鬼喰 ― たまはみ ―

第三話 萌兆 八

 手短にって言われてもね、と洋がため息をついた。
「聞いてくれる? それに答えるほうが早いと思う」
 しかしわたしだっていったい何から聞いてよいのやら。問いたいことが多すぎる。
 困惑に口篭ったわたしをおいて志野が尋ねた。
「親父さんの不調との係わりはあるのか、あんたたちは何をしてるんだ、どうすれば封じなおせる、こうなったのはいつごろだ、これはなんだ」
 立て続けに放たれた問いに洋は首を傾げる。問いかける順としては逆ではないかと思ったが、早急に知りたいことは余さず含まれていた。
「それは兄さんの問いだと思っていいの」
 わたしが頷くのを待って、洋は答える。
「何かを封じていたらしいね。それが何だかわからないから、見張ってるだけで関の山。親父の不調の原因は疲労。疲労の理由は」
 隆正さんのかすかな舌打ちに洋はその前に出た。
 打ち破ろうとする内側からの力に殻はびりびりと震えている。
 洋は数珠を握った手をかざす。
「寝不足。兆しが見えて三ヶ月、さすがの親父も睡眠不足には勝てなかったらしい。それで俺が呼び戻された。隆正さん、さがって下さい」
 素早く九字を切り、内縛印、不動明王呪を唱えた。
 剣印、刀印、転法輪印、外五鈷印に大呪、諸天救勅印、外縛印に再び中呪。
 殻の上に不思議な色合いの網がかかる。いや、幾重にも重なる縄だろうか。
 一拍おいてそれが白く光った。
 月がかすむほどの光に、闇に慣れた目が眩む。
 何度か目を瞬き、やっと戻った視力で見れば殻は網にしっかりと固められている。
 中ではあいかわらず何かが蠢いてはいるものの、すぐさま砕けてあふれ出す気配はない。
「お見事」
 一息ついて洋にそう声をかけた隆正さんは、地面に座ったまま呆気に取られているわたしの前に立った。
 志野の手を借りて立ち上がるわたしの額を彼は指で弾く。「この阿呆が」 そして洋を振りかえった。
「親父よりよっぽど出来がいいな」
「畏れ入ります」
「これだけできて、俺を呼ぶ必要があったのか」
「御足労頂いたのは、ご助力願うためではありません」
 洋の答えに隆正さんが片眉をあげる。笑うように口をひいた彼は「ほう」と一言を漏らす。
「お聞きしたいことがありましたので」
「さて、答えられることならいいんだがな」
 二人のやり取りも気になったが、それ以上にわたしには桜が気にかかる。
 志野の胸に吊るされている石は変わらず音を立て続けているし、殻の中には何かが殻を破ろうとのたうっている。
 桜を見つめるわたしに洋が言った。
「心配はいらないよ。簡単には解けない」
 一時凌ぎでしかないけど、と洋が続ける。
「明け方までは持つと思う」
「で、聞きたいことってのはなんだ」
 問う隆正さんに洋は再び向き合った。
「これはなんです? そしてなぜこれがここにあるんです? どうすればこれを封じることができますか」
 足元にわだかまる冷えた空気の上を風が流れていった。
「ここは」
 隆正さんが口を開く。
「冷えるなぁ。大丈夫ってんなら、向こうで話さないか。茶でも飲みながらよ」
 隆正さん、と言い募る洋に、
「話せば長くなる。かいつまんで話しても、二分三分で終わる話じゃないんでね」

