鬼喰 ― たまはみ ―

第三話 萌兆 七

 朝食の後、わたしは祥子さんとの約束どおり片付けを手伝っていた。
 洋が運ぶ食器を受け取り、できるだけ唐突にならないようわたしは問いかけた。
「親父、どこか悪くしてるのか」
 一瞬洋の手が強張るのがわかった。皿を手渡すと洋はすぐにわたしに背を向けた。
「このところ立て続けにいろんなことがあったから、少し疲れ気味なのかも。この頃は寒暖の差も激しいしね。それでじゃないかな」
 運ぶ皿はまだ他にもある。しかし背を向けて答える、しかもその答えがこれでは違和を覚えないほうがどうかしている。
 饒舌でありがら、洋の言葉には何一つ具体的なものはない。
 それは決して洋らしい回答とは言えなかった。
 洋は――昨日と今朝の僅かな時間に交わした会話だけが頼りだと思うと、多少心もとないところもあるのだが――物事を語るときに、曖昧さを残さない。西門、駐車場、熊さんのお墓、風呂場、洗面所。それらすべて、具体的に、因果を明らかにして話していた。
 仮に「このところ」起きた「いろんなこと」が法要などであるのなら、何日の間に何が何件重なった、それは誰それさんの何回忌と某さんの何回忌、どこそこの納骨、開眼供養などと語るように思う。
「このところ」「いろんなこと」でひとくくりに終わらせてしまいたいそれがなんであるのか。
 違和感でしかなかった不自然を確認し、頭の芯が緩やかに冷えてゆく。
「どうして夜半に桜をみてたんだろう」
 わたしの冷えた声に卓を拭いていた志野が顔を上げ、こちらを向くのが視界の端に映った。
「いつごろ咲くのか気になった、とかかな。兄さんがいる間に咲くといいんだけど」
「雨の中、わざわざ?」
 問いを重ねると、洋は皿を運ぶ手を止めてわたしを見た。
 静かにわたしの前まで来ると、板間の上から土間のわたしを見下ろす。
「何が言いたいの?」
 薄い笑いがその口元にはあった。
「何が聞きたい? 何をどう答えれば納得する? 納得する答えを与えれば、それに応えてくれるの?」
 わたしの隣で皿を拭いていた彩花さんが、拭き終わった皿を手に静かに食器棚に向かう。
 聞き苦しい会話を聞かないよう、気を使ってくれたのだろう。
「……何を隠してるんだ」
 重ねて問うと洋は感心したようにへえ、と言った。
「まんざらでもないんだ。そうだね、あの人の孫だものね」
「どういう意味だ」
「聞かなくてもわかってるんじゃないの? それとも気づかないことにしたかった? 気づけば逃げ道がなくなるから?」
「答えたくないのか、答えられないのか、それとも答えを用意する時間がほしいのか?」
 間髪いれず問い返すと、洋は軽く瞬いた。
「ふうん。そういうことも言えるんだ。意外だな」
「時間がほしいならもっとマシな稼ぎ方をしたらどうだ」
「時間稼ぎの達人らしい台詞だね。十六年のモラトリアムは楽しかった?」
「はぐらかすな」
 声を荒げるつもりはなかった。それでも穏やかとは言いかねるものになったのは、洋が口にした言葉が少なからず核心を突いていたためだろう。
「答えたくないなら言いたくないと言えばいい。わたしに聞かせる必要はないというなら、わたしもそれ以上は問わない」
 洋の目が左右に揺れた。
「どうなんだ。答えろ、洋」
 しかし洋がそれに答える前に、別方向からの声があった。
「なんだなんだ。さっそく兄弟喧嘩か」
 反射的に声の聞こえた勝手口をわたしは振りかえった。
 四角く切り取られた薄闇の向こう、そこには朝日を半身に浴びて立つ僧形の影があった。
 半ば逆光であるため、わたしにはその人の詳細は分らない。
 わたしは眩しさに目を眇めた。
 小さく息をついた後、いち早く表向きの仮面を被った洋がにこやかに挨拶をする。
「リュウショウさん。お早いですね」
 洋は食器をシンクに置くと素早く土間に下り、勝手口まで出迎えた。わたしの前を通り過ぎるとき、ちらりと視線を遣す。
 図らずも時間を得た安堵と、しかし得た時間は長くないと知る焦燥がその目には窺えた。
 だがそのとき、わたしの意識の大半は洋ではなく声の主に向けられていた。
 声から察するに歳は父とさほど変わらないだろう。僧であり洋をよく知っている。
 洋の丁寧な中にも親しさのにじむ声がその証だ。
 それだけであれば何も不思議はない。
 しかし彼はこう言った。「さっそく兄弟喧嘩か」と。
 彼はわたしが洋の兄だと知っている。そしてわたしがここを長らく離れていたことも知っている。
 誰だ?
