鬼喰 ― たまはみ ―

第2話 共鳴 終章

 そして里帰りのまえに、この事件には後日談があるのだ。
 まず、当たり障りのない話を。

 静さんは仕事を辞めたそうだ。
 なんでも鬼が見えなくなったとのことだった。
 届いた手紙の文面からはそれを惜しむ様子は窺えなかった。
 そうだろうなあ。見えなくても何が困るわけじゃない。
 うらやましさを多少感じながら、なぜ見えなくなったのか考えてみた。
 もしかしてわたしも見なくてすむようになるかも、と思ったからだ。
 行き着いたのは「気」
 雪白さまが二人に戻したあの欠片がその理由ではないかと思うのだ。
 さっそく確かめたところ、雪白さまはこともなげに頷いた。
「頃合のよさそうなものを適当に放ったのでな……選ぶ間があったと思うか」
「いえ、そういうわけでは」
「本来人は陰陽の二つの気を当分に纏うものだ。また人にふさわしい大きさと言うものがある」
 ははあ、とわたしがうつ相槌に雪白さまが続ける。
「何、鬼なぞ見えずとも、生きてゆく分には不自由はなかろう」
「ですねぇ。かえって見える不自由もありますしね」
 我が身を振り返りしみじみと吐いたため息に、雪白さまが笑う。その笑みがどことなく寂しげに見えた。
「さよう。持たぬほうがよいものは、少なくない」
 それから、白湯を啜りつつ、こうおっしゃった。
 陰陽の気は、気質でしかない。人の心に凝る負の感情とは無関係のものだ、と。
「関係、ないんですか」
「闇は目を閉ざすが、強すぎる光は目を眩ます。同じことだ。陽によれば浮つき、陰によれば没む。陰は陽を鎮め、陽は陰を慰めるもの。抱く思いとはなんら関わりはない。ゆえに陰に凝る鬼は陽を求める。そのうえ心に暗きを抱えておったあの女は、鬼にとってはよき馳走であったろう」
 陽気に凝る者は自ら陰を求める。心に乱れがあれば、なお一層、安らぎを求め陰を追うものだ。
「他愛なく捕まったのだろうよ」
 そうですか、と言いながら、静さんの言葉を思い出す。

 あの日目覚めた静さんは言った。
「最初に現場を見たときに、思ったの。もしも桜がなかったのなら、車に乗っていた五人の他にも犠牲者が出たのではないかしら、ってね。レストランの店内に車が飛び込んで、炎上したら、もう十人は命を落としただろう。それでもこの人は、自分の子を亡くしたことを嘆くだけで済ませるつもりなのかしら、それとも自分の子が無事だったことを喜べるのかしら。あいかわらず、なんておめでたい人なんだろう。そんなふうに考えたわ」
 それから微かに苦笑を浮かべて言う。
「散々迷惑をかけちゃったみたいだから、恥かきついでに告白してしまうけれど、わたしアノヒト、大嫌いだったのよ」
 手ひどく裏切られたことも、一度や二度ではなくて。
 音をたてて湯飲みが茶托に戻される。
「あなたにも見えるんですって?」
「ええ、まあ」
「それなら、わかるでしょ? わたし、泉といるときだけは見なくて済むのよ。もちろん見ようと思えば、見えるんだけど。でも見えて気持ちのいいものではないじゃない。だからどうしても一緒にいる時間が増えるのよね。それに気分が落ち着くって言うのかな。ま、それはわたしの勝手な事情なんだけど。でもそれが寝取った理由として成立すると思えて!?」
 志野が隣でお茶を吹いた。
「いや、ええ、その」
 咳き込む志野と返答に困るわたしには構わず静さんは話す。
「それが二十二のときよ。半年後には結婚してくれたわ。ご丁寧にわたしも招待してくれたの、もー、ありがたくって涙が出ちゃったわよ。そのうえ、『あなたもいつまでも子供のつくようなウソで周囲を困らせるものじゃないわ。それから、姉妹仲がいいのはいいことだけれど、お互いに依存しあうのは良くないと思うの』よ。それで嫌いにならないはずがないじゃない、ねえ。いっそのこと、『寝取られるのは隙があるから』って言われる方がすっきりするわよ。結局のところ、他人の男に手を出した寝覚めの悪い事実から目を逸らすために、原因は自分じゃなくてあたしにあるってコトにしたかった感じよね。あげく『お願い、子供に会いたいの』よ。都合のいいときだけわたしの『ウソ』を信じようとするなんて恥知らずよ。どうせ信じちゃいないだろうし、昔と同じ。自分を慰めたいだけなのよね」
 まくしたてる静さんを、泉さんが困ったように見ていた。
「ま、そういうことよ。……わかるでしょ?」
「お気持ちはわかりかねますが」
 わたしの返答に静さんが綺麗な弧を描く眉を片方だけ上げた。
「事情は、わかりました」
 それでいいことにしておくわ、話したらすっきりしたー、と静さんは背を伸ばした。そして迎えにきたご両親とともにご機嫌よろしく帰っていった。
「名前負け」
 賑やかな静さんのおしゃべりをそう表した志野の独り言が可笑しかった。