 そして四人、わたしの部屋で――桜の様子を見ることができるからだ――夜更けに茶話会をすることになったのだ。

 開口一番、隆正さんが問いかけた相手はわたしだ。
「いまさら聞くまでもないことだが、念のため聞いておく。見えてるんだな?」
 何が、という言葉は必要なかった。
「ええ」
「どの程度見えてる。ぼんやりか、わりとしっかり見えるのか」
 どう答えたものか考えるわたしに代わり志野が応じた。
「見てるものが鬼か人か、すぐには判別できない。見えないはずのものを見てることに気がついたのは……何歳のときだった」
 促され、八つです、と隆正さんに向け答える。
 意味を測るためだろうか、二、三秒ほどの間をおいて「そいつは」と嘆息し、隆正さんは言う。
「なるほどな。てっきり俺はおまえにはまるで見えていないもんだと思っていた。普通のガキはお化けだなんだと泣き喚くからな」
 と、洋を見る。そういえば洋は夜泣きの激しい子だった。あれは鬼が見えていたからだったのか。
 てっきりただの癇の虫だと思っていた。
 洋はそ知らぬ顔でお茶を用意している。洋に茶菓子はいるかと問われた志野が頷く。ふたつを受けとり、ひとつをわたしに手渡した。
 隆正さんは洋から湯呑みを受けとるとその中で揺れるお茶を見つめる。
「区別できてなかっただけとはなあ」
 一口啜り、おまえも見えるのか、と志野に問う。
 何かを言いかけて面倒臭くなったらしい。ちょうど菓子を口にしたところでもあり、志野は頷くだけを返事にかえた。
「隆正さんも、洋も、見えるんですね」
 わたしの問いに隆正さんが頷く。
「まあな。俺はぼんやり、こっちははっきり、だ」
 がくりと肩が落ちたことに自分でも気づいた。
 わたしだけが異常だと信じていたから誰にも相談できず、わたしはここを出ることになったのに、まさか身近にこれをわかってくれる人がいたとは。
「まあ、普通は言えんだろうよ。狂っていると思われるか、法螺を吹いていると思われるか……」
 慰めるように言われ、わたしはため息をついた。
「それじゃあ、話は早い。あれは封印だ。……寺の縁起は覚えてるな?」
 ええ、とわたしが頷き、志野も昨晩聞いたと答える。隆正さんはそれを確認するとこう前置いた。
「俺も祖父さんからの聞きかじりだから詳しいことは知らない。ただ」

 桜を護っていた神社もいよいよ存続が危ぶまれるようになったある日、仰木の寺を神主が訪れた。
 いずれ社は失われるだろう。一度失われてしまえば、再び守ることは難しい。したがって、その前に委細を知る者をこの寺に預けたい。この後はその者とともにぜひ桜を守ってほしい。
「いや、嫁がせるって約束だったかな。とにかくその委細を知る者ってのが、曽祖父さんのお袋さんだ。おまえたちからみれば高祖母ってことになる」
 志野が首を傾げた。わたしはともかく洋がなぜ、というところだろう。
「祥子さんは母の再従妹でもあるんだ。わたしの曽祖父の妹が洋の曾祖母だから」
 母の死後十年が過ぎ、祖父と縁ある家から後妻を迎えることを門徒さんが勧めたのだ。
 今後まったくの他人を迎え入れることになるよりは仰木の縁者を、との思いが勧めた人の胸のうちにはあったのかもしれない。

 曽祖父は高祖母から伝えられ、祖父に伝えた。
 祖父は母に伝え、伝はそこで途絶えた。
「桜を絶やすな、枯れたときはすぐに次の樹を植えろ。失われれば禍が降りかかる。俺が知ってるのはその程度だ」
 言って隆正さんは再び湯呑みを取った。
 桜の寿命は八十年だ。よくも今まで持ったものだと思った。わたしが生まれてからは、いつ枯れてもおかしくなかったに違いない。
 では桜の寿命尽きる今、封じがほころびるのも仕方のないことだ。
 新たな樹を植えて、封じ直さなくてはならない。
「しかし、植えなおすといって、どうしたらよいのです。どうやって封じなおすのです」
 わたしの問いに隆正さんが眉をあげた。
「知らネェよ。俺は部外者だからな」
 答えた隆正さんの声に二つの冷笑が被さった。まるでそれはステレオのように聞こえた。
「はっ。そんな半端を信じるか」
 右は志野。
「はっ。御冗談を」
 左は洋だ。
 隆正さんはわたしの左右を交互に視線を注ぎ、最後にわたしを見た。
 若いのが失礼を申し上げまして申し訳ございません。
 頭を下げたわたしに隆正さんが湯飲みの陰で笑う。
「なんで知ってると思う」
 隆正さんはまず志野に問いかけた。
「知ってることを聞くためだけにわざわざ老人を呼び出すか。聞きたいのはその先のことだ」
 微妙に失礼な発言だが、隆正さんは楽しげに笑っている。
「だいたいこういう話は門外不出と相場が決まってる。一部だけ知ってて後は知らないなんて中途半端な話はない」
「おいおい。俺はこの寺で学んだんだ。縁起くらいは知ってても当然だろうが」
「縁起には禍の収束を祈願して桜を植えた、以後大切に守られてきた、現在の桜は三代目、としかないはずだ。枯れたら植えろ、絶やすな、なんて話はない」
 たしかにその通りだった。
 抜け目ねえガキだな、と隆正さんが舌打ちする。
「ご存じなんでしょう、隆正さん」
 だってあなたはと洋は続けた。
「本当なら、兄さんの、父になるはずの人だったんだから」
 隆正さんを言い負かした勝利の一口を啜ろうと、湯飲みに口をつけた志野が吹きこぼした。
 わたしはといえば、湯飲みに手を伸ばしたまま驚きに固まったのだった。

