鬼喰 ― たまはみ ―

第一話 邂逅 七

 桜の根の檻を破ろうと必死になるわたしの目の前で、志野の顔色が見る見るうちに赤くなり、黒くなってゆく。
「出すんだ、桜、俺を放せ。志野!」
「く……」
 うめいた志野の様子を眺めながら、蛇が嘲う。
(苦しいか)
「やっ」
(苦しめ。人なぞ消えてしまえ。吾の愛しむものを、全て奪った者どもなど。消えてしまうがよい)
「……って……る」
(なんと? まだ口がきけるか。面白い)
 ギリギリとあばらがきしむ音までが聞こえそうだった。
「やめろ! やめろ。蛇の神。やめてくれ。神であったことを捨ててしまうのか。人を殺めるな」
(殺めるな、だと。戯言を。奪ったのはこやつらだ)
「だめだ、いけない。戻れなくなる!」
 何に、とは思わなかった。ただ、戻れなくなるとそのことだけがわたしの中でつむじ風のようにぐるぐると回る。
(もとより、戻れぬは覚悟の上。いや、もはや戻るつもりなど、毛ほどもないわ)
 桜の折からなおも怒鳴るわたしに、蛇は一瞥さえもくれなかった。
 ゆっくりと、まるで壊さぬように加減しながら、蛇はさらに強く志野を締める。
「……」
 呼吸さえ満足にできない状況で、志野はなお蛇を睨みつけた。
(どうだ、もう終いか)
「バカ、言え」
 歯軋りの合間から、志野の怒声が発せられた。
「喰ってやる、おまえなんか、鱗一枚残してやるか。全部まとめて喰ってやる!! 覚悟しろ、開いて蒲焼にしてやる!」
 大きな声ではなかった。いや、ほとんどがかすれて、聞き取れない。そんな声だった。
 しかし、志野が発した声が、わたしには見えた。いや、その場に居て見えなかったのは志野だけだろう。
 彼が声を発すると同時に、志野の体が淡く明滅するする。紫とも青とも言いがたい光が、徐々に強くなる。
 強くなると共にその色味は薄れ、目を射る真っ白の閃光になった。眩しくて眼前にわたしは手をかざす。桜がその枝で影を作ってくれた。

 光が収まる。
 始まったときと同じように、緩やかに、だが決然とした意志の介在を感じる、収縮。
 光りにひるんだのか、蛇は志野を放したようだった。
 志野は地面に仰向けに横たわっていた。かなりの高さから落とされた志野は、背中を地面に強く打ちつけ、起き上がれないでいる。
 今度こそ、おしまいだとわたしは確信した。今、襲い掛かられたら志野はひとたまりもないだろう。
「放してくれ、桜、頼む」
(いいでしょう)
 桜の根が地中に消える。わたしはすぐさま志野に走りより抱き起こした。げほげほと咳きこむ志野の背を軽く叩いてやる。
 共に喰われるかもしれなかったのだが、志野が倒れた後、わたしだけを蛇が見逃すはずもない。
 である以上、志野を見捨てて逃げることに意味はない。
 倒すことができないのならせめて逃げる隙を探せないものか、と蛇をみあげる。
(おお、おお、この光……!?)
 蛇はそれを恐れている様子ではなかった。ただ声(?)を震わせて、志野を見つめる。赤い目からは狂気が消えていた。
(そなたは)
 蛇がその鼻先を志野に近づけた。わたしのことは眼中にないようだ。
「う……くそっ」
(そなた、八雲の者か)
 起き上がった志野に白蛇は問う。しかし志野にそのことばは分からない。
 はっきりしない頭を数度振って顔をあげた志野は蛇の顔を間近に見て驚き、反射的にその鼻先を蹴ろうと膝を曲げた。
 志野が蹴りつける前に、わたしはその足首を押さえる。
「八雲……」
(八雲の血筋……その力)
 わたしの呟きを聞きとめた志野が不審げにわたしを見上げた。
「志野、八雲とはなんだ」
「八雲? 八雲は祖母の旧姓だ」
「彼……彼女かな、八雲の血筋のものか、と君に聞いている」
「八雲の血筋……なんだ? 知らない。だが祖母の旧姓は八雲といった。八雲多恵。知っているのか」
 志野のことばを蛇に伝える。
「白蛇の神よ、彼の祖母は八雲の姓を持っていた。多恵さんという。知っているか」
 静けさを、わたしの声が破る。そのことに堪えようのない緊張を感じた。
「聞こえるか、白蛇の神」
 白蛇はあらためてわたしの存在に気付いたようだった。
(そなたは……桜の)
「彼の祖母の名は多恵。姓は八雲」
(たえ……多恵! 多恵の……多恵の孫?)
「そうだ。彼は八雲多恵さんの孫だ。あなたは、多恵さんを知っている?」
(多恵は……我が守りし者の末裔。最後の……)
 蛇は黙った。
「どうしたんだ」
 蛇のことばが聞こえない志野には、状況が掴みきれないのか、戸惑った様子で彼はわたしを見る。
 しかし志野が思うほどわたしもこの状況を理解しているわけではなかった。
「黙って」
 白蛇の様子を探りながら、わたしは志野を制した。
 息さえもひそめて、白蛇を窺う。長い時間が過ぎたように思えた。
 不意に、白蛇は声を発した。
(最後ではなかった……では、我は……。八雲との命約は尽きてはいなかった)
 戻った。戻った。戻った。
 我が守りし者。
 ともに行こう。ともに在ろう。
 土を巻き上げる風。桜の枝を揺さぶる突風。にも関わらず桜は枝を広げる。
 白蛇が取り戻したものに喜びを表すかのように二月も早く花を咲かせた。風に花びらが舞う。
 視界を覆う花嵐。
 白蛇は柔らかな光とともにその姿を薄れさせる。霧のような光の塊になったそれは志野の体に溶け込んだ。
「なん、だ。光ってる……?」
 志野が溶け込んだ光に驚き、自分の体を見下ろした。
「なんだ、今の。なんだったんだ? 蛇は」
 ゆっくりと収まってゆく光は、最後に二度明滅し、消えた。
「さあ。……マムシドリンクだろ、きっと」

