鬼喰 ― たまはみ ―

第二話 共鳴 七

 冗談じゃない。
 即座に反対しようとし、雪白さまの動かぬ様子に安堵した。
 尾を――といって、その蛇身のどこからどこまでが身でどこからが尾であるのか、わたしは区別できないが――志野の襟元に巻いたまま、雪白さまは首をもたげじっと様子を窺っている。その視線に引かれるように、わたしも再び志野に目を戻した。
 地を掴む志野は倒れる上体を両手で支えているのだろうか。けれど繰り返し立ち上がろうとして膝をつく姿に、違和感を抱く。
 そして気づいた。喰らった鬼を、志野の内側で瘴気が喰っている。志野は立ち上がり、動こうとしているあの靄を抑えているのだ。
「……」
 志野が掠れた声を発したが何を言ったのかは、聞き取れなかった。
 靄は体内に広がり、逃れようと暴れる鬼を吸収し膨れてゆく。志野の手足は影が落ちるように黒く染まる。
 鬼を溶かし込んだ靄は一塊となり、志野の意思をねじ伏せようと大きく広がる。
「散らせ……早くっ」
 悲鳴じみた志野の声に、それでもわたしは動けなかった。

 透かし見える黒い靄とは別の、もうひとつの存在を志野の中に見ていたからだ。

 それはひどく澄んだ、けれど固く凍てた印象をもっていた。
 瑠璃よりも薄い、透きとおった青の塊。
 靄は身を広げそれをも包み飲み込もうとして、直後、驚いたようにそれから離れた。
 青いそれに触れた部分が、失われている。
 水音が響いた。
 せせらぎより、広く深く、柔らかく、強いこの音は。
(目を覚ましたか……)
 苛立たしげな雪白さまのお声と、それは被さるように発せられた。

 わが君。

 固い光を放つそれが解けて発したその声は、覚えがあった。

「細波!?」
 志野の胸元が光る。
 襟から紐に吊るされた何かがこぼれ出た。
 見覚えがあった。細波が額に掛けていた磨かれた石の勾玉だ。
 志野が小さく呻く。
 ふつりと共有していた視界がかききえた。志野の意識がなくなったということなのか。
「志野」
 呼びかけ、その肩に手を掛けようと伸ばした腕を、わたしは引っ込めた。
 瞬きの間、途絶えた光は目の奥を青白く染める閃光となり、勾玉からほとばしる。
「……っ」
 熱を伴なわない光だったが、その鋭さに耐えかねてわたしは眼前に手をかざした。

 靄よりも、綻びよりも凄まじい何かが顕現したことをかざした手の向こう、光の中に感じた。

 逆光にその姿の詳細はわからない。だがそれが神と呼ばれるものであろうことは、すぐにも理解できた。
 それほどに圧倒的な気を持つ者を、わたしは他にひとつしか知らない。白狐さまだ。
 畏怖か畏敬か。息を吐くことさえ憚られる。
 何の意図を持ち、神が顕れたのか。
 首を伝った汗が衿にしみ、風に晒されて首筋を冷やす。
 指ひとつ動かすことのできない緊張の中、唯一動かすことのできた目は、神ではなく黒い靄を追っている。
 眩しさから視線を逸らした先に、偶然それを見つけたのかもしれない。
 靄は光から逃るように退き、胸の下、丁度胃の辺りに凝る。影のように散っていた靄が人の頭程度の大きさへ、そこからさらに拳大へと固く凝っていった。

 我が君と呼ぶ細波の声をもう一度聞く。
 言葉が胸に落ちるまでの数瞬で、わたしの脳裏をよぎったのは、あの湖のほとりに立つ社とその縁起だった。
 それからやっと目の前のそれが、彼女が巫女として仕えた神だということに思い至る。
 記憶の片隅から引き出された縁起がその神の正体をわたしに告げる。
 竜神……!
 叫ぼうとして、けれどわたしの喉は、呻りに似た奇妙な音を立てた。
 硬直した声帯が声を発することを拒んだのだ。
 竜と伝えられるその神さまはわたしのことなどまるで眼中にない様子で、うずくまったままの志野に向かい手を緩やかに差し伸べた。
 志野の中の細波に、というべきか。
(来よ)