 リュウショウと言う名に覚えはない。
 疑問はわたしの時間を止めた。見つめ、やがて光に慣れた目に、色彩と陰影が緩やかに描かれてゆく。
 その姿からは五十代半ば、歳をとっていても六十には達していないように思われた。背は高く武ばった印象の人物だ。
「もしかして、始発でいらっしゃった?」
「始発を逃すと次は昼過ぎだからなあ」
 乗り継ぎが悪くて困る、とその人は笑う。
「御足労をお掛けいたしました。お知らせいただければ、せめて駅までお迎えに参りましたのに。こちらへどうぞ」
 玄関へとあらためて案内しようとする洋をその人は留め、わたしを見た。
「よう。久しぶりだな」
 その声に、影に、覚えがあった。
 いや覚えていたのではない。長くしまいこまれていたものを取り出したとでも言うのだろうか。
 もしかして、と、まさか、が同時にわたしを支配する。
「どうした、忘れたか?」
「タカマサさん……?」
 恐る恐る呼びかけたわたしに笑い含みの声が返った。
「忘れちゃいなかったようだな」
 返事もできずにいるわたしに声はさらに言った。
「なるほど二十年ばかしじゃそれほど変わったところもない。これは喧嘩も当然か」

「……それはあんまりじゃないですか」
 お久しぶりです、の挨拶も忘れわたしは抗議の声をあげた。
 二十年前といえばわたしはまだ中学生だ。そんなころから変わらないと言われてしまっては、さすがに寂しいものがある。
「結構、変わってるみたいですよ」
 喧嘩の名残だろう、やや刺々しさを感じさせる声で洋がそういうと、タカマサさんはわたしたちを交互に見て鼻で笑った。
「変わったうちには入らねえよ。喧嘩はガキのするもんだ」
 わたしたちがそれぞれに絶句した隙に、タカマサさんはそのまま土間へと上がりこむ。上がりに腰を降ろすと、
「まずは茶でもくれないか。あの坂を登るのはさすがに息が切れる」
 言われ、洋はため息をつき、ポットのお湯を確認する。
「リュウショウさん、余所でもこんな感じで?」
 洗ったばかりの急須にお湯をくぐらせ温める時間で、茶葉をはかる。手馴れた仕種に、洋がいつもこうして手伝ってきただろうことが窺えた。
「余所は言わなくても出てくるからな」
「うちもいきなり勝手口からあらわれるお客さまはあなただけですが」
「じゃ、やり直すか。玄関から『ごめんください』ってよ」
「いまさら……もういいですよ」
 リュウショウさんと洋が呼びかけることにわたしは首を傾げた。それに気づいたのだろう。お茶で軽く咽喉を潤した後、タカマサさんがわたしを手招く。
 中断していた皿洗いをこの際止めて、わたしは前掛で手をふきふきそちらに向かった。
「あのな」
 タカマサさんは指で床に文字を書く。
「タカマサ」
 言いながら板間に字を記した。隆正とある。そういう字を書くのか。そういえば音でしか知らなかった。
「僧名はリュウショウ。字は同じ。変えると役所の手続きが面倒だからな」
「そうなんですか」
 ああ、やかましいぞ、と隆正さんは眉間に皺を寄せる。
「面倒ですよ、大変ですよってな。名を変えるのはお前じゃないだろうが、とここまで出た」
 隆正さんは顎の下に指を当てる。
「ははあ」
 なるほど、父も元は「彰英」と書いてあきひでと読んだが、僧名は音読みで「しょうえい」だ。
 随分お手軽だと思ったが、手軽にすむならその方がいい。
「ではリュウショウさんとお呼びしたほうが」
「そうしてくれ」
 タカマサ、なんて呼ばれると尻がすぼまる、と隆正さんは笑う。
「ここの祖父さんにはそうやって散々怒鳴られてきたからな。ところで彰英はどうしてる」
 湯呑みを茶托に戻し、隆正さんは洋に尋ねた。
