鬼喰 ― たまはみ ―

第三話 萌兆 一

 車内には沈黙がおりたまま、十分が過ぎた。
 見慣れたはずの、けれど素直に懐かしむにはあまりにも変わってしまった景色を見ることにも疲れ、わたしは小さくため息をつく。
 目を伏せて、もう五分もすれば家に着くのだからと思い、内心で苦笑した。
 車内という狭い空間に弟とともにいることを、まるで我慢すべきことのように感じていることに気づいたのだ。
 なんと勝手な思いだろうか。
 申し訳なさが募った。
 わたしが帰省を喜べないのは、不義理の挙句の自業自得だ。
 だが、洋がわたしの帰省を歓迎できない理由には道理がある。
 家を捨てるように去ったわたしに代わって、彼は寺を継ぐための勉強をしている。もしかしたらそれは望まない道だったかもしれない。それでもその道を進むことに決め、歩みはじめ、しかしその半ばで出て行ったはずの兄が戻ってくる。
 寺を継ぐ気がわたしになくとも、周囲はそれを期待する。面白いはずがない。洋が「もしも」を懸念するのは当然だろう。
 わたしを遠ざけたいと思っていても仕方ない。
 鬱々とした気持ちはいや増した。
 誰かを疎んじて家を出たのではなかった。だからこそ、家族に疎まれるのは辛い。
 それは都合のよい言い訳だと自覚していたけれど、それでも寂しいと思う。
 その気配を察したのだろうか。志野が後部シートから身を起こし、助手席のわたしに聞いた。
「あんた、そういえばなんで家出したんだ?」
 らしくない気遣いだったが、ありがたかった。
 家を出た言い訳をさせてもらえる、とも思った。
 正気になって考えれば、「裏の墓地には……」だなどと言えるはずもないのだが、そんなことにさえ気が回らないほど、わたしの意気は消沈していたのだろう。
 だが答えようとわたしが口を開き、しかし声が出る直前だった。
「申し訳ありませんが、それは君には関係のないことです」
 ぴしゃりと打つような洋の口調に、志野を包む空気が一変した。
 帯電し、細かな火花を無数に散らす車中の空気に、わたしの胃は握られるような痛みを覚えた。
 おそるおそる振りかえった後部シートで、志野が静かに腹を立てている。
 もう三秒もすれば、
「あんたの弟は客に対する躾がなってないな。もう少し成長するまで一緒に居てやったほうがよかったんじゃないか」
 とでも言い出しそうな雰囲気だ。
「兄さん、仕事は選んだほうがいいんじゃない? ああ、仕事は選べても、同僚までは選べないか。ご愁傷さま」
 などとも続こうものなら……。
 怪獣大戦だ。
 わたしにはきっと止められない。
 たまらぬ恐怖をおぼえて視線を動かした先で彩花さんがにこりと笑う。そして窓の外を指差した。
「あの黄色の花は、何というのでしょう」
 わたしたちは彼女が指差すその先をそろって見た。
 志野は「知らない」と、わたしはその花の名を、それぞれに答えようとする。
 しかし、
「山茱萸(さんしゅゆ)ですよ」
 答えたのは洋だ。
「さんしゅゆ?」
 訊き慣れぬ音に彩花さんが聞き返す。
「ええ、ミズキ科の木です。この辺りでは二月下旬から咲きはじめ、来月初めごろに終わります」
 まるで枝が輝いているようですね、と吐息含みの彩花さんの声に、洋が笑った。
「ですから春黄金花(はるこがねばな)とも。花のひとつひとつはいっそ貧相といっても差しつかえない。ですが、ああして枝に咲く姿は見事でしょう。一輪を競う花には作り出せない景色です」
「ええ、とてもきれい」
 洋が後部のウインドウも開けた。冷たさの残る風が彩花さんの髪を柔らかく散らす。
 左手を上げて髪を押さえた彩花さんをルームミラー越しに見た洋が言う。
「山茱萸は、秋には赤い実をつけます。その色がよく磨いた血赤の珊瑚のようなので、山茱萸は秋珊瑚とも呼ばれます」
「きれいなのでしょうね」
 その光景を思い浮かべているのだろう。彩花さんの口調が一層ゆっくりとしたものになる。
「葉の緑と、実の赤とそれは見事ですよ。俺は秋の山茱萸のほうが好きですね」
 ぜひ秋にもいらしてください、と続けられた言葉の後ろに、声にはされぬ
「お一人で」
 という、なんとも言えない響きを感じてわたしは窓の外に視線を投げる。
 帰ってこないほうがよかったんだろうかと思いつつ見上げた先にも山茱萸は枝を広げていた。
 強い春の風を受け黄金色に揺れる枝を見る。
 暗く沈む気持ちが、わずかに照らされたように思った。

