鬼喰 ― たまはみ ―

第三話 萌兆 終

 日も高くなったと思い、日が傾いてきたと思い、夜も更けてきたと思い、空が白みはじめた。
 眠らなかったわけではない。まだ若い桜を見つめながら、ときどきうたた寝たはずだ。
 いや、寝ているようで起きていて、起きているようで眠っている。
 そういう一日だった。
 何かを考えていたけれど、それが何かは覚えていない。母のことだったような気もするし、まったく違うことだったのかもしれない。
 日が暮れて、一度だけ父がやってきたことを覚えている。
 冷えるぞといって綿入れをおいていった。着る気力もなかったが、気がつけば肩に羽織っている。
 誰がかけてくれたのだろう。それとも寒さに無意識に自分で羽織ったのか。そんなことさえ曖昧だった。
 鬼に蝕まれるのと鬼を喰らうのでは違うのだろうが、鬼を喰んだあとの志野がああまでも投げやりでぞんざいであることに納得してしまう。
 倦怠感以外には何も感じない。眠気も、空腹も、咽喉の渇きも覚えない。
 しかしそんな無気力さも、夜明けとともにゆっくりと去ってゆく。
 霞が晴れて桜の影が濃くなる。その向こうに目をやって、わたしは立ち上がった。

 墓地を訪ねるといつものように皆さんがいた。
 いつものように熊さんのお墓の前にたむろしている。
 昨日未明のすらりとした姿はそこにはない。
 だが老いて皺深いその姿こそが望みだったと語った亀さんが、その姿によく似合う穏やかな笑みを浮かべる。
(帰ってきてくれてよかった。これで桜も安泰じゃ。のう、和ちゃん)
 そうだそうだと皆さんが頷く。わたしはその笑顔を直視できず俯いた。
「わたしは……桜がなんであるのかを、知るために戻ってきたのです」
 ここに戻ったのは寺を継ぐためではない。
 喜びに水を差すのは心苦しかったが、明日にはここを立つのだ。隠し通せることでもないし、お世話になった皆さんに嘘はつきたくない。正直に明日には向こうに帰ることを告げると皆さんは顔を伏せた。
(お怒りですか、あなたを謀っていたわたくしどもを)
 改められた口調にわたしはうろたえる。
「いえ、違います。そんなことじゃない……そりゃ、驚きはしましたが」
 わたしは姿を改めた皆さんにあわてて言い足した。
「驚きはしたけど、怒るだなんてとんでもない。今もお礼に来たんです。ありがとうございました」
 頭を下げ、できればいつもの姿でいてくれませんか、とお願いする。
「どうも、その、緊張してしまって……」
 本来の姿に萎縮するというのも申し訳なく思うのだが、たとえば熊さんなどはそれこそ明王様にも見違えるような大男だし、松吉さんは山法師、亀さんや鶴さんの軍服姿も胸が痛むし――鶴さんが亀さんのサーベルを羨ましがっていたのが記憶に残っている。日本刀は拵えも重く扱いも難しいとこぼした鶴さんに、亥兵衛さんが太刀よりはましだといい、勝竹さんはそれに憮然としていた――、亥兵衛さんがまさかお武家様だとは思わなかった上、勝竹さんが纏うのは闕腋だろうか、であれば中世の武官であるし、鹿介さんはなよやかな女形姿でこれはまた別の意味で心臓に悪い。
 そうまで言われちゃしかたがねえ、と熊さんがいい、皆さんともそれに習ってくれた。
「すみません」
(いやいや、構わんよ。わしらもこっちのほうが好きじゃしな)
 そうしてわたしは桜の秘密を聞いたのだった。