「今朝方少し体調を崩しまして」
 すぐに呼んで参りますと続けた洋を隆正さんは手で制す。
「いい、いい。俺が行くほうが早い。上がらせてもらうぞ」
 案内はいらない、と隆正さんは父の部屋に真っ直ぐに向かった。
 途中一度こちらを振りかえる。
「邪魔したな。心ゆくまで仲睦まじく喧嘩してくれ。手が空いたら茶を頼む。あれば菓子もな」

 喧嘩してくれと言われるとしがたいのが喧嘩だ。
 いや、そもそも喧嘩がしたいのではない。
 洋とわたしはどちらともなく顔を見合わせると同じタイミングでため息をついた。
「少し、時間をくれるかな。ちゃんと話したいんだけど何から話していいのか整理がつかないんだ」
「わかった」
「ちょっと頭を冷やしてくる」
 洋はそう言って勝手口から出て行った。
 食卓をとうに拭き終えた志野が台拭きを玩びながらやってきた。
「意外だった」
 慣れない口論に疲れ、あがりに腰かけたわたしを見下ろして志野は言った。
「何が」
「『そういうことも言えるんだ』」
 さきほどの洋の言葉を志野は真似る。
「……」
「温厚で日和見なあんたにしちゃ、上出来な切り返しだったぞ。ちょっと似てたな」
 似ていた、の主語は多分神主さんのことだろう。
 彼はあそこまで乱暴でもないが、畳み掛けるような反問の連続にはわたしも幾度となく泣かされてきた。
「真似たからね。……わたしは志野が思ってるほど温厚ではないよ」
 ため息が知らず漏れる。
「そうなのか」
「ああいう口を利く機会に恵まれないだけで」
 神主さんは切り返されるような隙を見せないし、雪白さまは反論の余地を与えない。
 志野は口数が少なく口論になるきっかけ自体があまりなく、彩花さんとの会話にはこんな乱暴なカケヒキは必要ない。
「恵まれたくもないな」
「そうだね」
 もう一度ため息をついたときだった。
 お茶をくれという父の声が聞こえた。そのあとで三つね、と祥子さんの声が続く。
「はい、ただいま」
 たおやかな声で彩花さんが応える。
 急須と湯呑み、茶菓を乗せた盆を手にわたしを見、彩花さんはにこりと笑う。
 父と隆正さんの間に座る勇気のないわたしは、その好意に甘えることにする。
 それからしばらくしてやけに嬉しげな隆正さんの笑い声と、親父のらしくもない優しげな声が聞こえたところをみると、それで正解だったようだ。
「で、どうするんだ」
「まずは片付けを終わらせるかな」
 流しに積まれた皿を見る。
 残りはそれほど多くない。
 よいしょと立ち上がると志野は腕をまくった。
「洗うくらいなら、手伝えるからな」
 そして言った。
「さっさと終わらせろ。あの桜、やっぱりおかしい」
「……」
 親父さんが倒れる少し前、と志野は皿の泡を流しながら話す。
「異様な気配がした。そのあとこれが鳴いた」
 首をのけぞらせて見せたのは、細波の石だ。青みを帯びたその石が
「鳴く?」
「たぶん。嫌な音だった。なにかが割れるような……擦れるような音だ。昨夜も聞いた」
 もとは水神とはいえ、今は桜に宿る細波からの警告であるなら、注意を払うべき第一はやはり桜と言うことなのだろう。
 それでわざわざ桜を見に行ったところ、雨の中、桜を見上げる父を見たと言うのが真相だったようだ。
「洋に鎌をかけたんだ」
「そう。あっけなく引っかかったんで驚いた。で、あんたの狐は? 何も言ってなかったか」
「そういえば……」
 どこに行っているのだろう。
「桜に触ろうとしたら止められたな」
「それだけか」
「今のところはね」
 そうかと呟き志野は渡りの向こうを見やる。壁を隔てたその先に、桜はある。
 窓からのぞく枝先に、ここが異常だと示すことのできるものはなかった。

