鬼喰 ― たまはみ ―

第二話 共鳴 序

 夜半、不意に目が覚めた。喪失感と胸騒ぎ。
 起き上がり、障子を開ける。サッシ越し、見上げた中天には、太刀のような月。
 静かに窓を開ける。部屋の中にすべりこんできた夜風が足元を撫でる。
 耳を澄ますが、何も聞こえない。
 声が聞こえたように思ったのだが、どうやら気のせいだったらしい。
 それでもすぐに布団に戻る気にはなれず、わたしはしばらく障子に手をかけたまま月を見ていた。
 冷たい夜気に身が震えた。
 時計を見る。午前3時を差していた。
「……起きるには、まだ早いよな」
 窓を閉め、障子を閉める。目を閉じる。何の抵抗もなく、わたしは中断された眠りの中へ引き込まれていった。

 何も聞こえなかったこと。その不思議には、露ほども気付かずに……
 そう、寝付く前にはうるさいほどだった虫の声さえも、しなかったのだから。

 ここがその現場なの。
 大学時代の友人にそこを見せられた瞬間、何か嫌なものを感じた。
 怖ろしいというよりは、不快感に近い。
 晴れ渡った高い空の下、色づいた木々が風に梢の葉を鳴らす。
 からからという明るい音。やわらかな色。
 日の光に和んだ光景だった。
 であるにもかかわらず、どこか異質な、そう「何か」がそこにはあった。
 ざらざらとした何かが、わたしを撫でている。そんな空気を感じた。
「どうしたの?」
 わたしの様子に気づいたのだろう。姉が顔を覗き込んできた。
「顔色がわるいわ」
「ん? そう? 光の加減じゃないかしら」
 答えながら目配せをする。
 察したのだろう、姉は、そうみたいね、と小さく笑ってわたしの背を叩いた。
「だめね。こういう場所だと思うだけで、わたしは心配しちゃうから」
 友人は何か言いたげにわたしを見ている。
 その視線に気づかないふりをして、わたしは桜を見つめた。
 いいえ、桜だったもの、と言うべきかもしれない。
 その幹は、ちょうど膝くらいの高さで折れ、上部は引き裂かれている。
 倒れた部分は対向車線に投げ出され、その見事な枝は往来する車に轢かれ、糸のようにほぐれてしまっていた。
 炎上した車とともに焼かれてしまったのか、残った根元の表皮は浮いてはがれている。
 痛ましい光景だった。
 樹齢300年を越えるというその見事な桜の、咲いている姿をこそ、見たかった、と思った。
「とても」
「え? 何?」
 わたしのつぶやきに反応したのは友人だった。
 わたしが何か話すのを、ずっと待っていたようだった。縋るようなまなざしに、憐憫と侮蔑を覚えた。
 それでも息子を失ったばかりの母親に、とても見事な桜だったのね、とはさすがに言えず、わたしはことばをすりかえる。
「すごい勢いでぶつかったのね」
 わたしの感想は彼女を落胆させたようだった。
 それでも桜を讃えるよりは幾分マシだったに違いない。
 ええ、そうなの、と、彼女は声を沈ませる。
 わたしが、まるでこの木が見えていなかったようだわ、と続けると、彼女の声には悲嘆と怒りが含まれた。
「もっと早くに伐ってしまえばよかったのよ。交通の邪魔でしかないのに。これまでだって何度も……」
 見通しはさほど悪くない通りだが、たしかにこの桜があることで、複雑に見える。
 三叉路のひとつを二つに分けるこの桜のせいで、変則四叉路、つまり少しいびつな交差点にも感じられてしまうのだ。
「何度も事故は起きていたし、そのたびに移植するべきだって声が上がって」
 交通量が増えた今、確かにこの桜は場所を移すべきだったのかもしれない。
 交通の便だけを、考えるなら。
 注連縄が、桜だったものの根元にくたりと垂れている。
 その端を踏んで、車が数台走りすぎてゆく。
「伐ってしまえばよかったんだわ」
 そしてとうとう桜は撤去される。道をゆがめてまで残そうとした先人の意思は無になった。
 彼女の息子の死をきっかけに。
「この木さえっ」
 悲痛な声だった。けれどそれは八つ当たりというものだ。
 彼女の息子は、牛が闘牛士に向かうようにこの木に向かってアクセルを踏み込み、ぶつかり、木を引き裂いた。
 そして死んだのだ。
 言うなれば彼は加害者で、桜は被害者でしかない。
「この木さえなければ……」
 友人のことばを聞きながら、わたしはスリップの跡を見つめる。
 そして道路に描かれた闇色のラインを辿る。
 桜がなければ、彼女の息子の運転する車は、向かいのファミリーレストランに突っ込んだろう。
 植えこみを乗り越えて、幸せそうな親子の座る、あの辺りに。
 割れるウインドウ。ガラスの破片が降りそそぐ。散らばるテーブルと椅子、食器、食べかけの料理。倒れたソース瓶。飛び散ったのは、瓶の中身か、あるいは血肉か。泣き叫ぶ母親、頭を仰け反らせたまま動かない父親の膝上には、テーブルに圧された小さな体。背中合わせに座っていた老夫妻は、もう、二度と立ち上がることはない。隣席の学生たちは無意味に声をあげる。携帯電話を取り出して、記念にぱちり、だ。悲鳴と怒号。車体から流れだすガソリン。
 調理場から飛び出してきた店員が叫ぶ。
「火を消せ。引火するぞ!」
 そんな想像をしながらも、わたしはことばだけは優しく友人をなぐさめた。
「小さい頃、何度か遊んだわね。かわいい子だったわ。旦那様によく似ていたわね」
 あなたには似ていなかった、と言外にこめた皮肉は、悲しみに打ちひしがれた彼女には聞こえなかったようだった。
 寂しげに微笑んで、涙を拭いた。
「あの子は……息子は?」
「ここにはいないわ」
「そう」
 残念そうな、それでいてほっとしたような表情で、彼女はうつむいた。
 姉が意外な様子でわたしを見たが、ハンカチで目を押さえている彼女はそれにも気づかなかった。
「今日はありがとう。ごめんなさい、無理をお願いして」
 なんとか涙を抑えた彼女は頭を下げた。
「いいのよ、友達ですもの」
 友達だと思っていたのはいつまでだったかしら、と嫌な記憶が頭をもたげた。
 その記憶を追いやるようにわたしはことばを紡ぐ。
「こちらこそ力になれなくて、ごめんなさいね」
 たとえ彼女の息子がここにいたとしても、それを告げる気はなかった。
 死者の声など、聞こえないならそのほうがいい。
 聞きたかったことばが聞けるとは限らないのだから。
 そう、もういないのね、いないんだわ、と彼女は小さく、何度も繰り返した。
 それから、さきほどわたしの想像の中で砕けたファミリーレストランでコーヒーを飲み、他愛ない思い出話をする。
 表情と感情をまったく切り離して、わたしは微笑み、涙ぐみ、時に叱り付けながら励ました。
 姉の運転する車で彼女を家まで送り届ける。その間も、わたしの心と行いは、切り離されたまま。玄関先で待っていた姑らしい人物に挨拶し、お茶でもと勧められる前にそそくさと退散する。
 これ以上、心にもないことを演じ続ける気はない。
 お世話をおかけしましたと頭を下げる老女に、まったくだわと思いつつ、いいえと会釈して背を向ける。
 それが、終幕。カーテンコールはお断りだった。