 つまるところ、と鶴さんがいう。
(美しいもの、愛でたくなるもので封じを施せば、あえて解くものもないじゃろう)
 たしかに逸話も廃れるほど時が流れてしまえば、封じられているものへの畏怖も恐怖も失われてしまう。
 そうなれば石も祠も都合しだいで動かしたくなるのが人と言うものだ。
 鶴さんのあとを受け松さんが言った。
(樹木であれば、おいそれとは移せん。おまけに人が好むものであればなおさらというもの。特に桜は移植に弱いでな)
 年長の……といってよいのだろうか、最古参の勝竹さんによれば、最初はただ「吉野」と呼ばれる桜だったらしい。
(中綸で一重の山桜をそのように。あれは吉野山など見たこともございませんでしたが、歌には聞いていたのでしょう)
 勝竹さんが何かを思い出したように笑う。その心を透かし見てしまわないよう、わたしは視線を桜の若木に向けた。
(ご神木だと申しておりました。何の神かと問うと神さまは神さまだと頬を膨らませて……いや、いや。春も早くに白い花をつける、梅ほどの華やかさはなくとも、楚々とした良い木でございましたよ)
 その後、白い花を咲かせる桜が天寿を全うすると「吉野桜」と売り出された桜を植え続けてきたのだという。
「なぜ吉野桜を」
(もっとも桜らしい桜だったからじゃな)
(桜を人が思うとき、胸に思う桜に一番近かったのじゃよ)
(花より他に色もなし、全山を染めると音に聞く吉野桜を思わせるその花姿)
(見たこともないその山の、夢の姿よ)
(ゆえに『吉野』と)
 さらに言うなれば、と亀さんは笑う。
(人が苦心して作り上げた木じゃからの。この木は人から生まれた。それも愛で、慈しまれるためにじゃ)
(人のように育ち、人のように老いてゆく。それも人の世の守りには相応しくはあるまいか)
(桜の理想を実現した姿は、それゆえの異様さも伴なった。一時に花開き、一時に散り落ちるその凄まじきこと)
(その姿に人は見惚れ、愛で、また畏怖を覚える)
(ゆえに封じに用いられることも多うなったんじゃ)
(育ちも早いしの。おいそれとは動かせんようになるまでに三十年。他の桜ではこうはゆかん)
 もちろん他の木々を用いることもあるし、この樹だけが突出して封じに向いているわけではない、しかし、と熊さんは続けた。
(『吉野』はひとつの種から芽生えた命。その命を幾重にも接いで地に根ざす)
(源を同じくする樹じゃ、異変にも気づきやすいじゃろ)
 そういうことか、と腑に落ちた。
「同じ花なら、同じ条件で咲く。開花のずれは、土地と気候の違いだけ」
 桜は自家不和合。つまり自己のしべで実を結ぶことはない。己の子が己の複製ではないように、桜もまた人と同じく、実を結ぶには己とは異なる樹を必要とする。
 それは桜を個性豊かにするものでもあるのだが、その個性のために「ヤマザクラ」の開花期は同じ地方にあってさえ分散してしまう。隣接していてさえ誤差の生じる木では異変を判じることも難しい。反して「ソメイヨシノ」に誤差はない。どれも同じ桜だからだ。
「封じはそのようにして見守ってきたのですね」
 亀さんがそうじゃと頷く。
(その昔は、ふたつの樹があった。ひとつがあの封じの桜、他方は封じの桜を見守るための桜じゃな。)
 上の社の桜と別当の桜を比べ、その差異に応じて祭りを奉じてきたのだという。
(遅れれば花をふるわせ、先んずるようであれば花をしずめ、お守りしてきたのじゃよ)
 亥兵衛さんが目を閉じてその桜を思い描く。
(上の桜をえひめ、下の桜をおとひめ、と呼んでおった。社のえひめに伺いを立て、別当のおとひめに祈ったんじゃ)
(えひめは、わしが幼いころ失われた。そのころにはもう神社はなかったから、枯れるにまかされたんじゃろうなあ)
 鶴さんが山の上を見る。
(今度はえひこ、おとひこじゃな)
 ソメイヨシノの生長は早い。わたしが生まれたときに植えられた木は、すでに人力で植え替えられる大きさではなかった。
 したがって封じに用いられた木は、洋が生まれたときに植えたものだった。
 それでも十分に大きかったのだが、四人で掘り、担ぎ上げて辛うじて運べた。いや、なんとしても運ばねばならないから、できた無理と言うほうが正しい。
「祀りはいつごろから始まったのでしょう」
 わたしが尋ねると、皆さんの視線がいっせいに勝竹さんに向けられた。
(竹さんは知っとるんじゃないか)
 勝竹さんは苦笑しわたしもよくは存じ上げません、と答える。
(あれは昔からとだけ申しておりましたし。しかしあれが『吉野』と呼んだ桜が枯れると、あやしきことが続々と)
 最初は小さな出来事が、しかも間をおいてのことだったため、誰も桜の枯死とは結び付けなかった。
 しかし日を追い月を経るごとに怪異はいや増し、やがて多くの人が命を奪われることになった。
 そこへなんの導きか、一人の男がやってきたのだという。
 男は古い屋敷に一夜の宿を借りる。夜が更けて庭の古木に気づく。
 枯死した木を放置するのは運気を下げる、宿代の代わりに差し上げよう、と小さな苗を置いていった。
(今は東にて流行りの桜、若くして花をつけ、葉は遅く、その薄紅の花の咲き群れる美しきこと吉野の如し、名を『吉野』と)
 地を襲う怪異に庭木など気にする由もなく放置されていた。
 しかし苗を受けとってそのままにするのも忍びない。
 家人は仕方なく多忙の合間を縫って植え替えることにした。
(古木を退けたとたんの顛末は、先般の如。やれ法師を、やれ巫覡をとの騒動の末、『吉野』はそこに祀られたのでございます)