 片付けが終わっても彩花さんは戻ってこない。
 一度だけ湯呑みをひとつ取りにきたので、たぶん四人で話が弾んでいるのだろう。
 そこに湯飲みと菓子を手に参加することも考えはしたのだが、どうにも気が進まなかった。
 桜が気がかりでもあったし、正直に言うと自分の幼少期を知る人々の前で平静を装う自信がなかったためでもある。
 思い出話として語るには、まだ悔いが大きいのかもしれない。
 わたしは志野とつれだって、あらためて桜を見に行くことにした。
 志野が靴を用意するのを待ち部屋の西側から裏庭に降りた。
 先ほど投げ捨てた傘の近く、桜から数歩のところに麦がいた。そこでわたしたちは足を止める。
「これは……」
「まずいな」
 わたしは桜を見上げ、志野は胸元の石を見つめそれぞれに呟いた。
 志野は石をつるす紐をつまむ。
 石はきしきしと音を立てている。何かに共鳴しているような振動が結ばれた紐を震わせていた。
 あらためて目を移せば、桜は薄い繭のようなもので覆われている。
 もとは桜の内に、昨夜は桜の木肌に張り付くようにあったものだろう。そして今朝、桜から剥がれ、今は桜から四、五歩離れた場所まで膨らんでいる。
 すぐにでも張り裂けそうな気配だった。
 繭のうちで何かが蠢き、わたしはさらに半歩後ろにさがった。
「また、か」
 半ばうんざりした様子で志野が呟いた。
 それはあの晩秋の一件を思わせる姿だった。
 この繭が破れれば、あの日のように界を隔ててこちらに鬼と鬼に似たなにかが溢れてくる。
 予感や予測と言うよりは、確信に近い。
「避難させられないのか」
 唐突な言葉にその主語を推察できず、わたしは首を傾げた。
「避難って」
 古い記録がふと脳裏をよぎる。
 ――多数の死者が出た、疫病だと思われる。
 町の人を遠ざけることが出来るなら、その方がいいだろう。
「でも……信じてもらえるかな。どこまで広がるのかも予想がつかないし、何が起こるのかも」
「違う。墓地の連中だ」
「墓地の?」
 だから、と志野は苛立たしげに続けた。
「細波はいない、水神はこない。雪白は寝てる。俺たちだけで対処できるのか」
 できない。
 答えは悩むまでもなく明らかだ。
 あの日、もし水神さまが細波の呼びかけに答えてくださらなかったなら、わたしたちは無事にはすまなかった。
 ごくりと咽喉がなった。冷たいものを飲み込んだように身が冷えた。
「雪白を起こすなら、連中は遠ざけたほうがいい」
 志野が食わなくても雪白さまの気に触れるだけで鬼の多くは消えてしまう。
「……無理だと思う。地縛されてるのと同じだから」
 志野は桜を見、それからわたしをもう一度見た。
「何が出来る」
「封じなおすくらいしか」
「いつやる」
「早いほうがいいと思う。今晩かな……皆が寝た後に」
「俺はどうすればいい」
「万が一の場合には」
 みんなを頼むよと言おうとしてわたしは苦笑した。それは志野に頼むことではない。
「神主さんによろしく伝えてもらおうかな」
 志野は眉根を軽く引きしめた。
「そうなる前に雪白を起こす」
「志野」
「綻べば、あんただけの問題じゃない」
 それから少し間をおいてこぼした。
「みすみす逃げ帰ってみろ、俺は一生あそこで不味い飯を炊き続けることになる。あの二人を敵に回して、だ」
「そのうち上達するさ」
「そういう問題じゃない」
 わかってるよ、冗談だと志野をなだめ、笑いながらも繭の向こうを気にせずにはいられなかった。
「麦」
 呼ぶと麦はその額をわたしのくび元に摺り寄せる。
「夜までここを頼むよ」
 その首を撫でてそういうといつものように麦はしっぽと耳をぴんと立てた。凛と張られた髭がくすぐったい。
