鬼喰 ― たまはみ ―

第二話 共鳴 五

 滅入っていても――どうしてこう日本語は往生だの滅入るだのとかくもゲンの良くない言葉が日常語として使われるのだろう。 いや、死にそうなほど悩んでいても、と言わないための隠語なのか。ちっとも隠れていないじゃないか――仕方がない。
 わたしは畳に転がって、天井を見つめる。
 節のない真っ直ぐな木目を追いながら考えた。
 志野に頼らず片付ける方法。
 これは簡単に答えが出せる。
 志野でなくてはできないことをしなければいい。つまり、鬼を喰むあの力に頼らなければならない状況を回避できればいいということだ。
 もっとも安易な方法としては、寺岡さんには申し訳ないが、あの綻びを即座に繕ってしまうことだろう。
 繕う方法は、桜に聞けばわかるだろう。
 だが、捉えられてしまった寺岡さんの妹を連れ戻すとなると、突然難しくなる。
 連れ戻すために穴を広げ、広げた穴から鬼が溢れないよう押さえつつ、向こうに渡って彼女を取り戻し、戻ってから繕う。
 難易度は一気に四倍増だ。
 ため息が一瞬、白い靄を作り散じた。
 寒い、と思いながら身を起こし、いそいそとストーブの前に移動した。
 マッチを擦り、点火する。ストーブが咽喉を鳴らして灯油を飲む。立ち込める灯油のにおいを払うため、わたしは窓を開けた。
 すべりこんできた冷たい風は咽喉を刺激する臭いを連れ去っていく。
「そう。だいたいどうして連れさられたのが静さんだったのか」
 それもわからない。
 何かを求める行動は、渇望から生み出される。
 あの闇は静さんを求めた。
 誰でもいいのなら、他の人でも、そうだ、泉さんでも良かったはずだ。
 静さんで充分足りたようには思えない。
 わたしに対し、そろりと触手をのばしたあれは、まだ飢えている。
 這い登る悪寒から逃れるため、わたしはストーブの前に座った。
「わたしと静さん」
 直接の面識はない。だがひとつだけ共通するものがあることにわたしは思い至った。
 視力か。
「違うな」
 唐突に降った声に驚いて振り返る。
「志野……雪白さま?」
「両方だ」
 そのぞんざいな口調は確かに志野のものだった。
「雪白、説明」
 そこで志野の声と口調が変わった。
「気だ」
 気ですか、と鸚鵡返しに繰返したわたしに、雪白さまは頷いた。
 部屋の入り口に立ったままの志野に、とりあえず入れ、そして障子を閉めろと指示をする。
「開けっ放しは寒い」
 志野が障子を閉める間に、わたしは壁に立てかけてあった卓袱台を出した。
 それを待って志野は入り口からもっとも近い場所に座った。上座に着かなかったのはおそらくどこが上座なのか知らないからだろう。いや、座に上下があることさえ、知らないのだと思う。
 が、まさか雪白さまの上(かみ)に座るわけにもゆかず、わたしは困惑の表情を浮かべてしまったようだ。
「かまわぬ」
 と、雪白さまは一言でわたしに着座を勧める。
 躊躇いつつも、それならとわたしは志野の前に湯飲みを二つ並べる。お茶と白湯である。
 律儀よなという雪白さまの声に、志野が湯飲みを見つめたまま不可解な顔をした。
 志野の疑問に答える気はないご様子で、雪白さまは白湯をとり、口を潤した。
 行動と表情がまるで一致しない。見ていると下手な二人羽織のようで滑稽だ。
「それで、気、とは?」
 吹きだしてしまわぬよう、わたしは問う。
 雪白さまが主導権を握ったのだろう、表情から「志野」が消える。
「他界のものが纏う気と、こちらのものが纏う気は異なる。陰陽をともに纏うそなたらに対し、あやつらは陰気のみを纏う。綻びの向こうに住まうものが、こちらに姿を現すには自らの持つ陰の気に相応する陽の気を纏わねばならぬ」