 吹き抜けた風とともにわたしたちは在るべき世界に戻った。
 ただし家屋はガス爆発でもあったかのように、消し飛んでいた。

 互いに支えあうほどに意気投合していないわたしたちは、それぞれ自力で帰途に着く。
 ほうほうの体で帰宅したわたしたちは出迎えた神主さんへの報告もそこそこに眠ってしまった。
 そのまま、わたしは丸二日、志野に至っては丸五日と半眠り続けた。
 したがって、その後あの家の持ち主が神主さんとどう話をつけたのかわたしは知らない。
 公式には家の崩壊はガス爆発とされたようだ。そのわりに近隣への被害がなかったのは運のよい偶然と片付けられた。
 苦情もなかったことから、折り合いはついたのだろう。
 あの桜は今もあの場所に咲いている。

 わたしの体調が回復し、志野が眠りから覚めた午後、神主さんはわたしたちを呼んだ。
「ご苦労様です」
 そういって彼が差し出した報酬を受け取ったわたしは、気にかかっていたことを確かめた。
「お聞きしたいのですが、あの家が志野の祖母の生家だということはご存知だったんですね」
「知っていた、というほどのことでもありませんよ。
 あそこに在った廃屋の前の持ち主が八雲といったこと、志野くんのお祖母さんの旧姓が八雲だと言うことは、知っていましたけれどね。
 だってわたしの叔母は八雲に嫁いだんですから。まあ、つまり、わたしの祖父と志野くんのおばあさんは、また従兄妹なんですよ。
 二村は八雲の傍系の傍系とでも言いましょうかねえ。言ったでしょう? 遠縁だ、と」
「……知っていたんですね?」
「そう言えなくも、ない、ですか、ね」
 いつになく強く詰め寄るわたしに神主さんはことばを濁した。
「まあ、無事に帰ってきたんですから、よかったじゃないですか」
「よかったじゃありませんよ。仮に志野と白蛇の神に関わりがなかったら、間違いなく喰われていたんですよ!? もしそうなっていたらどうするおつもりだったんです」
「確証はなかったので、心配はしてましたよ。でも、そうならなかったんですから、まあ、いいじゃありませんか。終わりよければ全てよし、ですよ」
「よかった?? 何が」
「何が、よかったと?」
 憤るわたしの言葉に、志野の声がかぶさった。
 聞いたこともないほどに頼りないその声に、ぎょっとしてわたしは志野を振り返った。
 わななくように身を震わせた志野は、次の瞬間、大声で叫びながら立ち上がった。
「何がどうよかったんだ!? なんだこの家は。いたるところ狐だらけじゃないか!」
「志野、見えてるのか!?」
「見えてる!? どういうことだ? この笑う狐はなんだ?」
 狐はすべてお稲荷さんの見習いさんたちだ。わたしはごく個人的に子稲荷さんと呼んでいる。
 子稲荷さんだけあって、真っ白な子狐の姿をしている。非常に可愛らしい。
 修業して登用試験に合格し、伏見稲荷から位を拝領するとお稲荷さんとして独り立ちするのだと、以前子稲荷さんのひとりから教えられた。
「考えられるところとしては、まあ、マムシドリンクの効用……?」
 答えたわたしに志野の絶叫が続いた。
「うそだぁぁぁぁぁぁ!!」
「見えるなら制御できそうだって言ってたじゃないか。よかったな」
 見えることの不幸を他にどう慰めてよいのか分からなかったわたしはとりあえずそうフォローした。

 フォローになったかどうかは定かでない。

 畳を飛び跳ねる子稲荷さんたちも、久々の社からの出歩きを満喫していた。
 なんと言っても志野に制御能力が芽生えるまで外出禁止令が出されていたのだから。
 彼らが自由に飛び跳ねているということは、志野の力もある程度制御できるようになったと言うことだ。
 まあ、終わりよければすべてよし、と神主さんのありがたいお言葉を心中で繰り返す。
 子稲荷さんたちが飛び交う部屋の中で、慌てふためく志野の姿は、たしかに面白い。

 志野の肩先の小さな白蛇に、彼が気付くのはいつだろう。
 きっと。
 八雲の血筋には強力な鬼喰がこれまでもたびたび生まれたのだろう。それを制御し守ってきたのがあの白蛇だったのだ。
 守り手不在で生まれた志野が、制御できない力に振り回されたのも無理はない。
 しかしこれで家と土地の呪縛から逃れた白蛇は、志野とその血筋の者を守ってゆくに違いない。
 わたしの考えを読んだかのように、神主さんがにっこりと笑った。
「本当によかったですねえ、志野くん。これにて大団円、ということで」
 お茶をすする音が、なぜだか笑い声に聞こえる。

 得体の知れない人だな、と。
 神主さんと出会って15年。わたしはようやくそのことに気付いたのだった。