「志野、どうした」
 踵を返した志野に声をかける。
「寝る。夜に備えて」
「まだ朝だぞ。昼はどうするんだ」
 わたしの呼びかけを無視して、志野は母屋に戻っていった。
「……まあ、いいか」
 問われたら、長旅で疲れているようだとでも言っておこう。

「麦、ここを見てて。何かあったら呼んでくれるかな」
 もう一度麦の頭を撫でて、わたしは墓地に向かった。
 そこに洋の姿が見えたからだ。
 しかし途中で足を止めた。時間をくれと言われたことを思い出したためだった。
 わかったとわたしはそれに応じたのだし、無理に問いただしてもきっと頑なになるだけだろう。
 洋の後姿が北口から裏山へと消える。
 見送り、それからふと隆正さんが訪ねてきたことを思った。
 祖父が亡くなり、父と隆正さんの間にはたびたび行き違いが生まれるようになった。
 母が亡くなってしばらくの後、隆正さんはここを出て行った。
 それでも年に数度、思い出したように訪ねてくれたが、父との間はずっとギクシャクとしていた。
 最後に会ったのはわたしが十四のときだ。そのすぐ後に父は再婚し、それきり隆正さんは来なくなった。
 ついさきほど聞いた三人の笑い声が耳に蘇る。
 どんな経緯があって、隆正さんが再びこの家を訪ねるようになったのか。
 洋との親しげな様子からも、足しげく尋ねてくれているだろうことが窺えた。
 疎遠になった人が、訪れる理由、それが父に一度でも多く会うためでないことを祈りたい。
 雲の切れ目から差した日の光に小さく手を打った。
 手を合わせたのでないことが、胸に痛かった。

 人も寝静まった夜更け、わたしは桜の前に立った。
 月が薄い繭を照らす。繭は桜から完全に離れ、二、三メートルのところで地面から半球を描いている。
 今は見ることのできない志野にそれを説明する。
 背後でだまってそれを聞いていた志野は、二拍ほど間をおいてわたしに尋ねた。
「で、どうするんだ」
 手立てがあれば教えてもらいたいものだと思う。
「志野」
「なんだ」
「謝っておく。この局面において『どうするんだ』は確かに腹立たしい。悪かった」
 それでどうするんだ、と、いままで何度志野に問いかけたものか。
 年長者ぶって志野の案に水を差したこともある。
 それが志野に対する、あるいは志野の能力や雪白さまへの甘えであったことにわたしはやっと気づいたのだ。
 振りかえらずに言うと、小さく笑う気配があった。
「気にするな。この局面において『どうする』と言いたくならないほうがおかしい。で、とりあえずのところ、どうなんだ」
 とりあえずに妙なアクセントをつけて志野は問い直した。
「とりあえずのところ、桜の守護者を呼んでみようと思う」
 言葉を捩って答えると、守護者、と志野は呟いた。
「これが封じの桜なら、桜の守護者がいるはずなんだ。桜を守る、細波のような存在が」
「細波か……」
「どうすれば綻びを作らずにすむのか、それだけでも聞けたなら随分変わる……と思う」
 志野は細波の石を眺めた。数秒考えた後その首が上下に動く。
 わたしは続ける。
「どうして封じが緩んでいるのか、せめてそれだけでも聞ければ、対処方法がみつかるかもしれない」
「どう問うつもりだ。桜には触れないぞ。呼んで聞こえるものなのか」
 常とは完全に立場が逆転している。
 ああ、と志野がわたしの思念を読んだかのように二度軽く頷いた。
「今回俺は当事者じゃないからな」
「……」
「で、どうするんだ」
 口の端で笑う姿が憎らしい。一生神主さんのうちで不味い飯でも炊き続ければいい、と一瞬だけ思った。
「呼ぶ。麦は母屋を頼むよ」
