鬼喰 ― たまはみ ―

第三話 萌兆 九

 たおやかな姿をしていた。
 今のわたしよりも歳若い。
 しかしその姿がどこかはっきりとしないのは、わたしの記憶が曖昧なためだろう。
 口元に優しげな笑みを浮かべ、それはわたしを諭そうとする。
 
 あなたがそんなものを振り回さなくても、この桜はもう倒れるわ。
 欠片も残さず喰らい尽くすそのまえに、ほら、もう一度花を見せてあげましょう。
 美しいでしょう。
 
 穏やかな日が差す。桜は黒い枝を伸びやかに空へと放つ。
 青空に花びらが白波を立てる。あの幼い日のように。
 騙されてしまいたかった。
 だがわたしの目は真実を映す。
 母の姿の向こうに透かし見えるそれは、どす黒い影だ。
 あれは母が守った桜を食い荒らし、この封じを破ろうとしている。
 気づかなければと思い、騙されてしまえたならと思い、同時に胸を抉る偽りを見せられたことに、臓腑が焼ける怒りを覚えた。
 鉈を握る手に力が篭った。
 目を瞑り、怒りに任せて振り下ろす。到底人の身ではありえない固い手ごたえがあった。
 悲鳴をあげて倒れた母が上体を起こす。
 起こすと同時にそれは別の影を移す。
「……彩花さん」
 朧な母とは異なる明確な影。
 涙に濡れた睫が震えている。わたしの狼藉を責め、憐みを請う眼差しに再度振りかぶった鉈が狙いを定めかねて止まった。
 いや、彼女はこんなもの欲しげな表情でわたしを見ない。
 あのようにどす黒いものを抱えるはずがない。
 即座に思い直し、震える手で三度わたしは鉈を構えた。
 振りかぶり、しかし打ち下ろす前にそれは姿を変える。父に、祖父に、隆正さんに、幼い洋に、そして志野に。
 わたしの胸に住む人々がわたしに暴虐を思いとどまるよう口々に訴える。
 
 やめろ
 やめてくれ
 やめてくれ
 
「生憎だが、あいつは俺にやめてくれとは言わない」
 実力の差は明白、志野はわたしごときにお願いをする必要がない。
 これがたとえ現実だとしても、わたしの鉈が彼に触れる前に、わたしのほうが吹き飛ばされる。
 揺らめいて次には神主さんの姿を映したそれに、わたしは持てる限りの臂力で、鉈を横薙ぎに振るった。
 影のみとは言え、十六年世話になった人だ。やはり申し訳なさを覚えなくはなかった。
 しかし鉈の勢いを緩める気にもならない。
 脳裏をよぎる一瞬の思い。
 十六年分の反抗がわりに、ここで一撃くれてやってもいいだろう。どうせこいつはただの影。本人ではないのだ。
 すみません、このお詫びは幾重にも!
 生きて帰ったらのお話ですが。
 わたしの鉈は影の向こうの幹に向かう。

 だが刃が幹に届く前に、大音とともに空間が揺れた。
 直後巻き起こった力の奔流にわたしはなぎ倒される。
 咄嗟に若木を庇った。別の若木を再び運ぶ時間はない。なんとしても守らなければ。
 荒れ狂う黒い嵐の向こうに、よろめいて倒れる洋とそれを支える隆正さん、こちらへと走ってくる志野が見えた。