 わたしが目にする鬼のように、この世に関与できぬ影としてであるならば陰の気のみでも存在できる。
 けれど、器がなければやがて「気」は散じてしまう。
「在り続けるには、力が要る」
 その力を保つために、他者の気を取り込むのだ、と雪白さまは続ける。
「神はその神域と奉げられる祈りからそれを得る」
 なるほど、奉納舞の後のあのぽっかりとした心地よい疲労感はそのせいか。舞と同時に自分の気を奉げているのかもしれない。
「食事、のようなものですね」
「似ておらぬこともない」
「では……あれ?」
 言いかけてわたしはあることに気づいた。
「器とは、人の体ですよね」
「人とは限らぬがな」
「ですが、先ほど人は陰陽の気のどちらも纏うと」
「時折」
 と雪白さまは再度白湯を口に含む。
「陰気のみに、または陽気のみに偏る者がある。件の女子はそれであろう。片割れは陰の気に凝っておったゆえ」
 泉さんの持つ沈んだ雰囲気は、彼女に凝る陰気のせいか。
「陽気に凝るものは陰気に聡い。見鬼は陽に偏るものに多く表れる力だ」
「じゃ、こいつもか」
 不意に発せられた志野の声に驚くより先に、こいつと呼ばれたことにかちん、ときた。
 だが、
「いや」
「見えるし、襲われたんだろ」
 否定する雪白さまの声と、わたしに確認を求める志野の声が重なる。
 かちん、がどこかに行ってしまう程度には、奇妙な心もちがした。
「よくわからない。襲われたというほど積極的な印象はなかったな。好意的ではなかったけれど」
 さもあらん、という声と、どういうことだ、が再び重なる。
 ひとつの口から二つの声。二人羽織に腹話術。珍奇な見世物を見ている気分になってきた。
「他界の鬼は、陽気に引き寄せられる。陰気のせぬものを求める」
 そなたの陰の気は人には稀なほど薄いが、陽の気もまた強いとは言えぬ。
「薄い陰気に手を伸ばし、陽気の薄さに手を引いたのであろ」
「喰えると思って手を伸ばし、美味くないから手を引いたのか」
 二重奏にわたしはとうとう吹きだした。わたしは肩の力をぬいた。
「まさに食べ物扱いですね。美味くない、か」
 笑うわたしを見て、志野が少し表情を和らげた。それから何かに気づいたように、眉を寄せる。 「陰は鬼なんだろ。じゃ陽はなんだ」
「陰とは限らぬ」
「陽の、陰陽の鬼もいるのか」
 自問自答にこみ上げる笑い。震える手で掴んだ湯飲みのお茶が楽しげな音を立て踊る。
「陰陽を持つものが陽を失い陰に凝る。陽による見鬼はこれを見る。死霊、とそなたらが呼ぶものだ。だが、陽を見るものは少ない。なぜならば、陽を知るには陰によらねばならぬ。陰によれば、長くは持たぬ。陰の気は死気にも通ずる」
 陰に凝る姉が無事でいられたのは陽に凝る妹の存在によるところが大きいと雪白さま。
「あれだけの陰気を和する陽気を持つ者であるならば、呪師としては優れておろうな」
「なるほど」
「だが、姉もあのままでは、長くは持たぬ」
 寺岡さんの顔色の悪さを思い出す。
「もって、二十日」
 いたって真面目な雪白さまの返答に志野は感心したようにわたしを見た。
「あんた、貴重品だったんだな。見えるし、普通に生きてる」
「さよう」
 珍品を見る眼差しは気分を害してもいいものだったのかもしれない。お前だって相当の珍品だと言い返しても良かったと思う。
 けれど、わたしの中に満ちてくる笑いの衝動は不快さえ凌ぐ勢いで溢れ出た。
 止まらない笑い。卓袱台に突っ伏したわたしに志野がお茶をすすりつつ、ポツリと呟く。

