鬼喰 ― たまはみ ―

第二話 共鳴 一

 八月末の騒動以来、極めて平和な日々が続いている。幸せな限りである。
 小さな事件こそ数件あったが、そのどれもが対象のランク付けができないほどに小さなものだったおかげで、わたしは非常に楽だった。
 現場まで志野を連れて行く。ターゲットの位置をわたしが示す。あとは志野が飲み込んでおしまい。
 なんと素晴らしいことだろう。運転手に甘んじても、わたしはこの方がうれしい。

 出会いから8ヶ月。受けた依頼は32件。他に巻き込まれた事件が1件。
 どうやらすっかり職業(プロフェッショナル)となってしまったようだ。

 なし崩しに如何わしい職に就かされてしまったが、失業よりはよほどよいにちがいない。そう、思いたい。そう思うことにしている。

 さて、そんな平穏な日々の中、わたしは気にかかっていた一つのことを調べてみた。
 最初の事件、あの消し飛んだ家で犠牲になった多くの人たちのことである。
 志野は一言も口にはしなかったが、自分にかかわるものが他者に害をなしたかもしれないことを、ひどく気にしているようだった。あまり知りたくないのはわたしも同じだったが、気にしながらいつまでも知らないでいるのは落ち着かない。
 志野よりも好奇心が強く辛抱の足りないわたしは、それでいそいそと尋ねたのである。

 あの桜の元を。

 雪白さまご本人にお聞きするのは気が引けたし、他に事情を知っていそうな存在といえば、あの桜しか思い当たらなかったのだ。

 消えた人々の行方を訊ねるわたしに、穴に落ちた、と桜は答えた。
「穴、ですか」
 もともと霊的に不安定な場所に八雲の家はあったようだ。その土地を桜が、桜を世話する家人を白蛇の君、雪白さまが守っていたらしい。
 ところが、戦争で男手をなくした八雲の家を、戦後のドサクサにまぎれて巻き上げた現地主の父(故人)のおかげで、雪白さまはノイローゼに陥った。
 多恵さんは母方の実家に身を寄せていたが、母の再婚先にともに迎えられる。成長し、嫁ぎ、やがて八雲の家に戻ることなく亡くなられた。
 結果的に主を奪われた雪白さまの怒りに触発されて、桜が守る場の安定が崩れ、人々は「穴」に落ちた、と簡単に言えばそういうことらしい。
 まあ、守護すべき者を失った守護者がアイデンティティの危機に瀕するのは当然のことだ。わたしだってお守りしてきた神社がなくなってしまったとき、本当に途方にくれたのだ。お分かりいただけるだろうか。
 明日からどうやって生きてゆこうかと、もう、それはそれは切なく心細いのだ。
 まがりなりにも帰る場所があったわたしと違って、雪白さまには「八雲」しかなかった。焦燥は如何ほどなものだったのだろう。
 思うだけで胸が詰まる。
 そんな錯乱状態で、赤の他人の無事にまで気が回らないのは至極当然というものだ。
「落ちた方々は、どちらに」
「他界に」
 他界、と言えば死亡のことである。
「亡くなられたということですか」
「そのようにおっしゃる人は多いようです」
 では「他界」と、「他界する」で使われる他界とは厳密には違うのだろうか。
 ほんの一瞬だけ、そんな疑問がこめかみの辺りを掠めて飛び去っていった。
 まあ、大きくは違わないようだし、亡くなったと解釈してよいのだろう。
 わたしは意識を切換えた。
 では穴とは何んでしょう、そう問いを重ねたわたしに、桜は言う。
「それをあなたが訊くのですか」
 よくわからない。訊いてはいけなかったのだろうか。
 驚いたような桜の波動にわたしはたじろぎ、樹皮に触れていた手を引いてしまった。
 ことばを捜すわたしに桜も沈黙で返す。
 人と違い、正直な彼らは苦笑したり、お愛想を浮かべることがない。
 もしかして訊いてはいけないことだったのかもしれない。
「ええっと、じゃあ、雪白さまが人を害したわけではないのですね」
 再び樹皮に手をあてて、そう問いかける。
 そう。今、聞きたいことに、問いをしぼる方がいいだろう。
「はい。近づくな、この地に、と彼は言っていたでしょう。守護者としての存在を失いかけていた彼は、それでも精一杯、この地を守ろうとしていたのです。帰ってくる家人のために」
 けれど帰れ、戻れと願う思いは、逆にこの地の気を乱しました。
 桜はかすかに枝を揺らした。
 葉ずれの音がさらさらと耳に心地よい。
「帰れという願いは、もとあったように還れ、という願いに通じてしまうのです。もとあったように還れば、封じは効力を失ってしまいます」
 桜は語る。
「幾たびか、ここを離れるようわたしは彼に言いました。でなくば、いずれ封じは綻びて、穴が広がってしまう。彼にもそれはわかっていました。それでも彼は、ここを離れることができなかったのです。彼は主人の行く先を知らされなかった。知らなかった。ここよりほかに、待つ場所がない。変わりゆく己を感じながら、ずっと待っていたのです」
 木肌にふれた手のひらから流れ込む桜のことばが、わたしの中で像を結ぶ。
 待つしかなかった。待つためには、ここが必要だった。他者のものにするわけにはいかなかった。
 桜の記憶に刻まれた悲痛な声がわたしの中に影を映す。