 そして名前負け、というか、まあ、名前についてはもうひとつ。
「で、これはどうしたんだ」
 志野が問う。これと指差す先には子稲荷さんがいる。いや、元子稲荷さんというべきか。
 志野はあの日以来、鬼を見る視力を得ている。
 見ずとも良い、と雪白さまは反対なさったそうだが、見えないことの不便が見ることの不便に勝ったようだ。
「ただ働きはもうごめんだ」
 見えないがために足手まといになったと信じている志野はそう堅固に言い張った。
 雪白さまが根負けし、ここに至る。
 そして指差す先の子狐のそれにはまた複雑な経緯があるわけだ。

 水神さまのご助力を得て事が成った後、白みはじめた空の下、この晩何度目かの放心から立ち直りわたしはあることに気がついたのだ。
 子稲荷さんの姿がない。
 いつからいないのだろう。
「子稲荷さん?」
 呼んで探すが見つからない。
 いつもなら、即座に姿を現すのに。
 ひとり先に帰ったようには思えなかった。
 辺りを見回すわたしを、
「祝」
 雪白さまが呼ぶ。
 見ると、雪白さまは桜を指し示していた。
 意味がわからず、眉をよせたわたしに「わからぬか」と雪白さまはため息をついた。
(さのかみくらのひにいつく ちをさかいしてもりとなせ)
 その様子をご覧になっていた水神さまが歌うようにおっしゃったのは、わたしが桜に導かれるままに唱えた言葉だ。
(桜とは『さ』の神の座(くら)。『さ』は稲の神をいう)
 心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
(さほは『さ』の穂。さなえは『さ』の苗、さつきは『さ』を奉る月、さみだれは『さ』に垂れる水、さを地に奉じる巫女は『さおとめ』)
「『さ』は人を守り、人の手により増える神だ」
 それが稲荷神を意味するとわからないほど無知ではなかった。
「霊(ひ)はわかろうな、その霊(かみ)に厳き奉る。斎して願うは、その『ち』を以って、守と為さしむこと」
 ちは、霊威を指すもっとも古い言葉だ。
 大地であり、命であり、血でもあり。
 その存在を支える力でもある。万物が、万物としてある力、と言い換えることもできるかもしれない。
「……」
 その力を持って封じるのなら、子稲荷さんは、封じそのものに変じてしまうではないか。
「そんな」
 大きな尻尾を思い出した。
 二度と目にすることはないのだろうか。
 首を傾げて、くるると鳴いた。目の隈取りは赤く大きく……

 枝を前に座り込んでしまったわたしは夜明けの風にかすかな音を立てる葉を見つめていた。
 この枝が抜けぬよう、子稲荷さんが守っている。
 子稲荷さんを戻せば、封じは再び綻びるだろう。そもそも「戻す方法」があるのかさえわたしは知らない。
 知らないままに、封じてしまった。
 呆然と言うよりは、虚脱が全身を支配していた。
 子稲荷さんはそれを知っていて、力を貸してくれていたのだろうか。
 そう願いながら、その願いが独善だということもわたしは自覚していた。
 吹きすぎる風の冷たさに対して、土は意外に暖かい。
 ぼんやりとそんなことを思っていたわたしの肩に、ふと、何かが触れる。
 そんなことはないと知りつつ、子稲荷さんかと期待してわたしは目を上げる。
 穏やかに微笑むのは、もちろん子稲荷さんではない。
「細波」
(大丈夫)
 先日桜が繰返した言葉を、彼女も言った。
 何がと問う気力はなかった
 その自失の中で、あの桜もまた、あの地の綻びを繕うために封じとして存在するのだとすれば、と思った。
 封じが綻びぬように誰かがその霊威で支えているのだろうか。
 考える力はそこで絶えた。
 眩暈を感じ、土に手をついたわたしの背を、細波の手が撫でる。
 見上げる先でやわらかな笑みを返す細波が、以前より大人びて見えた。
 彼女は数度わたしの背を撫で、肩にその手を置いたまま、水神さまを振り返る。
(……吾はそなたを迎えに参ったのだがな)
(我が君)
 ただそれだけの囁くような声に、諦めに似た苦笑が水神さまの口元を彩った。
(そなたの祠は失われたのであったか)
 ともにわが社に参ればよいものを、と見つめる。それに対し、哀しげな表情を浮かべた細波に、仕方がない、とため息。首を横にゆっくりと振りつつ肩をすくめる仕草はまるで人のようだった。
(祝。我が妻が、その座《くら》が欲しいというておる。譲れ)
 またもや意味がわからず首を傾げたわたしに、雪白さまが補足した。
「子狐に代わり、その娘がそれを守るそうだ」
「そんなことが?」
(見くびるでない)
「あっいえ、そういう意味では」
 もう、何がどうなのかわからない。わからないだらけだ。
 考えることをあっさりと放棄したわたしは、わからないまま、お二方の指示に従った。
 霊(ひ)に名を与えよ、地を守るものに相応しき。
 そして呼べ。我に仕えよと。
 名前を探して子稲荷さんを思い浮かべる。
 浮んだのは。
「むぎ」
 枝の上に淡い金の光が凝る。
「麦」
 もう一度呼ぶとそれは姿を現した。
 大きなしっぽ、黒く縁取られた大きな耳、赤い隈取りの金の目に、真っ白な毛皮。
「麦!」
 広げた腕に飛び込んできた子狐をわたしはしっかり抱きとめた。
「おかえり。おかえり」
 よかった、よかった、よかった。
 騒ぐだけの力が残っていることが可笑しくて、わたしは寺岡さんを担いで帰る道すがらも笑っていたのだ。

