鬼喰 ― たまはみ ―

第二話 共鳴 四

 衝撃は深夜に訪れた。

「これの手に余る」
 深夜めずらしくわたしの部屋を訪ねてきた志野は、遠慮の欠片も見せず入り込み、勧めもしないうちにしっかり上座に座った挙句、高らかに宣言した。
「祝、こたびはこれを遣わすこと、あいならぬ」
「雪白さま?」
 さよう、と頷いた雪白さまは、口元だけで笑う。
「これが眠ったので借りた。直裁に話そうかとも思うたが、離れるのはいささか不安であったのでな」
 志野の体を当たり前のように借りている雪白さまの慣れたご様子から察するに、これが初めてではないらしい。
 なかなか勝手は良いぞ、とのたまう雪白さまに、志野はそれを知っているのか、と聞いてみる。
「知らぬな。いまのところ。しばし見ぬうちに人の世も変わった。知らぬでは都合の悪いこともある。ゆえにこうしてこれの身を借りて見聞しておる」
 知ったら怒るだろうなぁ、と内心でつぶやきつつお茶を出す。
「なに、知られねば問題はなかろう」
 雪白さまの浮かべる穏やかな笑顔に重なるのは事実を知ったときの志野の顔だ。
 見ないようにつとめ、茶を勧めると
「酒はないのか」
「志野は未成年です」
 固いことを申す、と雪白さまは小声でつぶやいたが、それ以上要求はしなかった。
「それで、あいならぬとは、また?」
 あらためて聞き返すと、雪白さまはやや改まった様子で、繰り返した。
「此度の一件、これを遣わすことはならぬ」
 つまり、志野は参戦させないということだ。
 なるほど。ということは、わたしひとりで対処することになる……?
 ことばの理解が脳内に沁みこむまでの少々の間のあと、わたしの喉が立てたのは悲鳴になり損ねた息の音だった。
「はいぃ!?」
「これ、夜分に奇声をあげるでない。これが目を覚ましてしまうではないか」
「で、ですが」
 そんなわたしだけで、と続けた言葉は声にはならず、胃の奥に落ちてゆく。
「やればよい。出来ぬことはあるまい」
 にべもなく言い切った雪白さまは、しかしさすがに気まずいのか、少々の間をおいてつけたした。
「あの娘の凝りは尋常でない。いまだ昇華されておらぬのだ。眠っておればこそ多少の鬼は喰めようが、あれを目覚めさせる愚は冒せぬ」
「もしかして、細波ですか?」
「さよう。あれが在る限り、他の御霊(ごりょう)を喰むなど、もってのほか。身の内で暴れられてはたまらぬ」
 立て板に水、とでも言うのか、口をはさむ余地もないほどに滑らかに雪白さまはお話になる。
 吾を住まわせあの娘を宿らせ、このうえに御霊を喰めば、身が壊れる。さりとて吾がこの身を離れれば、際限なく喰らい続けよう。小鬼と言えども数多くばそれなりに手がかかる。万一、娘が目覚めれば、娘の意思とは関係なくこれが喰われる。
「負担なく喰めるというならせいぜいがこの程度だ」
 と言い置いて、宙を裂き、雪白さまは引きずり出した鬼を喰う。
 それは志野と最初に出会ったときの地縛霊に程近い。
 耳を塞ぎたくなるほどにけたたましい霊の悲鳴と、霊の伸ばす腕がわたしに迫る。
「いったいどこから……」
 身を後方に仰け反らせて手をやり過ごす。
「気にすることはない。どうせやくたいもない霊(すだま)よ」
 とは言え、やはり、喰う速度が緩慢としているのはわたしの目にもあきらかだった。
 その様子をこうして目の当たりにし、また、細波を喰ったときの志野を思い出し、なるほど、と思う。思ってしまってから、がっくりと肩が落ちた。
「それじゃ承知いたしました、としか、言いようがないじゃないですか。あんまりですよ、雪白さま」
 一人、ということはもちろんだが、他の御霊など、と仰るのだから、対峙すべき存在が少なくとも細波レベルであることは明らかなのだ。それを、このわたしに、たった一人で立ち向かえと。
 われながら情けないとは思ったが、昼の一件を思い出すと収まったはずの胃痛が吐き気とともにこみ上げる。
 気に中てられたか、と、雪白さまは卓越しに身を乗り出すとわたしの額に指先を伸ばす。
 眉間に冷たさを感じると同時に、不快感も苦痛もは消えてしまった。
 あまりにも唐突な変化に、わたしは随分間の抜けた表情をしたのだろう。
 雪白さまが笑う。
「すまぬな」
「あ……いえ」
「ゆえにあの娘が解されねば、此度はこれは遣わせぬ。よいな」
 すまんと思っているようには感じられないにこやかな口調で雪白さまは詫びる。しかし目礼とはいえ、半ば神さまである雪白さまに詫びられて、よもや否やとは言えない。
 詫びてくれても解決しない問題に対し、わたしはどう対処すべきなのだろう。
 途方にくれるわたしの前で湯飲みを空けた雪白さまは、あいかわらず慣れぬ味よ、白湯のがよいな、と小さくつぶやいた。
「急いではおるが、間に合うとは思うてくれるな。あの娘、あれほどに凝った思いを抱えておっては、まだまだ時がかかろう」
 そう言いおいて、席をたった雪白さまはふと思い出したように、部屋を出しな振り返りこういった。
「穴へは子狐をつれてゆく方がよかろう。詳細は、桜に聞いてみよ」
 おそらくはあれが、一番知っているであろうゆえ。
 馳走になった、と微笑んで、「では、おやすみ」と片手を挙げてご退場。
 そのやけに人じみた仕草をわたしは呆然と見送った。
「……」
 湯飲みを両手で握ったまま、その暖かさが消えるまでの時間、わたしはそのままの格好で座り込んでいた。
 ついたはずのため息は、咽喉の奥をにひっかかる。
 再度、あれと一人で向き合うのかと思うと、いっそのこと放心してしまいたい心地だった。