「勝竹さんもお手伝いを?」
 訊くと勝竹さんは照れくさそうに笑う。
(あれが『吉野』と慈しんだ桜を継ぐ桜が、『吉野』の名を冠する。あの穏やかな日々が帰る思いがいたしまして微力ながら)
(熊さんはそのときに亡くなったんじゃよ)
 と言いかけた亀さんの口を熊さんが塞ぐ。
(植えた若木を引き倒そうとする鬼どもを身に群がらせながら、桜を支えての大往生、と語られとったな)
(やめんか、馬鹿者)
 亀さんを放り出し、今度は松さんを捕まえる。
(照れずともよかろうが)
 和やかな笑い声に胸の空虚さが埋められた気がする。

 熊さんが守った桜は「吉野桜」と呼ばれていても、まだ「ソメイヨシノ」ではなかったようだ。しかしその桜が枯れるころ、家人が人づてに買い求めた「吉野桜」が後に「ソメイヨシノ」と呼ばれるようになる桜だったと松さんは言った。
(それからは必ずソメイヨシノを植えてきたんじゃ。上と下とでな)
 その後桜を守る勝竹さんらの存在に気づいた僧が、彼らを護法と祭るようになり、勝竹さんらは徐々に護法としての力をつけていったのだった。
(四天王と呼ばれとったな)
 と亥兵衛さんが言った。
(わしのころには五大童子じゃった)
 亀さんが言うと亥兵衛さんが満足げに笑う。
 縁日ではその話が語られ、芝居も催されたと亀さんは楽しげに続けた。
(あやかしを懲らしめる黒直垂の大武者にはわしも憧れたもんじゃ。ちゃんばらごっこはいつも大川熊継が花形じゃったよ)
 なのに、と亀さんが熊さんを見上げ、視線を落としてため息をついた。
(会うてみれば何のこともない……大きいだけじゃったのう)
 ようも言ったなと熊さんが吠える。冗談じゃよと亀さんが笑う。
 ところがそうした資料も重なる戦争のドサクサで紛失し、鶴さんのころには忘れられていたのだという。
(孝雄は……和ちゃんの祖父さんは、もう知らなんだろうなあ)
 鶴さんは祖父とも面識があったという。
 神仏を奉ることを「迷信」と言ってしまう世になって、祈りが形骸化していたことも不運だったと亀さんが俯いた。
 祖父も母も亀さんたちの存在に気づきはしたが、姿を見ることはできなかった。声を聞くこともできず、彼らに尋ねることは思いもしなかった。
 彼らをただの死人の霊だと思っていたからだ。
(みいちゃんはそれでも綻びの向こうで、穴が広がらんようにしておってくれたんじゃなぁ)
(わしらが居ることを教えてやれたなら……)
 他界でただ一人、身さえ持たぬまま、三十年もの間、鬼をとどめ続けていた母だ。もし彼女が桜の植え替えに挑んでいたのなら、おそらく植樹は成功しただろう。あるいはわたしたちよりよほど確実に。
 もし気づけていたのなら、と悔しく思う。
 わたしの思いを読んだかのように、声は背後から掛けられた。
「仕方ないよ。俺だって兄さんだってそうだったでしょ」
(洋ちゃん!)
 熊さんの門柱に腰かけていたわたしはあわてて立ち上がろうとしたのだが。
「……隣、俺もいい?」
 熊さんとわたしの双方に聞く。
(お、おお)
「ああ、うん」
 洋がもう一方の門柱に腰をかけた。
 全員が黙り込んでしまった。
 そよそよと心地よい風がまだ白い空をわたってゆく。

