鬼喰 ― たまはみ ―

第三話 萌兆 二

 ともあれ志野にも一緒に来てもらうことになったが、彼の同行にはひとつだけ問題があった。
 裏の墓地のみなさんだ。
 彼らが人でないことに気づいて以来、誰にも打ち明けたことのない彼らの存在を、わたしは志野に話した。
 寺の墓地には古くからの知り合いがいること、これといった悪さもしていないことだし、鬼として喰わせてしまいたくはない。
「どうしようか」
 昨年秋の一見以来、鬼を見るようになり力に方向性を持たせることに成功した志野だが、ふとした折に気づけば鬼を喰っていた、というような事は少なからずあった。
 つまるところ力を向ける先は制御できても、力の発動に関しては制御も完璧とは言いがたい、ということなのだろう。
 わたしの問いかけに、志野は言う。
「雪白、少しの間この力を封じることはできるか」
 形ばかりは疑問系のその要求に、雪白さまは一言「是」と答えた。
 しかし長くは持たないことを雪白さまは仰り、わたしたちはひとつの事実を知らされたのである。

「まさか数時間じゃないだろうな」
 眉を顰めた志野に、雪白さまは頷く。白湯を啜り、それから言った。
「七日は持とう」
 それだけ持てば十分なのか、たったそれだけしか持たないと考えるべきなのか。
 わたしは鉄瓶から空いた湯飲みに白湯を継ぎ足す。
 鉄瓶は「志野」が買ってきたものだ。おそらくは雪白さまが求めたに違いない。
 その鉄瓶がわたしの部屋に鎮座ましまして二ヶ月。
「身を持たぬ鬼がこの世にあり続けるは易くない。気を留めおく器を持たぬでな」
 目まぐるしく入れ替わる志野と雪白さまに戸惑っていたのは、数日のことだった。
 こうして語らうことにも慣れ、それぞれのペースにあわせて白湯やお茶を継ぎ足すことにも慣れてしまった。
「身があればこそ、一時気が失せようとも散じることはない。失せたように見えようとも、気は身のうちに留められておる。留めおく器を持たぬとなれば、散じた後はゆるゆると滅するのみよ」
「寺岡さんが狙われたのはそのせいでしたね」
 さよう、と雪白さまは再度頷いた。
「器があれば、気を散じることはない。しかれども、鬼は陰の凝り。器はじきに陰の気に蝕まれ、用をなさなくなる」
「それを防ぐには陽を喰らう必要がある、ということか。それで?」
 せっかちというか、直裁というか、志野の口調には苛立ったような響きが含まれる。
 雪白さまはかすかに口元を綻ばせ続けた。
「同じことだ。吾はそなたという器を得た。吾が変じ散じることはもはやない。だが吾の気は、いずれそなたを蝕む」
 ぎょっとして動きを止めたわたしに、案ずるな、と雪白さまは言う。
「ゆえに吾はこれの喰らう鬼の気の陰を以て、吾の気の陽を封ず」
「打ち消していらっしゃる……」
 わたしの半端な問いにも、まこと説くに手間がない、とでも仰られているかのように雪白さまは頷いた。満足げな表情で湯飲みに手を伸ばす。
「ですが雪白さま」
 首を傾げつつ、わたしは訊ねた。
「人には人が持つに相応しい気とその大きさがある、と前に仰られましたが……志野は」
 雪白さまの気と、それに見合うだけの鬼をともに宿し平然としている志野の存在をどう受け止めてよいのやら。
 ためらいがちな問いかけに雪白さまは、ふむと頷き、同時に少しお考えになる素振りを見せた。
「そこがこれの稀有なところよ」
 これ、と呼ばれ続けている志野は表に出てこない。
「吾を宿し、なお数多(あまた)の鬼を喰む」
 脳裏を過ぎったのは、桜が見せてくれた光景だ。あの家がまだ人手に渡る以前のことだろう。
 桜の花に紛れ、家人を見守る白い小蛇。
 そう、雪白さまは、人のうちにはいなかった。
「このように言を交わすも、まこと久しい」
 目を細めたその表情には、単に懐かしんでいるだけでもなさそうだったが、なんとなくそれ以上を問うことは憚られた。
 それにしても雪白さまの気を相殺するだけの鬼となれば、その数はいったいどれくらいなのか。
 はじめてお会いしたときのあの威圧感を思い出し、わたしの背に寒さとは別の震えが走る。
 あのときの雪白さまに比べれば、麦や細波の気は随分穏やかなものだ。
 昨秋お世話になったあの水神さまと比べても、どちらがどうとは語れない。
 志野の中にいる雪白さまとはこうして話すことにも慣れたが、それは雪白さまの気が緩和されているからなのだろう。
 それでもときには平伏したくなるような畏れ多さを感じるのだから、やはり「神さま」なのだと思う。
 そう考えてみれば、すごいことだ。目の前に座るこの人物は、「生きたご神体」とも解釈し得るのだから。
 神主さんが志野を社に関わらせない理由も、そこにあるのかもしれない。
 しみじみと志野という「器」の大きさと強さを思った。とすると、陰陽ともに気の薄いわたしの「器」は小さくて弱いということだろうか。面白くない想像なのでこれ以上を考えるのは止めておく。
 感嘆のため息とともに、「なるほど」とわたしが頷き「うむ」と雪白さまがお応えになる。
 そこでやっと志野が言った。
「ちょっとまて。俺にはさっぱり話が見えない」
「長くは持たぬ、ということだ」
 それだけわかればそれでいい、とばかりの雪白さまの言に、志野は眉を顰めた。
 志野に知られたくないというより、説明を面倒に思われたのだと思う。
 差し出がましいとは思ったが、わたしは志野に説明を試みた。

