鬼喰 ― たまはみ ―

第三話 萌兆 五

 何とか片付けを終えると、わたしは部屋に戻った。
 ひどい眩暈がした。
 夕刻と同じように仰向けに転がったが、閉じた目の奥で意識はゆるい渦を描き続けていた。
 その渦の中でわたしは考える。
 わたしは当たり前のように鬼を見ていた。鬼が死した人であるなら、祖父も母も、わたしには見えたはずだ。
 そもそも物心つくまで、わたしは鬼と人とを区別していなかったのだから。
 いや、亡くなった人の全てが鬼となるわけではないから、祖父や母は鬼として凝るほど今生に悔いを残さなかったということなのか。
 だが、通夜の晩にも見ないなど、そんなことは他にはなかった。
 鬼としてこの世に残らない人々も、急に消えていなくなるのではない。葬儀からひと月を過ぎるころから気配がたびたび遠のくようになり、ふた月を待たずこの世から静かに去ってゆく。そういう印象があった。
 わたしは哂った。苦味が胸中に濃く澱む。
 この世から去った彼らが何処へ行くのか。どうなるのか。
 今この瞬間まで、わたしはそれを考えたことはなかったのだ。
「薄情な人間だな」
 こぼした言葉が耳から還り胸を貫いた。

 どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
 ふと障子の向こうに人の気配を覚え目を開けた。
 まだ完全に眩暈から解放されたわけではないが、足元のふらつきは解消されていた。
 月光に浮ぶ人影は、しかし部屋に入ってこようとはしない。
 そんな怪談を思い出しながらわたしは障子を開けた。
「志野」
 縁に立ち、桜を凝視している。
 サッシを開けて声をかける。
「どうかしたのか」
 風呂上がりなのだろう。濡れた髪が夜の風に触れ、わずかに湯気が立ち上っていた。
 桜から視線を外すことなく志野は答えた。
「変だ」
「え?」
「あの木は変だ」
 風呂からの戻り道、桜に違和感を覚え立ち止まったらしい。
 何がと問いかけようとして、わたしは思い出した。
 生きている気配はなく、しかし枯死してはいないその感触を。
 志野の視線を追って桜をみる。
 しかし煌々と照らす月光に黒い枝を伸ばすその姿にこれといった異変は見られなかった。
 首を傾げるわたしに志野は問いかけた。
「あの木、あんたがここにいる頃からあるのか? ずっとあんな感じで?」
「うん。わたしが小さいころにはもうあんな感じだった。あの桜は三代目で、ええっと……曽祖父の祖父」
 わからなくなって指折り代を遡る。
「親父から遡って五代前の主が植えたってことになってる。西暦で言うと一八〇〇年代の終り頃ってことになるのかな。初代は一六〇〇年代の中期、二代目は一七〇〇年代の後期に植えられたって聞いてる。家伝でしかないけど」
「へえ」
 異変とは別に時間の長さに感嘆したらしい声が志野の口から発せられた。
 それから「桜なのか」と呟いた。
「ソメイヨシノだって言われてるけど」
「違うのか」
「どうだろう。確かめてもらったことはないから」
 家伝を信じるなら、あの桜は短く見積もっても樹齢百年に達する。
 成長が早いソメイヨシノは樹勢が衰えるのも早い。聞くところによると早いものでは三十年を過ぎるころから樹勢が衰え始め、六十年から七十年で枯死するらしい。その一生は人の一生とさほど変わりない。
 あれが樹木としてはことに短命といわれるソメイヨシノだとするなら、極めて長寿だ。
 いや、元がひとつであるのなら、樹齢数百年の桜の枝が大地を幹に生えているとも考えられもするのだから、ソメイヨシノを短命と言ってしまうのは語弊があるかもしれない。
 染井吉野とよばれるわたしたちはすべて一人。あなたの家にもわたしはいました。
 かつて桜はそう言った。
「本人はそうだって言ってた」
 桜に本人というのも奇妙だが、他に適当な言葉がない。言うと志野はあっさりと頷いた。
「じゃあそうなんだろ」
 桜が? 木が? とは、志野は決して言わない。
 それが稀有だということを久々に実感した。
