鬼喰 ― たまはみ ―

第三話 萌兆 六

 土を叩く雨音に目が覚めた。時計は五時を少し回ったところだった。
 起き上がり、布団を片付ける。上着を羽織り、障子とその外側のガラス戸を開けた。
 冷たい空気が足元から流れ込んでくる。
 わたしの部屋は西に張り出している。母屋では唯一寺側に面して作られている部屋でもあった。
 押入れをはさんで東に居間があり、南は襖一枚を隔てて土間(炊事場)に面している。西と北は濡縁だ。
 部屋を出て真北に風呂、西に鐘、そしてその二つを結ぶ線の半ばあたりに桜があった。
 雨に打たれる桜をみる。枝先が淡く紅に色づいているのが遠目にもわかる。
 昨晩の志野の言葉を思い出し、あらためてじっくりと見たのだが、やはり特に変わったところがあるようには思えなかった。
 強いて言うならやや枝色が濃く感じられるくらいだが、今朝のように景色が白くけぶって見えるなかでは、それも断言には至らない。
「気のせいかな」
 第一志野にはあれが「桜」だとわからなかった。昨晩洋に対し「花に興味はない」と言い切ったように、志野は草木に詳しくはない。単に花のない桜に、それともあの大きさの桜に、見慣れぬものを覚えたのだと考えるほうが自然だった。
「仰木の家の桜、か」
 遠い昔、この地を災厄が襲った。どのような災厄だったのか語られてはいない。ただ残されている記録――租税徴収用の人頭台帳のようなものだったはずだ――から多くの人が短期間のうちに亡くなっていることがわかるため、疫病ではないかと言われている。
 その禍を収めることを祈願して桜は植えられた。
 これが桜に関わる家伝の概容だ。
 なぜ桜を植えることになったのか、桜に何の意味があるのか、そういったことはわからない。
 のちにその桜を守るために社が設けられたのだが、百年と少し前、社は失われた。
 仰木の者がここを任されたのはその少し後だと聞いている。
「別当を分社にしなかったのは正解だったのかもな」
 分離令が発布され、廃仏の気運が高まった当時、もしも別当を摂社や末社としていたなら、今頃はここには何も残っていないに違いない。
 たとえそれがへそ曲がりゆえの気まぐれでも、
「何が幸いするかわからないってことか」
 そう思うとわずかに心が慰められた。わたしが家をでたことも、某かの幸いにつながるかもしれないのだ。
 そうあってほしい。
 痛みがすべて拭われたわけではない。しかし昨夜あれこれと思い悩んでいたことも、明けてみれば他愛のないことだと思えるようになっていた。
 結局のところ、わたしは記憶とは異なる現在に怯えているだけだろう。
 怯んでいるから、心地よい想像の中にしか存在しない時間を懐かしんでいる。
 まるで鳥の影に驚いて母の元に逃げ帰る子どものようだ。
 振りかえり母の姿が見えなければ、泣いて探しまわる。
「もう少しは大人のつもりだったけどな」
 今になって母を恋しがるとは思わなかった。
 面影さえも朧な母だ。祖父にいたっては墨染めの衣の色しか覚えてはいない。
 当時のわたしに死が正しく理解されていたのかも定かでない。葬儀から四十九日の間に会い、言葉を交わしたとして、それが生前のことであったのか死後のことだったのか、単に認識できていないだけかもしれない。
 その考えは至極もっともなように思えた。
 あるいは実家に戻ったことで、十六年封じてきた里心が一気に吹き出しているのだろうか。
「帰ってきてからホームシックか。参ったなあ」
 これ以上帰る場所などないというのに。
 苦笑は心地よい苦味となって落ちていった。

