鬼喰 ― たまはみ ―

小春日和に

 兄はあいかわらず帰ってこない。
 言いたいことは少なからずあるのだが、それはまだしばらく胸に収めておく。

 父と母の間にわだかまっていた瑞江さんへの遠慮――こんな言い方をするべきではないのだが、他意がないことは汲んでもらえると信じている――はこの春に解けた。
 隆正さんが寺を預かってくれることもあって、二人でちょっとした小旅行にも出かけている。
 旅先から送られた絵葉書は春から数えてもう十数枚になる。
 二十余年の記念日を精算するには、まだまだ足りないのかもしれないが、この先だってまだまだ長いのだから、息切れしないよう楽しんで言ってもらいたいものだ。
 もっともこれには隆正さんが一生懸命二人を追い出そうとしている面もあるだろう。
 彼は彼で、瑞江さんの守る桜と終日一緒に過ごしたいのだ。
 俺は今大学の寮にいて、瑞江さんの息子である兄もまた外に出ている。
 それぞれに何十年ぶりかで訪れた、大切な「二人の時間」だということは俺にもわかる。
 だから仲良くしていてくれて構わない。それが多少、年甲斐とはかけ離れたものであっても、険悪であるよりはずっとよい。
 そう。
 互いに互いを思いながら、数々のしがらみに手を伸ばしきれなかったあの空気には痛ましささえ覚えていたのだから。

 年甲斐、などとは言ったが、実際母は若い。年齢もだが、その外見は特に若く見える。むろん、二十歳の息子を持つにしてはという条件はつくが。
 その理由はたぶんに彼女の底抜けに明るい性格にあり、ついでその顔立ちが原因なのだと思う。
 決して童顔というのではないが、年齢が計りにくい顔立ちなのだ。
 思えば田崎の曾祖母なども、俺が物心ついたころと今とで大きく変わるところはない。
 隆正さんなどはそれをして「化物」だとさえ言っている。
 隆正さんと違い俺はそれを口にはしない。しかし彼の言葉に言いすぎだとも思わない。それくらい、年齢がわかりづらい。
 まあ、写真などと比べてじっくりと検分すれば――当人たちが認めるか否かは別として――曾祖母の皺は一、二本、いや、四、五本は増えているだろうし、母の目もとの皺なども確実に深くなっているに違いない。しかしその印象はほとんど変わらない。
 瑞江さんの写真を見ても三つ、四つは年若にみえるし、兄も同様。
 これらの事柄から類推するに、おそらく仰木の顔立ちはそういうものなのだと思われる。
 田崎の伯父などは伯母より四つ年上のはずだが、今では姉さん女房のようにも見えるのだから少々残酷だ。
 その点、十も年下を伴侶に選んだ兄は――そろそろ自覚はできたのだろうか――慧眼かもしれない。

 だから、まあいいのだ。
 たしかに父は人並みに歳をとっていて、そろそろ中年とさえ呼ばれない年齢に達している。しかし、二人の間には最初から十七の年齢差があるのだから――それも母が歳をとらない一因になっているのだろう。父の目には未だに母が少女のように映っている可能性は否めない――歳若い妻が夫に甘えてじゃれつくのだってアリだろう。いや、アリだと思わなければやってはいられない。
 これでいい、いいはずなのだ。

 だが俺は、この日。
 ……なんだかまじめに語ることが嫌になってきた。概容だけ記す。

 俺たちは茶の間でそれぞれにそれぞれの時間を楽しんでいた。
 具体的に言うと、俺は読書、父は頂き物の干し柿をスケッチ、隆正さんは仏具の手入れだ。
 そこへ母が美容院から帰宅した。明日からの旅行のためにわざわざ行ってきたらしい。
「見て見て」
 賑やかな声に俺は読んでいた本から目を上げる。
 当人の主張によれば髪型を変えたらしかったが、俺の目にその違いはわからなかった。
 うきうきとした様子で、母は干し柿をスケッチしていた父の目の前に座った。
「ねえ、似合う? どう?」
 父はゆっくりと瞼をあげて、スケッチブックから母へと目を移す。
 こういった問いかけに対し、通常「似合わない」という返答は許されない。
 必然的に肯定することになる。
 父も常識に則って肯定した。
「いいんじゃないか」
 それから父は少しだけ目を眇め、前髪はもう少し上げたほうがいいな、などと言った。
 孵化しそこなったとはいえ画家のたまごの目で見てそう感じるなら、きっとそうなのだろう。
「そう? これくらい? こんな感じ?」
 母が手ぐしで整える。
「いや、こうかな」
 父の手が母の髪に伸びる。
 父は母の髪の中に指を差して前から後へと何度か梳いた。
 うれしいのだろう。母が小声で笑った。
 聞いているだけでくすぐったくなるようなやり取りだ。
 見ていられなくなって俺はページに目を落とす。
 なにせせくりあってやがる、と隆正さんは印金を磨きながらこぼした。
 まったくだ。
 ここに義兄と息子がいることくらい、両人ともに承知だろうに。
「これでいい?」
「うん悪くないな。似合ってる」
 そう答えて父はスケッチを再開する。
 聞いているだけでこっ恥ずかしい会話もこれで終わるだろうと俺は安堵した。