 なんだと訝しむ目を向ける志野に、信じるのかと問うと唇に僅かな笑みを浮かべた。
「あんたを? それとも桜を?」
 その応えにわたしは一年前に交わした会話を思い出した。
 恐ろしくないのかと志野はわたしに尋ねた。
 君が? それとも鬼が?
 反問は声にはしなかった。聞き返したのは別のことだ。
『君はこわいのか』
 志野はそれを引き合いに出しているのではないだろう。
 ないのだろうが、わたしには聞こえた。
『あんたは信じないのか』
 やられた。
 桜を疑うのか、自分を疑うのか。
 どちらにしてもはい、いいえで答えられるものではない。
 志野の切り返しに内心で舌を巻きつつ、しかし勝ち誇るような笑みに一矢報いてやろうと言葉を探す。
「……わたしを、かな」
「……」
 案の定、笑みは動揺に一瞬凍りつく。
 まるで信じてはいないと嘘をつけるほど志野は器用ではなく、だが多少なりとも信じていると臆面なく言ってしまえるほど正直でもないのだ。
 どんな答えを返すものか興味深く見守ると、かなりの間をおいて志野は答えた。
「疑う根拠がないと言っておく。ついでに言うと、聞く相手を間違えてないか」
 間違えたとわたしも思っていたところなので、それ以上の追求はやめた。
 話を戻す。
「そういうことで枝ぶりは多少変わってるだろうけど、十六年前と比べて特に大きく変わった感じはないな」
 生まれて十八年、変わりない姿を目にし続けた。十六年ぶりに見る姿もやはり変わらない。
 だからこの先もずっと変わらないような気がしていた。
 けれど、いずれあの桜も枯れるときがくる。人と変わらぬだけの命しか持たないのであれば、それは今なのかもしれない。あの静かな気配は桜が天寿を全うしようとしているためだとは考えられないだろうか。
 志野は首をひねる。
 煮えきらぬ様子に、
「どう変なんだ?」
 促すと志野はもう一度桜に目を戻した。
「わからない。変だと思っただけだ。気のせいかもしれない」
「雪白さまが何か?」
 もし桜が寿命を迎えようとしているなら、雪白さまにはそれがおわかりなのかもしれない。
 しかし志野はこれにも首を振った。
「何も」
 逆に雪白さまならおわかりになるような心当たりがあるのかと表情で問われる。頷き、実は、と言いかけたときだった。
「兄さん」
 わたしは咄嗟に口を噤んだ。
 わたしたちの仕事について、洋には――もちろん親父や祥子さんにも――何一つ具体的なことは説明していなかった。
(元)神社で働いているとしか伝えてはいない。
 たとえ本当のことを言っても理解されないことは簡単に予想されたからだ。
 いや、理解されないのはいい。それは当たり前だ。しかし奇異の目で見られたくはない。
 反射的に口を閉じてから、全てを包み隠さず語れるほど近しい関係ではないことにあらためて気づく。
 罪悪感にも似た苦味が再び心中に満ちる。
「お風呂空いたから先に」
 言いかけてわたしたちの空気に気づいたのだろう。洋はわたしと志野を交互に見る。
「ごめん、邪魔した?」
「いや……」
 かつて志野の力や仕事を隠すために、そのご両親や友人たちに対して嘘をついたようには口が回らなかった。
 先が続けられないわたしを見かねたのか、
「桜を見ていた」
 志野が言う。
「縁起が聞きたい」
 あんたの兄さんはたいしたことは知らないらしい、とわたしを指す。
 知らないわけではないのだが。
「花に興味が?」
 意外そうに問い返した洋に志野は軽く頷いた。
「あれだけ立派だと興味も湧く。花に興味があるわけじゃないが」
 頼もしい鉄面皮にわたしはこの場を任せることにした。
 そう、と頷き、洋はわたしを振りかえる。
「じゃあ、先に入ってもらえるかな。後は俺と兄さんだけだから」
 この場にいてもボロがでるだけだ。
 わかったと答え、わたしは仕度をすべく部屋に戻る。入りしな、洋の語る話が聞こえた。
「仰木の家の桜は、寺の縁起とも深い繋がりがあります。そもそもの初めは今を遡ること三百と六十余年」
 それから二人の傍らを会釈で通り過ぎ、わたしは風呂に向かった。

