鬼喰 ― たまはみ ―

第二話 共鳴 六

 コーヒーに溶けてゆく志野を想像した。

 どうするんだ、と問いかけたようとしわたしは、声を失った。志野に襟首をつかまれたのだ。
「暴力は」
 よせ、という言葉に、志野の声が被さった。
「あんたな」
 がくがくと揺すられる視界の向こうに、志野を止めようとする雪白さまの気配を感じる。
 しかし志野の意識があるときのこの体の主導権は、やはり志野にあるのだろう。
 揺さぶられつつ、昔弟にこんな風に駄々をこねられたことを思い出し、わたしは笑ってしまったらしい。
「笑ってんじゃねぇ! 前から一度言いたかった。あんたは、いつも、どうする、どうするだ。ちょっとは自分で考えたらどうだ!」
 非常に不本意だったけれど、言われてみれば心当たりがないこともない。
「いや、だけど、自信満々言われれば、何か策があるのかと思うじゃないか」
「策があるならこんな無謀を誰がする!」
 かき混ぜられる景色の中で、これは分が悪すぎる、とわたしは抵抗を諦めた。
「悪い、悪かった。ごめん」
 志野は舌打ちとともに乱暴に手を離す。

 わたしはとりあえず服の乱れを直す。上空に避難していた子稲荷さんがわたしの肩の上に降りてくる。
「じゃあ、引きずり出したら喰わずに散らすということで」
 喰う危険を冒さないためにはそれが一番で、ついでに言えば昨晩から予測済みのことだ。
 予想と違うのは、わたしだけじゃなく、志野もここにいるということ。
 もっとも、鬼喰の能力を使わない志野が――鬼を感知することのない志野が――どの程度戦力になるか、わからない。
 わからないが、わたしだって何ができるというわけではないから……まずいな。
 そっぽを向いたままの志野は答えない。
 反対がなければ同意なのだろう。わたしはついでにもうひとつ提案した。
「それとここで待つのは寒いから、あっちに移らないか」
 あっちと指差した先にはファミリーレストランがある。温かい光が呼んでいる。
 志野はもう一度舌打ちしたが、ここに立ち続けるほど強情ではないようだ。無言で歩き始めた。

 夕食時を過ぎた店内は意外に静かだった。
 わたしたちの他には2,3組。時折学生らしい集団から、賑やかな笑い声が聞こえるだけ。
 ウェイターは窓際の丸テーブルにわたしたちを案内した。なるほど、他の席はスティックシュガーや紙ナプキンの補充中のようだ。
「コーヒーと……」
 志野は、と訪ねる前に無愛想な声が返された。 「二つ」
 畏まりましたと下がったウェイターは寸時おかずコーヒーを持ってくる。淹れてからとうに五分は経過しているのだろう、少し油の浮いたコーヒーを見て、飲む気が失せた。愛想程度に口をつけ、ソーサーに戻す。
 子稲荷さんは綻びが気になるのだろう。わたしの頭にへばりつき、その細い目でじっと窓の外を見つめていた。
 黙ってコーヒーを飲む志野は、年のわりに落ち着いて見える。だが、ソーサーの上にスティックシュガーの空き袋が二つ。
 無理してコーヒーなんか頼まなくたって、ココアや紅茶でもいいだろうに、と思う。
「人が多いな」
「多いかな。随分空いてると思ったんだけど」
 そういうことじゃない、と志野はため息をついた。
「人目がある。見られるのは困る」
 なんだ、そういうことかと頷いたわたしに、
「あんた、ほんとに」
 考えているのかと続けるつもりだったのだろう。
「問題ないよ。いつものことだ」
 遮ったわたしの言葉に、がちゃん、と刺々しい音を発して志野がカップをソーサーに戻す。勢いでこぼれたコーヒーが、白いソーサーに飛び散った。
「人目」
 腰を浮かしかけた志野をそう言って留める。
「最初の事件、覚えてるか」
 座りなおした志野にわたしはそう聞いた。
「ああ」
 志野の祖母の生家。そこでわたしたちは雪白さまにお会いした。
 現実と重なる、だが隔てられた空間で。
「あれと一緒だよ。雪白さまはいつも仕事のときは、場所を隔ててくださってる。細波の時だって、大声上げて騒いでたのに、誰も起きて来なかったじゃないか」
 知らなかったのか、と続けようとして、近くに立った人を見上げた。
「今晩は」
「寺岡さん」
 赤みを帯びた光の中にあってさえ、青く見える顔色が痛々しい。
 どうぞ、と席を薦めると寺岡さんは口元で笑い、座った。
「静さんをお探しに?」
「ええ。外から、仰木さんの姿が見えたので。あの、お邪魔でしたかしら」
「いえ、そんなことはありませんよ」
 わたしは片手を上げてウェイターを呼ぶ。寺岡さんもコーヒーを頼んだ。
「待っているのは、案外辛くて。……こちらは?」
「二村です。そっちの人と同じで、あそこにお世話になってます」
 言葉少ない志野の自己紹介に、寺岡さんも短く名乗った。
 それから志野をじっと見て、彼女は言った。
「二村さんもあちらでお仕事なさっているの?」
「いえ。俺はただの居候です。遠縁なんです」
「そう。でも……」
 寺岡さんは言いごもる。だが、言いたいことはなんとなくわかった。
 陽に偏るものが陰に聡いのなら、陰に偏るものは陽に聡い。
 彼女は志野の中の雪白さまの気配を察したのだと思う。
 志野はそれに答えるつもりは毛頭ないようで、黙っている。寺岡さんもそれ以上問わなかった。
 それから他愛もない話が交わされ、五分ほど経過したときだった。