 桜の左手の先、低めの生垣の向こう、細かな雨を透かして棹石が見える。『皆さん』のいる墓地だった。
 背後の竹林の黄緑と雨に濡れた石の黒が、白くかすむ景色の中で一層鮮やかだ。
「そうか。話を聞きに行かなくちゃ」
 昨日の亀さんたちの様子が気になった。
 何を言いかけていたのだろう。
 見上げれば、白く光る空は昨日とはうってかわった冬空だ。
 吹き込む風にわたしは身を震わせた。
 上着の前をかきあわせ、背を丸める。それから身支度をしようとして気づいた。
「どこで顔を洗ったらいいんだ」
 十六年前は台所の端で洗っていた。脱衣所に洗面台などというものはなかったからだ。
 今は脱衣所に洗面台があるのだから、やっぱりそこで顔を洗うのがよいだろう。
 だがあそこは濡縁の先にある。つまり、半分は屋外にあると言っても間違いではない。
「寒いな」
 そう呟いたときだった。部屋の襖が控え目に叩かれた。
「おはよう、起きてる? 兄さん」
 小声の呼びかけにわたしも声を落として応えた。
「起きてるよ。どうぞ」
 そろそろと襖を開けた洋は、冷えた外からの風に身を縮める。
「開けてるの? 寒いのに」
「習慣かな」
「向こうでの?」
 わたしは頷いて肯定した。
「開けてから、こんな日は冷え込むことを思い出したんだけど遅かった」
 ガラス戸を閉めながらわたしは答える。
 洋が笑う。
「俺も寮から戻った翌朝、開けて失敗した。うっかりするんだよね。いつもと違うから」
 雪の積もった朝だったらしい。温かい部屋の空気は外からの寒風に吹き散らされて、温めなおすのは大変だった、と洋は話す。
「お茶でも淹れようか」
 吐く息の白さに気づいた洋が言い、流しに向かった。足音を極力立てないように気を使っているその動きに、わたしたち以外はまだ眠っているらしいことを知る。
「親父や祥子さんは? まだ寝てるのか?」
「目は覚めてるかもね。六時ごろには起きてくるよ」
 ひとつひとつのことを過去と比べても仕方がない。
 だが、父がこの時間にまだ寝ていることに、わたしは軽い驚きを覚えた。
 朝のお勤めはどうしているのだろう。
 疑問は顔に出たようだ。
「朝は俺に任せてもらってるんだ。今終わったところ」
 洋はそう言って、やかんを火にかけた。
「へえ」
 感嘆と驚嘆は複雑な響きを作る。
 父は婿養子としてこの家に入った。それまでは寺社にはまるで興味はなかったらしい。
 そのわりに――だからこそ、かもしれないが――父は誰よりも熱心に勤行に励んでいた。
 祖父が倒れてからは特にその傾向が強くなったと聞いている。一時はタカマサさんの手伝いさえも拒む勢いだったようだ。わたしも二人の言い争う声を覚えている。
 その二年後、今度は母が亡くなって以後は、とにかく己がやらねばと思いつめてさえいるように見えたようだ。
 毎日のようにここを訪ねていたタカマサさんがふっつりと姿を見せなくなったのはさらに四年後のことだ。それからは父はひとりで寺を切り盛りしていたのだが……慣れぬことでもあり、上手くできているとは言いかねる様子だったらしい。
 それもあって再婚を勧めたのだと中西のおばあさんから聞いたのは、結婚(再婚?)式の前日だった。
 反対しないでくれてありがとうね、というあのときの声を、今もまだ鮮明に覚えている。
 祥子さんが来て、庫裏は彼女に任せるようにはなっていった。けれど、それでもあらかたのことは父が仕切っていた。
 その父が朝を任せるというのだから、これはすごいことだ。
「すごいな」
「全然。まだまだ親父のようにはいかないよ」
「親父も、同じことを言ってたな。まだまだ祖父さんのようにはいかないって」
「……そうだろうね」
 ふと漏らされた言葉にわたしは首を傾げた。洋は顔を上げてくすりと笑う。
「お茶の前に顔洗ったら? それに寝癖もすごいよ」
 たしかにその方がいいだろう。タオルと歯磨きセットを手に脱衣所に向かおうと立ち上がったわたしを洋が呼び止める。
「土間の流しを使って。向こうに小さい流しがあるから」
 部屋から板間に出、指で示された先を見る。土間の片隅に小さな流しがあった。
「便利になったなあ」
 わたしは洋が用意してくれたサンダルを引っ掛けて土間に下りた。
「朝の仕度と洗面が時間的に重なるんだ。家族だけなら融通しあえても、お客さんにそれはね」
 料理をしているその隣で顔を洗うのも、顔を洗うその隣で料理をするのも、よほど気心の知れた相手でなければ難しいことだ。
「といってお客さんに朝から風呂場まで行ってもらうのは大変だから……風呂場は風呂場で改築したんけど」
「たしかにアレじゃなあ」
 かつての風呂場を思い出す。
 特に古びて汚いという印象はなかったが、あまり勝手の良いものではなかった。
「うん。外に風呂焚きがいるのは、まあ、落ちつかないよね。特に女の人は」
 風呂焚きをしている場所から中が窺えるわけではないのだが、外に人がいてはやはり気は休まらないだろう。
 焚くほうも、そういう気配が感じられるとなかなかに居心地が悪い。
「人手も多くないから。俺がいるときはまだいいんだけど……ごめん」
 言いかけて洋は口元を押さえた。
 構わないよ、と言いたかったが歯ブラシを口に入れた直後だった。
 振りかえり片手で気にするなと伝えると、洋は安心したような笑みを浮かべた。
「結局俺たちも楽させてもらってるんだけどね」
 なるほど、親父が跡取りにと考えるわけだ。
 自分のことで手一杯だった情けない兄とは違い、弟は常に門徒さんやそのご親族のことを考えている。
 参ったなあ。
 歯ブラシを動かしながら何度目かの言葉を胸中で繰りかえす。
 如何にわたしが不甲斐なかったかを、こんなふうに思い知らされるとは。
 しかし苦笑は浮んでも、痛みは覚えなかった。