 今を遡ること三百と五十年、とわたしは教わった。あれから十六年が過ぎていることをこんなところでも知らされる。
 湯船に浸りため息をついた。
 その湯船もわたしの知っているものではない。
「今を遡ること三百と五十年」
 呟きに蘇るのは父の声だ。
「江戸に幕府が開かれてまだそれほどの時もたたぬころのこと、ある旅人が山間の小さな里に立ち寄った」
『いいえ。道に迷った旅人が山間の里に辿りつき、です』
 父はいつもそこで間違えた。その度に母が訂正をした。
 そうだった、道に迷って辿りつき、と父は言いなおす。
「道に迷って辿りつき、だぞ」
 母の膝上に座るわたしに言い含めるように繰りかえす。
 緩い日差しをなんとなく覚えている。
 桜ははらはらと花びらを降らせていた。
「古びた寺の軒先で一夜を明かし」
「古びた屋敷の軒先で、です」
「そうか……まだ寺じゃなかったんだ」
 明治になるまではここは神社の別当でしたから、と母が言う。
 古いほうがありがたみがあるのにとこぼす父に祖父の喝が飛ぶ。亀のように首をすくめる父。少し離れたところから聞こえる大笑いは祖父の弟子でもあった父の友人のものだ。
「なんて言ったっけ……」
 名前が思い出せない。
 父より年上だったはずだから、今は六十を越えているだろうか。

 神仏分離令が施され、廃仏毀釈の流れの中で、何ゆえあえて「寺」であることを選んだのか。
 別当に勤めていた社僧の多くは還俗し、神官になったはずである。
 祖父に聞こえないよう、小声で父は母に問う。
 答えは友人から返された。
 縁側の柱にもたれてその人は言う。
「なあに、へそ曲がりだったからさ。きっとよく似てるぜ」
 親指で肩越しに差す先には祖父がいた。
 なるほどと頷く父に、母が小さく笑いをこぼした。
「お上に押し着せられるくらいなら、と、みいちゃんの祖父さんの祖父さんが、うちの寺を頼ってきたのが六十年と少し前」
 みいちゃんというのはわたしの母だ。
「それで当時の門主、俺の祖父さんの祖父さんがちょっとばかり無理をきかせて、寺にしちまったって話だ」
 親指と人差し指で輪っかをつくってニヤリと笑った。
 当時のわたしにその意味は分らなかったが今のわたしには察しがつく。
「分離令が発布されてから、あちこちで随分な騒ぎになったらしいからな。中には神社としての縁起を、でっち上げ半分に作って生き残りをはかった別当ってのもあったらしいぜ」
「縁起を作る? そこまでくると信仰心以前の問題だな」
 片眉をあげた父はそう感想を述べた。驚きと呆れがその声にはあった。
「さて。信じるからこそなんとしても残したい、ってのもあるぜ。一概には言えんよ」
 父を嗜め、だけど、とその人は笑う。
「仏を神にでっちあげ、臆することのないお人らを信じるのは、いかにも拙かったな」
 寺から神社へと姿を帰ることで生き残った別当の数は思いのほか多かったのだろう。それ以前からの社数も多い。しかも系統はあまりにまちまちで、彼らが目指す政教あわせての一元管理には程遠かった。
「そこで今度は神社合祀令だ。一村一社に限定されて、あっさり廃社。この上にあった神社の合祀先は確か川向こうの神社だったかな。末社のひとつになってるはずだ。で、まあ、ここいらでは、この寺だけが生き残った、と」
 無茶をしやがるなあとぼやく父にその人は語る。
「寺を神社にしちまうお人らだ。神社をひとつに纏めるくらい屁でもなかっただろうよ。いやだねえ。信心の欠片もありやしない」
 当時のわたしにはその人の苦い笑いの意味はわからなかったが、今こうして思い返してみると、やはり随分なことをしたものだと思わずにはいられない。
 神道、神道などと言いつつも、内心では神の存在をまったく信じていなかったということだ。

