているような様子が伺えた。
 困ったように眉を顰めるその顔に、俺はうっかり吹き出してしまった。
「いやぁ、悪い悪い」
 なんですかと問う彼女に俺は答える。
「昔のことを思い出したんだよ。やっぱり親子は似るんだな」
 瑞江の葬式のときのことを思い出したのだ。
 彼女は今日のあの子供のように泣き続けていた。
 言われて思い出したのだろう、祥子の顔が真っ赤になった。
「わたし、あんなに泣いてました?」
「いや。あの倍は泣いてたな」
 瑞江の死を止められなかった俺や彰英には涙することは許されなかった。
 悼むことを許されない俺たちの代わりのように、彼女がその死を悼んでくれることはありがたく、また羨ましくも思ったものだ。
「大丈夫。心配はいらねぇよ」
 祥子の肩を叩いて俺は請け負った。
「瑞江もあれでなかなか思い切ったことをするヤツだった。……嵐の夜に家を飛び出してったんだからな」
「みいちゃんが?」
 なんだか信じられないわ、と祥子は目を見張った。
「ああ、そうだ。だから、まあ、あいつも心配するにはおよばねぇよ」
 言いながら、俺は俺自身を納得させてゆく。
 瑞江の子だからこその不安もなくはなかったが、それには蓋をして考えないようにした。
 娘でもあるまいし、多少痛い目を見たところで大きな問題はないだろう。大丈夫だ。
「そのうちけろりとした顔で帰ってくるさ」
「そうかしら」
 そうだとも、と頷くと祥子は「そうね」と答えて朗らかに笑った。
 この笑顔に彰英は救われているのだと思う。
「そうだわ、お義兄さん」
 祥子は俺を義兄と呼ぶ。正しくは「元義理の義理の兄」だが、省略形だと思えばいいだろう。
「せっかくいらしてくださったのだし、少しお話してゆきませんか?」
「そりゃ構わないが、話ができるのか」
 泣きじゃくる声の源を親指で指すとにこりと笑う。
「直に泣き止みます。そろそろお昼寝の時間ですから」
「本当かねぇ」
 半ば疑いつつしばし待つ。しかし祥子が言ったとおり、十分も立たぬうちに声は段々と途切れ途切れになり、徐々に小さくなっていった。そしてうにゃうにゃとよくわからない声を最後にぴたりと止まる。
「ほら」
 言ったとおりでしょうと祥子は胸を張った。
「さすが母親だな」
 瑞江もそうだった。
「寝かせてきますから、少しだけ待っててくださいね」
 そういって祥子は部屋を出てゆく。たたきで泣き寝入ってしまった子供を抱き上げると奥の間に連れて行った。
「起こすんじゃねぇぞ。耳が壊れちまいそうだ」
「善処します」

 子供を抱く祥子の背中に瑞江の影が被る。
 俺はそれから逃れるように、しばらくぶりに訪ねた家を見回した。
 見慣れた家の見慣れぬ風景に胸が痛まなくはなかった。
 柱や床に刻まれた傷を見るのは特に辛い。
 だがその傷が消されることなく残っている事実には、温かいものも覚える。
「消しちまってもいいだろうに……いい子だなあ」
 瑞江の思い出を、気配を拭うことなく祥子はこの家に溶け込んでいた。

