キャンプに行く、と言って志野(ゆきや)が出かけたのはある夏の日である。
ここから車で3時間くらいの近場に、いいキャンプ場があるから、と声をかけられたと言う。
そして。
その日の夜。電話が鳴った。
「え? 倒れた?」
電話口で頓狂な声を上げたのはわたしである。
家主である神主さんは町内会の慰安旅行で、一人娘の彩花(さやか)さんは夕食の片づけをしていたためである。
十五年、ここに居候を続けているわたしは、もはや気負いなくこの家の電話をとるに至っていた。
「あ、そうですか。わかりました。すぐそちらに向かいます。ええ、そのままで。はい、じゃ、すぐ。 到着は……11時くらいです。ええっと、体が冷えないようにだけ、気をつけていただければ。よろしくお願いします」
わたしの声を聞きつけたのだろう。台所から彩花(さやか)さんが、手を拭きながら出てきた。
「和(あい)さん、何かありましたの?」
おっとりとした口調で彩花さんは言う。
「ええ、志野が倒れたみたいです。たぶん、ろくでもないものを拾い食いでもしたんでしょう。
電話口から、雪白(ゆきしろ)さまの声が聞こえました。迎えに来い、ってね」
念のため。拾い食ったのは「鬼」である。
この場合「鬼」とは魂魄や霊(すだま)などの総称だ。
志野は鬼喰なのだ。
「雪白さま? 志野さんの蛇さんのことですね」
「ええ、そうです」
あの2月の大騒ぎで志野の守護者におさまった白い蛇の神。
御名は雪白、さま。
志野にそう名乗ったそうだ。
鬼喰。それは文字通り「鬼」を喰らう力を有する者。志野はそれであるが力を自分の意思で制御できない。雪白さまは志野の力の制御を助けている。
「ちょっと迎えに行ってきます。今から出ると向こうに到着するのが……11時か。すぐに戻ってくるとしても、帰ってくるのは3時ごろですね。先に休んでいてください」
神主さんへの連絡は、戻ってからでよいでしょう、と彩花さんに言い、わたしは着替えのため部屋に戻った。今日は一日、お社の手入れをしていたため、祝(はふり)の略装を着たままだったのだ。袴は着慣れれば、スウェットよりラクで着心地がいい。
車の鍵を持ち。
玄関でふと振返る。
「ひとりで大丈夫ですか?」
問いかけたわたしに、彩花さんは少しだけ目を見開く。そしてくすくすと笑い出した。
「小さな子供じゃありません。大丈夫です。いってらっしゃいませ」
山は冷えますから、と差し出されたのは薄手のジャケットとハーフケット。水筒には熱いお茶。夜食にと手渡されたのはおにぎりである。
わたしが着替えて戻るわずかの間に、手際よく整えてくれたようだ。
まったくお嬢さんはすばらしい。
「ありがとうございます。それじゃ、行ってきます。ちゃんと戸締りしてくださいね」
「和さんもお気をつけて」
隣の若夫婦と同じ会話をしていることにふと気付き、首をかしげた。まあ、いいか。
なんだか妙な按配だな、と思いつつも、わたしは車を発進させる。
門まで見送りに出てきた彩花さんにバックミラー越しに手を振った。
志野と出会ってほぼ半年。片付けた依頼は17件。月平均3件の割合で仕事が舞い込むのは、多いのか、少ないのか。
わたしとしては、月に三度も、と言いたいところだ。
あれからなし崩しに物の怪退治の仕事を続けているわたしと志野は……いや、志野とわたし、だろうか。
おなじ屋根の下で寝起きし同じ釜の飯を食う間柄だが、いつも一緒にいるわけではない。
わたしには祝としての仕事があるし、志野には大学がある。ここ最近は仕事でもない限り一緒に行動することは稀だった。
それもこれも雪白さまのおかげである。
雪白さまが志野の守護についてくれたおかげで、「無駄な拾い食いを防止するために雑霊の存在を志野に教える」というお役目から、
わたしは解放されたのだ。
そう。できるならあのえぐい光景を見たくない、と思っていたわたしにとっても、雪白さまは大恩人。
神さまだけど。
その雪白さまのご命令とあれば、聞かないというわけにもゆかない。
志野=鬼喰、という厄除け札なしに外出をするのは少々心もとないが、向こうに着けば合流できる。
そんな気楽な気分で、わたしは車を運転していた。
