鬼喰 ― たまはみ ―

第二話 共鳴 三

 子稲荷さんのエールを受けながらふらつきつつもなんとか帰り着いたわたしは、そのまま自室にもどり畳に転がった。
 腹の上に座る子稲荷さんを撫でながら、目を瞑る。適度な重さが心地よい。
「なんだったんだろうね」
 瞑ったまぶたの裏にあの闇を思い出す。
 いや、思い出そうとしたのだが、どうにも思い出せない。異様であったことは思い出せるのだが、あのときに感じた緊張はもとより、どんな姿だったのかも漠然としている。
「喉もと過ぎれば、か」
 つぶやいて、息をつく。
 ゆっくりと上下するわたしの腹の上で子稲荷さんが据わり心地の良い場所を探して足踏みをした。

 夕食は残念ながら咽喉を通らなかった。食欲がまるでないのだ。
 普段なら食欲をそそるはずの匂いにさえも耐えられず、席を外した。
 もっとも帰宅後は寝て過ごしたのだからそれも仕方がないのかもしれない。
 夜気の冷たさが心地よかった。
 縁側に立ち見上げた空にはカペラが見えた。馭者の右肩に輝く星はあたたかな灯火の色をしている。
 夜が闇ではないことを、あらためて知った。

 夕食後、少しの時間をおいて再びわたしは皆と同席した。
 片付けられた卓袱台に一抹の申し訳なさを感じる。
「もし、静さんの出かけた先が本当にあそこなら、原因はあれかもしれないな」
 現場について問われたわたしは答えた。
「いたのか」
 志野がどこかうれしげにそう言った。大方、こんどの報酬が目当てなのだろう。
 何が何でも家事の手伝いはいやだとでも言ったに違いない。神主さんの笑顔の深さからそれは想像がつく。
「鬼じゃないんだけどね。それにあれは、いた、と言うよりも、あった、かな」