 志野の気配が一瞬で雪白さまと入れ替わる。
「来る」
 戸惑う寺岡さんに構わず、志野は立ち上がる。
 勘定を、と伝票に手を伸ばしたわたしに雪白さまはおっしゃった。
「後でよい」
 見渡せば、先ほどまでいたはずの客も店員もいない。
 すでに雪白さまが現に重ねた空間の中なのだろう。
「避けろ!」
 志野の叫びにその視線を追った。
 炯炯と光る二つの目玉。それが車のヘッドライトだということを知るまでに二秒。
 生垣を引き裂きガラスを割って店内に飛び込んできた乗用車を避けて退き、わたしは戦いの始まりを告げる鐘音を聞く。
 引き倒されたテーブルの金属の足を、タバスコのボトルが叩く音だった。

 炎を吹き上げる車のドアがあく。
 両足をそろえて降りてきた女性の視線がわたしを素通りし、志野の上で止まる。
 声も言葉もない。表情もない。けれど、それの意志は誤解なくつかめた。
「おいしそうだと思ってもらえたみたいだな、志野」
「年増はごめんだ」
 寺岡さんを前にして、随分失礼な言い草だと思った。
 けれど寺岡さんはそんなことはまるで気にしていない。
「静!」
 名前を呼んで駆け寄ろうとした。
 わたしはその手を掴んで止める。
 一旦わたしを振り返り、どうして、と言いかけた寺岡さんは再度目を妹さんに向ける。
 それからきつく眉根を寄せた。
「違う……?」
 そう、それは明らかに静さんではなかった。
 陰による泉さんよりも、はるかに陰に凝った何かが、静さんの中にいる。
「ほら」
 何も持たぬはずの志野が何かを投げて遣す。撓りと葉ずれの音に、受けとったそれが枝であると知る。
「あんたの出番だ」
「あーっ 桜っ そんなっ ばかなっ こんなっ」
「うるさい」
 それはわたしがここ数ヶ月丹精して育てた桜だった。
「泣くな、煩わしい」
「そんなことをおっしゃいますけどね、雪白さ……っ」
 志野の後衿を引っつかみ、わたしは後方へと飛びのいた。追いすがる触手の一撃を桜の枝で退ける。