高速道路――件の高速道路の世話になることがあるとは――を走っておよそ1時間ばかりしたころから、嫌な気配を感じ始めた。
これはまさしく、あれの気配だ。あれ。志野の食料。つまり鬼。
食料、ではない、か。
志野は別段あれらを糧に生きているのではない。鬼など喰わなくても人として充分に生きてゆける。
喰ってしまうのは彼の意思じゃない。
しかし。
彼がいないときに、鬼に会いたくないのは真実だ。
いや、叶うなら、志野と一緒のときでさえ、会いたくない。それが本音だ。
「やだなぁ。遭遇したくないなぁ」
つぶやいたわたしは助手席を何気なく見て、泣きそうになった。
「……って言ってるのに」
助手席には女が座っていた。ショートカットのきれいな女だ。生きていたころは。
右のおでこがぱっくり割れて、血が滴っている。
ように、演出している。
そう、霊たちの姿はさまざまでよりどりみどりで、それなのに、死に際の姿をわざわざ選んで現れるなんて。
「悪趣味な」
つぶやいた瞬間、首を後ろからなでられて、ぎょっとする。
ルームミラーは後部座席にも3人が座っていることを教えてくれる。
「勘弁してくれよ」
にたり、と笑う4人の女に往生して、いや、縁起でもない。困り果てて、それでも無視を決め込み、運転に集中する。が、ささやくような小さな笑い声と、体にふれる冷たい手の感触に怖気が走る。
わたしは何も見えてない、感じてない、聞こえてない……。
呪文のようにくり返す。
助手席の女が微笑みながらわたしの頬を撫でる。後部シートの女が、首に手を回した。
ああ、これが生きた女性だったなら、わたしも無下にはしませんが。
でも、相手が死霊となると、そう丁寧に接してもいられない。相手の意図が、わたしの命を奪うことにある場合は特に。
(ねぇ、おにいさん、どこへ行くの?)
無視、無視……。
うふふふふふ。
くすくすくす。
(わたしたちね、この下のキャンプ場に行くはずだったのよ)
(でも、落っこちちゃったのよね)
(そう、あんたがハンドルを切り損ねて、ね)
(やだぁ、もう、言わないでよ、それぇ)
(そうよ。しかたがなかったのよ)
(そうね。だって、呼ばれちゃったんですもの。ねー)
うふふふふふ。
(そう、そう)
(ねえ、ねえ、おにいさんも一緒に来ない?)
(あら、よく見れば、けっこういい感じのひとじゃない)
(あ、ほんとだ。いくつー?)
(ね、うちらと一緒にいこうよ)
(そうしましょうよ。ねぇ)
……無視、無視
(それがいいわ。ねえ、ほら、次の左カーブは直進しちゃってさ)
(湖まで一直線!!)
きゃはははははははは。
(大丈夫、手伝ってあげるから。ね?)
耳元でささやかれるにいたって、わたしの理性は吹き飛んだ。
「冗談じゃない! お断りだ!!」
……もうだめだ、がまんの限界だ。
そう思い急ブレーキを踏む。同時にドアを開け、転がるように車の外に逃げ出した。エンストした車はつんのめるようにして停車する。
転がり出たわたしは、背中をアスファルトに打ち付けた。まだ止まりきっていない車から転げ落ちたのだから当たり前と言えば当たり前だ。
しかし、痛い。
もともとアクションはわたしの担当じゃない。
言ってみればわたしはソナーで、センサーで、それ以上のものではないのだ。
アクションは志野の担当だし、志野に出会う以前はこんなことに遭遇しないよう、極力、御神域からは出ないことを心がけていた。
なにせ、わたしは感知能力こそ人並み以上にあっても、対処する力に関しては皆無といって間違いないからだ。
立ち上がり一目散に駆け出そうとして。
踏みとどまった。
なぜならもう半歩踏み出せば。
体は転落、魂は昇天。
暗がりでわかりにくいのだが、鬱蒼と茂る草の下に大地はないことを、谷底から吹き上げる風が教えてくれる。微かに水の匂いがする。
この断崖から落っこちて無事でいられたらそれは人間じゃない。
わたしは人間だから、間違いなく、死ぬ。
前方の谷。後方の「鬼」……。
ふりかえったわたしに、彼女たちは微笑んだ。生前そのままの姿は、それなりに可愛らしい。彩花さんより少し年下か。おそらくは学生さんだろう。
(うん、別にそれでもいいよね。そこから飛んでみる?)