「破られた」
 その一言で志野は状況をわたしに伝えた。
 洋の封印が破られたのだ。
 隆正さんが何かを叫んでいるのだが、風が吹き荒れその声は届かない。
「洋は?」
「生きてる」
 わたしが抱える苗を見て、志野は安堵の息を吐いた。
「あんたも生きてるし、桜も無事だ。最悪の事態は免れた」
「限りなく最悪に近いよ」
 助け起こされながらわたしは上空にわだかまる靄と、桜の傷からわらわらとこぼれだす鬼たちを見た。
「あんな雑魚どもは数のうちには入らない」
 小鬼を指して志野は言う。
「たしかにあれだけいると数に含みたくはないな。麦、やつらを寺の外にはださないで」
 麦は素早い動きでてんでに散らばる小物をその爪に引っ掛けて片付けてゆく。
「まだ手はある」
 雪白を起こす、と志野は靄を指して言う。
「こいつさえ何とかできれば、苗を植えられる。鬼は喰ってしまえばいい」
 以前と異なり志野の中に雪白さまの力を阻む存在はない。
 お力添えいただけるなら、状況は格段に好転するだろう。
「だけど」
 わたしは墓地を振りかえった。
 目に映ったものにわたしは息を呑んだ。
「背に腹は代えられない。生きてる人間が優先だ」
「待て」
 雪白さまを起こそうとする志野をわたしは留めた。
 それは細い羂索だった。
 靄を緩やかに巻き取っている。
 微々たる力だ。だが確かに靄の拡散を押しとどめていた。
 源を目で追いかけ、たどり着いたものにわたしは目を見張る。
「あれだ!」
「なにが」
 志野に苗を託しわたしはそちらに走った。
「彼らなんだ」
 どうして成仏しないのか。
 するはずがない、彼らはすでに仏なのだから。
 彼らこそが桜の護法なのだ。
「亀さん! みんな」
 呼ぶと羂索を握る淡い影たちがわたしを振りかえり笑う。
 その姿は見慣れた老人のものではない。
 わたしとさほど代わらぬ青年のものだ。
(あんなふうに歳をとりたかった。子や孫に囲まれて、長閑な中に生を送りたかった。背が縮み、腰が曲がるまで生きて、皺に覆われたかった)
 亀さんと呼び続けた人の一生がわたしの脳裏を通過する。
 海を隔てた遠い北の地で最期を迎えた彼の心は、この桜を目指して帰ってきた。
 松吉さんの、鶴次さんの熊継さんの、勝竹さんに、亥兵衛さん、鹿介さんの一生が。
 時代も生も、さまざまにことなる彼らの心に桜は生き続けていた。
 桜はふる里の、愛しい人の、懐かしい日々の、幸せの象徴だった。
 帰りたかった、離れたくなかった、守りたかった。
 志半ばで倒れた彼らのそういった思いが、彼らをここへ繋ぎ止め、桜を守る存在へと変えていったのだろう。
(呼びかけていたのです。けれど彼らはわたしたちに気づかなかった。わたしたちの姿を映す目も、わたしたちの声を聞く耳も、わたしたちと言葉を交わす声も、持ってはいなかった。命を桜に委ねることを止められもせず、またお二人の魂が綻びの内にとらわれることさえもわたしたちには敵わなかった)
 祖父や母を無念の内に見送った彼らが、わたしに拘るわけはそこにあったのだろう。
(鬼よ)
 と熊さんが叫んだ。
(正しき主が戻りし上は、好き勝手にはさせはせん)
 網を引き絞る太い両腕が隆々と膨らんだ。
(ご命令を。われらにあれを抑えよ、と)
 常のにこやかな表情を拭い去り、竹さんが弓を引き絞る。
(そして散らせと)
 綻びはじめた封じからこぼれ落ちる鬼を竹さんの放った矢が次々に射落としてゆく。
 鶴次さんの構える刀は一振りで多数の鬼を下した。
「よろしくお願いします」
(承知)
 松吉さんの山刀が鬼を割る。
(今のうちに苗を。封じの要となる若木を)
 亥兵衛さんに言われ、わたしは嵐の向こうに苗を抱えて立つ志野に身振りでそれを伝える。
「桜の元に運んでくれ」
(古木を倒せばひととき封じは揺らぐ。気を抜くな)
 靄を縛る綱を引き絞りながら鹿介さんが言った。
「はい」

 枯れた桜の元に若木を運ぶ。あふれ出る鬼を御幣で祓う。
「隆正さん、護法を見つけました」
「よし」
 分散しているより、一つところにいるほうが互いに守りやすい。
 隆正さんが洋を抱えてこちらに来るのを待ち、わたしは鉈をもう一度振りかぶった。
「桜を倒せば封じは乱れます。護法の助けはありますが、十分とは言いがたい」
「わかった」と三人が頷いた。
 呼吸を整え、わたしは力を込めてそれを振り下ろす。

