鬼喰 ― たまはみ ―

Happy Halloween!

 襖を開ければ目の前には白いおばけ。
「Trick or Treat」
 声は聞こえていたが、わたしの頭は視覚情報にだけ支配されていた。
 頭の上には黒いとんがり帽子、右手にはJack-o'-Lanteran。ただし緑の。
 もう一度「Trick or Treat」と問いかけられてやっと聴覚からの信号が受理される。
 よく知る声にお化けの中身が誰なのかも同時に知った。
「……ああ、ええと」
 それが今度は言語として理解されるまでに一呼吸。
「じゃあ、はい、そう、Treatで」
 菓子を取りに室内に戻る。
「大学帰りの道に洋菓子屋さんができたらしいですね。それでこの前、志野が持ってきてくれまして」
 このところ志野――志野であったり、雪白さまであったりするのだが――がわたしの部屋を訪ねる回数が増えていた。
 たまには手土産持参でこいよ、とふざけたその翌日、志野はこれを持ってきたのだ。
 可愛らしいラップに包まれたクッキーにチョコレート、そしてキャンディだ。
『これはまた随分可愛らしいお菓子を……』
 店先でこれを選ぶ志野を想像し、笑ってしまったわたしに志野が軽く眉を寄せる。
『俺が選んだわけじゃない』
 何を買ったものだか迷う志野に代わり、友人たちが選んでくれたのだそうだ。
「ハロウィンだったからなんですね。かぼちゃクッキー、かぼちゃチョコレート。キャンディーはどうなんでしょうね。かぼちゃ味かもしれないと思うとなかなか手が伸びなくて」
 できるだけ言葉数を稼ぎながらゆっくりと菓子器の中を検分する。
 先刻の驚きの精算がまだ済んでいないのだ。
 クッキーにチョコレートに、といくつかを選ぼうとして手が止まった。
 どうせだから全部持っていってもらってもいいだろう。
 買ってきた志野には悪いが、まあ、明日にでも代わりのものを買出しに行けばいい。
「そういえば馴染みの和菓子屋さんにもかぼちゃの形をしたお饅頭がありましたよ。ハロウィンも最近は身近になってきたんですね。もちろんイベントとしてなんですけど」
 とはいえこれは欧米も同じだろう。
 もとはお盆と収穫祭と大晦日を兼ねたケルトの祭りが、キリスト教の布教過程で万聖節の前夜祭に取り入れられたらしいが、今やそれを知らない人も少なからぬそうだ。
 まあ、由来など知らなくてもパーティーは楽しめる。
 そういう点では他のどんな行事よりも日本人には馴染みやすいかもしれない。
 思考を少々逸らし、平静を構築する。動悸は随分治まった。いや、驚きに動きを止めた心臓がやっと動き出したのかもしれない。
 わからぬように深呼吸をし、そして菓子器を手にしてゆっくりと振りかえった。
「!?」
 忍び寄られていたことに気づかなかったわたしは、眼前――焦点も合わないほど近く――に捧げられた緑のかぼちゃちょうちんに再び驚き、手を滑らせた。
 菓子器が落ちる。軽い菓子は衝撃で器から飛び出す。
 まいたようにきれいに散らばった菓子の中心でわたしは立ち尽くした。
「Trick or Treat」
 わたしの驚きぶりがよほどおかしかったのだろう。三度繰返すおばけの声は笑いで半ば震えている。
「あの……ですね」
 おばけにすいと一歩踏み出され、わたしは一歩下がった。
 右の踵の下で固く鋭い音がした。キャンディのひとつを踏んでしまったらしい。
 それ以上踏み砕かぬよう、重心を左側に移そうとしたのだが、間に合わない。均衡を崩し、わたしは尻餅をついた。
 前方に向かって倒れなかったのは咄嗟にしては上出来だろう。
 すり足でさらに寄ったおばけは、わたしの前にしゃがむ。シーツがわたしの足先にかかった。
「Trick or Treat どちらにします?」
 くすくすと笑いながら、かぶったシーツを脱いでおばけは首をだした。
 床に散らばった菓子に「まあ、可愛い」と、おばけの声に華やいだ響きが含まれる。
「……もう悪戯されてると思うんですが」
 選択の余地がなかったことを暗に告げると可愛らしいお化けは頷いた。
「そうですね」
「夕食のついでに作っていたのはそれですか?」
 脇におかれたかぼちゃを差して問う。
 かぼちゃを調理台に乗せていたのに食卓にかぼちゃはなかった。不思議には思ったのだが、まさかこんなものになっていようとは思いもしなかった。
「ええ。中身は明日、パイにでも」
「帽子やそのシーツも食後に?」
 夕食前まではそんな気配は微塵もなかった。
「はい。一番簡単そうな仮装でしたから」
 楽しげな表情につられてしまわないように、わたしは苦労してしかめっ面をつくる。
「……ちょっとずるいんじゃないですか。これじゃあTreatを選んだ意味がない」
 わたしが叱るとは思っていなかったのだろう。目を二、三度瞬いて彼女は首をかしげた。
「そうですか? じゃあ、もう一度お聞きしますね」
 散らばったお菓子の中からひとつを拾い上げ、かぼちゃを模した包装紙を剥く。