 古びた縁に座り、桜を見上げる白い影。
 枝越しの空に投げられた眼差し。
 あまりにも明るい日差しに、胸がふたがる。
 待っている。帰って来い。どこにいる。
 離れすぎた気配を追うことができない。
 探せない。待つしかない。
 花が咲く。花が散る。葉が芽吹く。茂る。赤くなる。吹きすぎる風に葉が舞い落ちる。
 戻らない。帰らない。
 雪景色に黒い枝。鈍く光る空。まどろみの中にも、吹きつける風。
 待っている。待っているから。
 帰れ、戻れ、わたしの元に……

「そうですか。お辛かったでしょう、雪白さまも。あなたも」
「……わたしはそれほどでもありません。失くす痛みに比べれば。あなたが彼の守るべき者を連れ帰ってくださってよかった」
 さわ、と吹き抜けた晩秋の風に桜が紅葉を散らす。
 緑から赤褐色のとりどりの葉が投げかける光の色に、雪白さまが多恵さんを失ってからの長い日々を思った。
 枝ごしに、空を見上げる。午後の緩い日差しが、故郷を思い出させた。
 そしてしばし桜と歓談し、帰宅したわたしは、それとなく志野に伝えた。

「危険だって警告しようにも、聞こえないからね。普通は」
 やんわりと、雪白さまに責任がないことを告げる。
 仮に雪白さまが正気であったとしても、彼のことばは人には聞こえない。現にあれほどの妖気を発して、敷地に入らないよう彼が警告を発していたにも関わらず、踏み入るものは後を絶たなかったのだ。
 真実の全てでなくても、ウソでないなら、構わない。
 割り切ったわたしのことばに返ってきたのは、まばたきと一言。
「暇なんだな、あんた」
 強情っぱりめ。背を向けてから笑うくらいなら、素直にありがとうと言え。
 もう少し愛想よくしても罰はあたるまいに、などと思っていたのも最初だけ。
 ないものねだりはしないほうがいい。
 たとえ「ありがとう」と頭を下げられたとしても「どういたしまして」としか言うことはないのだから。

 そう、ないもの、と言えばもうひとつ。志野の関知能力だ。
 あいかわらず志野の目には物の怪たちは映らない。
 見る必要はない、との雪白さまの判断だった。
 鬼喰の光景を初めてはっきりと目にした志野が、絶叫したためである。
 志野のあんな悲鳴を聞いたのは、今のところあの一回こっきり。
 見せないほうがよい、と雪白さまがお決めになった理由は察せられるが、なんともうらやましい限りだ。
 なぜなら、彼は自覚なしに鬼を喰み、わたしはそのたびにホラーでスプラッタな映像を見ることになるからだ。わたしだってできれば見たくはない。
 しかし、慣れとは恐ろしい。
 ここ最近では、わたしも鬼喰の光景ごときでは、驚くことさえなくなってしまったのだから。

 職業選択をあきらめたわたしは、表向きここの住み込み使用人だ。
 表向きとは言ったが、実際、例の依頼がない限りそれは真実である。仕事は祝(はふり。神社の下働き)だったころと何ら変わりない。お稲荷さんのお社を清め、子稲荷さんたちの遊び相手を務め、庭掃除をし、神主さんの話し相手になったり、彩花さんのお手伝いをする。
 飼い殺しと感じるか、優雅な生活と感じるか、人それぞれだろう。わたしはまあ、満足していなくもない。
 人生、平穏無事が、一番なのだ。
 ご近所さんも、15年来の付き合いとなると、わたしをここの家人と認識してくれる。肩身の狭さもさほどない。いっそあの仕事なんかないほうが、と、思う。
 一方、志野は今のところ下宿人と認識されているようだ。大学から近いこの家は大きく、遠縁の子供をひとり預ったところで不思議はないと考えられているのだろう。近所のお嬢さんたちにはすこぶる評判が良い志野は、あの性格だから表立って喜んだりはしゃぐことはないが、まんざらでもない様子だ。

