鬼喰 ― たまはみ ―

第二話 共鳴 二

 お客様がいらっしゃいました、と襖の向こうで呼びかける彩花さんの声を聞く。
 今朝のあれは、白狐さまのご警告なのだろうか。
 昼食後の片付けをのんびり終えた後、しばし自室でくつろぎつつ思考にふけっていたわたしはその声に時計を振り返った。
 2時15分を差している。
 思いのほかのんびりしてしまったらしい。
 すぐに参ります、と返事をする。
 来客者の前で胡坐をかいて平然としていられる志野と、わたしは違う。作業着で客に対するなど、もってのほかだ。
 急いで祝の略装である白い小袖と袴に着替えた。
 が、部屋を出たところで、待っていた彩花さんに足元を指摘される。みれば、アーガイル柄の靴下をはいた足が、白い袴からにょきりと除いているではないか。あわてて足袋に履き替えて、急いで客間に向かった。

 失礼します、と障子をあけて、わたしの視線は客と思われる女性にとらわれた。
 わたしより少し年上、おそらく30代後半と思われる女性だった。思わず目を奪われたのはその容貌のせいではない。なんとも不思議な印象をもった人だった。落ち着いたというよりは地味、物静かなというよりは辛気臭いような……陰によった印象を持ちながら、それでいて凝りとなるようなものは感じられない。
「仰木和と申します。こちらで神主さんのお手伝いをさせていただいております」
 両手をついて、一礼し、部屋に入る。障子をしめ、席についたところで
「和さん、こちらは寺岡いずみさん」
 神主さんはわたしにそう、女性を紹介した。
「はじめまして。寺岡泉と申します」
 差し出された名刺を見る。寺岡コンサルタント・チーフマネージャーと肩書きがついていた。
 わたしも名刺を返すべきなのだろうが、そんなご大層なものはない。失礼を詫びると寺岡さんは少し微笑んでいいえと言った。
 やわらかなその声も笑顔も、どちらかといえば沈んだように響く。
 まあ、ここへこういった相談に訪れる人の声は普通明るくない。当然だろう。
「寺岡さんのお姉さんはしずかさんといって……。ああ、和さんもご存じでしょう」
「あの、姉ではなくて妹です。双子ですから、どちらでも同じですけど」
 小さく訂正した彼女のことばに、神主さんがこれは失礼いたしました、と笑いつつ謝罪した。
 寺岡しずか……寺岡しずか。
 そんな知り合いがいただろうかと記憶を探る。
「あっ」
 思い当たった瞬間、ついわたしは腰を浮かせてしまった。
「『わたしには見える』の!!」
 著者である。
 時折テレビにも出演している美人霊能者だ。そういえば目の前の女性とはよく似ている。
 と、すれば、年齢はわたしと二つも違わないはずだ。
「あまり似ておりませんでしょう?」
「あ、はい、いえ」
 座りなおしながらしどろもどろに答えたわたしに彼女は微笑んだ。やはり、影が落ちたように、薄暗い印象がある。
 それが彼女を年嵩に見せているようだ。
 実のところメディアで言われるほどに寺岡静という女性は際立った美人ではない。造作自体は、姉も妹も変わらないのではないだろうか。それでも、テレビで見たこの女性の妹は、もっと華やかで、そう、言葉を選ばない言い方をするのなら、白粉臭い印象があった。
 もっともわたしはその類の番組は好んでは見ないので、あくまでもちらっと見ただけの印象である。
 番組がウソであればまだしも、ごく稀にはとんでもないものが映りこんでいたりすることもあり、とてもではないが、茶の間で菓子を頬張りながら見る気にはならないのだ。
 その書籍のことも、志野が友人の心霊好き(モノズキ)から貸されたものを、斜め読みした程度である。
「ええ。あの著書は、志野くんがお持ちでしたね」
 神主さんの肯定を聞きながら、わたしは背筋を伸ばす。
 同業者からの依頼、となれば、それは彼女の手に負えなかったことを意味する。
 つまりランクB以上であることは確かだ。いや、白狐さまがご警告くださった相手なら、わたしもできるなら他人に任せたい。
 まいったな、と、内心思いながら彩花さんが淹れたお茶で唇を湿らせた。