 自分への確認も兼ねて、わたしはそれの説明を試みた。
「最初は映画のスクリーンが裂けているような、そんなふうに見えました。布を縦に引き裂いたような破れ目でした。破れ目の向こうには、黒い何かが」
「それは、ものでしょうか、それとも、暗がりでしょうか」
 神主さんの言葉にそれを思い出してみる。
「暗がりのように見えました。同時に、もののようにも見えました。そうですね、暗がりそれ自体が、もののような」
「なんだ、それ」
「わからない。ひどく、異質なものだとしか」
 そう、異質である。
 この世に属さないものを数多く見てきたわたしだが、あれと比較するならば、過去に会った鬼たちは「異国の人」程度のものだ。
 それでどうしましたか、と重ねて問われる。
「不審に思い確認しようと近づこうとしたところ、襲われました……たぶん、ですが」
 自信がないのは、あの闇が凝ったような黒い靄(もや)に、敵意を感じなかったからだ。が、子稲荷さんの非友好的な凄まじい威嚇を思うと、あの靄が友好的な存在であったとも思えない。
 したがって、たぶん、ということになる。
「そうですか」
 慎重にことばを探す神主さんは、いつになく真剣だった。
「あの木は、樹齢400年と言われた桜なんですが、切ると祟りがある、と昔から言われていましてね。何度かの道路の拡張工事の際に、切り倒すか、移植させるか、そのまま残すか、で毎回もめたんですよ」
 前回の拡張工事でも、一度は切り倒すという決断がなされたそうだが、作業開始直後、クレーン車が倒れるという事故が発生し、中断。再度執り行おうとすると、今度は機器の電気系統の故障。三度目は切り落とした枝をトラックに積んでいる最中に荷崩れが発生し、怪我人が出た。幸い死者や重傷者は出なかったが、祟りかもしれない、とささやかれるに至って労働者のボイコットが発生。とうとう予定は変更され、道路は桜の両側を回り込むように敷かれたのであった。それが20年前のことだという。
「そういうしだいですから、桜が倒れたことによる影響が出ているのかもしれませんね」
 確かに、桜の生えていた場所に穿たれた大きな穴の中心にその破れ目はあった。
「難しいですね」
 言いながら神主さんは湯飲みを置いた。
「難しいですか?」
 神主さんはゆっくりと頷く。そして、まず、俗に祟りと呼ばれる事象についても、と言った。
「三通り。あの事故が発端なのか、あるいは結果なのか。疑問は残りますが」
 第一に、何がしか、あの場所に所以のある死霊が原因である場合。
 第二に、桜の木霊が何ごとかを訴えている場合。
 第三に、桜に関わりのある精霊の報復である場合。
「しかし、現場にそれらしき霊はいなかった。そうですね、和さん」
「ええ、わたしには見えませんでした」
「あなたに見えないなら、他の誰にも見えません。つまり、いないんです」
 そうだろうか?
 ちょっと考え込んでしまったわたしには構わず、神主さんは先を続けた。
「否定するだけの根拠は持ちませんが、祟りであること自体、わたしは懐疑的です。ことに、第二、第三の場合においては」
「死霊相手なら、あんたに見えないはずがない。となれば、一は最初から除外だな」
 志野の言に、神主さんは再度頷いた。
「動植物の魂魄は、人の世の理に感心を持たない。つまり、恩恵を成すことも、祟りを成すことも、可能性として低いのです。結果的に恩恵となる場合や、人に害がおよび祟りと言われることがあっても、多くはそれを目的にしているわけではありませんし、祟りと呼ばれるような現象を引き起こすことも、稀なのですよ」
「でも、たとえば、お稲荷さんとか……」
「彼らは特例ですよ。もともと人と関わりの深い生き物ですからね。聞かないでしょう? 日常目にしない、つまり生活と係わりの浅い生き物を祀る風習など。そうですねぇ、ペンギン神とか、アザラシ神とか。少なくとも日本では聞かないはずです」
「ペ……」
「アザラシ……」
「狐、猫、犬、蛇、ヤモリ、カエル、牛、馬……みな人との関わりの深い存在です。姿を持たない神も好んでこれらの生き物の姿に変じますが、それは、彼らが人と自然の仲介をする生き物だからです。
 神々は互いの利益が一致する場合に、時として人の要望を聞いてくださる、というだけですよ。もちろん、不利益が発生すれば、その不満もおっしゃいます。いえ、どちらかといえば主に不満を伝えるためにお姿を現すと言っても間違いではないでしょう。
 神を祀り、神に祈る。これも、もともとは『人の世の営みに戯れに干渉しないでくれ』との願いからのものなのですから」
 無聊をかこつ彼らを慰めることが、祭祀の始まりであったのはわたしも知っている。
 神への畏怖こそが祈りの元始であるなら、確かに、神とは願いを叶える存在ではないのだ。
 そも供物とは贄である。贄を求める存在に頼ることの重きを知らぬままに、発願することの愚かしさをどうの、とは、誰から聞いた言葉だっただろうか。
 ははあ、なるほどと、相槌をうちつつ志野を見れば、彼は腑に落ちない顔で考え込んでいた。
 困ったときの神頼み、を地でゆく世代の彼には理解しにいだろうなとも思った。
 わたしと同じことを思われたのだろう、神主さんは志野を見て苦笑した。
「それについては、また、追々お話しましょう。まずは、今回の件について話を進めます」
 志野が頷くのを待って、神主さんは続けた。
「ですから、死んでしまった桜の祟り、とは考えられない」
 死んでしまった桜、ということばに、なぜか胸が詰まった。そうだ、あの桜は死んでしまったのだ。
 花のころは、レストランの道路側の席はいつも満席だった。
 麗らかな午後の日差しに花びらを降らせる桜を思い出し、今朝のあの光景がいっそう無残で寒々しく思われた。
「倒されそうになったそのときであればともかく、完全に撤去されてしまった後にまで、遺恨を残すようには思えません」
 その声を聞き頷こうとして、わたしは貧血に似た眩暈を感じ畳に手をついた。胃が熱い。
「大丈夫か」
「食べてないからね。……まだ、食欲はないんだけど」
 彩花さんが静かに立つ。
 しばらくして戻ってきた盆の上には葛湯があった。
 どうぞ、と勧められ茶碗を受けとる。
「いただきます」
 茶碗の温かさが心地よかった。ほのかに甘い香りのするとろりとした湯をゆっくりと飲む。
 わたしがそれを飲みほすまでの間、考え込んでいた志野がぽつりと呟いた。
「祟りではない……だが、桜は伐るな……」
 伐ってはならない理由があった。では。
「封じ……でしょうか」
 茶碗から視線を神主さんに戻す。
 彼はいつになく神妙な顔で、わたしの言葉を肯定した。
「考えられなくはありません。しかし、何かを封じていたと言う話も聞かない。通常、何かを封じているのなら、どういった形でも何らかの逸話が残るものです。民話でも、昔話でも。ところがまったく皆無である、となると」
 話すことさえ憚られるモノ。
 ぞくり、と背筋を這い登る悪寒。ほのかに残るぬくもりに縋るように、わたしは手の中の茶碗を握る。
「そう。ことばに出されるだけで、その封じが揺らぐ。忘れるに任せて、ただ、それを解かぬよう、戒めだけを残した。いや、何を封じていたわけでもないのかもしれない。桜があそこにある必要があった、ということかもしれません」
「伐れば禍がある、か……」
 神主さんは、しばらく黙り込んだ後、真剣さのかけらもない表情と口調で言ったのだった。
「そうすると、初の御神霊対決になるかもしれませんね。せいぜい、がんばってください」
「ちょっと待ってください。今回は仕事じゃないでしょう。寺岡さんはそんなことはおっしゃらなかった。頼まれたのは人さがし、です」
「ただ働きはごめんだ」
 志野の発言は至極現金だが、道理でもある。経費はかからなくても、命がかかっている。タダでなくてもいやなのだ。あんなモノと係わりあいになりたくない。
 あれは異質なモノだ。この世のものではない。
「実はそのお話は、夕べお電話で済んでるんです」
「え?」
「だから、調査をお願いしたんですよ」
「まさか」
「探してください、とお願いされたので引き受けました。原因はアレかもしれない、と、あなたもおっしゃったでしょう、和さん。目的までの過程において、ちょっとしたトラブルが発生するのは世の常です」
「……お言葉ですが、世の常じゃない事態に遭遇しているようには思われませんか」
「世も常も範疇は人それぞれですからねぇ」
 ……。
 わたしと志野は互いに一瞬だけ視線を交わし、その中に浮ぶ共通認識を確かめあったが口にはしなかった。
 どの程度のことがわかっているのです、と、気持ちを改めて ―― いや、諦めて、か ―― 問うと、神主さんがニコリと笑う。
「随分物分りがよくなりましたね」
 幻聴だとは思うがそんな声が聞こえた。
 説明によると、あの事故現場にいたるまでの道のり、寺岡静を目撃している人間がいるらしい。
 マイナージャンルとはいえ一応タレントであるし、彼女の出演していた心霊特集番組の記憶もまだ遠くない今、見かけませんでしたか、と写真の一枚でも見せれば、
「ああ、あのときのあの女がこの人だったのか」
 という程度には記憶に残っているようだ。
 寺岡泉はそうして妹の静の足跡を追った。
「なんでも、あの通り沿いのファミリーレストランから、事故現場に立つ静さんを見たという方がいらっしゃいまして。それが最後の目撃談です」