(あー、それ、いいかも)
(決死のダイブってヤツ?)
(冗談になってないって)
あははははっははは。
しかし、心底楽しげに笑うその姿は、先刻見せられた死に際の姿より恐ろしい。
じりじりと迫り来る「鬼」
鬼ごっこって、こういう意味か……。つかまったらわたしも「鬼」になるのか。
そうしたらやっぱり、志野はわたしを喰うだろうか。喰うだろうな、ためらいもなく。
そんなことを考えつつ、それでもあきらめられず、どこかに突破口がないかと目をすばやく周囲に走らせる。頼りになりそうなものは何もない。
すり足で少しだけ体の方向を変えたわたしは、足にぶつかったそれを見た。
注連縄?
よく見れば、古い祠の残骸が砂利に混じって落ちている。
ご神体の宿っていたものなら、あるいはこの雑魚たちを退ける程度の力が残っているかもしれない。
神様。
助けてください。
わたしはここから落っこちて、下の湖の藻屑になりたくはありません。
すばやく身をかがめたわたしは、注連縄を掴みとる。
「やっ」
古い注連縄を鞭のように振るって、死霊を祓う。わずかにひるんだ様子が見られた。
注連縄は結界のひとつだ。「縄張り」ということばが示すように。
両手でぱん、と縄を張り、近づくな、と意思表示。
けがれを祓う祝詞を唱える。
(自分だけ助かろうなんて)
(ずるい!)
ずるくて結構!!
注連縄の作り出す結界に阻まれて、鬼は悔しそうに伸ばした手を引っ込める。
モグリとはいえ、くさっても祝(はふり)歴十五年。簡単に死んでたまるか。
祭られなくなって二十年は過ぎているだろう祠だが、神は一度宿ればそうそう離れたりはしない。
かつてのご神体と思しき、小さな丸い石に祈りを捧げる。
迎えに行かなきゃならない者がいるし、帰りを待つ人があるし、ここで死ぬわけには行かないんです。
そして、失礼かとは思ったが、気合一発、ご神体を蹴り飛ばした。
さすが、神様。
ご神体の直撃を受けた「鬼」が二体、消しとぶ。
しかし、残った二体をどうすれば良いのだろう。
じとり、と脂汗が滲む。
にじりよる鬼から4分の1歩下がったわたしは、足首を掴まれた。足元を見て愕然とする。
崖下、漆黒の闇からは無数の手、手、手、手、手、手、手、手手手手手手手手手手手手手手手手手手手……
!!
掴まれた足がずるっっ谷側へと引きずられる。
とっさにしゃがみこみ、均衡を保つ。同時に地面に爪を立て、ひっぱる力に抵抗した。
しかし、崖へとわたしを追い落とすように、二体の「鬼」は近づいてくる。
(ゲームオーバー♪)
やけに楽しそうにそういった彼女は、地面をつかむわたしの指をそっと開かせる。
もうだめだ、今度こそおしまいだ。
が。
(ぎゃっ)
悲鳴を上げてわたしの手を掴んでいた一体が消えうせた。
白い小さな光が、残る一体にまとわりつく。
その隙に、足首を掴む手を蹴り飛ばした。
見たか、おまえがわたしを掴めるということは、逆を言えば、わたしがおまえを蹴ることができるということだ。
えいっ、えいっ、えいっ。こいつめ、こいつめ、こいつめっ。
手を蹴り飛ばし、注連縄で討ち祓い、撃退する。
それでも次から次へと執拗にのばされる「手」
もぐらたたきのように祓い続け、それでも徐々に崖の際に引きずられてゆく。
「だ、だめだっ」
懸命に対処するのだがどうしようもない。
あ、これは本当にだめかもしれないなぁ。
半ばあきらめかけたとき。
白い光が炸裂した。
手がいっせいに、わたしの足を離す。
はじけた光にしゅうしゅうと音を立てながら、それらは消滅してゆく。目の端でそれらを見ながら、自由になった足を駆使して、とっさに車の陰へと逃げ込み。
何事かと身を縮めて様子を窺った目の前に。
「……子稲荷さん? ついてきちゃったのかい」
白い毛を逆立てて、「鬼」を激しく威嚇する子稲荷さんがいた。
常の愛らしい姿とは異なりその形相は、小さいながらに稲荷神の激しい一面を思わせる。
金色の瞳に宿るのは怒り、目元の赤い隈取は炎。真白の毛並みは薄く輝いていた。
子稲荷さんに守られたわたしに、恨めしげなまなざしを投げかけと、鬼たちはあっけなく退散する。見習いとはいえ、神様である子稲荷さんに、人ごときの霊(すだま)が敵うはずがないのだろう。