「あの、2ヶ月ほど前の事故はご存じでしょうか」
「はい。自動車の」
 今朝説明を受けた内容を一通り繰り返すと寺岡さんは目を伏せた。
 障子越しの午後の日差しが彼女の表情に深い影を落としている。
「同乗者の一人が、学生時代の友人の子どもだったのです。妹は親しくさせていただいておりましたし、わたしとも、面識はありました。この春、高校生になったばかりでした。元気のよい可愛らしい子だったのに。夏ごろから良くないお友達と親しくしていたようで」
 その縁で、葬儀に参列し、後に事故現場に花を供えた。そこで妹、つまり霊能者である静さんの様子がなんとなくおかしくなり、とうとう5日の晩、もう一度現場に行くと言い残して外出したまま帰らなくなった、という。
「葬儀からひと月ほど過ぎたころでした。テレビ局の方がいらして、偶然にもあの場所の取材に同行してほしいというお話を頂いたのです。ですけれど、わたしも静も、直接の友人の子供が命を落とした場所ですから、お引き受けいたしかねるとお断りしました」
 しかし、押し切られる形で引き受けることになったという。
 死者にはプライバシーはないとでも言いたげな、その手の番組だが、どうやら生きている人間のプライベートにもあまり気を使わないらしい。
「わたしも、葬儀の後は一緒に参りましたけれど、周囲に特に変わった様子もなく……折れて焼けただれた木の残骸が事故の大きさを語るようで切なくはありましたけど。帰り道、妹がなにか言ってはおりましたが」
 ことばを詰まらせた彼女は湯飲みを待ったままうつむいた。
「妹と違いわたしには、そういったことはまるでわかりませんので、確かなことはお話しできません。ただ、この仕事には乗り気ではなかったようです。これを最後に、仕事を辞めたいと申しておりました」
 できるなら、この仕事を請けずに、わたしも辞めたいのだが。
 ますます逃げ腰になる自分を戒めて、わたしは全く別の問いかけをしてみた。
「こちらへは、なぜ?」
 近くにある神社だから、というのはありえない。なぜなら失踪した人を探すのであれば、神社ではなく寺でもなく、とりあえずは警察に赴くのが常識ある社会人と言うものだ。
 それに、霊能者の看板を挙げているわけでもない。これまでに解決した事件が口コミで広がるにしても、まさか半年程度で、諸先輩方から頼られるようになるとは考えにくい。
 尋ねたわたしに、彼女は二度三度瞬きをした。
「あの、子どものころ妹がこちらにお世話になったことを思い出して」
 なるほど、では、例の仕事の依頼というよりは、失踪した姉が立ち寄ってはいないか、と尋ねてきたのだろう。
 しかし、仕事、と夕べ神主さんはおっしゃった。それに今朝のお社での出来事が幻聴ではないのならただ事ではないはず。
 神主さんは、にこやかな笑顔で寺岡さんのことばに頷いた。
「ええ、覚えていますよ。あのころはわたしもまだ中学生でした。父を訊ねていらっしゃったんですよね。お二人ともまだ小学生になるかならないかくらいでしたねぇ。おそろいのオレンジ色のリボンをされていました」
 神主さんのことばにほっとしたかのように肩の力を抜いて寺岡さんはお茶を飲んだ。少し微笑んで頷く。
「妹のリボンがなくなって」
「そうでした。あなたがリボンを半分に切って」
「ええ、ええ。そうです。こちらの奥様が小さくなったリボンで可愛らしいピンブローチを二つ、作ってくださったんです」
「ああ、母はそういったことが好きでしたから」
 懐かしい思い出のためか彼女の表情が少し和らいだ。思い出話をする二人を眺めながら、部屋の隅でわたしと同じく黙ったまま座っている彩花さんの顔を見る。
 視線に気付いたのか、彩花さんがこちらを見て首を傾げる。それから、静かに立ち上がり、急須をのせた盆を持って隣にきた。
 慣れた仕草でわたしの湯飲みをとると、さっとお湯をくぐらせて器を温め、新しく注いでくれる。
 お茶のおかわりがほしかったわけではないのだが、それじゃ何の用だと問われると返答に困る。座に退屈しているのだともいえない。黙ってありがたくいただいておいた。

