鬼喰 ― たまはみ ―

第三話 萌兆 三

 親父に言われるままにわたしは二人を客間へと案内した。
 わたしが家を出るときは鮮やかな緑色だった畳も、今は薄い黄色に焼けていた。その焼け具合からは、何度か表を変えたことが窺えた。
 表替えにまつわるいくつかの思い出を、わたしは振りはらう。
 客棟にはふたつの六畳間が四畳半の小部屋を挟んで直角に並んでいる。
 どちらにどちらを使ってもらうべきか迷ったが、年功序列、中庭に面した床の間付きの部屋に彩花さんを、玄関隣になる部屋に志野を割りふった。
「あんたの部屋は?」
「反対側。土間の向こうだよ……十六年前は」
 そういえばわたしの部屋はどうなっているのだろう。
 荷物を運び入れる手伝いをしていた洋がそれに答えた。
「兄さんの部屋はそのままだけど。それとも三人でこっちに泊まる?」
 家人として認めない、という意味だろうか。それとも単にわたしはこの家にとって客でしかないという意味だろうか。
 わたしはまた返事ができなかった。
 答えなかったために生まれてしまった空白に、わたしはさらにたじろいだ。
 音も色も、何もかもすっぽ抜けたような白々しさに居た堪れなさを覚える。
 と、荷物を整える手を止め、志野が顔を上げた。
「俺はあんたと枕を並べるのは嫌だぞ」
 さきほどの青白い沈黙とは異なる間ができる。
 枕を並べる、が討死の意味であるならまだしもだが、そんな意味さえ志野は知らないだろう。
 洋がもの問いたげな視線をわたしに向ける。常であれば苦笑を浮かべる程度の反応は返せるものの、しかし、立て続けの狼狽にわたしの「言葉」はどこか彼方に飛んでいってしまったまま帰ってこない。
 春の強い風が庭木の枝をゆらす。松の葉が風に奏でる音は雨音に似ている。
 一瞬の夕立のように、風が吹き去った後には三度静寂が訪れる。
 さらに数秒が経過し、彩花さんが堪えかねた様子で笑い出した。志野はわずかに首をかしげたが、彼女が何に笑いを誘われたのかはわかっていないようだった。彼女は控え目に笑い、言う。
「わたしもご遠慮申し上げます」
 その声に、人の声の温かさをあらためて感じた。
 小さく息をつく。同じ間合いで吐かれた息があった。
 洋だ。
「じゃあ、自分の部屋を使ってもらうしかないね、それでいい? 兄さん」
 ああ、だか、うん、だか、答えたような気がする。いや、ただ頷いただけだったろうか。
 まだなんとなく仄白い空気の中、二人が荷物を整え終わるのを待って、居間で待つ父の元へ向かった。

 居間へと二人を案内しながら、中庭の変わらぬ風景に安堵した。
 ひょうたんの形をした池も、架けられた小さな橋も、縁石も、庭木も、わたしの知る庭のままだった。
 松の枝ぶりも、丸く刈り込まれた柘植の形も、日を映して漣だつ水面も、記憶と違う箇所はない。
 ふと母を思い出す。思い出すといっても、明確な形ではない。
 文庫を背に、橋の上に立つおぼろな影だ。
 しかし懐かしさに目を向けた先、庭を取巻く建屋には小さな変化がいくつも見受けられた。
 中庭をはさんで向こうに見える文庫の窓からは飾格子が取り除かれ、振りかえった数奇屋の丸窓は板戸で塞がれていた。
 よく見れば雨戸も木戸からステンレスに変わっている。
 古い雨戸だった。重い戸を毎朝開ける。それだけで、夏場はうっすらと汗をかいた。
 思い出は、母の明るい声に打ち切られた。
「遠いところをお疲れになったでしょう。ゆっくりなさってくださいね」
 中ほどまで進んだところで、奥から出てきた母が二人にそう挨拶する。こちらへどうぞと身を屈める母からわたしに視線を移した志野が囁いた。
「なあ、あれ、お母さん? それとも叔母さんか何か?」
 そしてわたしはまたしても言い忘れに気づいた。
 どうやら帰省を決意してからと言うもの、親父に何をどう言うかだけをわたしの頭は考えていたらしい。志野がわたしの家族について何も知らないことを失念していた。
「母だよ」
「若いな。幾つで結婚したんだ」
 あんたを生んだのは何歳のときだ、と、続けられる問いにわたしは答える。
「父の後妻なんだ。洋を生んだとき、たしか二十歳だったはずだから……どうした?」
 廊下の中ほどで歩みを止めた志野を振りかえる。
 何かを言いかけ、目線を泳がせた志野は何秒か躊躇った後小さな声で「悪い」と言い頭を下げた。
 謝られるようなことではないし、といって何も言わずにいるのも、と迷う。
 先を歩いていた「母」が振りかえった。
 先といっても数歩のことだから、志野の声は聞こえていただろう。
 彼女は笑い、志野に歩み寄る。
「驚いた?」
 子供のように頷いた志野に「わたしも驚いたわ」と微笑み、それからその手を伸ばしわたしの耳を掴み、きつく引っ張った。
「……痛いです、祥子さん」
「こういうことは前もってお話しておかないと、後から聞かされたって困ってしまうでしょ。こら」
「すみません、うっかりしていました」
「どうせお父さんへの言い訳だけ考えていたんでしょう?」
「そうです」
「あいかわらずねぇ」
 実感のこもった祥子さんの口調に、目を丸くして見ていた彩花さんがくすくすと笑う。
 赤くなった耳をさすりながら志野に目を戻せば、こちらもまた笑いを堪える表情でわたしを見ている。