 さて、それなりに充実した日々を送っているわたしの目下の感心は、これ。
「おはよう、元気かい。今日もきれいだね」
 わたしが話し掛けているのは、桜の苗木である。
 八月の末、事件の成り行きで手に入れた桜の枝は、花瓶に飾っているうちになんと根がついた。桜は難しいと聞いていたが……これも雪白さまの恩恵か。様子を見つつ、先日、鉢に植え替えた。鉢込みで高さ50cm。華奢な体に煌く青葉を纏っていた桜は今、日に透ける紅葉で着飾っている。
 この桜が病気にかからぬよう、よからぬ虫がつかぬよう、毎朝こうして確認するのが、わたしの日課であり、ささやかな楽しみのひとつなのだ。
 できれば地面に植えてやりたい。しかし、ここは神主さんの土地であり、同時に白狐さまの土地である。お許しなしに植えることはできない。おそらく神主さんはお気になさらないだろうが、白狐さまはどうだろう。居候の身分で問うことも憚られ、現在に至っている。
「何やってるんだ。朝から、盆栽とお話か?」
 はたから見たら変態だ、と暴言を吐いたのは志野である。縁側から投げられた声に、失礼な! とは言い返さず、わたしはわざとゆっくりと身を起こし、これまたわざと穏やかに挨拶した。
「やあ、随分早いお目覚めだね」
 やっと今起きてきた志野への皮肉だったが、鼻先で笑い飛ばされてしまった。
「暗いうちから起きるなんて、年寄りだけだ」
 どうせ、年寄りだよ! おまえの倍近く生きてるよ!
 心中で毒づき、わたしは桜の手入れに戻った。不愉快を顔に出したところで、志野は気にしない。ならば不愉快になったことをあらわにするだけ癪なのだ。
「飯、なんだった?」
「鮭と、ふと長ねぎの味噌汁と、だしまき。のり。ナスの漬物。それからヒジキと豆とにんじんの煮付け。里芋の煮ころがし、あとは大根おろしだったかな」
 欠伸まじりの問いかけに、わたしも手入れをしながら返答を投げる。
「ふうん。なあ、朝から魚は食べにくくないか」
「さあね。わたしは嫌だと思ったことはないな」
 注意深く葉の裏や、枝を調べながら、一応返事をする。
「鮭は食べた後まで臭う」
「胃が弱ってんじゃないのか。若いくせに」
「……」
 こんな失礼なやり取りを好まない神主さんは、しきりと仲良くするようにいうのだが。
 極めて険悪と言うのでもないのだから、これでいい。……だろう。
「片付けくらいは手伝ってこいよ」
「はい、はい」
 大あくびをしながら縁を歩く志野の姿を視界の端で捉えながら、わたしは桜の手入れに精を出した。

 櫻を持ち上げ、鉢底をしたから覗き込む。どうやら虫はいないようだ。よし。
 あらかたの確認が終わり、鉢を地面に下ろしたところで、右手にふさりとやわらかなものがあたるのを感じた。
 お社から裏庭まで遠出してきたらしい子稲荷さんたちが、興味深そうにわたしの手元をのぞきこんでいる。どうやら腕にあたったのはその身の割りに大きなしっぽらしい。
「おはよう」
 声をかけるとうれしそうにそのふさふさとしたしっぽを揺らす。
「君は」
 細波の一件で世話になった子稲荷さんである。いつも一番に興味を示しては、飛ぶようにやってくる。
 どの子稲荷さんもぱっと見には同じように見えるのだが、よくよく観察してみると、それぞれに個性があった。
 たとえばこの子はとても人懐こくてちょっと怒りっぽいとか、あっちの子はおっとりしていてときどきうっかりと志野に喰われそうになっているとか、それから向こうから首をのばして見ているあの子ははにかみ屋さんとか。
 外見も個性を反映してか、微妙に違う。
 この子は目の周りの隈取が赤く大きいことと、耳の先が縁取ったように黒いのが特徴だった。
 膝に額をすり寄せる子稲荷さんがくるる、と小さく喉を鳴らした。
「うん、あのときはありがとう」
 うれしそうに宙返りをうった子稲荷さんは、それからあらためて桜に鼻を寄せた。
「そう、あのときの桜だよ。覚えてるかい」
 まだ細い幹の匂いをかいで、子稲荷さんは頷いた。
 そろそろと寄って来たほかの子稲荷さんとともに、わたしと桜の周りを飛び跳ねて、なにやら遊び始める。
 鬼ごっこのようにも見えるし、かごめかごめのようにも見えた。
 楽しげな様子を眺めるわたしを
「和さん、よろしいですか」
 縁側から、彩花さんが呼ぶ。
 わたしは、子稲荷さんたちの遊びの邪魔をしないように少しだけ遠回りをして、彩花さんのもとへ急いだ。