「場所も近くでしたから、もしかして、こちらにお伺いしていないかと思ったのですけれど」
「残念ながら、静さんはいらっしゃいませんでした。失礼ですが、泉さん、警察には?」
 神主さんの問いかけに、彼女は弱弱しく首を左右に振った。
「まだ。……妹はこれまでも度々不意に外出しては数日帰らないこともありましたから、両親も騒ぎ立てるなと申しまして」
 そこまで言い彼女はことばを切った。
「実は、このお仕事はもともとは別の方にお願いするはずだったのだそうです。ところが、急にその方との連絡が取れなくなったということで、わたくしどもに。昨日の打ち合わせは、先様の都合で日延べされましたけど、聞けば番組の担当者も数日前から無断欠勤。連絡のつかない状態だとか……」
 そういって黙り込んでしまった寺岡さんの肩を、神主さんが軽く叩いた。
「わかりました。寺岡さん。ご協力いたしますよ。まずはこのあたりで静さんを見かけた方がいらっしゃらないかわたくしどもで調べてみましょう」

 寺岡さんが何度も何度も頭を下げながらお帰りになったあと、志野が座敷に入ってきた。胡坐をかいて座ると
「で?」とわたしに聞く。
 どうやら隣室で、客人が帰るのを待っていたらしい。
 面倒を押し付けた風にも見えるが、志野の判断は正しい。
 まさかこんな子供が(と言ったら怒るだろうが)霊能者だと言われても、はい、そうですかと納得できるはずもない。これまでの例を考えても、相談を受けるのは神主さん。わたしはその助手。ということにしておく方が穏便だった。
 それに未成年をいかがわしい仕事の表に立たせるのは気が進まない。
「妹さんが失踪したそうだよ。とは言っても、外出したのが5日の晩らしいから、まだ失踪と決まったわけじゃないようだけどね」
「知ってる。その妹が霊能者の寺岡静なんだろ」
 どうやら雪白さまとふたりで隣室から聞き耳を立てていたようだ。
 あいつ本物だったのか。てっきり霊能系タレントだと思ってた、と志野はつぶやく。
 それはあながち間違いではない。寺岡静、という人物が霊能者であるかどうかは知らないが、彼女の出演する番組に本物の霊が登場したことはない。つまりタレントとしての寺岡静は、あくまでも霊能者を演じる女優である。
「それで、どうするんだ。まさか探偵ごっこでもするつもりか」
「まずは、現場を見なくちゃな。本当にただの失踪ならわたしたちにできることはないし」
 そうであってくれれば、と思う反面、まずそうではないだろうという予感。
 それがよいでしょう、と神主さんが結論し、わたしと志野は出かけることになった。
 いや。
「見てくるだけなら、和さんだけでもよいでしょう。志野君には少しばかりお話があります」
 話の内容は、聞かなくてもわかる。「家庭内労働について」だろう。
 神主さんはにこやかな表情を志野に向けている。傲慢なまでに堂々とその笑顔を受けた志野が、ふん、と軽く鼻をならす。
 ……そうしてわたしは一人現地調査に赴く破目になったのだ。

 そしてわたしは見た。
 かつて大木があったと思われるその場所には、何もないことを。
 そう、何もなかった。
 事故車も、木も、犠牲者の霊も。
 空間さえも。
 まるで町並みを映し出すスクリーンを裂き切り取ったような穴が、黒々とそこに出現していた。
 穴の向こうに何があるのか。
 窺うために踏み出そうとしたとき、何かがわたしの髪を引っ張った。
 振り仰げばそこに子稲荷さんがいる。ついてきてくれたらしい。
 引っ張られるままに2,3歩後退したその瞬間。
 その穴から放たれた「何か」がわたしのいたはずの場所を穿った。
「何!?」
 さらに飛び離れるわたしの右肩の上で子稲荷さんが激しくそれを威嚇する。
 子稲荷さんの大きく開いた口の赤い色が、右目の端に映る。
 わたしをつかみ損ねたらしいそれが、ためらうように蠢いた。
 子稲荷さんのやわらかな毛並みが逆立ち、常よりも一回りは大きく膨らむ。
 ちりちりと子稲荷さんの緊張がわたしの右頬を焼く。
 対してそれは蛇のようにうねり、まったく別のもののように膨らみ、広がり、縮み。窺うようにわたしに近づいては離れるを繰り返す。
 けれどその触手がわたしに伸びるたびに子稲荷さんの唸り声にためらい、一定の距離以上近づこうとはしない。
 背を向けて逃げ出したいような衝動が全身を駆け巡る。けれどそうしてはならないことを、わたしの一部が理解していた。
 雑踏が遠ざかる。
 無音の中で、わたしは微動だにせずそれを凝視し続けた。
 見開いたままの眼球が乾く。
 視角は変わらない。しかし、わたしが見ているのはその黒々とした何かだけだった。
 瞬くことさえできない目に、乾いた風が吹きつける。冷たいはずの風が焼け付くように熱い。
 吸い込んだまま吐き出せない息が熱を持ち、体内で暴れまわる。
 短い時間であったとは思う。
 しかし、闇を凝結したような触手が穴に引っ込み、やがてその穴さえもゆっくりと閉じ、日常の音が耳に帰ってきたとき、わたしは膝が崩れるのを止められなかった。
 膝を突き、両手で体を支えながら、荒い息をついた。地についた手が小刻みに震えている。
 額の汗がアスファルトに落ち、しみを作る。
 気づかうように鼻先を寄せた子稲荷さんに心配ないよと小声で告げたものの立ち上がることもできなかった。
 通り過ぎる何人かが怪訝そうにわたしを見ていたが、わたしにはそれを気にする余裕はなかった。
「どうしました。大丈夫ですか」
 誰かがそんなふうに声をかけてくれたように思う。
 その人は立ち上がるのに手を貸してくれた。
 けれどそれが、誰だったのか、男性だったのか女性だったのか、若かったのか年配の方だったのか。
 かろうじて立ち上がったわたしは、それさえも思い出せないほど意識を朦朧とさせたまま、帰途に着いたのだった。

 霊じゃない。少なくとも、人の霊ではない。

 それは推測でも確信でもなく、事実であることが、わたしにはわかっていた。