鬼たちを追い払った子稲荷さんは、満足げにしっぽを立てると、宙で一回転し、わたしの懐に飛び込んできた。誉めて、誉めて、と言わんばかりのその仕種に、わたしは頭をそっとなでる。
「ありがとう。でも、ついてきちゃって大丈夫なのかい?」
神域を離れた神は力を失う、と聞いたことがある。心配になって訊ねてみると、子稲荷さんはぶんぶん、と左右に首を振った。
「ええっと、それは心配ないってことかい?」
今度は縦にぶんぶん。
「そうか、じゃあ、ちょっと付き合ってもらってもいいかな」
縦にぶんぶん。
「助かるよ。ありがとう」
子稲荷さんを抱っこして、わたしは立ち上がった。体についた砂と土を払い落とす。
壊れた祠を、簡単に直し、蹴り飛ばしたご神体をそっと戻した。
「ありがとうございました」
祠の神様に一礼する。
湖を一望するこの祠を祭らなくなったのは何故だろう。
ここを守る存在の力が衰えたこと。それが、あの女の子達や「手」たちを死に招いたのではなかろうか。
祈りを捧げ、感謝をこめて、彩花さんが持たせてくれたおにぎりの一つをお供えし、割れた杯に少しだけお茶を注いだ。
青みを帯びた丸い石が、月光にふわりと光る。
漣(さざなみ)に映る下弦の月は、細くたなびいて、流れていた。
おかげで窮地を脱することができたわたしは、助手席の子稲荷さんのおかげもあって、
その後は雑霊のちょっかいを受けずに、そのキャンプ場にたどり着くことができたのだった。
まだ若く、少々短気な子稲荷さんが、ことごとく追い払ってしまったのである。
案内されたコテージでわたしは、志野の死人のような顔色に仰天した。
意識は戻ったようだが、体調も気分も極めて悪いようだった。無言でただ堪えている。
大丈夫か、と声をかけ、肩に手を置いたわたしは、その冷たさに、再度驚いた。小刻みに震えているのは寒さからか。
いったいどのくらいの拾い喰いをしたのか鬼の残滓を透かし見ると、十や二十ではない。数え切れないほどの異なった気配を感じる。
あの蛇神さま、雪白(ゆきしろ)さまのおかげで力は増大したようだが、その力に志野自身が追いついていないのは確かだ。
「鬼」を見ることが出来ない志野は、無益な ―― それは捕食者被捕食者双方共に ―― 拾い喰いを避けるため、
不穏な噂のある場所には出向かない。大学への通学も、わざわざ迂回路を選ぶほどにそれは徹底している。もちろんそのルートの選定にはわたしも協力している。わたしは見る力にかけてだけは、自負がある。いや、見えなくなることが可能なら、こんな自負は捨てても良いが。
それはともかく、その志野がどうしてこんなに拾い喰いをしてしまったのか。
志野の気分は悪そうだが、彼自身を逆に喰い尽くすほどの力ある鬼の残滓は感じなかった。しばらくすれば回復するだろう。
安堵したわたしはそれとなく、探ってみた。
「志野はこういうところ好きじゃなかっただろう? よく来る気になったね。ここ、地元では有名な心霊スポットだって?」
そんな噂は聞いたこともなかったが、確信があった。
なぜなら、ここへ来る途中、数え切れない雑霊に出会ったからだ。百八十と少しまでは数えていたのだが、あまりの多さにうんざりしてやめてしまったのだ。
子稲荷さんがいてくれてよかった。で、なければわたしは今頃どこかで立ち往生していたに違いない。比喩かもしれないし、比喩でなく、かもしれない。
それほどに多かったのだ。
脆弱な雑霊だけとはいえこれだけいれば、何らかの噂はたっているだろう。
そう思い、鎌をかけた。
案の定、ばつの悪そうな友人たちは、互いの顔を無言で見つめあい、そして白状した。
この湖にあやしげな噂があると知ったら志野はきっと来ないだろうから、全員に緘口令を敷いていた、と。なんと肝試しキャンプだったと言うのだ。
夜、湖を一周して帰ってくる。それがメインイベントだったらしい。
そして、そうと知らされず一周した志野は、鬼を過食して倒れた。
「二村が、そんなに怖がりだとは思わなかった」