「体は? もう大丈夫なのか」
「うん。返しをまともに喰らってたら拙かっただろうけどね。大半は流したから……」
 しばらく無言を決め込んだ後、損をした気分だ、と洋はこぼした。
「兄さんは、桜のことは知らないんだと思ってた。だから無駄に関わらせる必要はないと思ってたのに」
 見えることは知っていたけど、と腰かけた門柱に片足を絡ませた。
「兄さんが家を出てから皆にあったからね。話に聞いて知ってた」
 父も母も知らないことを、兄とだけは共有できる。だから帰ってくる日を待っていた。
 声にされない思いをわたしは聞く。
「それなのに全然帰ってこないし」
「ごめん」
「どうせすぐに向こうに帰るなら、余計な心配はかけたくなかったから、亀さんたちにまで口止めをして」
「ごめん」
「そう、亀さんたちには騙されっぱなしでさ」
 いくつもの(すまん)が重なったが洋はそれにも耳を貸さない。
「気にしてないけどね。どうせ俺は『正しき主』が帰るまでの繋ぎだったんでしょうから。大事なことは話せなくても仕方がないよね」
 亀さんたちにもし生身があったなら、冷や汗がふきだしていたにちがいない。自分がそうだから、というのではないが。
「なのに異変はすぐに見抜くし、原因はあっさり特定するし、その上解決だし」
 それはわたしのやったことではないのだが、口を挟む余地がない。
「俺は何? ただの馬鹿?」
「いや……そんなことは。お前がいなかったら封じは成功しなかったよ」
「まあね。それはそうだろうけどね。でもいなくても何とかなったんじゃないの。彼がいれば」
 ……否定しきれないので黙るしかない。
「ほら、否定しないでしょ。二村くんだっけ。最初に会ったときは普通の人っぽかったのに、あんなのを飼ってるなんて信じられない。あれは何?」
 雪白さまは志野に飼われているわけではないのだが、わたしが説明してもよいものやら。
 口をもごもごとさせたわたしに「言いたくないならそう言えば? それ以上は聞かないし」などと一昨日のわたしのことばを持ち出してくれた。
「……ごめん」
「……。そのうえタイゲン明王呪だもの。俺の出る幕なんてなくても良かったんじゃない」
 聞きなれない言葉にわたしは首を傾げた。
(太元帥明王呪。みいちゃんが唱えたあれじゃよ。鎮護調伏の修法じゃが、秘中の秘とされとる)
 鶴さんが耳打ちしてくれた。
「兄さんはさ、そんなことも知らないのに」
「ごめん」
「昨日だって俺にも親父にも何も言わないで、勝手ばかりして」
 洋はずっと下を見ている。だから表情はわからない。ただその声は泣いていた。
「ごめん」
「嘘をついて出て行って」
「ごめん」
「電話もないし
「手紙は年賀状だけで
「それも挨拶だけだし
「盆は忙しいのに
「春秋のお彼岸だって
「祖父さんやお母さんの命日も無視して
「誕生日も!
 こりゃ癇の虫じゃ、と松吉さんが呟いた。
 十九にもなって癇の虫もないだろうけれど、志野にも甘やかすなといわれたけれど、離れていた十六年のうち最初の二年分くらいは甘やかしたっていいだろう。
「帰ってくると思って、毎日待ってた。毎日坂を下って迎えにいった。きっと明日は、って」
 いちいち頷きながら聞いていたわたしは、しかし次の言葉には何も言うことができなかった。
「それなのにそうやって謝っても、やっぱりまた出て行くんだろ」
(洋ちゃん)
 亀さんが手を伸ばすと洋はそれを払い除ける。
「うるさいな、引きとめることもできないくせに。結局出てくくせに」
「ごめん」
「……」
「たまには帰ってくるから」
 たまにって、と、声が途切れた。
「たまにって五年に一度? それとも三年に一度?」
「……年に一度くらいは」
 返事はない。
 沈黙に耐えられず、わたしは言葉を重ねた。
「いや年に二回……違う三回……五回、ひと月に一度は」
 それでもわたしはここに留まるとは言えなかった。
 やわらかな風にさわさわと竹の葉が揺れる。
 葉ずれの音に紛れるように、くつくつと笑い声が漏れた。洋がずっと地面に向けていた顔を上げる。
「それはいくらなんでも無理だと思う」
 涙にぬれてはいなかった。ただ少しだけ鼻の頭が赤みを帯びている。
「……努力する」
「その誠意に免じて年に一度で許してあげるよ」
「洋」
 わたしはほっとして肩の力を抜いた。
「とはいえできるだけまめに顔を見せてよ。父さんも待ってるしさ……みんなも」
 亀さんたちが頷く。
「それに兄さんの母さんもね」
「うん」
「準備だってあるだろうから」
 準備、とわたしは首を傾げた。
「まさか全部自分ひとりでやっちゃうつもり?」
 意味を測りかねわたしは首を傾げた。
「何を?」
「何って……あの人。あのお嬢さん。彩花さんって、兄さんのお嫁さんになるんでしょ?」