「よくお許しになったよな」
 あるいはそれを許す祇(かみ)だけを移したのかもしれないが。
 天井から垂れた湯気の描く波紋を見つめ、わたしは記憶を探った。

「お上が神と言えば言うほど、……俺はね、神も仏もうすっぺらな絵空事になってゆくような気がするよ」
 通り過ぎる風に、花びらはさざめいて空を渡る。空に白い波が立ったようだった。
 木々の枝を鳴らす音が潮騒のように聞こえる。
 波立つ空を見上げてその人は呟いた。
「御仏に仕えていたはずの親父も兄貴たちも、いまや九段の桜の神さまだ……笑えねえなぁ」
 笑えない、と言いながら、その人が口の端に浮かべた笑いは幼心にも空寒さを覚えるものだった。
 思わず母の手を握ったわたしの背を、もう一方の手がとんとんと叩いた。
 彼は静かに庭の桜を見つめる。その彼を見、父は墓地に目を遣った。
「昔っから死人(ほとけ)に口無しとは言うが」
 九段の桜の神さま、という比喩が、おそらくそのときの父にはわからなかったのだろう。
 父は首を傾げて言った。
「文句は言わないにしろ、ある日突然神さまにされたんじゃ、仏さんもさぞかし驚いただろうな」
 物騒な笑みがその人の口元から消え、苦笑がそれにとってかわる。
「それでも文句を垂れないところが、仏の懐の深さってもんさ」
「そんなもんか?」
 疑わしげに友人を見上げた父に、彼は肩をすくめる。
「さあな。俺も直に聞いたわけじゃねえからな」
 その人らしい言いように父は笑おうとしたのだと思う。
 けれど、聞きたいことは他にもあるが親父も兄貴も写真でしか会ったことはないから、と続けられた言葉に笑い声になるはずだった息はのみこまれてしまった。
 そこで父はやっと九段の桜の神さまに思い当たったに違いない。
 気まずさを覚え、口篭る父の肩をその人は軽く叩いた。
「ま、祈りの形は違っても、信ずる心に変わりなし、というところで」
 常の陽気な表情でぽんと手を打ったその人の背に祖父の怒号が飛ぶ。
「いい加減にせい!! タカマサ! 彰英! 瑞江、お前もだ!!」

「そうだ、タカマサさんだった」
 二歳児の記憶もまんざら悪くないらしい。
 すくった湯でわたしは顔をすすぐ。
 自分の力に気づく以前の思い出が温かければ温かいだけ、気づいて以後の思い出との差を思い知る。
 そして温かな記憶の中にある人々の半分はすでに亡い。
 五代に亘って続いたタカマサさんの家との親交も、母の死を境に疎遠になっていった。
 最後にあったのはいつだったろう。
 洋が生まれたころだったろうか。
 過去を共有できる人々との思い出ではなく、断片しか思い出せない遠い過去をより懐かしんでいる事実が辛かった。
 ここが帰る場所になりえなかった理由をつきつけられたようにも思った。
 もし、とわたしは思う。
 もし母が、祖父が生きていたなら、わたしが鬼を見ることを話せただろうか。理解してもらえただろうか。家を出ずにすんだだろうか。
 それは永久に答えの与えられることのない問いだが、この問いにはただ一つ、明確な前提がある。
 仮に母や祖父が生きていたのなら、わたしは空想の中にしか存在しない過去を思うことはない。
 そのかわり、その世界には洋や祥子さんはない。
「もし」を想像する。それはあの二人の存在を認めない時間を想像することなのだ。
 洋や祥子さんがいなければいいと思ったことはない。けれど、母や祖父にいてほしかったと思うことはあった。
「本当にそうだろうか……」
 母や祖父にいてほしかったと思うとき、洋や祥子さんがいなければいいと思うことは、本当になかっただろうか。
 思うからこそ、ここが帰る場所だとは思えなかったのではないだろうか。
 わからない。
 ここにきてもう何度目かわからないため息をつく。
 ため息で魂が抜けるなら、今のわたしは抜け殻だ。
 もう一度ため息をつきそうになり、思いとどまる。
『ため息をつくことに慣れると、ろくなことはありませんよ』
 神主さんの声が耳に蘇る。
 出会ってすぐに言われたことだ。
 鬼のいない境内に逃げ込み、どうしたものかと鳥居の外を見つめていたときだった。
 一生逃げまわって過ごすのかとついたため息に、彼はそういった。
『時には息をついて思いを外に逃がしてやることも必要でしょう。ですが、今のため息には逃がしてやるという余裕はない。ため息と一緒に必要なものまで捨ててしまってはいませんか』
 必要なものを捨ててきたことを今のわたしは知っている。十五年が過ぎて、やっとあの日の言葉を理解した。
「情けないな」
 意識して大きく息を吸い込む。しかし湯気の満ちた風呂場の空気ではかえって息苦しいだけだった。
 窓を少し開ける。
 互い違いに組まれた板戸の隙間から心地よい風が吹き込んだ。
 風が湯気を晴らす。
 深く息を吸い、静かに吐く。
 繰りかえすうちに、胸のうちの靄もわずかに晴れた気がした。

 格子の隙間から桜が見えた。
 静寂の中に佇む姿は遠い。
 記憶の中の故郷となったはずの場所との距離のように感じた。
 目を天へと泳がせ月を見る。
 朧にかすむ月からは春の匂いがする。
 明日はきっと雨になるだろう。