思わないだろう。志野は怖がっているのではなくて、嫌がっているのだから。
ブランケットに包まったまま、志野は無言でその友人を見る。にらみつける気力もないのか、物憂げな視線は、しかし常の強気な志野を知る者にはかえって恐ろしい。
「すまん!」
「ごめん!」
「悪かった!!」
あやまる友人たちに志野はあきらめたようにため息をついた。了承のかわりに。
「少し休ませたら連れてかえるから。手間をかけたね。キャンプの日程が終わったら、顔を見にきてやってくれるかい? だから言ったろ? 風邪気味なのに無理をするから」
「……うるさい」
彼らは志野が鬼喰だということを知らないし、そもそも鬼喰という存在も知らない。知らないものを責めることは出来ない。それに志野も知られたくはないだろう。
風邪気味だった、というわたしの嘘をなんなく信じた友人たちは、合点合点し、志野もその誤解に同調するかのように、軽く咳き込んで見せた。
とりあえず保護者であるわたしが来たことで安心したのか、彼らはそれぞれのコテージに戻っていった。志野と同室の予定だった二人は、それぞれ別のコテージへと移動した。
「二村も、仰木さんもお疲れでしょう。俺らは別んとこで寝ますわ。もし今晩中にお帰りになるなら、カギは隣の1号コテージのポストにでも入れておいてください」
「ありがとう。申し訳ないね」
「こっちこそ、すみませんでした」
「二村、帰ったら、土産持ってくからさ。機嫌直しといてくれよ」
頭を下げる二人を送り出し、コテージの扉を閉める。と、
「それがよかろう」
志野がことばを発した。志野が? いや、雪白さまが、だ。深くよく響くお声は神々しい。
雪白さまは、志野の体を使いことばを発していた。その割に、お声が違うのは何故だ。
考えて思いあたった。
おそらくわたしの耳は実際の音声ではなく、雪白さま本体の声を感知しているのだ。
「雪白さま」
畏まるわたしに、雪白さまはよい、と一言許しを与えた。
そそくさと、わたしは姿勢を戻し、無礼にならない程度に寛いだ。
「たいしたものよな。守護者に働きかけるとは」
見抜かれていたようだ。苦笑しつつ、わたしは頭を下げた。
そう、わたしは声に出さず、同室の二人をそれぞれに守護する存在に語りかけたのである。
「今の志野はその力を御することができません。ここからすぐに離れてください」
と。
守護者たちは志野が鬼喰であることに気付いていた。主との結びつきが堅かったのか、喰われないように気を張っていたのか不明だが、近くあればあるほど、いざ志野の力が発動したときには喰われてしまう危険性が高い。わたしのことばに、彼らはすすんでそれぞれの主に退室を促してくれた。二人の青年は自分の意思だと錯覚したまま、守護者と共にここを去ったのである。
こんなことができるとは、つい最近まで気付かなかったのだが。
一種のマインドコントロールだ。
「おそれいります。ところで、雪白さま。志野はどうしてます?」
あまりそのことに触れられたくなくて、わたしは問いかけた。わたしのその態度にお怒りになることもなく、雪白さまはわずかに笑まれた。
「大事無い。過ぎた。それだけだ。じきに治まる」
食あたりの説明のような雪白さまの口調に、わたしはつい笑ってしまう。だが次のことばを聞いた瞬間、その笑顔は貼り付けたようなものになってしまった。
「が、間に合わぬやも知れぬ。子狐、しばし、頼むぞ」
子稲荷さんがくるり、と宙返りする。ぴんとはったしっぽとひげ、きりりと立った耳が、やる気満々、と言っている。
雪白さまは、志野であれば決して浮かべることのない優しげな微笑で子稲荷さんの頭をそっと撫でた。
「あの、雪白さま、間に合わぬ、とは?」
「来る。これを狙って」
これ、と言いつつ雪白さまが指したのは、ご自分の胸、つまり「志野」だった。
「雑魚を食わせるだけ食わせ、食えなくなったところでこれを手に入れる。……人の分際で、さかしらなやつめ。おまけに微かに水神(みながみ)の気を帯びている。もう500年も祭られれば、まこと水神となったやもしれぬに、何を思うて人に固執しておるやら。たしかにこの体は稀少ではあるがな。吾を受け入れてなお、鬼を喰むことができる。八雲の血筋にも、これほどのものはおらなんだ。……したが、人ごときの霊(すだま)に喰わせてやるわけにはゆかぬ」