 水神さまが人に似た姿をとったのは、細波のためだろう。
 青い光は娘の姿をとる。志野の上に重なった細波の朧な影が、差し伸べられた水神さまの手の上にそっとその手を重ねる。
 重ねられた手を水神さまは静に引きよせ、細波を抱きとめた。
(祝よ)
 唐突に声を掛けられ、わたしは水神さまの御前に跪く。
 志野の肩に手を伸ばしたときのままの中腰で一連の出来事を見ていたせいだと思う。その動きは自分でも滑稽に思うほどギクシャクとしたものになった。
 水神さまが笑う。いや、お姿は光に眩んで見えないのだから、笑いかけられたのだと思うだけだが。
(妻が手間をかけた)
 いえ、と否定するより早く細波が言う。
(ありがとう)
「いや、それは別に……志野が」
(これは礼だ)
 戸惑うわたしにには構わず、志野の内に蟠る靄に向かい水神さまはおっしゃった。
(呼ばれもせぬのにようも参ったな)
 淡々とした口調ではあったけれど、そこには親しみも優しさも見つけることができない。
 静寂が穏やかなものでないことを突きつける、そんな声だった。
(目障りだ。去《い》ね)
 同時にわたしは耳の奥に再び水音をとらえる。
 寄せて返す波の音ではない。
 それは何もかもを押し流し、打ち砕く激流の音。
 天地を揺るがす流れ。逆巻いて地に溢れ風を叩いて樹木を呑みこみ流れさる水の音。
 呑まれる、と身構えた瞬間、唐突にその音は消えた。静けさが耳から心臓へとどっと流れ込んだ。
 突然すぎる変化はわたしから声と動きを三度奪い取った。ぐらりと傾いで倒れる志野を、手を伸ばすこともできず、見送る。
 だからアスファルトにぶつかる手前で身を起こした志野の内側に、雪白さまがいることに気づいたのも、
「祝、札(ふだ)を」
 雪白さまの御声を聞いたそのあとのことだった。

 瞬くほどにも長くない。
 その刹那の時間でことは片付いてしまった。

 人の身には見えぬ激流に志野の内から叩き出された靄は、水を思わせる透明の何かに包まれていた。
 もがくように「水」から逃れようとする靄を封じ込めたその塊に、わたしは神主さんから渡された神札を叩きつけた。
 雪白さまが右手の二本の指で宙に何かを書く。その軌跡が淡く光る。描かれた印と札が重なる。さらに何かをおっしゃった。
 塊は見る間に凍る。
 雪白さまの言葉に応じた様子で、水神さまは指を塊に向ける。
 ただそれだけで濁りを含んだ氷塊は、不思議なほど美しく軽い音を発して砕け散った。
 青白い光を受け、降りそそぐ凝りの中から、雪白さまは指先ほどの欠片を二つを掴むと、倒れた寺岡姉妹に向かいそれを放り投げる。
「雪白さま。何を」
「気を戻したのだ。……戻さねば、骸になろうが」
 抜き取られた二人の気を、それぞれもどしたということなのだろう。
 投げられた欠片は、寺岡さんたちにぶつかる少し手前で溶けて、ゆっくりと染みるように二人の体の中へ吸い込まれていった。
 大地に落ちた残りの破片は、明るい音を立ててさらに細かく砕け、そのうち土に混じるように消えてしまった。
 残る七人は、との疑問は声にする前どころか、はっきりとした疑問の形をとる前に返された。
(あきらめよ)
「戻す器がなければ、如何とも」
 ああそうか、と思う。
 死んでしまった人を戻すことは、神にもできないのだ。
「ともかくも女は無事に取り戻した。請負は終った」
 雪白さまの声を聞き、全身の力が抜けたわたしは尻餅をついた。
 長い長い夜だった。