 帰り道、姉は車を運転しながら倒れた桜の横を通りしなに、わたしに聞いた。
「何かいるんでしょ? 教えてあげなくてよかったの?」
 姉はさりげなく、ハンドルをきる。桜を踏まぬように。
「いないわ。何も。少なくとも、彼女の息子ではないわね」
 それに教えたところで、決して信じなどしない。わたしを虚言症と罵ったあの女は。
 声にはしなかった部分を感じ取ったのだろう。姉はわたしを窘めるように微笑んだが、それには触れず、別のことを聞いた。
「いなかったのに、少なくとも、なの?」
 ぼんやりとしているようで意外に察しの良い姉の指摘に、わたしは苦笑する。
「そうね。少なくとも、としか言いようがないわ。だって見えなかったのですもの」
 そう、何も見えなかった。ならば何もなかったのかと問われると返答に窮する。
 見えなかったにもかかわらず、わたしの五感が異様を訴えた。
 いまでも、何かが緩くわたしを捕らえている。粘り気のある何かがわたしを探っている。
 それでも気がするだけで、何かがあるとは言い切れない。
「見えないのに、何かがいる。何かがいるのに、わからない。嫌な感触よ」
「見えないのに、何かいる?」
 姉はくすくすと笑い出した。
「わたしには見えないけれど、それが当たり前だと思っているわ。でも、あなたが何かを見るたびにわたしは見えない何かがいることを意識させられる」
「悪かったわね。余計なストレスを与えて」
「違う、違うわ。その感覚は、いつもわたしが味わっているものとたぶん同じだと思っただけよ」
 それから笑いをおさめてこう言った。
「見えていたはずのものが見えないだなんて。でも、なぜかしら」
「そうね」
 相槌をうったものの、答えは明快だ。わたしの持つ力では感知できない。それはわたしの手には負えないということ。
 焼ききれた注連縄が脳裏に浮ぶ。
 まずいことに、ならなきゃいいけれど。
 どちらにしても、これ以上、関わりあいにはなりたくないわね。
 胸中でつぶやきつつ、わたしはたばこに火をつけた。
「この車では、吸わないでといったでしょう」
 眉をひそめながらも、姉は決して消せとは言わない。仕方ないわね、と窓を開ける。
 煙はしばし車中に留まり、窓から外へと流れてゆく。
「悪いわね」
「うそばっかり」
 形だけ詫びるわたしに、姉も形だけ怒る。
 それから顔を見合わせて、わたしたちは笑った。

 そう。
 本当に、関わりたくは、なかったのだ。
 もう、遅いのだけれど。