 ほっとした。
 それが正直な感想だった。
 変わらぬ様子で迎えてくれる人がいることに、わたしは安堵し、そこでやっと帰ってきたのだという思いを抱いた。
 祥子さんがお茶を入れるためその場を離れ、彩花さんが部屋に入る。
 続いて志野とわたしが入ろうとした。

「うっかりしてました、か。都合のいい言葉だね」

 凍てついた空気にわたしは呼吸を縛られた。

「うっかりしていたら、十六年が過ぎました。なるほど」

 わずかに含まれた笑いの響きが、寒気を一層際立たせた。
 中庭から差す光に、磨かれた廊下は氷のように滑らかな光を返す。
 雲がかかったのだろうか。冷たい光はすべるように廊下の奥から手前へと流れてくる。
 光がわたしの足元に到達する。足先から冷え冷えとした空気が這い登る。

「おい、おまえ」
 志野がそれより先を言う前に、洋は口元を押さえて言った。
「失礼。つい『うっかり』 ごめんね兄さん」
 もうこの段になると、自分が何をどう答えたのかさえ覚えていない。
 本当のことだから仕方がないというようなことをわたしは答えたのだと、後になって志野から聞かされた。
「別にいいんだけど」
 口元だけで笑い、洋はわたしに背を向けた。

 そういうことがあったものだから、戦々恐々としていたはずの親父との対面は、なんだかわからないうちに終わっていた。
 歳をとったなと、親父の着物の肩による皺を見て思ったことと、彩花さんと祥子さんの打ち解けた様子で交わされていた「声」だけを覚えている。
 話の内容なんか、わからなかった。

 わたしの部屋は、出て行ったときのままだった。
 珍しげにあちこちを嗅いで回る麦を蹴とばさないように部屋の中央に立つ。
 ぐるりと見回して、壁の一点で視線が止まる。
 今となっては見るに忍びないポスターもそのままに貼られていた。
 剥がそうか、剥がしていいものだろうかと悩んでいると、いつものように志野がやってきてどっかりと畳に座り込む。
 違うのは、彼が飲み物を持参してきたことだ。
 ちらりと壁に視線を投げた志野がポスターを見て「誰? これ?」と心無いことを問う。
 それには答えずわたしは反対に訊きかえした。
「彩花さんは?」
「あいつのお袋さんと一緒に夕食の買出し」
 言いながら途中駅で購入したお茶のペットボトルを二つ、無造作に置く。
 目に馴染んだその景色になんとなく安堵感を覚えながら、わたしもその対面に座った。
「聞きたいことがたくさんあるんだが、うっかりしないで教えてもらえるとありがたい」
 その静かな剣幕に、わたしは洗いざらい吐かされることになった。