「それであのときえらくご機嫌だったんだな、あんた」
 さんざん恐怖と緊張にさらされた後だっただけに、その愉快がわたしを歓喜の頂上に押上げるのに労はなかったのだろう。
「そんなに浮かれてたかな」
 自覚はあったが、照れ隠しに言ってみた。即座に返されたのは志野の遠慮ない言葉。
「あれが素なら、俺は金輪際、付き合わない」
「……」
 わたしの困惑を見てとったのか、雪白さまがさりげなく話を変えた。
「名付けは契りだ。名を与えることで、子狐は祝の式となった。式となれば社には戻れぬ。稲荷神でなないからな」
 雪白さまの言葉にわたしは頷き、志野もまた数秒送れて納得したようだ。
「ふうん。親は承諾してるのか」
 親、というのはこの場合白狐さまのことだろう。
「たぶんね」
 ご報告に上がったとき、白狐さまは何もおっしゃらなかった。その後も特に変わりなく、これまで通りお社のお世話をさせていただけている。大丈夫だと思う。
「しかし」
 とおっしゃったのは雪白さまだ。
「なにゆえ麦……」
「麦ってなんだよ」
 重なる二つの声に名を呼ばれたと思ったのだろうか、麦が小首を傾げる。
 その頭を撫で、違うよ、遊んでていいからね、とわたしはチラシを折って作った紙風船を投げる。
 麦は楽しげにそれを転がして遊んでいる。
「いや、米(よね)じゃ芸がないなー、と思って」
「よね!?」
 志野はまじまじとわたしを見、呆れた、と呟く。
「当人が気に入っておるのなら吾から言うことは何もないが」
 雪白さまの目が、遊ぶ麦に向けられた。
「麦はどうかと俺は思う」
 それからわたしに視線を戻した志野は言った。
「あんた絶対親父さん似だろ。名付けのセンス、そっくり」
 ……返す言葉はなかった。
「狐と同居ってのも俺はイヤだな」

 そういう志野が蛇と二心同体だということを指摘するのは止めておいた。

 雪白さまの存在も、たいがい謎だと思うのだ。

 子狐さんとひとしきり喜びのダンスを踊ったわたしが我に返り、お礼をと思ったときには、すでに水神さまの気配はなかった。
 記憶にあるのは、麦と浮かれ騒ぐその視界の端で、雪白さまと水神さまがかわした言葉の断片。
 酔狂よな。神でありながら人に仕えるとは。半ばも力を揮えぬはいかな心もちぞ。
 他界のものに仕える酔狂ほどではない。
 変わらぬな、と、かけられた声に、変わらぬと決めた、と返す声。
 そういうことかと思ったのだけれど、何がそういうことだと思ったのか、思い返してみても今はまるでわからない。
 だが、その謎を追求する前に、やっぱり自分を見直すほうが先決だと思うのだ。

 そうそう。
 コーヒー代の支払が済んでいないことを思い出し、わたしは翌日レストランに向かった。しかし。
 雪白さまが現に重ねた界の中、見事に壊されてしまったレストランは、現でもテラス席のガラスにひどい亀裂が入り、ガラスの入れ替えを余儀なくされていた。
 臆病なわたしはその大掛かりな工事に怯み、心の中で手を合わせつつ黙って帰ってきたことをここに告白し、この事件は終了とする。