 太い幹にそれはささやかな一撃だった。
 しかし刃を入れたそこから幹は見る間に割け、それ以上何をするまでもなく桜は倒れた。
 辛うじて大地にしがみついていた根が安堵したかのようにその指を離す。
 土を掴んで倒れた桜は大地に穴を穿った。
 朽ちた倒木から虫が湧くように、桜からは鬼が噴きだす。桜の内には大きな洞ができていた。
 内側を鬼に食い荒らされながら限界まで立ち続けてくれた桜にわたしは短い黙祷を捧げた。
 洋を庇いながら隆正さんが数珠で、わたしが御幣で鬼を祓うなか、志野が若木を植えるため、老木が穿った穴をシャベルで広げる。
 麦は空の上で鶴さんたちと共同戦線を張っている。
 だがその志野に鬼は群れる。
 志野の手にするシャベルの柄が小鬼に齧られ折れる。
 躊躇することなく志野はしゃがみ込み、固い土を素手で掘り始めた。
 雪白さまの陽気に引かれるのか、それとも志野だけが彼らを祓うことができないからか。
 蟻にたかられる砂糖菓子のように志野の姿はともすると小鬼に埋もれがちになる。
「おん そんば にそんば うん ばざら うん ぱった」
 洋が数珠を構え、かすれた声で再び真言を唱えた。
 志野に取りつく鬼たちの一部が剥がれ落ち、まだ縋りつく鬼の動きがわずかに鈍るものの、意識が朦朧としている洋が唱える言葉に大きな力はない。
「志野、大丈夫か!」
「面倒臭い!」
 志野が腹立たしげに叫んだ。痛い、助けろとは決して言わない志野の、それは最大限の悲鳴だ。
 まるきり見えなければおそらく淡々と作業にいそしめたはずだろう。
 しかし先刻わたしを媒体に封じが顕現してからは、志野の目は鬼の姿を捉えてしまっている。在ると知ればそれに影響される。詳細を確かめず封じに挑んだ無謀が悔やまれた。
 志野は目を狙い顔に爪をたて牙をたてる小鬼を、掴み剥がしては投げ捨てる。
「志野」
 志野に咬みつく鬼を御幣で叩く。
 いくつもの鬼を祓い落としてようやく見えた志野の背は、単も無残に引き裂かれ、深い爪あとからは血がにじんでいた。
「志野、急げ」
 志野にたかる鬼を退けながら、わたしは靄を窺った。靄を捉える羂索は限界まで引き絞られている。いずれこれも引きちぎられるのは明らかだ。
 靄が解放されてしまえば、こちらの勝機は失われる。
「護法の縛も長くは持たない。彼らも元は人だから……細波ほどの時間も祈りも得てはいないし」
 不意に志野が手を止めた。振りかえり、苛立たたしげに首に爪を立てる鬼を引き剥がす。長い爪が首の肉を抉ったが、志野はそれには構わず、立ち上がるとわたしを見た。
「護法? 元が人?」
 静かな声にわたしは目を瞬かせる。
 そのわたしを齧ろうとした鬼が麦の炎に焼かれて落ちた。
「そう、彼らが……亀さんたちが護法だったんだ……けど、志野?」
 尋ねるわたしに彼は矢継ぎ早に問いを重ねた。
「やつらが護法で、桜やあんたと縁深い存在で、ようするに連中はただの死霊じゃなかったってことだ。そうだな?」
「ああ、うん、そう」
 後ろから志野の額に爪を掛けた鬼を御幣で叩く。額を撫でた御幣の裾を志野は指先でぴしりと払う。
「ということは、だ。雪白を起こしても、早々消えたりしないわけだ。俺に食われることもない! 違うか!?」
「……あ、そうか」
 ぽっかりとした空白がわたしたちの間に漂った。
 隆正さんは怪訝そうにそれを見つめる。
 志野が腹立ち紛れにその手に齧りついた鬼を払い落とす。再び足に取りすがろうとする鬼を右足で踏みつけた。
 体重を乗せられた奇妙な姿のそれが「ぎゃ」とも「きゅ」ともつかぬ声をあげ、足の下で暴れた。その背をさらに力強く踏みつけて志野はわたしを怒鳴りつけた。
「だからいつも言ってるだろうが! 情報を小出しにするのはやめろ、そういうことは先に言え!!」
 まったくもって申し訳ない。
 いらん傷を作ったと言い捨てると、志野は叫んだ。
「起きろ、雪白!!」
 声とともに志野の中に雪白さまの気配が蘇る。
 瞬時に足の下の鬼が抉れ弾け飛び、奇妙な花のような残骸だけが足元には残った。
 たった二日雪白さまの気に触れなかっただけにも関わらず、その圧倒的な存在感に畏怖よりは恐怖が沸き起こる。
 わたしは無意識に膝を折る。
 志野の体に取りすがっていた鬼たちが蒸発する。いや、吸い込まれたのか。
 見上げるわたしの前で志野の体が青白く光った。数度明滅を繰り返し、やがて強い光を放つ。放たれた光は収縮し、数条の光となって立ち昇った。
 鬼を追っていた鶴さんや松さんたちが、慌てたように光の帯を避けるのが見えた。
 それらはうねり、瞬く間に鬼を捕らえ、散らし、靄を強固に絡めとる。
 倒れた老木に左足をかけ、両腕を組んだまま雪白さまはその様子を楽しげにご覧になっている。
「軍荼利明王……?」
 隆正さんの呟きに一瞥をくれ、雪白さまはかすかに微笑んだ。
 それは蛇を纏う姿で描かれる明王さまだが、……明王さまにたとえられるほど恐ろしげでもないような。
 わたしの思いに気づいたのだろうか。
 雪白さまが唇の両端をあげた。
「ではそれに倣うてみるもの一興よな」
 姿を真似た雪白さまに、隆正さんと洋が平伏した。