 土間の横の板間で二人お茶を飲む。
 これと言って話すことは特になかった。
 久しぶり、と会話が弾む以上に空いてしまった時間は、ゆっくりと埋めていくしかない。
 いつか互いに近況を語り合えるようになればよいと思うのだが、「兄さん」と呼ばれることにむず痒さを覚えるようでは――洋も「兄さん」と呼びかけることに照れがあるようだし――まだまだ先のことだろう。
 それでも洋とのあいだの静寂が、昨日までの白々しい沈黙ではないことにわたしは安堵していた。

 どうぞと渡された新聞のローカル面を懐かしく読んでいると、しばらくして洋が立った。
 顔を上げると柱時計を差す。六時になろうとしていた。
「鐘の時間だからね」
 昔は一刻ごとに鳴らしていたという鐘も、わたしが生まれるころには朝夕六時の二回だけになっていた。
 渡りの前にかけられていた上着を取り、洋は振りかえった。
「久々にやってみる?」
「いや、やめておくよ」
 今のわたしにはきっとうまく鳴らせない。
 朝から気の抜けた音を聞かせるのは、各方面にいろいろと申し訳ない。
 それに、わたしはできるだけ「寺」には関わらないほうがいいだろう。
 父が仰木の息子で、母が嫁であったならまだよかったかもしれない。
 だが現実はそうではない。
 この家の一人娘であった先妻の子が外に出、後妻の息子が跡を継ぐ。
 穿ちかたによっては随分な醜聞にも仕立てあげることができてしまう。
 確かに門徒さんの多くは父に再婚を勧めた。しかしそれは庫裏をあずかる人が必要だと言う理由だった。
 二人の間に子供が生まれることは考えられても、よもやわたしが家を出るなどは思いもしなかったに違いない。
 洋や祥子さんはそのことで、辛く当たられたりはしなかっただろうか。
 面と向かって言われなくても、そういう気配は伝わるものだ。
 わたしの滞在が長くないことを洋が安堵する背景には、そういうものもあるのかもしれない。
 家出という形でここを離れたのは大きな間違いだった。もう少し穏便な理由を整えるべきだった。
「そう。じゃ、兄さんはお客さんを起こしてきてくれる?」
 わたしの反省には構わぬ様子で洋は上着に袖を通す。
「朝食は七時前だからそろそろ起きてもらわないとね」
 今日は他にお客さまもあるし、と続けられる。が、頷いて聞いていたわたしはあることに思い当たる。
「わたしが? 起こす? 彩花さんを?」
「襖叩いておはようございますって言うだけでしょう」
 襖は開けないほうがいいと思うけど、と洋は言い、何かに気づいたように瞬いた。
「もしかして開けてもいい間柄?」
 そうじゃない。
「そうじゃなくて……それで起きなかったら」
「そういう人には見えなかったけど」
 たしかに朝寝をするような人ではない。
「俺が起こすよりいいと思うよ。知らない人の声で起きるのって落ちつかないと思わない?」
 そうだとは思う。だが
「祥子さんに……」
「どうしてもって言うなら、母さんを起こして頼むとか」
 それだってわたしにとっては同じことだ。
「ついでに雨戸も開けておいてくれるかな」
 雨戸を開けるのは一向に構わない。
 まだ躊躇するわたしには構わず、時間だから、と洋は渡りへの戸を開けて出ていった。
 迷っていても仕方ない。わたしは湯のみに残るお茶で急に乾いてしまった口を潤し、徐に立ち上がった。