 それから間もなく車は止まった。
 車を下りて、わたしは長らく見ていなかった本堂を見上げる。

 寺の様子も、わたしがいた頃とは随分違っていた。
 濡縁だった回廊は外側にサッシが設けられている。見れば柱も木ではない。
 雨露に打たれ踏むたびに危うい思いをした箇所も、すっかりきれいになっている。
 感心と寂寥が鬩ぎあう。
 そもそもたった今車で入ってきた門も、この駐車場も、わたしが家を出る前はなかったものだ。
 門を振りかえるわたしに、洋が説明をしてくれた。
「西門って呼んでる。門徒さんからの要望でね。ご親族が遠方に出ていらっしゃるお家も多いから、駐車場がほしいって」
 そういえば話だけは十六年前にもあった。
 この町から人が去り始めたころだった。
 遠方に働きに出て、そのままそこに居を構える。そんな人々が法要で戻ってくる。
 その頃は車で帰省する人よりも、列車を使う人が多かったのだろう。駐車場よりも、宿泊できる場所があれば、ということになり客棟が造られたのだ。
「それで寺務所を向こうに移して駐車場に。お墓参りも楽になったみたいだよ。この道を徒歩で登るのは、お年寄りには大変だったからね。評判はまずまずかな」
 彼が指差す先には見知った建物がある。寺務所と彼が言うその建物は、かつては住職の控えの間に使われていた。
「そうなんだ」
 頷きつつ、じゃあ、鐘は何処へと問いかけようとしたわたしの耳を、大歓声が貫いた。
 声を追い、目を向けるその先には墓地がある。
「和ちゃーん、和ちゃーん」
「お帰りー、お帰りー」
 と叫んでいるその声は、しかしわたしの耳にしか聞こえないものだ。挨拶を返したい思いを堪える。
 墓地の向こうに崩れた壁が見えた。北口と呼んでいた場所だった。
「北口はあのまま。直そうかとも思ったんだけど、手が回らないんだ。まあ、目立つ場所じゃないしね」
 視線を巡らせると本堂と寺務所を繋ぐ渡し廊下の隙間から鐘が見える。
 あちらに移したのか、と思い、とするとわたしの部屋の正面に見えるはずだ、と考える。
 黙り込んだわたしに洋は言った。
「お客さまは俺が案内するから、兄さんは一周してきたら。いろいろと懐かしいでしょう」
 間髪入れず志野が言う。
「俺はあんたと一緒に行く」
 洋に対し、お前には案内されたくない、とも受けとれる発言だったが、洋はわずかに笑みのようなものを浮かべただけだった。
 ご自由に、と言いおいて、洋は彩花さんだけを案内して先に進んだ。

「とは言っても、荷物を運ぶほうが先かな」
 洋は持てるだけの荷物を運んでくれたが、すべては運べない。半数弱が車の脇に置かれたままだった。
 ここに置いたままにしても無くなりはしない。しかし自分の身の回り品ならばまだしも、さすがに土産を放置して一周する気にはなれない。
 墓地から手を振るみなさんに、知らぬ人から見て不自然な動きにならぬよう気をつけながら軽く会釈を返しながら、わたしは荷物を手に取った。
 人一倍大きな声で呼んでいるのは亀造さんだ。
 その隣で千切れそうなくらい腕を振っているのが松吉さんだ。
 少し離れた場所で涙ぐんでいる背の高い人は鶴次さん、その鶴さんの肩を抱いて力強く頷いているのは熊継さん。
 勝竹さんに、亥兵衛さん、ああ、鹿介さんもいる。
 みんな元気そうでよかったと思い、彼らに変わりようなどないことに気づく。
 わたしが物心つくころには彼らはもうそこに居て、今と変わらぬ様子だった。
 人は変化する。彼らは変化しない。その対比が、胸に一抹の痛みを投げかける。
 そもそもいつ頃亡くなった人たちなのだろう。
 そんなことを思い、首を傾げたわたしに、
「なんかいるのか」
 後ろを歩いていた志野が小声で訊ねてきた。
「……あ、そうか」
 わたしは顔を上げた。
 墓地のみなさんは、わたし以外の人には知られることのない存在だった。
 誰の目にも見えず、耳にも聞こえず、語り合うことのないその存在を、だからわたしは今も「わたしだけが知る存在」だと認識していた。
「見えないんだっけ」
 あらためて問い返すと、
「今朝からは」
 という実に端的な答えが返った。