 ようやく衝撃から立ち直り隆正さんを見ると、隆正さんもまた衣にこぼしたお茶に困惑の視線を向けていた。

 誤解するなよ、と隆正さんはまず最初にわたしに言いおいた。
「はあ」
「なにもおまえの母親とどうにかあったわけじゃねぇ」
「ええ、まあ、そうでしょうとも」
 そんなことを疑ったことはないし、今後も疑うことはないだろう。
 しかしわたしの返答を、隆正さんはまた別に受け止めたようだった。
「だから、つまり」
 柄にもなくしどろもどろに隆正さんが話した内容はこんなところだ。

 隆正さんは四男である。上の兄二人は戦中にお亡くなりになった。三男が家を継ぎ、四男は養子にだされた。
 その養子先がここである。
 隆正さんは十四のときからここで育ち、ゆくゆくは七つ年下の母と結婚し、この家を継ぐはずだったらしい。
 ところが運命とはそうそう人の思い通りには運ばぬもので、母は父と出会う。
 普通なら隆正さんが祖父の跡目を継ぎ、母は父に嫁ぐ。
 あるいは養子縁組を解いて隆正さんは実家に帰る。
 それで済むはずだった。
 しかしここにもうひとつ問題があった。
「桜の封印は仰木に桜を託した神官の血を引くものにしか御せない」
 つまり母こそが仰木の実質的な跡継ぎであり、隆正さんの存在はあくまでもそれを助けるためのものだった。
「俺は昔から奇妙なものを見ることができた。ぼんやりとだがな。それが養子に抜擢された理由よ。祖父さんも瑞江も気配を感じる程度でしかなかった。その点でも祖父さんの俺への期待は少なくなかったようだ」
 主に母と祖父との間で、あれやこれやともめた末、ひとまずは父が婿に入ることで事は落ちついた。
「婚約破棄だろ? よかったのか、あんた」
 ストレートな志野の質問に、隆正さんは笑う。わずかな濁りがそこにはあった。
「端からそうだと決められていたから、逆に何が何でも嫁に欲しいという気にはならなかった。半ばは妹みたいなもんだったしよ。ところが、だ」
 残りの半分はなんだったんだと志野がつっこむ前に隆正さんは話を変える。このタイミングは是非にも見習いたいものだ。
「知っての通り、彰英はまったくそういう力には恵まれてなくてな。俺はしばらく足止めを食わされた。つまるところ、彰英の教育係だ。他に行き場もなかったのもあるが」
 そうこうするうちにわたしが生まれる。
「桜の樹勢は衰え始めていた。おまけに人の信心も薄れてきた。この上にあった神社のことも忘れ去られた。条件の悪いことが重なった。不運だったとしか言いようがねえ」
 ある夜解けた封印に挑み祖父は命を落とした。
「封印は持ち直したかのように見えた。だが二年後」
 再び綻んだ封印は母の命を奪った。
「それが決定打だった。俺はここを出た。許せなかったんだよ、みすみすあいつを死なせた彰英が」
 だが八つ当たりだったな、と隆正さんの口元に苦い笑いが閃く。