 心配はまったくの杞憂で、彩花さんはすでに起きていた。
 廊下から襖越しに声をかけると、しっかりとした声でおはようございますと返事があった。
 そのまま洗面の場所を伝える。
「食事は七時だそうです」
「かしこまりました」
 その声に被さるように鐘の音が響く。いい音だ。奥で人が動く気配があった。父や祥子さんが起きたのだろう。
 鳴らされる鐘の合間に、では失礼しますと言ってわたしはその場を立ち志野を起こしにぐるりと廊下を回り込む。
 ついでに雨戸も開けてゆく。軽やかな音とともに中庭の景色が現われる。
 水面には雨に無数の円が描かれている。その波の下に和金の赤い影が見えた。
 そういえばタカマサさんが最初に池に金魚を放ったのだっけ、などと古い記憶が蘇る。
 たしか父が祖父の鯉を全滅させた後、「稚魚です」と偽って――もちろんすぐにバレた――放したのだった。
 数奇屋への渡りの前を通るとき、その戸に錠が下ろされていることに気づいた。
 母が健在だったころは時折茶会も開かれていたらしいが、そこが茶室として使われていた記憶はわたしにもない。
 今はすっかり物置と化しているようだ。錠には埃がかぶっているのだろう、数歩離れた位置からも白っぽく見えた。
 すべての雨戸を開け終えた後、
「志野、起きろ。朝だぞ」
 部屋の東側の廊下から声をかける。
 志野の寝起きはよいとはいえない。神主さんのうちでもいつも誰よりも遅くまで寝ている。七時前に起きたことは数えるほどしかないはずだ。
 だが期待せずにかけた声に、うー、という呻き声に似た返事があった。
「音が……何の」
 どうやら先ほどの鐘の音に起こされたらしい。耳障りな音ではないが、それでも慣れないうちは驚くだろう。
「鐘だよ」
「かね……?」
「わたしの部屋の前にあっただろ。毎朝六時に鳴らすんだ」
 あー、うん、という頼りない返答に笑いを堪える。
「顔は土間の玄関側にある流しを使って。食事は七時前だそうだよ」
「わかった」
 今にも眠入ってしまいそうな口調が、少しずつはっきりしてくる。
 荷物を探る音で二度寝の可能性がないことを確認し、わたしはその場を離れた。