 陽気を求めるあれが泉さんを襲うことはないだろうとわたしは判断した。
 席を仕切る衝立の影に隠れるように指示をすると、彼女はうろたえながらもしっかりと頷く。
「静を」
 言いかけた寺岡さんが、小さく叫び、口元を覆った。
 振りかえるわたしの目の前で、静さんの背中から生えている不定形の触手が執拗に志野を狙っている。
 子稲荷さんが吹き付けた炎に一部を焦されながらも、諦める気配はない。
「外へ」
 店内は狭くはない。けれどテーブルや椅子が邪魔で思うように動けない。
 わたしの声に頷いた志野は、割れた窓から外へと飛び出した。
 緩慢な動作で、二歩、三歩と寺岡さんが足を踏みかえる。
 その動きをみて、寺岡さんの中にいるものが明らかに人でないことを知る。
 そう、人ならばまず、目で追い、首を動かし、肩を引き上半身をひねり、それから足を動かす。
 志野を追おうとぎこちなく足を踏み出した寺岡さんの背中に向かってわたしは枝を振る。祓われて一度散り散りになった黒い靄のようなそれは、けれど、再び凝ってしまう。
「子稲荷さん、志野にあれを近づけるな」
 承知、と子稲荷さんが炎を放った。
 しかし前方の地面に弧を描いた炎を、無造作に静さんは踏み越える。
「だめだ、消して!」
 服に燃え移ろうとした炎が、あわやのところで掻き消える。
 おそらく反射行動だろう。わたしの邪魔に靄は志野を追うことを止め、わたしにその触手を向けた。
「瘴気だ、中(あ)てられるぞ。吸うな」
 避ける間はない。
 雪白さまの助言にわたしは息を止め、間近に迫るそれを枝で振り払う。
 手にした枝の乾いた葉が互いに擦れ合って鈴のように鳴った。
 祓われた箇所が、散じて消える。
 このまま祓ってしまえるなら、と踏み込もうとしたわたしを止める声。
「祝っ」
 声にそちらを振り返ると、雪白さまが大樹の残滓を見つめている。
 髪ほどの細い線が宙に描かれた。
「解ける」
 それはまるで破れ目のできた袋が、内容物の重みに耐えられず弾けるような光景だった。
 引き裂かれた結び目から、鬼があふれ出す。

 駆けより、志野の体を綻びから離す。近づく鬼をわたしは桜の枝で打払った。
 払い損なった鬼を子稲荷さんが散らしてゆく。
 志野の目には鬼は映らない。それでもわたしの動きからそれを察することはできるのだろう。
 彼は、ぎり、と奥歯をかみしめた。
「雪白、出てろ。鬼どもを始末する」
(しかし)
 いつになく、わたしは足手まといでなく、志野が足手まとい――そう感じる余裕などなかったのだから、これは完全に志野の誤解なのだが――な状況に、我慢ならなかったようだ。
「出てろ、邪魔だ!」
 志野の断固とした命に、雪白さまはその体を抜け出した。抜け出た白い気は凝り、わたしの持つ桜の枝に小蛇の姿をとって絡みつく。そこから腕を伝い、わたしの右肩に巻きついた。
 子稲荷さんが不満そうに鼻を鳴らす。
「雑魚は、喰われてろ!」
 声とともに放たれた志野の力。目にするのは二度目のことだ。
 志野から光にも似た気がほとばしる。黒に近い深い紫から徐々に鮮やかさを増し、やがて目を射る白に色を変える。
 その光に捕らえられた鬼が、叫ぶ間もなく喰われてゆく。
 漂う鬼に続き綻びから溢れようとするそれも次々と捕らえ、志野は余さず封じていった。
 抗う鬼が荒れ狂う。
 逃れようとする力と封じようとする力が真っ向から打ちあたり、暴風を巻き起こす。
 子稲荷さんは小さな前足でわたしの左肩を掴みむ。わたしは右手を伸ばし、子稲荷さんが吹き飛ばされないよう、その体を押さえた。
「どんな状況なんだ!」
 志野の言葉に返事を探す。
「業務用掃除機もびっくり!」
「わからねぇよ!!」
 そうだろう。
 これまでの仕事では複数の鬼を相手にすることはなかった。だからわたしが計器の役目を果たせたのだ。
 志野を中心に、何時の方向、仰角何度に鬼がいる、と伝えればよかったのだから。
 だがこれではどうしようもない。
 四方八方に標的がいる、と言葉で表すことはできても、それでは役に立たない。
 志野に鬼が見えるのなら、もっと効率よく片付けられるだろうに。
 荒れ狂う力の嵐に目を眇め、数が多いとはいえ雑魚に全力を使わなくてはならない志野の状況を、もどかしく思った。
 その直後。
 わたしの目は二つの光景を認識した。
「な、にが……」
 志野が叫ぶ。
「見えた!」
 二つの視界のうち一つは、おそらく志野の視界だった。
 二つの光景をどうやってわたしは認識しているのだろう。
 カメラを切り替えるほどにも不自然なく、わたしは二つの視界を持っている。
 ともかくも、志野の荒ぶる力に方向性が生じた。
 志野を中心に放たれる力の半球は旭日旗のように放射状に変化する。
 そのひとすじひとすじが、螺旋を描き確実に鬼を捕らえてゆく。光に触れた鬼が蒸散し、吸い込まれる。
 助けを求めて縋ろうと、あるいは志野を害することで逃れようと伸ばされる鬼の手をわたしは枝で祓う。
 状況は好転したように思えた。