「見えない彰英に何ができたはずもない。そんなことは俺もあいつもわかってた。……後を頼むと言われたのに、何の力にもなれなかった苛立ちを俺はあいつにぶつけた」
 まあ若かったんだな、おれも彰英も、とお茶を啜る。
「素面で話せる話じゃないが、大事の前だ、酒はまずいな」
 素面で聞くのもこっ恥ずかしいような気がしていたので、それには三人が笑った。
 だが、わたしよりも幾分か現実的な洋と、現金な志野の問いが美しい昔語りの余韻を打ち砕く。
「それで封印はどう施すんです」
「それでどう繕うんだ。方法は」
 俺が恥をしのんでここまで話したのに、どうして誤魔化されないんだおまえらは、と隆正さんがため息をつく。
「生憎と現実を忘れられるほど猶予はないんです」
「だいたいどうしておまえが知ってるんだ」
 隆正さんの反問に、今度は洋が押し黙った。
 お茶の葉が蒸れて広がる音までもが聞こえそうな静寂が室内に落ちる。
「それは……」
「彰英が話すとも思えないんだがな」
「洋?」
 見るとなんとも困った表情でわたしを見かえす。
「それは……四年前、文庫を俺の部屋としてもらって……その掃除の最中に数奇屋で」
 ははあん、と隆正さんが頷いた。
「瑞江の遺品を見つけた。おまえ、読んだな。瑞江の日記」
「日記だと知って読んだわけじゃありませんよ! ただちょっと開いてみたら、いろいろと」
「いろいろと気になることが書いてあってついつい全部読んじまった、と」
 いやらしいなあ、と、隆正さんが煽り、たしかにそれは恥ずかしいな、と志野が追い討ちをかける。
 顔を赤らめたまま洋が叫んだ。
「全部じゃありません。そのときは少しだけ……今はそういう話をしてる場合じゃないでしょう!」
「そうだった。まずはどう繕うかだ」
 ちっ、と隆正さんが舌打ちする。
「誤魔化されませんからね。ええ、誤魔化されませんよ」
 洋の声があまりに必至でなんとなく半分泣いているようにも聞こえたのだが、ここでそれを指摘して話を長引かせるのもよろしくない。わたしは腹の中でだけ笑う。
「彰英は何て言った?」
「おまえは知らなくていい、の一点張りです」
 洋を呼び戻したのも、日中、仕事の一部を任せるためで、桜には一切関わらせなかったようだ。
「俺にあれが見えているとは思いもしなかったようです。追求してもなんでもないを繰りかえすだけ」
 洋はため息をついて、首を横に振る。
 わたしの部屋を洋に使わせなかったのも、桜にはできるだけ近づけたくなかっただめだろう。
 父が喋らないとなれば、自分で調べるしかない。洋は数奇屋と長屋門のこれという書をすべて読んだ。ついでにわたしの母の日記も読んだ(わたしもいつか読んでみたいと思う)。しかしそこには何一つこの怪異を鎮める手立ては記されてはいなかった。
 だろうな、と呟きなおも隆正さんはなおも思案する。
「唯一祖父さんが書き残したものは、瑞江の死後、彰英が焼き捨てた」
 ここに刻まれたものまでは捨てられやしなかったがな、と、自嘲とともにそのこめかみを指した。