 俺の目はひとつの柱でとまる。
 あれは俺が刻んだ傷だ。瑞江の背を初めて測ってやったときのものだ。
 俺がこの家に来て、一年と半が過ぎていた。
 今日とよく似た雨の晴れ間だった。
『ねえ、お兄さま、瑞江の背を測ってくれない?』
 客間として使われているこの部屋は、かつては俺の部屋だった。
 勉強の手を止めて、俺は立つ。瑞江を柱の隣に立たせ、柱に爪で跡をつける。そして巻尺で計ってやった。
『この長さが』
 瑞江は楽しげに笑った。
『これくらいになったら、わたしはお兄さまのお嫁さんになるんですって』
 そういって瑞江は背伸びをして柱の一点を指差す。
 なんでも衣替えを手伝っていたところ、養母の婚礼衣装を見つけたのだという。
『真っ白で、とってもきれいだったの』
 瑞江は着てみたいとせがんだが、結婚式前に着るとお嫁にいけなくなるのよと脅されたらしい。
 それでも諦めのつかない瑞江に養母は仕方なく別の着物を着せた。
『これはお母さまのお振袖。普通に着付けてこのお袖が擦らないくらい大きくなったら着せてあげる』
『お嫁さんになるの?』
『そうよ、あなたは隆正さんのお嫁さんになるの。その前にはお振袖も作りましょうね』
 それで瑞江は巻尺を持って俺のところに駆けてきたのだ。
 瑞江は九つだった。結婚どころか、まだ恋もしらぬ時分ではなかったろうか。

「それは俺もおなじか」
 出されていた湯呑みをとった。この湯呑み茶托も昔からあるものだ。懐かしい。
 ここで机に向かっていると、瑞江は「お茶」と称してよく俺の様子を窺いに来たものだ。
 何をしているの、それはなあに、わたしにも教えて。
 過去からの声を、俺はわざと音を立ててお茶を啜ることでかき消した。

 お嫁さんになるのよ、と繰返した瑞江にどう応じたものか。
 しばしの思案の後、『へえ、そう』とだけ応えた。
 いずれそうなることは養子に入ったときに聞かされていた。
 だが実感を伴なうものではなかった。
 瑞江と初めて会ったのはこの二年前のことだ。すぐ上の兄――といっても、十も離れていたのだが――に連れられてここを訪ねた。
 俺は十四、瑞江は七つだった。
 そのときは挨拶を交わした他には特に話をすることもなかった。
 それから間もなく、兄の元に俺を養子に迎えたいという仰木の家からの申し出があった。
 俺の目に、先代は興味を持ったようだった。
『お嫌なの?』
 不安げに問われ、返答に詰まった。
 嫌ではない。
 だが、決められていることに嫌(いや)も好(いい)もないではないか。
 なぜそれを尋ねられるのかがわからず、俺は逆に聞き返した。
『瑞江ちゃんはそれでいいの?』
『うん。お兄さまは?』
 再度はっきりと尋ねられ、俺は答えに窮した。
『……それじゃあ、わたしはこれくらいにならなくちゃいけないのかな』
 瑞江が指した少し上を指す。
 ねばならない、と表現することで、俺は是と答えることを避けた。
 好意を素直に口にできるほど子供ではなく、素直に伝えることに抵抗を覚えなくなるほど大人でもなかった。
 わあ素敵、と瑞江は声を華やがせる。
『そうしたら、ずっと一緒ね。きっとよ。約束してね』
『うん。約束』
『お兄さま、大好き』
 小指を絡ませて約束する。満面の笑顔を愛しいと思った。
 だがそれは妹に対するもので、恋人に対するものには長らくならなかった。いや、ならないと思い込んでいた。
 あの日、俺ではない男のために白無垢を纏った瑞江を見るまでは。

 俺の居ただろう場所に彰英がいる。
 瑞江が居たはずの場所に祥子がいる。
 それで幸せが築けるというのなら、なぜ最初からそうではなかったのだろう。
 なぜあの時間を経て、こうでなくてはならなかったのか。
 もう二年、いや、一年、彰英と瑞江が出会わなければ、瑞江は俺の妻になっていたはずだ。
「女々しいな」
 二十年が過ぎたというのに、思い出せばまだ胸には痛みが走る。
 その乾くことのない生々しさは、たった今開いたばかりの傷口のようだ。
「情けねえなあ」
 ここを訪ねれば、どうしたって思い出す。
 十四のころから十年以上を過ごした家だ。その記憶には常に瑞江の存在がある。
 思い出すごとに悔いが深まるなどわかりきっているのに、それでも訪ねずにはいられない。
 瑞江の残した子と、瑞江を喰ったあの桜があるからだ。
「なあ、じいさん」
 俺は襖の上に掲げられている養父の写真を見上げる。そのふたつ隣の写真を見る勇気はない。
「あんたの言ったとおりだよ。馬鹿だな、俺は」