 それもすんでしまうと、朝食までの時間が手持無沙汰になった。
 だが食事の仕度をする祥子さんに手伝いを申し出ると、笑顔で断られてしまった。
「ゆっくりしててちょうだい」
「ですが」
 常の倍の人がいる。食事のしたくも楽ではないだろう。
 お言葉に甘えて、とも言いがたくその場を去りかねていると祥子さんが言う。
「じゃあ、また片付けをお願いしてもいいかしら?」
 昨夜の志野の手伝いが、よほど堪えたのかもしれない。
「ええ、それはもちろん」
「助かるわ。じゃ、心置きなく汚しておくわね」
「……お手柔らかに」
 笑顔で炊事場を追われ、わたしは部屋に戻る。
 土間の柱時計を振りかえると七時までには随分の間があった。
 部屋の片付けでもしようかと考えたが、それには少し時間が足りない。
 外を眺める。
 雨はまだ降っているが空は随分明るくなった。そのうち雲も切れるだろう。
 わたしは上着をとった。
「おいで麦。亀さんたちに会いに行こう」

 玄関の靴をとり、傘を拝借すると部屋のサッシをもう一度開ける。そこから外へ出て皆さんのもとに向かった。

 しかし桜の脇を通り過ぎようとしたときだった。
「え?」
 言葉ではない、けれどただの音というには不自然な響きだった。
 それは笑い声に似ていた。忍び笑いよりもっとひそやかな、笑いを堪えようとし、思わずこぼれてしまった息のような音だ。
 足を止め、枝を振り仰ぐ。枝から幹へと視線をめぐらした。
 雨に濡れ黒々と光る幹にどうしてか鳥肌が立った。
 足元から這い登った寒気が頭髪を逆立たせる。
 氷の刷毛で心の底を撫でられたように思った。
「なにが……」
 桜に触れようと手を伸ばした。だが、触れる前に、わたしは手を止めてしまった。
 鳥肌さえ立っているのに、木肌にかざした手のひらにはちりちりと焼けつくような感触がある。
 麦がわたしの袖口を噛んで引き止めるように引っ張る。
「そうだね。この木は何かが変だ」
 触れることを躊躇わせるその気配にわたしは同意する。半歩下がり、そして手をおろした。
 昨日はこれほどに異様さを覚えなかった。
 たった今、ここを通り過ぎようとしていたその瞬間までは、異変は「気のせい」の範疇だったのだ。
 麦がわたしと同じように目は桜に向けたまま、しかしその大きな耳をぴくりと母屋の方向に向けた。
「兄さん!」
 洋の声だった。
「親父が……父さんが!」
 即座には意味を図りかねた。理解することを拒否したのかもしれない。
 雨がじわりとしみこむように、その意味をゆっくりと認識した。
 父を見て歳をとったと感じた。痩せた肩によった着物の皺が思い出された。
 飲む酒の量が減っていたとも思った。
 いくつもの光景が脳裏に浮び、瞬時に消えてゆく。
 投げ捨てた傘が土まじりの水を跳ね上げる。
 わたしは走った。
 たった数十歩の距離がひどく遠く感じた。