 黙考はおよそ十分。目を閉じる隆正さんに洋が言った。
「隆正さん、申し訳ないのですが時間がない」
 その言葉からわずかに遅れて、桜の見張りに残した麦の呼び声が聞こえた。
 窓越しに桜を振りかえる。
 殻は内側から激しく突き上げられ軋んでいる。三人の腰が同時に浮いた。
「夜明けまでは持つんじゃなかったのか」
「甘く見てたのは否めないな。もうしばらくは持ちそうだけど……あと一刻」
 志野の指摘を洋はあっさりと流す。洋の視線が壁の時計に向けられ、わたしたちもそれを見た。
 一時を少し回ったところだった。あと一刻持つというなら三時には破られるということだ。夜明けには三時間ほど足りない。
「破られる前に金縛呪を解かないと俺は死にます。呪詛が返されるわけですからね」
 ぎょっとして洋を振りかえった。
 しかしそこにあったのは不敵と言うよりはむしろ不遜と言うべき表情だった。
「しかも、あなたの呪も俺が引き受けることになる。それでも仰りたくないなら結構ですが」
「おまえ、まさか、それを見越して……」
 隆正さんの声がはじめて上ずった。洋は今度ははっきりと笑みを浮かべて隆正さんに挑む。
「父が言わなかったことですよ。あなたの口を割らせるにはこれでもまだ心もとないくらいです」
 いっそ兄の命を掛けるほうが確実かとは思ったのですが、とわたしを見るその表情は許しを請うものだ。
 が、隆正さんに目を戻す一瞬で、そのためらいは拭うように隠された。
「どうします。たぶん兄は俺を庇うでしょうね。可愛くない弟でも見過ごすことはない。いや、庇わなくてもそれはそれで一生の傷になる。自分を憎むかもしれません。かつてのあなたのように」
 そこでわざと一拍を置く。たいした度胸だと思った。
「もしもあなたが一切の策を提示してくれなければ、ですが」
 どちらになさるか決めてください、と言われ、隆正さんは頭をかきむしった。
 その間にも殻の中の何かはますます激しく暴れるようになる。
 洋が膝の上で握る拳は白くなり青く血管が浮いていた。すでに呪は破られつつあるのかもしれない。
「洋」
 大丈夫かと肩に手を掛けようとすると洋はそれを拒絶した。
「触らないで下さい」
 穢れがうつるように、呪詛もまたうつる。
 触れるなというのは封印が破られたときを慮ってのことだ。
 困惑にわたしは隆正さんを見る。
「……そういう目で見るのはやめろ。仕方がない。だが言いたくて言うんじゃないぞ」
 隆正さんが折れた。
「人柱だ。仰木の血に縁のある者を柱に桜を永らえさせる」

 半ばは予測していた答えだった。
 しかしあらためて聞かされる緊張は想像をはるかに凌駕した。
「だがそれはあくまでも最悪の手立てだ」
「……最善はなんだ」
 志野の前向きな問いに隆正さんがわずかに笑った。
「桜を植え替える」
 それだけか、と志野が呟くと、それだけだ、と隆正さんが応える。
「じゃあ、なぜそうしないんだ」
「できねぇんだよ」
 隆正さんが桜の様子を窺いながら早口で言う。
「護法がいるはずだ。もともと人の力であれを抑えるには限界がある。それを補うものがいる。植え替える間、封印を守る護法が」
 だがその護法がいない、と隆正さんは続けた。
「桜が枯れるのはおよそ百年に一度だ。前回はおまえらの高祖母が生まれる前。明治になって十何年後だったかな。その前は明治維新のざっと百年ほど前だと言われている。確実に二度は植え替えてるはずなんだ。が、実のところ、じいさんも、瑞江も植え替えに関しちゃ何も知らなかった。知っていたのは年に一度封じを固める通例呪法だけ」
 ところが、とわたしを見る。
「おまえがまだ赤ん坊だったころ、桜は枯れ始めた。枯死する前に植えなおせ? 言うのは簡単だ。だがあの桜が封印の要。抜いたが最後、封印は効力を失う。祖父さんは悩んだ。悩んだ末、己の寿命を委ねることで桜を永らえさすことを選んだ。当時の祖父さんは五十一。まさか猶予が二年ぽちだとは思わなかったに違いないが、その時間で封じたまま桜を植え替える方法を探せと俺たちに言い残した」
 探した。
「俺も彰英もな。探せなきゃ次は瑞江だ。そりゃもう、血眼になって探した。天井裏から縁の下、仏像の中まで。必ずそれを記したものがあるはずだと。だが見つからなかった。二年が過ぎて桜がまた枯れ始めた。見る間に枝は干からびていった。樹医にも頼んだが、寿命の一言だ。俺も彰英も、一か八かで植え替えることを主張した。俺はひとつの考えに行き着いていた。要となる樹を変える間、封印を保つ護法が……式でもいい、そんな存在があったんじゃないか、と。それを探す、あるいは人であっても、微力でも、数を頼んで全力を尽くせば抑えられるのではないか。だが」
「母は聞き入れなかったんですね?」
 隆正さんは下を向く。
「無理は冒せないとな。失敗すればおまえの命も奪われる。そう言われてなお説得はできなかった……代われるなら代わってやりたかった。あいつはまだ二十五だった。ようやく乳離れがすんだおまえを残して逝く。そんな馬鹿な話があるか」
「仰木の血でしかそれは為せないのでしょう。仕方のないことです」
 声を震わせずに言えたのは奇跡だと思った。

