鬼喰 ― たまはみ ―

第三話 萌兆 序

 昼近い緩やかな日差しの中、車列は山を抜ける。
 線路に落ちる木々の影が後ろへと溶けてゆく。
 農地が現われ、再び山影に消える。それを繰りかえすたび、山深くなる。
 山肌を彩るのは、芽吹き始めた樹木の紫だ。
 窓越しに見る春の淡い匂いさえもがはっきりと思い出された。
 線路脇の木々越しに見上げた白い空は、黒々とした枝に刻まれている。
 もし窓を開け身を乗り出したなら、容易に触れられるほどに近く手を差し伸べる枝が、故郷への道を開いていた。

 いくつもの見覚えのある風景が流れ、わたしは懐かしい駅に降り立った。
 吐いた息が僅かに白く濁る。
 鳥のさえずりが、やけに大きく聞こえた。
 目をやれば、そこには見慣れた――名前は知らない――小鳥がいる。黄緑の羽がミツマタの花の間に見え隠れしていた。
 ホームからの景色を眺め、足元に置いた古いトランクに目を落とす。
 もとは父が使っていたものだった。それを持ち出してわたしは家出した。
 自分のバッグは通学用のスポーツバッグの他には持っていなかった。
 しかたなく拝借したのだと思っていたが、もしかしたら家との繋がりを断ちがたい思いがあったのかもしれない。
 トランクをこっそりと持ち出したあの晩のことを思い出す。
 入れるものなど何もなかった。いや、どこまで持ち出してよいのかわからなかった。好きなだけ持って出てよいと言われたなら、それこそ墓地の皆さんまで含め、全部を持って出たかった。
 長い時間をかけて思案したが、結局は着替えと身の回りの品に数冊の本だけに落ちついた。
 トランクを傾けると、入れられたものがごとりと音を立てる。そんな量だった。
 手紙でも残そうかとも思ったけれど、今度は書きたいことが多すぎて全く何も記せなかった。
 部屋にかかっていた時計の音まで、わたしは克明に思い出していた。
 それはこの十五年余りの間、知らぬうちに封を施した記憶だった。

 神主さんの家に転がり込んで以来、与えられた部屋の押入れにしまいこまれていたトランクは、あの日と同じ姿をしていた。
 足元のそれをじっと見つめると、この駅から旅立ったのはほんの数日前のことようにも思われた。
 改札を見、待合室を見、線路の続く先を見る。二本だけのレールがトンネルに呑みこまれている。あの先に、わたしが通っていた高校があった。
 懐かしい友の顔が浮ぶ。
 ついで反対方向を見る。来る途中も見てきた景色だったが、ここから見るそれらは、また異なる感慨をわたしに与えた。
 空を見て、地面を見る。
 どちらを向いても懐かしいものばかりだった。
 鼻の奥が痛んだのは、寒さのせいばかりではないだろう。

 温い日差しに反し、冷たい風がホームを吹き抜けていった。わたしはコートの衿を立ててやり過ごす。
 おい、というぶっきらぼうな声に、感慨を一時脇によけ、わたしは列車を振りかえった。
 降りようとした彩花さんが足元をみて躊躇っていた。
 ホームは緩やかにカーブしている。そのせいで列車とホームには薄めの階段ほどの段差と、人ひとり、ゆうにはまり込みそうな隙間ができているのだ。
 戸惑う彩花さんに手を差し伸べる。
「足元、気をつけてくださいね」
 わたしの手を支えに彩花さんが下りる。こつ、と靴の踵がホームを鳴らした。その後ろから二人分の荷物を抱えた志野が降りてくる。
 志野は何を言うでもなく、ステップから荷物を降ろす。妙に手馴れた動きだった。
 ここまで来る間も三人分の弁当を買いに走ったり、乗り換えのわずかな時間を利用して飲み物を買い足したりと、彼はかいがいしいほどの活躍を見せている。
 意外にマメな性格なのだなあ、と、あまりマメでない自覚のあるわたしは感心していた。
 志野が荷物を降ろすのを待って、発車の笛が鳴らされた。
 ドアが閉まり、二両編成の小さな列車はゆっくりと動き出す。
 車掌室から手を振る顔見知りの車掌――彼の頭髪は記憶にあるよりも随分白いものが多くなっていた――を見送る。
 そして改札に向き直り、わたしは苦笑した。
 無人駅になっていようとは。
 閑散とした構内にはわたしたちの他に数人がいるだけ。
 狭い改札を、志野と彩花さんを先に通し、その後ろからわたしはついてゆく。
 視線を感じ振り返ると、待合室にいた老婦人がわたしを見上げ目を丸くしていた。
「あれ」
 あ、にアクセントのある独特の発音に懐かしさがこみ上げた。
 まあまあまあ、と、記憶と寸分変わらぬ声で彼女は顔をほころばせる。
 ちらりと目をやると志野と彩花さんはバス停に立ち、時刻表を見て何事か話し合っていた。
 少々立ち話をしても問題ないだろうと判断し、わたしはその人に歩み寄った。
「ご無沙汰しております。中西のおばあさん」
「まあまあ、お山さんの。まあ、立派になってぇ」
 お山さん、というのはわたしの父が住職を勤める寺のことだ。
 一応は「竜鐘山葱嶺(きりょう)寺」という一見ありがたげな名があるのだが、正式名称で呼ばれたことは記憶にない。
 まあ、ともかくも、この界隈には寺――山門――といえばひとつだから「お山さん」で十分に事足りる。
 細い目をさらに細めて中西のおばあさんはわたしを見上げた。
 今はどこで何をといった、おそらくは里帰りにはつきものの話を交わす。
「おばあさん、今日はどなたかをお待ちなんですか」
「ええ。もうそろそろ戻る頃だと思って」
 しかし次の電車なら一時間ほど先になる。それまでここで待つのだろうか。
「今日は温かいからねえ」
 一度戻って出直すよりもゆっくりできるとおばあさんは笑う。
「ゆっくりして行けるの?」
「五日ほどこちらに」
 そうこう話すうち、志野が大声でわたしを呼んだ。
 後ほどご挨拶に伺いますと失礼し、小走りに二人の下へと向かった。
 振りかえると中西のおばあさんは懐かしい笑顔でわたしを見送っていた。