 志野(雪白さま)は二日の絶食を補うかのように容赦なく鬼を喰らい(食らわせ、か)、わたしは麦に守られながら雪白さまに急き立てられ、穴を掘り若木を植えた。
 あまりにも急いだため、何本かの指の爪が浮いてしまったが鈍い痺れを覚えただけで特に痛みは感じない。
 封じの準備は整った。
「洋、頼む」
 俺が、と尋ねたのだと思う。声を出すのも難しいほど疲弊している弟にこれを頼むのは兄としてもどかしい。
「わたしにはあれほどの封じは施せない。辛いだろうけど、頼む」
 頭を下げたわたしに洋がかすかなため息をついた。
 隆正さんに支えられながら身を起こすと座りなおし、洋は息を整えた。わずかの精神集中の後に九字を切る。
「臨兵闘者皆陣裂在前 命」
 洋の唱える明王呪に若木を包むように光炎が立ち上る。
「おん きりきり、おん きりきり」
 炎は円の中央、若木に集まり鋭く天を指す。
 繰りかえされる呪に炎は赤から金へと色を変え、さらに大呪を重ねることで炎の色は金から白へと変化する。
 そしてもはや眼で見ることは難しいほどの輝きへと至る。
「おん きりうん きゃくうん」
 限界まで引き絞られた弓から矢が放たれるように、桜の若木にそって白炎が天に向かう。
 炎は亀さんたちの羂索が捉える靄に突き刺さった。
 咽喉など持たぬはずのそれが、炎の刃におぞましい咆哮をあげて暴れる。
 もがく靄に羂索を掴む亀さんらが引きずられた。呪を唱える洋が一瞬苦痛の表情を浮かべる。
 それをご覧になった雪白さまが何事かを口の中で唱え、指先で紋を描く。
 先ほど鬼を捕らえた光の帯が見る間にひとつに縒られていった。それは大蛇のように靄に絡み、緩やかにそれを締め上げる。
 靄を指差して、清めよ、と雪白さまは仰られた。わたしは記憶の中から祓いの詞を引き起こす。
「天清浄 地清浄 内外清浄……」
 靄の一点にほの白い光が灯る。
 重ねるように、三度洋も真言を唱える。
「なうまく さまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うん たらた かんまん」
 断末魔の叫びと共に、靄は霧散した。欠片となって飛び散る靄を麦が片付ける。
 散り散りに消えてゆく靄の向こう、黒から紺へと移りゆく空には、かすかに星が瞬いていた。
 縛るものを失った羂索が空からふわりと降ってくる。
 美しい真円を描きそれは大地に触れる。
 周囲がやわらかな金色に輝いた。
「祝」
 呼ばれて顔を上げると雪白さまはわたしにご命じになる。
「桜を守るものに詞を奉ぜよ」
 羂索とともに下りてきた白珠を雪白さまは指示す。
 手のひらに乗るほどの大きさだった白珠は若木に触れて解けた。
 封じの放つ光に照らし出され、人影が見える。
 誰だと思う間もなく隆正さんが若木に寄り添うその影の名を呼ぶ。
 わらう気配があったと思う。
 その声なき声が洋の結んだ結界の上に重なる。
(のうぼう たりつたぼりつ ばらぼりつ しやきんめい しやきんめい たらさんだん おえんび そわか)
 記憶の中の声よりも、それは細く柔らかい。
 桜とその人を中心に描かれた円の際が一層強く輝いた。
 だが陽炎のように揺らめく淡い影は、昇りはじめた日の光に緩やかに溶けてゆく。
 薄れゆくその口元が「あい」と動いた。もう声は聞こえない。あの光を境に界が隔てられているのだろうか。
 呼び止めよう、引き止めようとして数歩駆けたわたしの肩を雪白さまが止める。
「ならぬ」
 光の輪は徐々にすぼまり、それに応じるように影もますます朧になってゆく。
 雪白さまを見、影を見、迷うわたしを宥めるように「祝」と微笑まれた。
「封じが成るまでは触れてはならぬ。……桜の守人に言祝ぎを」
 雪白さまに再度促され、わたしは詞を紡いだ。
「此の神床に鎮い祭る善(うるわ)しき御霊の御前を慎み敬い奉り白(もう)さく」
 淡い影が頷く。
 声が震えた。
「枉(まが)事有らせず 夜の守り日の守りに守り幸えうづない給え
 御祭善しく仕え奉らしめ賜えと祈り白す事の由しを
 平けく安らけく聞食し幸え給えと 畏み畏みも拝み奉る」
 円は桜から半歩まで縮んでいた。
 影は滲み輪郭しか見えない。
 何かを言おうとしたのだがわたしの声も出なかった。吸い込んだ息は潤み肺を満たす。
 そのとき山の間から朝日が差し込んだ。
 強い光に封じの放つ微かな光はかき消され、輪郭だけを残していた影も眩み、瞬く間に朝の風に溶けていった。