 子供を寝かしつけて戻ってきた祥子は、冷めはじめたお茶を淹れ直す。
「これ、お好きでしたよね。お義兄さん」
 一緒に出された菓子は坂を下りきったところの登喜和屋のもので、それもまた先代のころと変わらない。
 瑞江はこの葛焼が好きだった。よく一緒に買いに出かけた。
『今日も行くのかい。一昨日も行ったのに』
『だって七月になったら、もう食べられないんですもの』
『七月になったら葛流しに琥珀羹、八月は葛絞り、九月は……』
『あら、そのときにしか楽しめないものを楽しむのを風流というのよ』
『風流ねぇ……』
『後になって食べたかったことに気付いても手遅れなんだもの』
 ――九月はお萩と葛饅頭、十月はこなしに栗粉、十一月は蕎麦薯蕷、十二月には柚子も薫り高くなるわ、お正月は花びら餅よ、二月はご店主自慢の和三盆と練り薯蕷の椿、三月は牡丹餅、白玉餅、四月はお花見団子と桜餅、五月は粽に柏餅、そして六月がまた来るの。来年の六月は、どうしているのかしら……
 本当は知っていた。瑞江は菓子が好きだったのではない。俺と出かけることが好きだったのだ。
 小さな町だ。日常、ともに出かけられる先は菓子屋くらいしかなかった。
 行き帰りの道と、菓子を選ぶわずかな時間。
 それをどれほどあいつが楽しみに思っていたか。
 季節を唱えることで、この先も同じように季節が巡ることをあいつは祈っていたのだ。
 それにさえも俺はずっと目を塞ぎ続けていた。
 ――後になって気付いても手遅れ
 違いない。
 葛焼きに黒文字を入れる。葛焼の白く焼かれた表面に、かすかな音を立ててひびが走る。
 彰英と出会ったのも、葛焼を買った帰りだった。
 六月の半ば、よく晴れた暑い日だった。

「今日は彰英は?」
「藤倉のおじいさんの十三回忌」
「ああ、藤倉さんか……賑やかなじいさんだったなあ。そうか、もうそんなに過ぎたのか」
 あれは俺がここで執った最後の葬儀だった。瑞江の死から三年が過ぎていた。
 そのころ俺は近くに家を借りて暮らしていた。養父母も瑞江もいない仰木の家に寝起きすることに堪えられなかったのだ。
 毎早朝ここへ通い、夕刻には借家に帰っていた。
 藤倉のじいさんの葬儀の直後、俺は彰英と喧嘩してこの町を出たのだ。
 たしかどちらが朝の鐘を鳴らすか、というような戯けた原因だったと思う。いや、陰膳をどちらが供えるか、だっただろうか。
 俺がやる、というあいつに、ろくに作法も知らないくせに、というようなことを言ったような気がする。
 俺は軽口のつもりだったが、彰英はそうは受け取らなかった。
 いじけた彰英に『俺を憎んでいるのか』と言われ、『馬鹿を言うな』と言い返し、『俺が出て行けばおまえもここへ戻れるんだろうからな』と重ねられ、『いいかげんにしろ俺を邪魔だと思っているのはおまえのほうだ』と口論は激化していった。
『おまえだって俺がいなければ良かったと思っているくせに!』
『そうだと言えば気がすむのか、違うといえば信じるのか!』
 出て行くと叫ぶあいつに、子供はどうするんだと俺は言う。
 くれてやると返されて俺は切れた。
『今さら遅ぇんだよ!』
 渾身の力で彰英を殴り飛ばした。
 細身の彰英は殴られた勢いのまま背後にあった茶箪笥に背中を打ち付けて崩れ落ちた。
 俺を呼び止めようとする彰英の掠れた声を聞いたが、思い返す気にはなれなかった。
 限界を覚えたのだ。物分りのよい義兄の立場に甘んじることに。
 俺はその足で借家を引き払い、町を出た。
 しばらく生家に身を寄せて、あとは転々と行脚の日々だった。