 首を傾げた麦の頭を、今日は雪白さまがいらっしゃらないからね、と撫でる。
「皆が起きてこないようにね」
 それからわたしはあらためて志野に向き直り、現実にはこの繭は存在しない、と繭を示した。
「たまたまわたしの目に、繭のようなものが見えているだけだ。見えない人にとってはないも同じだろ」
 だから、とわたしは一歩を踏み出した。
「呼べる」
 右手を前に伸ばす。やわらかな繭を手のひらに感じた。
 一瞬の抵抗の後、わたしの手は繭の内側に侵入する。

 二歩ほど進んだときだった。
「おいっ」
 ぎょっとしたように志野の声が震えた。
「まずくないか」
 確かにまずい。
「繭が……」
 わたしが触れた箇所から繭の色がみるみる変わってゆくのだ。
 透明だったそれが白濁する。
 それが志野に見えていると言うなら、考えられることはひとつだった。
「顕現した!?」
 わたしの腕を中心に、白濁は細かな波になり繭を揺さぶる。
「まだらになってるぞ」
 志野の言葉どおり、波はところどころで凝りながら繭全体をまだらに染めてゆく。
「退け、下がれ!」
 言われるまでもない。わたしはすでに五歩は退いている。
「下がってる!! 繭が膨らんでるんだ!」
 それだけではなかった。繭はわたしの腕を抱えたまま、殻のように固さを持つものへと変化してゆく。
 引き抜こうとすると殻が軋んだ音を立てた。
「抜け、腕を。早く!」
「だめだ。割れる!」
 腕を引き抜けば殻が割れる。
 気がつけばわたしの右腕は肩まで呑みこまれていた。
 母屋を守っていた麦がこちらに飛んでくる。それを制して、逃げろ、と志野を振りかえった。
「あんたは」
「何とかする」
 できるのかと叫ぶ声が聞こえたが、答える余裕はなかった。
 殻の中でわたしの手に何かが触れた。
 その「何か」は腕を伝い、首をもを呑みこむ勢いで膨らむ殻の内側でわたしを捉えて探るように蠢いている。
 いっそ中に入ってしまえば、と思う。
 左手で振り払うこともできるだろう。
 それに、もう見えはしないのだが、この中には桜がいるはずなのだ。
「行くか」
 決心を固めて重心を右足に乗せようとしたときだった。

「臨兵闘者皆陣裂在前 行」
 鋭い声とともに殻の成長が止まった。肩を半ば以上殻に呑みこまれ動かない首をようやく回して見た先に、黒い衣の裾があった。
「東方降三世夜叉明王、南方軍茶利夜叉明王、西方大威徳夜叉明王、北方金剛夜叉明王、中央大日大聖不動明王」
 五大明王の名が淀みなく読み上げられる。
「明王の縄にて絡め取り縛りけしきは不動明王、締め寄せて縛りけしきは念かけるなにわななわなきものなり」
 腕に絡み付いていた何かがわずかに緩む。まさにその瞬間、わたしは襟首をつかまれ後ろへと引き倒された。
 湿った土の上に転がって声の主を見上げる。
「生霊死霊悪霊絡め取りたまへ、たまはずんば不動明王、おんびしびんからしばりそわか」
 穿たれた穴から糸をひきわたしに絡んでいた「何か」が、ギクシャクと穴へと引っ込んだ。

「無茶をしやがる」
 繭だった殻を睨んだままその人は言う。
「隆正さん」
「一晩くらいはゆっくりできると思ってたんだが、とんだ勇み足がいたもんだ」
 腕が引き抜かれた箇所から細かな亀裂が生まれる。
「割れる!」
「お前は少し下がってろ」
 隆正さんはそういうと懐から取り出した護符を殻にたたきつけた。
 亀裂の成長が止まる。
「いつまで持つかはわからねぇが」
 その場にどっかりと座ると印を結ぶ。
「なるべく手短に状況を説明してやれ」
 それが誰にかけた言葉であるのか、戸惑う間もなかった。
「……説明がいるのかな」
 声を振りかえる。そこには転がるわたしを見下ろす洋がいた。