 誰ともなしに大きなため息をついた。
 四人で顔を見合わせて終わったのだと確かめ合う。
 わたしの顔を見た三人がそれぞれに顔を背けた。
 不思議に思い、顔に触れ、泣いていたことに気がついたのはそれからだった。

 桜の古木を枕に明けゆく空を見上げ転がるわたしたちのもとに祥子さんが駆けてきた。
「ああ、無事でよかった」
 そういって祥子さんが洋を抱きしめる。
 申し訳なさそうな表情で洋がわたしを見た。たった今母と別れたばかりのわたしへの遠慮だろうか。
 気にするなと目で伝えると照れた様子で、大丈夫だから、と祥子さんの体を離す。
 その様子をどこかしら羨ましく見守りながらわたしは隆正さんに問いかけた。
「もしかして皆ご存じだったんでしょうか」
「あれだけ大騒ぎすれば、尋常でないことくらいはわかるだろうさ」
 そう言って隆正さんは空を仰ぐ。
「山の上でよかったな。隣に人家がなかったのはありがたい」
 同じく空を見つめる志野の言葉にその通りだと思う。
「そうだね」
 白く輝き始めた空に目が痛みを覚えた。目を閉じる。不意に瞼に影が落ちた。
 重い瞼をあげ、左から覗き込むその人の顔を見る。
「お怪我はございませんか」
 彩花さんの髪が柔らかくわたしの頬を撫でた。
「わたしはさほどでも。志野のほうは随分」
 あちこちを小鬼に咬まれ掻かれた志野の単は血で汚れている。特にひどい傷を負った咽喉元に触れる衿は浅い涅色に染まっていた。
 その姿をみた彩花さんが両手を口元にあてて小さく息を呑む。
「いや、見た目ほどでもない。、ひとつひとつは浅いし、血はもう止まった。すぐに治る」
 左の袖を巻くって志野は腕の傷を見せる。
 確かに深いとは言いがたいが。
「風呂に入るときが難儀だろうな。沁みるぞ」
 隆正さんの指摘に想像したのだろう。志野がゲンナリした様子で息を吐いた。
 吹き狂った風に、頭から土ぼこりにまみれた後だ。
 風呂に入らないわけにもゆかない。わたしも爪の浮いた指先を思い出す。ため息がこぼれた。
「しばらくは服も緩めのものにしておくんだな」
 そのまま起きるに起きられずぐったりと空を見続けるわたしたちの元へ父がやってくる。
 桜の残骸と植えられた若木、そしてわたしたちの様子から昨夜の苦戦を察したのだろう。無茶をしおって、この馬鹿者どもが、と雷を落としかけた父は隆正さんの姿がその中にあることに気がつき声を飲み込んだ。
「おまえまで……」
 よお、と隆正さんが手をあげる。
「小言を言うなとはいわん。おまえの心配を思えばそれは当然の権利だ。だが、もう少しあとにしてやってくれ。俺への恨み言なら昼過ぎには聞いてやる。だからまずは寝かせろ」
 ふらふらと立ち上がった隆正さんはそれでも自分の足で母屋へと向かい始めた。
「おい、待て。一言だけ言わせろ」
 食い下がる父に一言だけだぞと隆正さんが欠伸をかみながら言う。わずかの間一言を選ぶために口を結んだ父が「ありがとう」と隆正さんに頭を下げた。面食らったように少し上体を退いた隆正さんが「どういたしまして」と応える。
 さらに「手間をかけた。悪かった。それから」と言い募る父に「聞くのは一言だけだっていっただろ」と隆正さんは歩き出す。
 人が頭を下げてるのにそんな態度があるか、と声を荒げた父に「あーあー、聞こえない、聞こえない、聞ーこーえーなーいー」と隆正さんが耳を塞ぐ。
 二人を見送るわたしの耳に繰り返し洋を呼ぶ祥子さんの声が聞こえた。
「眠ってしまったようですね」
 不安げにふりかえった祥子さんに、「昨夜は大活躍でしたから」とご報告する。
「疲れたのでしょう。ゆっくり寝かせてやってください」
「……そう。……そうね」
 言いながら彼女は涙を指で払って微笑んだ。
「目を覚ましたら叱ってやらなきゃ」
「ほどほどで勘弁してやってください」
 とわたしが言いかけると、祥子さんは何を言ってるの、と笑みを消し語気をわずかに荒げた。
「あなたもよ! 心配をかけて! 無茶をするにもほどがあるわ」
 彼女は一度わたしの左に視線を移し、もう一度わたしを見た。
「十分に叱られておきなさい」
 それからあらためて洋を起こすため、彼女は洋の肩を揺すった。
「起きてちょうだい。子どもじゃないんだから抱っこはできないわよ」
 しかし洋はすっかり寝入っているようで、まるで目を覚ます様子はない。
「わたしが運びます」