 一時とは言え、人の身に神を宿らせることは難しい。
 依坐(よりまし)と呼ばれる人々も、恒常的に神を宿らせることはできない。
 ほんの一言の託宣を得る、それが精一杯ではないだろうか。それだけでも人の消耗は激しい。
 言うと志野もそれには同意した。細波のことを思い出したのだろう。
「二度はごめんだな」
 こぼされる言葉にはとりあえず笑い返したが、わたしもできれば二度あってほしくないと思う。
 半ばとはいえ神である細波を身の内に受け入れたときの志野の苦しみようは尋常ではなかった。
 あれが志野の器としての容量の限界だったのだろう。
 思えばあの夏の日から、細波が別の依り代を見つけるまでの間、志野は体調を崩しがちだった。
 わたしは問いかけた。
「細波と雪白さま。あれがおまえの限界だったとしても、それじゃ、どうして雪白さまだけなら大丈夫なんだ? 理屈から言えば、細波と同じことだろ。神さまがおまえの中にいる、という観点で考えれば」
 まだ要領を得ない様子の志野に、わたしは言う。
「雪白さまはお前が喰った鬼の気で、ご自身の気を封じていらっしゃるんだよ」

 茶菓子に伸ばされた志野の手が止まった。

 二杯のお茶と一杯の白湯が立てる湯気の音が聞こえてしまいそうな沈黙の後、志野が「そうなのか」と雪白さまに聞いた。
「然り」
 と、これまた短い返答があり、今度は茶菓子の声なきささやきが部屋を満たす。
 雪白さまが志野から離れれば、志野は際限なく鬼を喰み続ける。喰んだ鬼を解せなければ、志野は陰の気に蝕まれて終わり。
 雪白さまが内にあれば、無駄に鬼を喰らうことはなくなるが、雪白さまの陽の気は志野を傷つける。
 それを防ぐために、雪白さまは鬼の気を用いて自らの気を封じているのだが。
 志野にとっては面白くない結論かもしれない。