 翌早朝、鉢植えの桜に、植え替えはもう少し待ってくれと言い置いて、わたしは外出した。
 行き先は言うまでもない。件の桜の元である。
「おはようございます」
 そう挨拶したわたしに桜はさやと枝を振って返した。
 まだ明けきらぬ薄闇の中でみる桜紅葉はまた先日とは違う趣があった。
 夜の気配の残る空気は冷たく澄んで心地よい。
 桜の木肌に手を当てる。
 返答は間もなくあった。
(おはようございます。和。今朝は随分早いですね)
「唐突ですみませんが『穴』のことについて、詳しく教えていただきたくて」
 息が白い。吸い込んだ冷たい空気が鼻の奥を刺激した。
「先日もお伺いしましたが、穴とはなんでしょう」
 重ねて問うと、綻び、という言葉が手のひらを通じて脳裏に描かれた。
(他界との境を隔てる結びの綻びです)
「他界、というのはこの世ではない世界のことですか? 死後の世界とか」
(それも他界のひとつです)
 ひとつ、ということは他にもあるということなのだろうか。
 わたしの疑問が伝わったのか、桜はまたさやと枝を鳴らす。
 一枚、二枚、枝を離れた葉が、軽やかな音を立てて、わたしの足元を流れていった。
(他界はここと重なる別の場所。所を同じくするものの、時とその流れを異にします。それらが交わらぬように敷かれた境界。これの綻びを、穴と申します)
「綻べば、どうなるのです」
(交わります)
 あの世とこの世がつながってしまうようなことだろうか。
 この世のものでないものを見ながらも、この世でない世界を想像したことのないわたしは、あの世の明確な定義ができず、質問がその先につながらない。
 苛立つわたしを気遣うように桜が枝を鳴らす。
 さやさやという葉ずれの音は、わたしの緊張を解きほぐす。
 徐々に影を濃くする地面から顔を上げ、枝を見上げた。
 ゆっくりと息を吸い込めば、その冷たさがわたしの頭を冷やしてくれる。
 ことばを探しながら、わたしは説明を試みた。
「実は、今度の仕事、どうやら一人で取り組むことになりそうなんです。人探しなのですが……あの、穴の向こう側に落ちたり、連れ込まれてしまった人を、取り戻すことは可能でしょうか?」
(不可能ではありません。しかし、大変難しい。連れもどすためには穴を広げねばなりません。広げた穴からこちらに出でようとするものを留めながらとなれば、お一人では)
 ざざぁ、と枝の枯葉がいっせいに鳴った。
 朝の光が葉ずれの音に刻まれてきらきらと地面に降りそそぐ。
(あの鬼喰は、どうしたのです)
「彼は……ちょっとわけが」
 実はこの夏に喰んだ御霊を未だ身の内に残しておりまして、と昨晩雪白さまがお話になったことを告げると、失笑にも似たざわめきが桜の枝を伝う。
(主の不在がよほど堪えたようですね。いえ、堪えぬはずはありませんが)
 乾いた葉が、笑い声にも似たかろやかな音をたてる。
 心地よい響きに、強張った頬がすこし解けた。
「穴を広げて、人を連れ戻し、鬼を祓って、穴を封じる、か」
 一旦手を離し、わたしは幹に背を預けた。
 そのまま仰ぐように枝を見上げる。
 梢の葉が、また数枚枝を離れて空を流れてゆく。
 白い空に木の葉の影が黒く映った。
 くるくると回りながら空を流れ去る枯葉たちを見送るうちに、夕べから続いた緊張が解けていった。
「なんだかどれも難題ばかりですね」
 ため息とともにこぼれた言葉だが、自分が思っていたほどに深刻な響きはない。
(大丈夫)
「とてもそのようには思えませんが」
 肩先に降ってきた葉を指先で玩ぶ。
(大丈夫)
 繰返される言葉は温かい。
「そうでしょうか」
(ええ)
 指を開くと葉はすぐに風に運ばれていった。
 その先を目で追いつつ、わたしは幹から身を離す。
 桜を振り返った。
「それじゃ、もう一度、現場に行ってみます。何かよい方法を思いつくかもしれませんしね。そのときは、またご相談にのってください」
(いってらっしゃい)
 優しい声に勇気づけられ、わたしは昇る日の中を、長い影と一緒に帰宅したのだった。

 何一つ解決してはいないことは、努めて考えなかった。

 そう。よくよく考えてみれば、一つ二つ解決したところで、同じこと。
 寺岡さんのお姉さんを連れ戻すまでは。
 幾度目かわからないため息は、諦めと居直りと投げやりの音がした。