 そう、今の志野はすっかりただの人なのだ。

 当初わたしはひとりで帰省するつもりでいた。
 ところが彩花さんが同行すると言い出したのだ。
 ご一緒してもよろしいですか、と訊かれた記憶は確かにあった。
 けれどそれは当然のごとく、神主さんの承諾あってのことだとわたしは思っていたのだ。
 寝耳に水の神主さんは反対した。
 夕食の場は突如騒然とする。珍しい光景だった。

「十五年、一日も休まずお手伝いくださった方のご家族に、ご挨拶もなさらないで済ませるおつもりですか、お父さま」
 それはあくまでも結果であって事実ではないのだが、わたしに口を挟まむ暇を、双方が与えなかった。
「だからといってどうしてあなたが同行するという話になるのです」
「ではお父さまが行ってらっしゃいませ。すぐにお仕度いたします」
 手紙のひとつでも十分ではないだろうか。
 どちらかといえば、十六年も居候をさせていただいているわたしの両親こそが、神主さんにご挨拶申し上げるべきなのだろうし。
 考えながらも、できるだけ双方と目を合わせないよう、わたしは食事に専念するふりをした。志野はと見れば、同じく箸の操作に余念がない様子だ。そうあくまでも、様子、だ。
「わたしは志野さんと二人で留守番していますから。どうぞご心配なさらないで、ゆっくりしていらしてください」
 年頃の娘を持つ父を、さりげなく心配に追い込む発言だと思った。
 案の定、言葉を詰まらせた神主さんに、彩花さんはにこりと笑う。それからなんとも流麗な動きで座布団から下りると、畳に三つ指をつく。そしてこれまた美しい動作で頭を下げた。
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
 神主さんは眉を寄せ、口をすぼめ、目を瞑り、眉間を押さえ、ため息をつき、目を開き、娘を見つめ、それを三周ほど繰りかえす。
 愛娘をわたしと二人で行かせるか、志野と二人で残すか。
 わたしと彩花と居候氏と三人で出かければ……いや、それでは誰が社を守るのか。
 志野に社を任せるには、やはり彼の中の雪白さまの存在がひっかかるのだろう。
 そんな迷いの全てが手に取るようにわかる。
 行くも残すもどちらにしても、明らかに杞憂でしかないのだが、まあ、父親としては苦渋の決断だったのだと思う。
 この人も、やっぱり人の親なのだ。
 ある意味では感慨深く思い、このツケをどう支払わされるのか空恐ろしくも思い、煮豆を口に運びつつ話の先を静かに見守る。
「わかりました。ただし」
 志野一人を置いて行かれても扱いに困るから、三人まとめて行ってらっしゃい。
 二人で行かせたり残したりするのはどこか不安だが、三人なら辛うじて安心できる複雑な心境をなんとなく察し、わたしは表にださぬよう心の中だけで苦笑した。
「よろしいですね、志野くん」
「ああ」
 面倒臭がるかと思った志野は、案外簡単に了承した。

 食事の後片付けをしながら「面倒をかけるね」と謝ると、志野は肩をすくめた。
「あの人と二人で残るほうが気詰まり」
 あの人、というのが神主さんなのか彩花さんなのか量りかねたが、気楽でないことは確かだろう。
 それに、と彼は皿を拭きつつ言った。
「客分なら、手伝わなくてもいいしな」
 箱入り息子、と言う表現があるのなら志野はそれに近い。
 腫れ物のように大事にされてきたのか、家事の手伝いの経験がまるでない。
 幼子のような手付きでおっかなびっくり皿を拭き、時には幼子のように落とす。
 割れた皿を片付けるのに手を傷つけたことも度々あった。
 可笑しみも覚えるが、ご両親の心中を思うと切なくも思う。
 説明できない災厄に見舞われる息子の安息を、せめて家の中でだけは守ろうとしたのかもしれない。
「志野は帰らなくていいのか? せっかくの春休みなのに。正月にも一日しか戻らなかっただろ」
 訊くと志野は皿を拭く手を止めた。
「……気を使わせると悪いしな」
 その思いはわからないでもない。
「だけど、ときどき帰るくせをつけておいたほうがいいよ」
「あんたに言われたくはない」
「そうだけど、だからこそ」
 帰りたいけど帰りたくない、そう思いながら気がつけば十六年が過ぎてしまったのだから。
「なんだ、あんた俺が一緒だと都合が悪いのか」
「とんでもない。心強いよ」
 志野は胡散臭げな顔をしたが、それは本音でもあった。
 客は多いほど、「親父」の怒りのよい目くらましになる。
 ひそかにそう思っていたのだ。

 対策を練るべきがよもや洋だとは予想だにしなかった。