 しかし志野から発せられた問いは、わたしの予測したものとは異なった。
「大丈夫なのか」
 雪白さまに向けられたその声に、雪白さまが柔らかく微笑む。
 陰の気を嫌う神が、陰気の凝りともいえる鬼の気で自らの気を封じる。
 その負担を慮った志野に、わたしはそのときの雪白さまの表情を見せてやりたいと思った。
 神々しいというほど冷たくはなく、慈しみほど遠くもなく、優しいというほどあからさまでもない。
 向けられているのはわたしではないのだが、思わず惚けるような笑みだった。
 手元に鏡がない――雪白さまがいつぞやのように何かに影を映してくれたならそんな必要もないのだが――ことが悔やまれたほどだった。
「大事無い」
 案ずるな、と雪白さまは目を閉じる。
 まなうらに描かれるのは志野によく似た面差しのあの巫(なぎ)だろうと思う。
「鬼の気ごときに、気を違えるほど吾の霊(ひ)は易うはない。……そなたが在る上は」
 少し間をおいて続けられた言葉に、出会ったときの雪白さまのお姿をあらためて思い出し、わたしはそっとため息をついた。

 志野はその雪白さまに「そうか」とだけ言う。
 これといった関心はない風情で志野は茶を啜る。それから思い出したように茶菓子にあらためて手を伸ばした。
 個包装を解きながら志野は訊ねる。
「旅程は五日か」
「それ以上はわたしのほうが持たない」
 緊張で、と続けると志野が小さく笑った。
「あんたの家だろ」
 それから「じゃあ、なんとかなるな」と志野は伸びをして、手にした茶菓子をやっと口にしたのだった。

 力の一部を封じるよりも、一切を封じるほうが面倒がない、と雪白さまは仰り、志野の力が封じられたのは今朝のことだ。
 それきり雪白さまの気配もない。
 駅のホームで周囲を見渡した志野が、見えないことがこんなに清々しいとはな、などとしみじみと言ってくれたので、わたしとしてはうらやましく思ったのだった。
「忘れるなよ。今朝のことだぞ」
「悪い」
 道々に出会う鬼は麦が追い散らしてくれたので――亀さんたちにはそういうことをしないよう、言いつけておかなくては――特に不自由しなかったためでもあるだろうが、そのことを忘れていた一番の理由は「実家に戻る」という重圧だと思う。
「それにしても、まったく見えないだなんてさすが雪白さまだね。わたしの目も封じてもらえないかな」
 苦笑まじりにそういうと、志野は肩をすくめ首で墓地を指した。
「例の知り合いなんだろ? 見えなかったらガッカリするぞ、やつら」
 志野は墓地を顎で指す。
「そうだね。……あとで挨拶に行かなくちゃな」
 真上から注ぐ光に、のびのびとした風情で寛いでいる「みなさん」が、陰の気しか持たぬ鬼であるとは俄かには信じがたい思いがした。
 和ちゃーん、和ちゃーんと呼ぶ彼らに、わたしは小さく手を振った。
 少し迷ったようだが今は鬼を映さぬ目を、それでも墓地に向け、志野はわたしに倣って手を振った。
 亀さんたちの歓声が一際大きくなった。