雪白さまはくっ、と口の端を引き上げて笑った。小さな声で短く何事かを唱える。右手の人差し指と中指ですっと空を切り、そこから一振りの枝を取り出した。
「祝(はふり)よ」
「はい」
枝を差し出しながら、畏まるわたしに雪白さまは言った。
「これを使え」
拝領した枝が桜であることにわたしは気がついた。
「これ、は」
長さは40cmほど。太さはわたしの親指より少し細い程度だ。夜露の光る深緑の葉。
「幣束のかわりなら、その程度でよかろう」
「まさか」
志野の意識が戻るまで、一人で食いとめろ、ということではないでしょうね。
そう問うことは永遠にできなかった。なぜなら。
「来る」
短く、鋭く発せられた雪白さまのことばの余韻が消えやらぬうちに。
それが目の前に現れたからである。
空間を引き裂いてコテージに現れた「それ」から、わたしと雪白さまと子稲荷さんは、即座に最も離れた場所、部屋の対角線上の位置へと退避した。
雪白さま……つまり志野の体を背に庇う格好で、わたしは「それ」と対峙する。
子稲荷さんがわたしの左肩の上空で、毛を逆立てて、「それ」を威嚇していた。
「祝、すまぬがわたしはこれの手伝いをせねばならぬ。内に取り込んだ鬼どもを片付けるまでの間、そなたにまかすぞ」
そのまま雪白さまは志野の内へ引っ込んでしまわれた。
傍目にはのんきに眠っているような志野を見て、悲鳴を上げたい気分だった。
まかされましても。
雪白さま。
わたしに何ができるというのです!!?
それは一応、人の姿をしていた。いや、人であった姿を留めていた、と言うべきか。
血にまみれたその姿は、吐き気を催すほどだった。
千切れかけた腕。腱を引きずる足。引き裂かれた腹からあふれる臓器。垂れ流しの脳しょう。ぶら下がった目玉。ちぎれた唇。つぶれた額。転落死、だ。
「君は……誰だ」
応えがあるとは思っていなかった。形式的にそう訊ねただけで。
ただ、力ずくの戦いにだけはわたしはしたくなかった。そんなことになったら、勝てる見込みは全くない。こうしてただ対峙しているだけでも、それの持つ力は、息苦しいほどの圧力をともなってわたしに迫ってくるのだ。
だから、まず、説くことを試みた。
そのためには、まず名を得なければならない。
呼びかける名さえわかれば、話すことができる。微弱であっても、わたしのことばにも力が宿る。
「君は何者だ」
(そこを退け。おまえに用はない。この不自由な身を捨てて、新しい体を手に入れる。それだけだ)
咽喉を引き裂かれているのか、ひどく不明瞭な声だった。
「名は?」
(名は……ない)
「忘れたのか?」
(退け。新しいわたしの体。……手に入れる)
「君は、もう死んでいるんだ。君の体は失われた。そんな姿にとらわれている必要は、もうないんだ。本当の姿を見せてくれないか」
(本当の……姿)
「そうだ。魂は肉体と違い、損なわれたりしない。君は体への執着が強すぎて、その姿を自分でとっている。思い出せ。自分が何者なのか。もう一度聞くよ、君は誰だ?」
(わたし……わたしは……誰だ……?)
「落ち着いて。ゆっくりと思い出せばいい。わたしは待ってるよ。君が思い出すまで」
(待つ……あれも、同じことを、言っていた。あれは、誰だ? わたし……わたしは)
それは千切れかけた両手で、顔を覆った。
待っているよ。待っているから。
どこで。
何のために。
いつまで。
はじめて出会った場所で。
君と共に生きるために。
君が来てくれるまで。
ずっと。
約束。
そう言って、あなたは微笑んだ。
それなのに。
それなのに。
わたしは、行けなかったの。
だって。
あの崖から、落とされてしまったから。
この湖の神を鎮めるために。
贄になってしまったの。
転がりながら、落ちながら。
痛かった。
怖かった。
最後に見えたのは、波間に滲む青い月。
揺らめいて消える星の瞬き。
あの人の面影。
わたしを抱きとめる、水。