 視界がななめに滑った。

 門柱から転げ落ちたわたしに、そうじゃ、それも聞きたかったんじゃよと亀さんたちが身を乗り出す。
「えっ、いやっ、違う。違うし」
(隠してもダメじゃ。梅ちゃんからちゃあんと聞いとる)
 梅さんというのは鶴さんの姪で中西のおばあさんだ。
(一昨日墓参りに来て、そう言っておったぞ)
(蝶子はもう触れまわっとるらしい)
 蝶子さんというのは亀さんの玄孫で、田宮の母だ。
「なんてことを!」
(お世話になってるお家のお嬢さんなんじゃろ)
(一人娘らしいからそれで和ちゃんが婿に)
(なんでも神社のお嬢さんじゃと聞いたが)
(それじゃ式は神式か)
(仏式じゃろ。門徒さんが騒ぐと面倒じゃて)
(しかしあちらさんがなんと仰るか)
(角隠しよりあの白い帽子のほうが可愛らしいがのぅ)
(両方やればいい。めでたさも二倍よ)
(婚儀に繰り返しはよくないんじゃよ)
(それこそ迷信じゃ)
「違う、違う、違いますよ。違うって」
 わたしをおいて勝手に進む話に、ぶんぶんと首をふる。
 本当に、が異口同音に放たれた。
「違います」
 わたしが断言するとガッカリしたようなため息が、皆さんの口からこぼれた。
「違うの?」
「……違う」
 洋がわたしを見る。
「……そんな目で見ても違うから」
 まだ疑わしげにわたしを見ていたが、何かを考える表情で「ふうん、そう」と呟いた。
「そう」
 立ち上がりわたしは力をこめて頷いた。
「じゃあ、そういうことにしておくよ」
「そういうこともなにも、そうなんだから。……彩花さんにそんな失礼なこと言うなよ」
 洋は「ふうん」ともう一度繰りかえしたが、それ以上は何も言わなかった。

 そのあとは皆で朝食をいただき、界隈に遊びに行き、楽しく過ごした。
 志野はときどき傷の痛みに顔を顰めていたが、具合は悪くないようだった。
 外出先で懐かしい友人にも会った。田宮は三児の父になっていた。
 彩花さんを見て、これがお袋の言っていた嫁さんかと言いかけた時は冷や汗で背中が寒くなったくらいだが、洋が彼らに耳打ちをしてくれたおかげで、困った事態にはならずにすんだ。
 まあじっくり頑張れなどと肩を叩かれて、何を、とは思ったのだが、気にすることもないだろう。
 次はいつ帰るという問いに、さしあたっては盆のころ、と答えると同窓会を企画すると張り切っていた。そうだ先生も呼ぼうと盛り上がる田宮に楽しみにしていると応えた。
 丸一日をそれぞれに寝倒してしまったので、ゆっくりできる時間は限りなく少なかったけれど、これからはまめに帰るのだ。全てをこの二日で済ませる必要もないだろうと思い切る。

 最終日、駅まで送ってくれた洋に部屋は好きに使ってくれて構わないと伝える。
「いまさらだけど、おまえに任せるよ」
 わたしが家を出てからの十二年、あの部屋を掃除してくれていたのは洋だった。
 高校で寮に入ったあとも、帰省のたびに掃除してくれていたらしい。そして今もだ。
 洋は首を振った。
「帰ってくるのに部屋がなかったら困るでしょう。もう桜も見張らなくてもいいし」
 レールがかすかに謳い始める。列車が近づく音だ。
「頼む」
「うん」
 短い挨拶を交わしてわたしはホームに向かう。
 それから思い出して立ち止まり、トランクを開けた。
 包みを引っ張り出す。
「ほら」
 差し出すと怪訝そうにしながらも洋は受けとる。包みに目を落とし
「何、これ」
「約束の土産。ちょっと小さいけど。家に帰ってから開けろよ」
 ――お土産はなにがいい?
 ――あのね、クマさんでね、大きいの。洋より大きくてこーんなのがいい。
 両手を思いきり広げて言い募る姿を思い出す。
 ぽかんと口をあけた洋からそそくさと離れ、ちょうど電車の入ってきたホームに逃げた。
 慌しく荷物を積み、乗り込む。ドアが閉まる。
 窓の外を見ると、苦笑とも泣き笑いともつかぬ笑顔で洋が包みを抱きかかえ、手を振っていた。
 列車が動き出す。
 緩やかに、そして徐々に速度を増して遠ざかる故郷を見送る。
 来るときはまだ固かった蕾も、この五日の間にほころびはじめていた。
 窓の外に広がる果樹園に、彩花さんが小さな歓声をあげる。
 志野も感心したようにその景色を眺めていた。
 薄紅の花に植えた若木を思った。

 帰宅後に神主さんににこにこと「鉈で殴られる夢を見ましたよ、誰にとは申しませんが」などと言われ冷やりとしたのだが、それ以上どうということはなく、これにて今回の騒動は終わり。