「でっかくなったなあ」
 祥子さんに手伝ってもらい、洋を背に負う。重みにしみじみと呟くと背中の洋が何かをいった。寝言だろう。
 布団を用意するために先に母屋に戻った祥子さんのあとに続こうと歩き始め、わたしは一度歩みをとめた。
 振りかえるのは面倒で、声だけをかける。
「すみません、彩花さん」
 呼びつけたつもりはなかったのだが、彩花さんはわたしの前へとやってきた。
「はい」
「志野を頼みます」
 志野は「構うな。大丈夫だ」と言う。しかし気だるげな声が「大丈夫ではない」と語る。全身の傷に加え、体内には多数の鬼を抱えている。大丈夫なはずがない。
「いつまでもこんなところに転がってたら本当に体を壊すぞ。すみませんがお願いします」
「畏まりました」
 それから彩花さんは何か言いたげにわたしを見上げた。
 なんどか口篭り、小さな声が言う。
「本当に……ご無事でよかった」
 長い睫に涙がたまって震えていた。瞬いた拍子にこぼれて落ちる。
 よほど心配を掛けてしまったのだろう。
「毎度ご心配をおかけしてすみません」
 心底申し訳なく思いながらも、わたしを案じ、涙を流してくれる人がいることに、言いようのない幸福感を覚えた。

 封印を破られた洋は返しを受けその日は寝ついていた。
 それでも翌朝には起き上がることができたのは、若さか、それとも呪法の才か。
 聞けば返された呪も咄嗟に逸らしたのだと言う。
 逸らされた呪は代わりに鐘に大きな傷を穿った。改鋳するまでは鳴らせないだろう。
 この大穴が、洋や隆正さんの身に開いていたかもしれないことを思うと、今さらながらに血も青ざめる思いだ。
 父は少しの間、渋い顔で鐘に開いた穴を見つめていたが、やはり誰一人欠けることなく朝を迎えた喜びが勝るようだ。その件については何も言わなかった。もちろんそれ以外の件では「無謀と蛮勇」についてこってりと絞られたのだが。
 隆正さんは腰を痛め布団の上だ。昨晩の若木運びが堪えたらしい。だが「年寄りに冷や水を浴びせやがって」と毒づく元気があるのだから、しばらく休めば回復するだろう。父とは昔のことを持ち出しては仲睦まじく喧嘩をしている。
 志野は着替えどころか傷の手当てもそこそこに布団にもぐりこんだらしい。
 強がってはいても相当に堪えているようだ。
 麦もさすがに疲れたのだろう、新しい桜の根元でまるくなってまどろんでいる。
 わたしもどうやら靄にずいぶんと蝕まれていたようで、雪白さまがお清めくださった後はやけに胸がぽっかりとしていた。
 穢れた部分を取り除いた、と仰っていたから、心の一部を喪失しているような状態だったのだと思う。
 昨夜の大風で倒れた(ことになった)老木を、造園業者が片付けてゆく。
 その日はそれを眺めてぼんやりと過ごし、翌朝、やっと動く気力を取り戻したのだった。