 慌てて掛け戻ったわたしを出迎えたのは父の声だった。
「騒ぐな、見苦しい」
 洋の切迫した声からは想像できないほどの大声に、わたしは驚き立ち尽くした。
 父は布団の上に胡坐をかいている。
「畳が汚れる」
 敷居を跨ぐ直前、父はわたしの足元を見、指摘した。
 見れば泥水が跳ねて裾が濡れている。滴るほどではないが、なにかの折に畳に触れればしみにもなるだろう。
 仕方なく敷居の際に膝をついたわたしに、父が言う。
「あいかわらず落ち着きのないやつだ」
「申し訳ございません」
「このところお疲れだったでしょう? 今日はゆっくりなさったら」
 布団の上に座る父に祥子さんが羽織を着せ掛けた。
「そうだよ、寝てるほうがいい」
 しかし洋と祥子さんの二人がかりの説得にも、「たいしたことではない」と父は頑固に言い張った。
 だが、その顔色の悪さはわたしの目にも明らかだった。
「わたしもお休みになるほうがよいように思いますが」
 同意するわたしを父はじろりと睨んだ。
「どいつもこいつも大袈裟な。起き掛けに裾を踏んだだけだ」
「裾を踏む? 裾を捌きそこなうなんて、それがもう調子が良くないってことなんだよ」
 声を荒げる洋と、負けじと声を張り上げる父の間で祥子さんがため息をつく。
「二人とも。お客さまもいらっしゃるんですから」
 その声に洋が言葉を被せる。
「そうだよ。お客さまにも迷惑だろ」
「迷惑とはなんだ、迷惑とは。お前の金切り声のほうがよほど迷惑だ。女みたいにキイキイと喧しい」
 たしかに洋の声はまだまだ柔らかい。決して高い声ではないのだが、親父のような野太い声に比べればどうしても柔弱に聞こえる。
「うるさいな、そっちのだみ声のほうがよっぽど聞き苦しいよ」
 気にしていたのだろうか、洋の顔が瞬時に朱に染まった。
 どこか外れたところで言い合いを始めた二人を見、祥子さんはもう一度深々とため息をついた。
「それだけ騒げるなら大丈夫ね」
 祥子さんは立つ。二人はにらみ合いを続けている。
「わたしたちは先に食事にしましょう。二人は好きなだけそうしてて」
 親父と洋をそのままに、彼女はわたしたちを食堂へと案内する。
 振りかえり、「女みたいにキイキイとですって、失礼しちゃうわねぇ」と彩花さんにこぼす。
 明らかにそれは親父に聞かせるための言葉だった。
 彩花さんは同意も否定もせずやんわりと微笑んで配膳の手伝いに戻った。
 志野は志野で「声は親父さんのほうが迫力あるな」などと呟きながら箸を置いて回っている。
 どうにも論点がずれているようにも思ったが、洋のことだ。なんとか親父を懐柔するだろう。
 ちらりと閉じられた襖に目をやった。
 何事か話し合う声が聞こえたが、聞き耳を立てるのはよろしくない。
 急須の茶葉を蒸らしながら、わたしは二人の声を努めて聞かないようにした。

 十数分にもわたる「起きる」「寝てろ」の攻防戦は、「自室で静養」で決着がついたようだった。
「世話が焼けるったら。そろそろ年寄りの冷や水って言葉を自覚してもらいたいよ」
 遅れて食事の席に着いた洋がぼやく。
「それが聞こえたら、またうるさいわよ」
 窘め、洋の茶碗にご飯をよそいながら「お父さんは?」と祥子さんが尋ねる。
「あとでいいって。結局休みたいってことじゃないの? 素直じゃないんだから」
 そう言って洋は箸を取った。しかし
「昨夜も遅かったみたいだしな」
 志野の言に、洋は動きを止めた。ぎこちなく首を動かす。繰り人形のような動きだと思った。
 どうして知っているのだとその目が語る。
 志野は僅かに首を傾げて洋を見かえす。
「風呂場にこれを置き忘れた」
 首にかけていたそれを見せる。細波の残した石だった。
「取りに行ったとき、親父さんを見た」
 洋の顔色がさっと青ざめた。
「あの桜を」
 と志野はそのときの光景を思い浮かべるように軽く目を伏せる。
「見ていた。雨が降り始めていたのに傘も差さずに」
 それからわたしが見たことのないような笑顔を洋に向ける。
「雨で体が冷えたのかもしれないな。だとすれば、文字通りの冷や水だ」
 意表を突かれた様子で洋は口篭っていた。
「あらあら、二人とも正直ね。でも、お父さんが聞いたら今度こそ本当にひっくり返るわよ」
 祥子さんが笑う。彩花さんも口元をほころばせる。志野が笑い、洋がそれを真似るように笑みを浮かべる。

 和やかな朝食の景色の中に紛れ込んだそれはごくささやかな違和感だった。
 けれど見過ごしてしまうには、あまりにもあからさまに過ぎた。
 見つめるわたしの視線の先で、洋が緩く笑う。
 笑い、しかしわたしを見るその黒い目には、一分たりともおかしんでいる様子はなかった。