「Trick or Treat?」

 すっかりTrickを味わった後だ。素直にTreatというのも癪だった。
「じゃあ、Trickで」
 剥いてしまったキャンディをどうするものかも気になったのだ。
 しかし

「本当に? 本当にTrickでよろしいのですか?」

 満面の笑みに、脳内で危険信号が鳴り響く。
 あの人の娘の思いつく悪戯にOKをだすなど、どうかしている!
「えっ、あっ、や、Treat! Treatです。やっぱりTreat!」
 お好きなものをお好きなだけお召し上がりくださいと早口で言い足した。
「わかりました。では特別に両方で」
 慌てふためきうろたえるわたしには構わず、重々しく頷いたおばけはかぼちゃ色のキャンディを口の中に放り込む。

 どすん、という音が鳴り響いた。転んだか、倒れたか。
 吊るされた電灯が揺れる。
 手紙を書く手を止めて俺は天井を見上げた。
 その前にはかすかに悲鳴らしきものも聞こえた。
 どうしたものかと見つめるその先にはあいつの部屋がある。
 何事かあったのか、様子を見に行った方がよいものか。
 この家で霊的な事が起こるとは考え難い。
 となれば、人為的な出来事だろう。急病でなければよいがと俺は腰を上げた。
『やめておけ』
 雪白の声は笑っている。
『馬鹿を見るだけだ』
 馬鹿の内容を検分する。思い当たる事柄は多くない。
「……そうか」
『さよう』
「なるほどな」
 見にゆくのはやめて、俺は畳みに転がった。
 目に入った天井になんとも言いがたいものを覚える。
「狭量だとは思うが」
『この家の主殿に注進してみるか?』
「多少、そんな気もするな」
 本気ではないが、そんな心もちではある。
 家主が知ればどんな騒ぎになるのか。
 百鬼も裸足で逃げるに違いない。
 ハロウィンの晩には相応しい光景だろう。
『なに、朝(あした)にでも飴の味を問うてみよ』
 くつくつと雪白が笑う。
「飴?」
『さよう。飴は美味かったかと祝に問うてやれ。それで十分に意趣は返せようよ』

 万聖節の朝、飴は美味かったか、と志野さんに問われた和さんがお茶を吹きこぼして朝食の席は大変なことになった。
 何がそこまで和さんを驚かせたのか要領得ない様子で志野さんは首を傾げていた。
 咽て咳き込む和さんの背をとんとんと叩きながら昨晩のことを思い出す。
『……わたしは、まだ聖人に名を連ねる決心がつかないのですが』
『そんなこと仰らず、聖人めざしてぜひ頑張ってください』
 どうしようもないほど情けない顔だった。可笑しくて可笑しくて笑いはとまらなかった。
 たっぷり二分ほどわたしは笑い転げた。
 それからやっと気を取り直した和さんの淹れたお茶でお菓子を楽しみ、深夜のお茶会はお開き。
 もちろん飴の味は、ないしょ。