 しかし、綻びからは鬼が次々とこぼれ出てくる。
 それを捕らえ、祓うのだがまるできりがない。
 いたちごっこだ。
 綻びを封じなければ。
「雪白さま、志野を」
 頼みます、と言い置いて、わたしはかつて大樹の生えていたその場所へと走った。
 どうやって、と考える余地さえも感じてはいなかった。
 わたしのもうひとつの視界が、わたしの肩を離れ、志野の襟元に巻きついた雪白さまを見る。
 雪白さまは志野に触れようとする鬼を、その牙と尾で払い除ける。
 綻びに向かい走るわたしの前を遮る鬼を、子稲荷さんが焼き払った。
 右手に握る桜から、伝えられるより早く、わたしの口は言葉を紡いだ。
「サノカミクラノヒニイツク」
 わたしは桜をつきたてた。
「チヲサカイシテモリトナセ」

 枝を地に突き立てた瞬間、大地から驚くほどの気が放たれた。
「っ」
 気の奔流にわたしは数メートルを飛ばされた。街路樹として植え込まれていた潅木の中に落ち、手や頬にひどい掻き傷を作った。咄嗟に着いた両手には、砂利がいくつも食い込んだ。
 引き裂かれた綻びは、渦を巻く気に錬られてゆく。
 溢れようとしていた鬼をも呑みこみ、膨れあがる。
 気の渦が巴を描く。陰気と陽気の結び目が見えた。
 潅木に抱かれ空を見上げたまま、わたしの口はさらに何事かを言った。
 だが、覚えているのは一言だけだ。
「ムスビシズメヨ」
 収束する力の奔流。
 巻き上げられた木葉や小枝がさらにわたしを引っかいて空に散った。

 だが、それが終りではなかった。

 何がどうなのかまるでわからない。それでもどうやら封じを終えたらしいと、我に返ったわたしの目に飛び込んできたのは、片膝をついてうずくまる志野だった。
「志野。大丈夫か」
 よろよろと立ち上がり、志野の元へと歩く。
 唇を噛んだまま、志野は体内に抱え込んだ鬼を逃すまいと頑なに押さえ込んでいた。
「雪白さま、戻ってください」
 志野の肩を抱きその顔を覗き込む白蛇にわたしは言う。
 けれど即座に、戻れぬ、と声は返された。
 昨晩の会話が思い出される。
 細波と多数の鬼、雪白さまを同居させるのは志野といえど、難しいのだ。
 無理をすれば、もっとも弱い者が壊れる。……志野だ。
「そんな」
 志野自身がこれを浄化しきるまで、待つしかない。

「静」
 寺岡……泉さんの声にわたしは寺岡姉妹の存在を思い出した。
 まずい、と思う。
 静さんの中に巣食うあの凝りを祓う手立てがなかった。
 わたしは幣束代わりの桜の枝を手放してしまった。おそらくあの枝を引き抜けば、綻びはまた口を開く。
 志野にはもう鬼を喰らうことはできない。
 そのとき、ゆっくりと不自然な動きで歩み寄る静さんと、わたしたちの間に、泉さんが駆け込んできた。
 生垣を踏み越えてきたのだと思う。ハイヒールに泥がつき、足に掻き傷ができていた。
「静、ダメ」
 泉さんを見る静さんに表情はない。
 敵意も、親しみも、それと察せられるものは何もなかった。
 陰による泉さんは、あの黒い凝りにとって同類なのかもしれない。
「静」
 もう一度名を呼んだ泉さんが、静さんの腕を捕まえた。
 抱き寄せる。
 避けも、迎えもせず静さん(の中の凝り)はそれを受け入れ……。
 泉さんの持つ陰気は見る間に靄と同化した。

 崩れるように姉妹はアスファルトに倒れた。
 泉さんの気を吸収し、静さんから抜け出した夜の闇の中にあっても、なお暗く凝る異質な闇。
 周囲をわずかに散らすそれが、志野を探す。目のないそれの視線をどこで察したのか、わたしにはわからない。
 激しい緊張に足が震えた。
 志野は喰らった鬼の気配で陰によっているはずだ。
 見つからない、大丈夫だ。
 このまま息を潜めて、あれが拡散するのを待てば……。
 わたしの嘘は、自分さえ騙せなかった。震えは足から背へと駆け上る。
 闇は志野を見つけた。
 なだれ込む。
 止める術はなかった。

 志野は両膝をついた。
 倒れようとする体を拳を作った両手で支えている。
 はじめはそう思った。
 ひゅる、と志野の咽喉がなった。
「雪白」

「散らせ、俺ごと」