 女性とはいえ、正体をなくした人は重い。
 志野とわたしは寺岡さんをひとりずつ負ぶって夜明けの道を歩く。
 やっとのことで帰り着き、寺岡さんを客間に寝かせたとき、わたしたちの疲労は極限に達していた。
 帰宅後、一言「寝る」と言い置いて志野は部屋に篭ってしまった。様子を見に行った彩花さんが笑いながら戻ってくる。
 どうやら宣言どおり、本当にそのまま寝てしまったようだ。
「畳の上に大の字に」
 風邪をひきやしないかと思ったのだが、まあ、雪白さまがなんとかするだろう。
 一通りわたしの報告を聞き終えた神主さんが満悦の様子で席を立った。
 寺岡さんのご両親に連絡するのだ。
 昨晩ふたりで遊びに来たこと、ご連絡が遅れ申し訳ない、といたって常識的な話の内容が時折廊下から聞こえてくる。
 わたしは彩花さんの淹れてくれたお茶を飲んだ。
「おかえりなさいませ」
「はい。ただいま戻りました」
 ふざけて深々と頭を下げると、彩花さんが笑う。
 傷ついた手のひらに、湯飲みの温かさが滲みた。

 結局のところ志野はほとんど役に立たなかったことを神主さんに手厳しく追及され、今回の報酬を手に入れられなかった。
 志野には、あの靄を喰ったところまでしか記憶がなく、その後のことを知らない。
 反論のしようがなく、奥歯をきりりと噛みしめるだけだ。
 もちろん、志野をぬきに片付けられた仕事ではないとわたしは思っている。
 志野がいなければ、雪白さまはあの場におらず、志野の中の細波もいなかった。とすれば、水神さまが来てくださることもなかっただろう。
 ただ。まあ……。
 これからも共に暮らすのだから、いつまでも居候でいるより、家族として暮らすほうが遠慮が要らない。家族なら、手伝いくらいはするほうがよい、とも思っていたので、仲裁に入ることもしなかった。
 相当する金額を払う、と諦め悪く抵抗する志野に、神主さんはうそぶいた。
「報酬の『半額』だなんて言ってませんよ。今回の、報酬の『半分』を納めていただくという約束でした。ですが今回志野くんに報酬はありません。納めるものがなければ、お話になりません」
 よってこの取引はお流れ、今日からはしっかり手伝っていただきましょう、と大層機嫌よく微笑む神主さんに対し、志野は口をつぐむしかない。
 それでも何かを企むその表情に、もう一波乱あるだろうと思い、二人の諍いに巻き込まれぬよう、わたしはさりげなく席を外す。
 縁側に出ると食事の片付けを終えた彩花さんが、夕刊を持ってやってきた。
 茶の間でにらみ合う二人をちらりと見て、わたしの側に立つ。
「和さん、これ、ご覧になりました?」
「いえ。そういえば、今日は朝刊も読みそこなってるな」
 楽しみにしている連載小説の続きが気になった。
 朝刊はあとでお部屋にお持ちしますね、と彩花さん。
「見てください」
 彩花さんが指差すそれは三面の、ちいさなちいさな枠だった。
「ね」
 ふた月前に引き裂かれた桜の残された根から、新芽が出たとの記事だった。
 すべて撤去したつもりだったが、根が残っていたのだろう。せっかく出た芽でもあるし、移植するにしても、もう少し様子をみてから、と結ばれていた。
「もう一度、大きく育つようにと」
 そえられたこれまた小さな写真には、四角く張られた注連縄の中心に、わたしの挿したあの枝が写っている。
「彩花さん、あの桜好きでしたしね」
「はい」
 うれしそうな笑顔が細波とかぶる。
 笑顔を返しながら、わたしはずっと考えていた。

 なぜわたしに綻びを繕うことができたのか。
 なぜわたしには見えるのか。
 ふと母の言葉が思い起こされた。
「和、桜の木、大切にしてね」
 それは実家のあの桜のことなのだろうか。それとも「さのかみくら」のことなのだろうか。
「一度、帰らなくちゃ、ならないかな……」

 ぼんやりとしていたせいだろう。
「ご一緒してもよろしいですか」
 と訪ねられ、ついうっかりと
「ええ、構いませんよ」

 半眼で笑う神主さんに見送られ、十六年ぶりの故郷へ向かうことになるのは、明けて翌年の春のこと。