 縁側から上がり、部屋に入る。志野はまだ食事の最中だった。
「お仕事です」
 神主さんのことばに、志野がわずかに眉を上げる。しかし、箸はとめない。ひじきの煮物の中から、豆だけを選んで食べている。ひじきとにんじんは嫌いらしい。当然、鮭は手付かずだ。そういえば、秋刀魚も残したことがある。魚は苦手なのだろう。
 なるほど。
 次にわたしが作るときは、ひじきとにんじんをふんだんに調理してやろう。もちろん、メインディッシュは旬の味覚、秋刀魚。
 意地の悪いことを考えながら着座する。それを待って神主さんが話し始めた。
「まずはこれを見てください。2ヶ月ほど前、事故がありましてね」
 神主さんは新聞を広げた。これです、と彼が指差した先には、前半分が紙でできていたかのようにつぶれた乗用車の写真が掲載されていた。
「ああ、この事故ですか。飲酒運転とスピード違反で、分離帯にぶつかったんですよね。たしか運転していたのは十五歳の少年で」
「馬鹿か」
「ええ、そのとおりです」
 ……
 神主さんの「そのとおり」は、わたしの発言の肯定なのか、志野の発言の肯定なのか、微妙なタイミングで発せられた。
 事故現場は、高速道路の橋脚工事の現場から、さほど離れてはいなかった。つまりかつてのご神域にほど近い。ここからも、車を出すには近すぎる距離だ。徒歩でなら、およそ30分だろう。
 制限時速40キロという曲がりくねった旧街道を抜けて、直線が現れる。その150m先に分離帯はあった。道の真ん中にあった大木を迂回させるためである。
 加えて三叉路であるこの事故現場はこれまでも度々事故が発生している。いずれも土地に不慣れな運転手の接触事故で、事件として取り上げられるほどのできごとではなかったが。
 だからその記事は、記憶に残っていたのだろう。
 分離帯に激突した車は、運転手以下5人を閉じ込めたまま炎上し、誰も助からなかった。
 出ましたか、と尋ねるわたしに、神主さんが首を横に振った。
「消えたそうです」
「何が」
 食事を終えた志野が、箸を置いてそう尋ねた。
 彩花さんが淹れたお茶を受け取りながら、いかにも亭主然とした様子でそれを飲む。
 居候のくせに、と思い、わたしもだ、と気づく。
 同じ立場にありながら、なぜこんなにも姿勢が違うのだろう。生まれか、育ちか、性格か。
 どれも見事に違うから、どれが原因なのか、予測不能だ。
「人です」
 彩花さんのことばにも、ぞんざいな答えが返される。
「蒸発なら、警察の管轄」
 その様子を見ていた神主さんが苦笑しながら、説明を再開した。
「目を離したわずかの時間に、消えているのです。それこそ忽然と、だそうですよ」
 そうです、という伝聞表現にわたしは首を傾げた。
「まあ、詳しいお話は午後にでも。ご関係者さんから直接お聞きしましょう。夕べの電話では要領を得ないことも多くて」
 どうやら夕べの長電話はそれだったらしい。おかげでわたしも志野も冷めゆく夕食を目の前に見つめながら腹の虫の合唱を聞くことになったのだ。

 講義は二限までだから午後には戻る、という志野に合わせて先様には2時においでいただくよう、神主さんが彩花さんに指示をする。
 そして。

 時間がないから、と志野は片付けも手伝わず家を出た。
 その背中を見送った神主さんの穏やかな笑顔を見ないよう努め、わたしはお社まわりの掃除にとりかかる。
「まずいぞ、志野」
 枯れはじめた雑草を抜き、落ち葉を掃き集めながらわたしは呟いた。
 何やかやと家事の手伝いを言い逃れてきた志野だが、いつまでもそれを見逃すほど神主さんは甘くない。
 次回の請求書、わたしは肩代りしてやれないかもしれない……。
 舞い上げられた落ち葉と枯れ草が秋風に渦を描く。
「言い逃れも、今度は難しいぞ。あれで神主さんはけっこう手ごわいからな」
 ふ、と吐いたため息がお社に響く。
「え?」
 残響か。それとも……。

 此度は手ごわいぞ……

 それが何を意味するのか、このときはまだ分らなかった。