 三叉路を見つめて、じっと立っている女がいた。
 何をしているのか疑問に思った。
 女は白っぽいスーツを着ていた。車のライトに照らされた感じでは、ごく淡い黄色だったようにも思う。
 その席に座って、オーダーを終えたころその様子に気づいた。
 待ち合わせでもしているのだろうか。迎えの車を待っているのかもしれない。
 それから食事が運ばれてくるまでのおよそ7〜8分、微動だにせず女は立っていた。
 奇妙な人だ。そう思ってから、先日の事故を思い出し、事故の犠牲者の家族か何かだろうと思った。
 食事が運ばれてきた。
 それを確認し、もう一度窓の外を見たとき、女はいなかった。
 帰ったのだろうと思ったが、目を離したのは10秒にも満たない時間だった。
 信号は赤だった。
 歩いて立ち去ったのだろうかと道沿いに目を走らせたが、姿を見つけることはできなかった。
 足の速い女だと思った。

「見通しのよい直線でしょう。十秒に満たない時間で、スーツ姿の女性が立ち去るのは難しい。車が彼女を迎えに来たようにも思えない」
「消えたということですか」
「立ち去ったのかもしれないですし、レストランからは見えない位置に路地があったのかもしれません。見ている人間に気づいて隠れたのかもしれない。そんな珍妙な行動をとる意図は別にして、立ち去ったという可能性が排除されないうちは、それも可能性から除外することはできませんからね」
「路地、ですか。時間は」
「深夜です。十一時過ぎだったそうですよ」
 わたしは記憶を手繰った。おそらく、そのファミリーレストランとは、わたしたちも時々利用するあの店だろう。事故現場が見渡せる席を思い浮かべ、その席からの光景を思い浮かべてみる。
 再度、桜を思い出し、胸の奥がきりりと痛んだ。
「通りは商店街でしたよね。夜中じゃ、シャッターも下りている。壁のようなもんですよ。人が入り込めるような路地もなかったように思いますが」
「ああ、やっぱりそうですよね」
 わたしもそうは思ったのですけれど、人の記憶は頼りにならない部分もありますから、と神主さんはお茶をすすった。
「見に行っていただいた甲斐がありましたね」
「地図でもよかったんじゃないか……」
 じゃあ、ほぼ間違いはないでしょう。
 志野の呟きを左耳から右耳に通過させた神主さんがふむふむとひとり納得している。
「十中八九、和さん、あなたを襲ったそれの仕業とみてよいでしょう」
「……ですか」
「出かけていただいてよかった。これで下調べもすみましたし、後は片付けるだけ」
 片付けるのはわたしじゃないから良いとしても、アレと対峙する現場にはわたしも同席しなくてはならない。
 気が進まない。
 ゲンナリとしつつも、しかしわたしは前向きに考えることにした。
 まあ、雪白さまがいらっしゃるのだから、そうそう滅多なことも起こるまい。
 ちらりと志野を見やれば、どうやら似たようなことを考えていたようで、珍しく苦笑を返してきた。
 そして半ば自己暗示をかけながら、わたしたちは神主さんに倣い、お茶を飲んで自分を納得させたのだった。