 葛焼のどうということのない甘さに舌が痺れるような感覚を味わった。
 俺の沈黙をどう思ったのだろう。「午後には戻りますから、彰英さんにも会っていってくださいね」と祥子が俺に念を押す。
 でなければ俺が早々に帰ってしまうことを知っているのだ。
「そうするか」
 あれから十年、あの日の喧嘩も過去のことだ。
 消えないと思った怒りも、もはや持続させるのは難しい。
 多少の気まずさはあるが、顔を合わせたくないというほどのものでもない。
「今日、明日は予定もないしな。お言葉に甘えてゆっくりさせてもらってもいいか」
「でしたら今日はぜひお泊りになっていってくださいね。彰英さんも喜びます」
 先妻の兄に――許婚であったこともおそらくは知っているだろうに――屈託なくこれを言えるところが祥子のよいところだろう。
「……もう少し早く訪ねてくださったらよかったのに。和さんもお義兄さんに会いたがっていたんですよ」
「無沙汰してすまないな。どうも独り者には訪ねにくくてなあ。新婚さんは」
 茶化してそう答えると祥子が「いやだわ、お義兄さん」と顔を赤らめる。こういうところはまだまだ娘とかわらない。考えてみれば祥子はやっと二十三だ。よくもまあ、十七も年上の男に嫁ぐ気になったものだと感心する。
「お義兄さんは今は」
「山二つ向こうの……松籟寺って知ってるか」
 ええ、あの気難しいって噂のおじいちゃんのお寺でしょう、と祥子が頷く。
「そう。気難しさがたたって跡継ぎに逃げられたらしくってな。少し前から手伝いに行ってたんだが気に入られた。近々そこを継ぐことになりそうだ」
「よりにもよってあのおじいちゃんの……」
 祥子はそう言って眉を寄せたが、何のこともない。厳しさにおいては、俺は養父の上に出る者はないと信じている。へそ曲がりにかけては三世一だとも言ってやる。
 養父に比べれば松籟寺の住職は、生真面目な分融通が利かないだけでわかりやすい。
「住職の曾孫が――まだ三つなんだが、ああ、祥子ちゃんの子と同じか――跡を継げるようになるまでの間を預かるってところだ。ま、
俺は一人身だから後になって揉めることもないだろうしな。向こうとしては安心なんだろ」
 これからしばらくは忙しくなる。それもあって訪ねたのだが……本命は家を出たあとだった。つくづく俺は出遅れる性分らしい。
 だが苦い思いに反して心のどこかでは安堵を覚えているのだ。
 瑞江に似た――そして彰英にも似た――あの顔を、見ずにすんだことに。
 俺の顔に浮んだ苦笑を祥子は松籟時の住職との兼合いだと思ったようだ。
「お義兄さんの人生も波乱万丈ねぇ」
「俺が波風を立ててるわけじゃあねえんだがなあ」
 言いつつお茶を啜る。
 祥子は少し躊躇った後に言った。
「でも、嵐の日を好んで山に入るようなところはありますよ」
 荒行みたいですねと真顔で言われ、俺は三度苦笑することになった。
「……祥子ちゃんには敵わねえよ」