 家を出たのは、寺を継ぐことはできないと思ったからだ。
 鬼を見、鬼の声を聞き、鬼と語らう自分では、住職にはなれないと思ったのだ。
「考えてもみてくれよ」
 わたしの声は自分でも情けないほど力ないものだった。
「葬式にいくだろ? ご愁傷様ですって挨拶をするその場に、死んだはずの人が立ってて『この度はお世話をおかけしまして』 四十九日を過ぎて、百か日を過ぎて一周忌、喪が明けてそこの墓地で『おや、お出かけですか、お気をつけて』だぞ。そういう状況で、成仏だの浄土だのと説法を語れるほど、わたしは肝が据わってないんだ」
 志野は少し考え、それから「まあ、あまり簡単そうじゃないな」と応えた。
「それで家を出た。ここにいれば、どうしたって継がされるからね」
「じゃあ、あいつに邪険にされる心当たりはないわけだ」
 訊ねられ、わたしは考える。
 わたしが家を出たのは洋が三つのときだ。当時わたしは十八歳で、いくらなんでも三つの子供を苛めるような人間ではなかったと思う。
「代わりに寺を継がされるってくらいだなあ」
 だが、それを嫌がっているようには見えない。見えないだけかもしれないが。
「継母ともうまくやれてたみたいだしな」
 継母という言葉にわたしは可笑しさを覚えた。
「まあ、そこそこはね」
 喧嘩したり意地悪をしたりするような年齢でもなかったから、と遠い記憶を掘り返す。
 母が死んだのはわたしが四つになるころだった。
 母が「いた」ことは覚えていても、ひとつひとつの出来事を詳細に覚えていられる歳ではなかった。
 それから十年が過ぎ、母はわたしのなかでひとつの「印象」になった。
 母と言う言葉に想起されるもの、とでも言うべきか。
 それはひとつのイメージであり、もはや体温を持った存在ではなかった。
 そんな折、父の再婚話が持ち上がった。
 再婚するかもしれない、と、親父にしては珍しく語尾を濁した言葉にも「そうか」と思っただけだった。
 お手伝いさんはどうするのだろう、すぐに職は見つかるのだろうかと、そんなことを考えるくらい呑気なものだった。
 思ったままに「そうですか」と応えたわたしに、父はそれだけか、と訊ねた。

「あんたはなんて言ったんだ」
「『おめでとうございます』と」
「淡白だな」
「少しは反対したほうがよかったかな」
 そうおどけて見せると、志野も表情を緩め「さあな」と応じた。
「ヘンな顔をしていたな。泣きそうな、怒り出しそうな」
 そのときの父の様子を語ると志野は軽く吹きだした。
「今日もそんな顔をしてたぞ」
「そうだったかな」
 昼食を兼ねていたはずの対面だったが、親父の顔はもとより何を食べたのかさえ思い出せない。
「いい親父さんじゃないか。禿だけど」
「剃髪してるんだよ」
「……やっぱり寺を継ぐとそうなるのか」
 志野はわたしの頭部を見る。
「そうでもないよ。義務じゃないからね」
 へぇっ、という驚きの声を志野はあげた。
 それから、坊主はみんな坊主頭だと思ってた、とつぶやいた。
「得度式のときだけだよ、うちはね」
 それはなんだと訊ねる志野にわたしは説明する。
「仏様のお弟子になります、僧侶になりますという誓いの儀式、かな。母が亡くなってから寺のほうもあれこれと忙しくてね。親父はそっちにかかりきりだったから、わたしはやらなかったんだ。洋はやらされたみたいだな」
 あれは洋が小学校三年生の夏休みだ。わたしが家を出て七年が過ぎていた。
 親父に騙されて連れてゆかれた旅先で丸坊主にされたらしい。
「兄ちゃんのせいだぁ」
 これじゃ遊びにも行けない、と泣いて電話がかかってきたことを覚えている。
 わあわあと泣きじゃくる洋から受話器を取り上げた祥子さんが、「頭の皮も日焼けするのねぇ」などと笑っていたことも、ふと思い出す。
 そういえばあの時から、洋とは少しずつ疎遠になっていったのではないだろうか。
「つまり、あいつはもう坊さんなのか」
「得度をいただいたんだから、そういうことになるね。とはいっても、仏事を執行できるかといえば、そうじゃないんだろうけど。作法もあれこれとあるし、形だけまねても仕方がないし」
 今は大学に通いながらそういった実務に関わることを少しずつ学んでいる最中なのではなかろうか。卒業すれば、全寮制の……名称は忘れたが、専門機関での修行が待っているはずだ。
 昔、父と一緒にそこで学んだという人々が、わたしの幼いころはよくここに出入りをしていた。
 だがそれらは想像でしかない。
 なぜならわたしはそういった一切の事柄から逃げ出してしまったからだ。
 逃げておいて、あれこれ尋ねるのも憚られるので聞かずじまいのことも多い。
 わたしの言葉は自然、尻すぼみになったが、志野の興味はそこではなかったようだ。ふうん、と言い、それからもう一度わたしの頭髪を見て言った。
「じゃあなんで親父さんは坊主……スキンヘッドなんだ?」
「決意の表れ、かな」
 門徒さんから聞いた話なんだけど、とわたしは前置く。
「一目惚れしたその人は、ここの一人娘だった。なんの幸いか娘とは親しくなったものの、その父親は町でも評判の強面の僧。ある日彼は決意して、寺に乗り込む。『婿にしてくれ!』 叫ぶ男の頭は月も恥らう禿頭。後日毛を剃る必要はなかったことを知らされるも、意地か誠か、爾来一ミリも伸ばさない……らしい」
 その娘というのがわたしの母だ。
「再婚しても毛は剃り続けてるのか。律儀だな」
 感心のため息とともに志野は言ったが、父の律儀よりも、祥子さんの寛容のほうがわたしの目には尊く映る。
 彼女は母の存在があったことを決して否定しなかったし、母に成り代わろうともしなかった。この家の随所に残る母の記憶を消し去ることもしなかった。言動だけでなく、心情においてもそうだったと思う。
 そういう人だと知ったからこそ、父も再婚を決めたのだろう。
「わたしが渋っても、結局は再婚していたんじゃないかな。もう少しだけ先になったかもしれないけどね」
 祥子さんとの再婚は門徒さんの強い勧めでもあったのだから。
 言うと、志野は重々しく頷く。
「スポンサーの意向は当人の意思より重視されるものだ」
 大人びた応えが可笑しかった。
「むしろ当人の意思に反していなくて良かったじゃないか」
「そうだね」
 強張っていた頬の筋肉は意識しなくても動くようになっていた。
 笑うことに成功したわたしを見、志野もまた肩の力を抜いたようだった。
 志野が鷹揚に茶を勧めた。
 ペットボトルのお茶をとる。美味くもないし冷えてもいたけれど、それを飲んで少し人心地がついた。