「……参ったな」
 示された時刻表にわたしは言葉を失った。
 時計を見る。
 針は十一時四十分を指していた。
 もう一度時刻表に目を戻す。
 上から志野が読み上げた。
「六時三十分、六時五十分、七時十分、七時三十分、八時、九時、十時」
 その次はずっと空白が続く。
「十四時三十分」
 十五年前は一時間に二本はあったように記憶している。
 無人駅にもなろうはずだ。
 どうするんだと問われ、わたしは時刻表から二人へと目を移した。
「三時間待つか、二時間歩くか」
 言いながら歩くのは無理だろうと思った。
 二人ともそれなりに礼儀正しい格好をしていたし――わたしの顔を立ててくれたのだと思う――なにより、それぞれが抱えるスーツケースが問題だった。そのうえ神主さんが持たせてくれた、志野の言うところによると「まるで嫌がらせのような」量の手土産がある。
「舗装された道路だけじゃないんだよな? きっと。しかも上ったり下ったり、なんだろ?」
 確認する志野にわたしは頷いた。
「十五年前はね」
「……ずっとか?」
「四分の一くらいかな」
「山道が?」
「舗装された道路が」
「……」
 待つしかないのだが、どこで待つかといった問題がある。
 喫茶店はと見れば、記憶にあるそこの看板は外されている。
 他には駅の待合室が手っ取り早くはあるのだが、あそこで三時間を過ごすのはあまりにも退屈だろう。
 景色で目を楽しませ気を紛らわせるにも、限度と言うものがある。
 それに昼食の問題もあった。
 昼前につくと連絡をしてしまったのだ。わたしたちの分も母は用意してくれているだろう。
 困りましたね、と呟きかけた彩花さんが目を見張る。
 わたしたちのすぐ近くに一台の車が止まったからだ。

 車種には詳しくない。
 詳しくないわたしも、だがそのマークは知っている。
 車の鼻先、燦然と輝く銀色のモチーフ。円を三等分する針。よく目にするのは黒だが、それは深い紺色をしていた。
 十五年前にはこの町では見なかった車だ。
 車好きの友人が広げていた雑誌の中でしか見られぬ存在だった。
 磨かれたボンネットに映るのはひなびた駅と中天にさしかかろうとする太陽。
 それは古いアルバムから剥がしてきた写真を思わせる。
 どこか現実離れしたその光景をぼんやりと、わたしたちは見つめていた。
 そのわたしたちの視線の先でドアが開く。
 そしてわたしは、運転席から降りてきた人物を見て、息を飲み込んだ。
 彼は淡い色のグラスを外す。なれた仕種で胸ポケットに引っ掛ける。
 姿に、動きに強烈な既視感を覚えたが、同時にまったく見知らぬ青年でもある。
 まさか、と思い、そうだ、と思う。
 背筋を震えが走った。
「久しぶり」
 聞き覚えのある声だが、知らない声だった。
「それともいっそはじめましてかな」
 肯定しようとしたのか、否定しようとしたのか、わからない。わたしは持っていたトランクを取り落とす。
 う、あ、とわたしの咽喉が音を立てた。
 そのわたしを見て、青年は困ったように笑った。それから言った。
「おかえり、兄さん」
 と。