「ねえ、お義兄さん。みいちゃんが家出をしたって本当ですか」
 しばしの間を置いて祥子はそう尋ねる。やはり出て行った継子のことが心配なのだろう。
 瑞江のことを聞くことで、その子供の先にある不安を拭おうとしている。
 祥子は本当にいい子だ。継子など出て行くを幸いに思っても不思議のない間柄だろうに、本気でその心配ができる。
 なるほど、瑞江の死後も瑞江しか見ていなかった彰英が再婚を承諾したはずだ。
 田崎の大叔母に強いられてのことかと当初は危惧したが、祥子なら、この先も大丈夫だろう。
「ああ。本当だ」
 安堵させるために大げさに頷いてみせる。
 どうして、と祥子は首を傾げた。
「祥子ちゃんも昔から変わんねえな」
 再び軽く吹きだした俺に祥子がぷっと頬を膨らます。
「変わらんでくれて嬉しいよ」
 どうして、と泣く祥子の声を忘れることはできない。
 その疑問は俺や彰英の疑問でもあり、同時に瑞江を救えなかった俺たちを断罪するものでもあった。
 どうして死なせてしまったのか、どうして止められなかったのか。
 その声に耳を塞ぎ彰英はひとり別室に篭ってしまった。
 俺は瑞江の子を抱いて、罪に慄き震える彰英の背を見ていた。
 瑞江が死んだのは俺のせいでも彰英のせいでもない。
 だが瑞江に死を躊躇させない原因をつくったのは俺たちだった。
 その幼い無垢な断罪者が、今、彰英の妻として瑞江がいた場所にいる。
 苦くもあり、許しを得たようにも思う。
「さあて。どこから話したもんかな」
 俺は温い茶で口を潤す。
「家出と言うか、駆け落ちと言うか……押しかけてったと言うべきか」
 え、と驚きの声をあげた祥子は、それから目を輝かせ身を乗り出した。
「聞きたい、聞きたい。彰英さんはそういうことは話してくれないんだもの」
「普通は聞きたがらないもんなんだよ」
 大恋愛だった、と信じている祥子に真実の全てを聞かせるのは酷だろう。また全てを話すことも、今の俺にはまだ難しい。だが断片くらいは懺悔代わりに聞いてもらえるに違いない。

 瑞江が成人式を翌年に迎え、その準備をしていたころだ。夏も近い暑い日だった。
 連日降りそそいだ雨も上がり、瑞江は楽しげに外出の仕度をしていた。
『お振袖を仕立ててもらいにゆくの。成人式の晴れ着よ』
 瑞江ははにかんだ笑顔でそう言った。
 あの幼い日のことなど俺は覚えていなかった。
 覚えていられるようなことでもなかったのだ。
 なぜならそれは俺にとって日常であり、日常の全てを覚えきることなどできるはずもなかったのだから。
 振袖を仕立てる。それを瑞江が告げる意味に、俺は気付けなかった。
『そう。いってらっしゃい』
 応えた瞬間、瑞江の顔を影がよぎったように思う。
 だが確かめる間もなくその影は消えうせて、いつもの表情が戻る。
 そういうことはそれまでも度々あった。今ならその意味も判るが、今さらだ。
『はい、行ってまいります』
『気をつけて』
 養母に連れられて出かける瑞江の背中を見送った。
 陽炎の中、瑞江のほっそりとした影だけがやけに鮮やかに目に映った。

 瑞江と俺の運命を違えたきっかけはごく些細なものだった。
 いや些細なことの積み重ねが少しずつ歯車を狂わせていったのか。
 俺はその狂いに気づくこともなく、安穏としていた。
 それが定められていた未来への妄信によるものだったと思い知ったときには、狂いはもはや正せるものではなくなっていた。

 俺は生涯、あの夏を悔やむ。
 戻ることのないあの日々を思い返しては、魂に穿たれた傷からひたすら血を流し続ける。
 最後の一滴まで流しつくし、息絶えるまで悔いる。
 だがそれをこそ、俺は願っている。
 癒えることのないこの傷だけが、今では俺と瑞江を結ぶただ一つのものだからだ。