「で、美味くいただかれた妹の方はどうなったんだ」

 窓を鳴らす北風に、身が強張った。
 温かいはずの部屋が、不意に寒々しく感じられた。
 わたしは卓袱台から身を起こす。
 弛緩から緊張への急激な気持ちの変化に対応するため、わたしはお茶を一口飲んだ。
 さて、と雪白さまが呟く。
「鬼の纏う陰気の程にもよろうがな。具合がよければ、女を着てこちらに渡ろうよ」
 静かな声には似合わぬ剣呑な内容に、わたしは湯飲みを取り落とした。
 わずかに残っていた茶が卓袱台にこぼれる。
「着る、ですか」
「吾がこれに依るように。最初に五人、見鬼を二人。他にも一人、消えておろう。こちらに渡る程度には、陽気を集めたと思うてもよかろう」
 自動車事故で五人の陽気を啜る。残された陰気は鬼となりやがて散じた。
 見鬼は静さんと。
「前任者か。番組の」
「もう一人は番組担当者だな」
「……八人も」
「足りぬようなら、まだまだ喰らおうよ。人を纏いこちらに渡ればそれも容易い」
 ゆるくしびれるような感覚が背中を覆った。
「連れ戻す手間は省ける」
 拭けよ、とこぼれたお茶を志野は指差した。
「出てくるのを待って、喰う。解決だ」
「女が無事ならば、だ」
 ため息まじりの声は雪白さま。反対だ、と言葉にしない部分で強く語っている。
「無事かどうかは、すぐわかる。なんだ、一人でやらせると思ったか」
「志野」
 卓袱台を拭く手を止めて、案じてくれるのか相棒よ、と志野の顔を見上げたが、喜びはそこまで。
「報酬の半分」
「は?」
「寺岡が払う報酬の半分、つまり俺の取り分だ。それで今後半年、手伝いは免除ということになった」
 昨日「少しばかりお話」した結論なのだろう。
 手伝いをするだけで、半年この仕事から解放されるなら、今の三倍家事に勤しんでもいいと思うわたしとは、真っ向から相対する志野の見解に、わたしは口をつぐんだ。
「そんなに手伝いがイヤなのか」
「やったことがない。そんなことより、雪白、ヤツはいつ出てくる」
 どこか嬉々とした様子で問う志野に、雪白さまはしばしの間をおいてお応えになった。
「今宵にも」

 急転直下。
 もう二、三日の猶予を思っていたのだが、そういう事情でわたしはその日の晩、志野とともに綻びに向かうことになったのだ。

 寒さに震えつつ、現場に立つ。
 夕方の天気予報では、この冬一番の冷え込みだといっていた。
 凍えないよう足踏みをするとポケットの中で、毎度神主さんが持たせてくれるお札が、かさかさと音を立てる。
 握り締めたペットボトルもみるみるうちに冷えてゆく。
 子稲荷さんが、身を振るわせたわたしの襟元に擦り寄った。
 今さらながらに、体温まで感じられるのにどうして他の人には見えないのだろう、と、足早に通り過ぎてゆく人々を見送る。
「寺岡の中身を引きずり出して、喰う。いいな」
「ああ」
 志野が簡単に繰返した作戦に同意を返しながら、そんなにうまくゆくものだろうかと疑問が首をもたげる。
 喰う、とは言っているものの、喰えぬとおっしゃった雪白さまが沈黙している理由も気にかかる。
 どうしたものかとついたため息が、白くわだかまる。
「喰えなきゃ、散らす」
「散らすって、そんなことが」
 できるのかと言いかけて、思い出した。
 器がなければ、いずれ散る。
「時はかかろうがな」
 雪白さまのお声が脳裏に響いた。
「どの程度の時間が」
「だから、細かくするんだ」
 苛立たしげに志野は言う。
「砂糖と一緒だ。かたまりで入れれば溶けるのに時間がかかる。細かくすれば一瞬で終わる」
「なるほど」
 そういえば志野は甘党だったな、と、無関係なことが思考の端をかすめた。
 いつだったか、コーヒーに角砂糖を三つも入れていたことを思い出す。
 まあ、その溶けにくい砂糖がカップの底にたまって、最後の方は眉根を寄せていたりもしたのだが。
「ついでだから教えてくれるか。どうやって引きずり出すつもりなんだ」
 予測はついていた。だから驚きはしなかった。

「俺を餌に、寺岡から引き離す。そのまま喰ってしまえるならそれでいい。ダメなときは散らす」
「ふうん。で、どう散らすんだ」

「そのときにはお前の中にいるのに」

 沈黙した志野の足元を、枯葉がいくつか笑いながら転がっていった。