 呆然と立ちすくむわたしを、志野と彩花さんが不思議そうに見つめていた。

 記憶にある弟は三歳だった。
 片手で抱きあげられる大きさだった。米袋のほうが、重い。そういうサイズだったのだ。
 片言でにいちゃ、にいちゃとわたしの後をついて回っていた。
「洋(なみ)はお母さんより、お兄ちゃんが好きなのね」
 家にいる間は片時もわたしから離れようとしない弟を見て、苦笑していた母を思い出す。
 それから十五年、いや、十六年が過ぎている。三歳だった弟は十九歳になった。
 そう、志野と同い年なのだ。
 頭ではわかっていたものの、感情は別だったのだろう。
 どうしても「弟」と目の前の青年とが結びつかなかった。
 飲み込んだ息をなんとか吐き出して、深呼吸する。
 それからやっと口をきくことにわたしは成功した。
「……おおきくなったなあ」
 わたしより少しだけ背が低いその青年は小さく笑う。
「十六年もすればね。でもまだ兄さんには追いつかないみたいだ」
 その声も、まるで記憶とは違う。笑顔も見覚えがあるようでない。
「学校は?」
「春休みだよ。あと二週間だけどね。長期休暇のときは帰省してる」
 それ以上言葉を紡げずにいるわたしにもう一度軽く笑った彼は、呆気に取られているわたしにはそれ以上構わなかった。彩花さんと志野に実に卒なく挨拶をする。
 はじめまして、兄がいつもお世話になっております、弟の洋(なみ)です、今日は遠いところをようこそ。
 呆然とその様子を見つめていたわたしが我に返ったのは、志野が肘で背中を小突いたからだ。
「あ、ええっと、こちらは彩花さん。お世話になってる家の娘さんで、こっちが志野。仕事のええっと、同僚」
 それぞれがよろしくと言葉を交わしあう間も、わたしは青年になった弟を見つめたまま、まだ呆けていたのだった。

「荷物はこれだけ?」
 手際よく車のトランクにスーツケースと土産を積み込んだ彼はわたしを見る。
 上手く言葉を見つけられずこくこくと頷くと、それは? とわたしの足元を指差した。
 見ればそこには革のトランクがある。
「抱えて乗るの?」
「えっ、あ、いや」
 薄い笑いを口元に浮かべ彼は手を差し伸べる。
「後ろに乗せるから貸して」
「あ、うん」
 軽々とトランクを運ぶ彼が、十六年前はそのトランクよりも小さかったのだ。
 よもや「車」で迎えにこようとは……。
 段ボール箱での運転手さんごっこを思い出した。
 最初は紐を通した箱を、わたしが引いていた。箱には弟が入っていて、縁側と廊下を通っての我が家をぐるりと一周の旅だった。
 それが何かの拍子にハンドルをつけてやったのだったか。
 それからはわたしが屈み腰で箱を押すことになった。一周では満足せず、二周三周、そのうち右左折にUターンまで注文をつけるようになった。
 妙なことを思い出しているわたしに「乗って」と指示をし、彼は運転席に座る。
 彩花さんと志野はとうに乗り込んでいた。
 助手席に座ったわたしがドアを閉めると、車はすべるように動き出した。
 心地よく走るその車の助手席で、わたしはトランクの中の土産を思い浮かべた。
 手渡せそうにないと思った。

 わたしが口を閉じているからだろうか。車内は奇妙な沈黙に覆われていた。
 志野はもともと口数が多いほうではないし、彩花さんも自分からおしゃべりをするほうではない。
 どうしたらいいのだろう。
 静寂に堪えかねていると、洋が運転席の窓を開けた。
 心地よい風と芽吹き始めた草の匂いが入ってくる。
「随分変わったでしょう」
 運転席の洋が言った。
「ああ、うん。ええっと、この道は」
「できたのは十年くらい前かな。ほら、そこの路地を入って行った所が中学校だよ」
 じゃあここはあの通りなのか、と十五年前の記憶と付き合わせる。
「その少し先にあった八百屋さんは向こうにできたスーパーの中に移った。田宮さんだっけ」
 誰それはどこへ、某はあそこへと洋は車を走らせながら説明する。
 その中にはわたしの古い友人たちもいる。
 そうか、あいつはとうとうここを出たのか、とか、やっぱり家業を継いだのか、などと感慨深く思い、また無沙汰をしていた年月の長さをあらためて思った。
「よく知ってるなあ」
「そりゃ、門徒さんのことだからね。次期住職としては当たり前でしょう」
「やっぱり継ぐのか」
 それは務めを放り出した申し訳なさからでた言葉だったが、洋はまた違ったように受け止めたようだった。
 信号が赤になる。
 車を停めて、洋はわたしを見た。
「じゃあ兄さんが継ぐ? 俺はそれでも構わないけど?」
 笑い含みの言葉の中に、突放したような冷たい響きを感じ、わたしは再び黙り込む。
 長い休みでは必ず帰省する。
 その言葉には、わたしとは違って、との意味もあったのかもしれない。
「いや、わたしは……」
 口篭り視線を逸らしたわたしを、少しの間検分し、洋は前を向いた。
「そう」

「今さら帰ってこなくてもよかったのに」
 そんな声が、聞こえたような気がした。