 三度の静寂の後、洋が言った。
「仰木の血を引く人間は、今二人いる。もう一度だけ、時間は稼げる」
 母を含めれば三人だけど、と呟き、「あのひとにはたぶん無理だ、力なんてないから」と安堵したように笑った。
「俺の寿命を委ねれば、五十年はもつはずです」
「だめだ」
 即座に却下する。
「兄さん」
「だめだ。桜が衰えるたびにそんなことを続けるつもりなのか。祖父は五十一だった。平均余命から思えば十分の一しか保っていない。母だってそうだ。生きていれば五十四。こっちは余命の二分の一だ」
 死んだ母の歳を数えていたことを可笑しいと思った。
「今おまえが余命を委ねても、必ず五十年もつとは限らない。おまえを犠牲にしても、一年後には同じことが起きかねない。次はまだいいさ。わたしがいる。その後は?」
 祖父の弟や、曽祖父の弟妹の血筋は確かにまだ続いている。しかしこの土地を離れて久しい彼らに、この桜を守るために死ねとは言えない。
「だけど」
「このままではいずれ仰木の血は絶える。それもそんなに先じゃない。近い将来に血は絶たれ、封じは完全に失われる」
 目をそむけた洋の肩を捉える。
「洋、呪を解け。そしてわたしごともう一度封じるんだ。中でわたしが植え替える。裏山に桜の若木があっただろ」
 わたしが生まれた年に、そして洋が生まれた年にも苗木を植えている。それが使えるはずだった。
「隆正さん、万が一の場合にそなえて寿命を桜に委ねるというその呪法、わたしに教えていただけませんか」
 それなら俺がやると腰を浮かした洋にわたしは首を振った。
「わたしには洋、おまえほど見事な結界は張れないよ。共倒れになるだけだ」

 簡単な禊の後、わたしたちは着替えた。掘り起した若木を、朝方の雨で土のぬかるむ中、庭へと運ぶのに泥まみれになってしまったからだ。
 志野が神主さんから押し付けられた荷物の中に単と袴があった。そしてこれまでには触ったことのない御幣までもが。
 どうして持たせたのだろう。こんなことがあると予感なさったのだろうか、それとも単に日頃の姿を父に見せてやれということなのだろうか。見せることはできるのだろうか。深く考える時間はなかった。
 わたしは再び桜の前に立った。
 法衣を纏った洋が解呪を唱え、弾指により結界を解く。
 瞬時に砕け散る殻の内側へとわたしは走った。
 前を遮るのはいつぞやの靄と同質のもの。
 麦がそれを炎で散らす。後ろで結界が閉じられたのが分った。
 桜を中心にした半径五メートルほどの空間だ。遠くないぶん、逃げ場もない。
 だが決して軽くない若木を運ぶことを思えば、大きな空間を取ることは難しい。
 この狭い空間で身を覆おうとする靄の全てを祓うことは不可能だ。纏わりつきわたしを侵蝕する靄の一切を無視し、中心部、桜を目指した。

 袴に御幣を挟み、若木に括りつけてきた鉈をとる。
 桜は無残に食い荒らされていた。爛れた木肌、ぶら下がる枝。それでも辛うじて大地をその根が掴んでいる。
 こうまでなって、なお守ろうとしてくれている。新たな木を植えるまでの間、懸命に耐えている。
 感傷に蓋をしてわたしは鉈を振りかぶる。
 胸が痛んだ。だがこの老木を倒さなければ若木を植えられないのだ。
 打ち下ろそうとしたときだった。
 
 やめて。
 やめてちょうだい。桜を傷つけないで、和。
 
「母さん!?」
 そんなはずはない。この病んだ桜を若木に替えなければ封じは綻びる。
 
 だめよ、やめて。
 
 朽ちた幹に母の姿が朧に浮ぶ。
 
 やめて。やめて。だめよ。
 わたしの邪魔をしないで。
 この桜さえ食い尽くしてしまえたなら、わたしはあなたの元へ戻れるの。
 戻れるのよ。
 新しい樹など、必要ないわ。
 
 こんなものが母であるはずがない。この封じを守るために命を捨てた母が、こんなことを言うはずがない。
 それでもわたしは桜を庇う母の姿をしたそれに、手にした鉈を振り下ろすことができなかった。