 父が再婚し、一年が過ぎて洋が生まれる。
 そのころから周りの人が祥子さんを「お母さん」と呼ぶようになった。それでなんとなく自分も「お母さん」なのだと思うようになった。
 だがわたしとは十も違わないその人を、「お母さん」と呼ぶのは違和感がありすぎた。
 家族だけのときと人前とで、「祥子さん」と「母」を使い分けていたような気もする。
「洋が生まれたときは、うれしかったよ。小さくて感動したな。あんな小さな手にもちゃんと指紋があって爪が生えてる。瞼には一人前に睫も生えてるんだ。当たり前のことだけど、それが素晴らしいことのように思えたな」
 可愛いと思った。可愛がっていたつもりだった。
 ふと用意した土産を思い出し、わたしの目はまだ解いていない荷物に向けられた。
 家を出るその日の晩だっただろうか。
 おでかけするのと首を傾げる弟に、父さんたちには内緒だよ、とわたしは言う。

「一緒にはいけないよ。洋はお留守番。もう少し大きくなったら、今度は一緒に行こうか」
 ぐずる洋をあやしてそんなことを言った。
「お土産は何がいい?」

「それが今じゃあれかよ」
「そう言うなよ」
 吐き捨てる志野を窘める。
 あんたもちゃんと叱れ、甘やかすな、などと言われたのだが、家を飛び出して十六年の無沙汰ともなれば何かにつけて後ろめたい。
 神主さんの元に転がりこんで数ヶ月はまめに電話もしていたのだが、少しずつその間は伸びていった。ひと月に一度がふた月に一度になり、半年に一度になるまでに、それほど長い時間はかからなかった。
 そして近況を報告する相手は主に祥子さんであり、父が不在の時を狙っての電話は――父はわたしからの電話だと知るや否や、受話器を下ろしてしまうのだ――洋が不在の時の電話にもなっていた。
 考えてみれば、ここ五年は声さえもろくに聞いてはいなかった。
 この前、洋と話したのはいつだっただろう。
 そんなことを考えると、とても兄貴面をする気持ちにはなれない。
 黙り込むわたしに志野は言った。
「ガキの癇癪なんか、気にするな」
 前半部に苦笑し、後半部に頷いて返すと、志野はいくつかの菓子を置いて出て行った。
 鮮やかな個包装が気に入ったのだろう。麦が前足でそれを転がす。
 封を切って差し出すと、麦は興味深げに匂いを嗅いだ。しかしチョコレートは好みではなかったようだ。
 鼻先に皺を寄せてそっぽを向く。
 その頭を撫でて、わたしはチョコレートを口に放り込んだ。
 来る途中にも食べていたはずなのに、思っていた以上に美味いと感じた。