 あらためて荷物をとり、洋の後に続く。
 本堂の前を通り、母屋に向かうその道も、随分変わった。
 砂利は玉砂利に、竹矢来は生垣に、花壇だった場所には小さな畦(うね)が作られている。菜園だろう。
 見回しつつ歩いていたわたしは、
「おい」
 そう声をかけられ、志野の視線を追った。
 そこには彩花さんと洋の背中がある。
 寺と家の敷地の段差に、彩花さんが躓いたようだった。
 それを洋の手が支えている。
 大丈夫ですか、ありがとうございますといったやり取りが聞こえた。
 わたしにはどこかよそよそしさを感じさせる洋だが、彩花さんには礼儀正しい丁寧な態度で接していた。
 長年兄が世話になったから、だろうか。
 とすれば、志野にだって礼儀正しくても良さそうなものだが、と思う。
 まあ、野郎に親切にするよりも、娘さんに親切にするほうが、楽しい気持ちはわからなくもない。
 現に志野でさえも、神主さんやわたしに対する態度と彩花さんに対する態度はささやかに、けれどはっきりと違うのだから。
 しかし「そういう年齢になったのだなあ、あの小さかった弟が」などと思うと、またわたしの気持ちは緩やかに下降しはじめる。
 なあ、と志野が小声でわたしの袖を引っ張った。
「万が一あの人だけ残ることになったら、あんたどうする」
 あの人というのはこの場合彩花さんのことだろう。
 思いも寄らぬその問いに、わたしは二、三秒考えた。
「置いて帰るようなことになったら、神主さんに祟られるだろうな」
 もしを想定したとき、最初に思ったのはそれだった。
「そんなことじゃないだろ」
「そんなことって……案外太いな。七代祟るよ確実に」
「七代ももたないだろ……いや、そうじゃなくて」
 言いかけた志野だが、ため息混じりにもういいと口を噤む。
 何を言おうとしたのかあらかた見当はついたが、仮にそういうことになったとしても、それは彩花さんが決めることだ。わたしがどうこう言うものでもないう。
 第一、万が一にもそんな事態は起こりえない。少なくとも今回は。
 それは洋の様子を見れば明らかだった。
 洋の彩花さんへの態度は慕っている、親しんでいると言うよりは、懐いているとでも言うほうがしっくりくる。
 ……そう、あれは「懐いている」だ。十六年前は、その対象がわたしだった。
 そのわたしは、今や彼にとって懐くべき対象ではなく、もしかしたら嫌われているかもしれないのだ。
 嫌われているのかもしれないと思った直後に、しくりと胸が痛んだ。
 十六年、ろくに連絡もしなかったこれも報いだろう。
 目をそらすと、本堂と奥を繋ぐ短い渡りの向こうに懐かしい桜が見えた。
 枝先の蕾は鮮やかに染まり、遠からぬ開花を語っていた。
 慰められたように思いながら、そういえばあの桜に会いに来たのだったと、わたしは帰省のきっかけを思い出していた。
 その理由の勝手さに、一層申し訳なさは膨らんだ。
 罪悪感と後悔で、わたしの歩みは重いものになる。前を行く洋との距離が緩やかに、けれど確実に開く。
 そのわたしを、彩花さんとの会話の合間に、洋は一瞬だけ振りかえった。
 見知らぬものを観察するような洋の眼差しに、わたしの心臓はもう一度大きく音をたてて軋んだ。

 玄関をくぐる。
 ただいまと大きな声で言う洋を、羨ましく思う。
 わたしもただいまと言うつもりだったが、見覚えのない靴箱がそれを封じた。
 見たことのない靴箱の上には、見たことのない花瓶があり、花が生けられていた。
 ただいまと言うことは、わたしに許されるのだろうか。
 かつてそこに置かれていた古い靴箱を思い出し、下駄を履く祖父の姿を思い出した。
 過去の風景を今の風景に重ね、さらに迷いは大きくなった。
 だからといって「お邪魔します」とは言えない。
 言ってしまったら、もはや二度とただいまとは言えなくなる。
 言葉どころか呼吸さえままならない。
 迷いと緊張が頂点に達するそのとき、奥の部屋から父が顔を出した。
 口を利けないでいるわたしを見、父は「何を呆けている、客人を立たせたままにするな」と大声で叱った。
「客棟の用意はできてる。ご案内しなさい」
 ほんの数日留守をしていただけのような容赦ない叱責に、わたしの口は反射的に「はい、ただいま」と返していた。
 そのただいまは、そのまま「今すぐに」という意味のものだが、それでとりあえず、わたしの帰宅は果たされたことになったのだった。