「……ねえ、彰英さん」
「うん?」
「似合ってるでしょ? きれいでしょ」

 抜き打ちだった。

「キスしたくはならない?」

 父のもつ黒炭が固い音を残し砕けた。


 どうやってか俺は茶の間を出たらしい。
 気がつけば土間の上がりに腰かけて、隆正さんの淹れてくれたお茶を飲んでいた。
 本は茶の間に置き忘れたのだろう。しおりだけが左手にある。
「おまえの母ちゃんは、日々、あの調子よ。二十年分まとめて甘えてやがる」
 なるほど。それでは父も拒むに拒めない。
 なぜなら母の善意と寛容に、父は二十年を甘えてきたからだ。
 たまらんだろうが、と隆正さんが苦笑した。いや、笑うと言うほど陽気でもなかった。
「それでまあ、ここは預かってやるから二人で外に遊びに行って来い、いやむしろ行ってくれ、そして当分帰ってきてくれるなというわけだ」
「……それは……お手数をおかけいたしまして」
 俺は努めて茶の間に意識を向けないよう心がけながら隆正さんに頭を下げた。
 申し訳なさと恥ずかしさに下げた頭が上がらない。
 彼が十数年に亘り主を務めていた寺は、先代の曾孫が継いだ。仕事を終えた彼が「実家」であるここへ帰ってきたのはふた月ほど前。
 今は瑞江さんの思い出深い数奇屋を適当に改築してそこで暮らしている。
 つまり、俺には寮という逃げ場があるが、隆正さんにはないということだ。
「いいってことよ。幸か不幸か、俺はこういうことには慣れてるからな」
 ため息混じりに隆正さんは言う。
 たしかに三十五年前の三人暮らしよりは――この場合幼児であった兄の存在はないに等しい――多少気楽には違いない。
「それに祥子ちゃんのあの嬉しそうな顔を見ると、やめろとは言えんよ」
 それにしてもあの子は本当に変わらんなあ、と隆正さんは言う。彼の目にも、母はまだ少女めいて映るのだろうか。
 が、しかし、それにしても。
「それより、おまえ」
 俯いたまま考え込んでしまう俺の肩を隆正さんが叩いた。
「いくら鈍いあいつらでもそろそろ気づくころだろうがな」
 のろのろと首を持ち上げた先で、隆正さんはニヤリと笑う。
「春の終りにゃ弟か妹ができるのは覚悟しとけよ。俺の見立てじゃ妹だな」

 ナ ン ノ ハ ナ シ ダ

「さて、俺は風呂でも入ってくるか」
 名前はやっぱり「ハナだかハルだかになるんだろうぜ」と言い残し、隆正さんは去っていった。
 残された俺は湯呑みを握り締める。
 弟? 妹?
 想像さえしたことはない。
 二十も年下の?
 母と俺ほど歳の離れた??

 和、洋、ときたなら次は「華」ということか。
 春生まれだからおそらく「ハル」で確定だ。
 秋生まれなら「印」で「アキ」だったかもしれない。
 衝撃が通り過ぎた後、ぼんやりとそんなことを考える。
 手の中のしおりに何気なく目を落とした。
 父が手慰みに作ったものだった。
 小さな紙片にも関わらず上代の娘が丁寧に描かれている。仄かに色づく頬は愛らしい。
 しかし添えられた歌を記す文字は、下手といっても差しつかえない。
「さにつらふ妹をおもふと霞立つ春日も暗(くれ)に恋ひ渡るかも」
 ――頬を赤く染める愛らしい妻を思えば、春の長い一日であっても暮れてしまうことでしょう
 読上げたことを後悔し、俺はしおりを床に放った。

「冬も間近なのに何が春日なんだか」
 翌朝出かける父母を隆正さんと見送って俺は毒づいた。
 手をつなぐ後姿にげんなりとする。
「ま、そう言ってやるなよ。二十年、お預けだった新婚気分だぞ」
 隆正さんに言われ、俺はため息をついた。
 そんなことはわかっている。ただ頭ではわかっていても、気持ちが納得しないのだ。
「だって二十も離れた弟妹なんて……」
 十五も二十も変わらんねぇよ、と隆正さんは欠伸をする。
 確かに三十五も歳の離れた弟妹を持つことになる兄よりは、多少はマシなのかもしれない。
 なんとか納得させられるところを探す俺を隆正さんが笑う。
「それに、なんだ。ハルが生まれなくてもことは同じだ」
 隆正さんの中ではすでに命名は終わっているらしい。
 しかしそのことを指摘する間は与えられなかった。
「どうせおまえは兄夫婦んとこの養子になるんだからよ」

「……は!?」

 昨日に引続いての驚愕に、俺の頭は思考することを放棄したらしい。
「おまえがここを継ぐなら、あいつらの養子に入るのが一番手間がねえだろ」
 回らぬ頭を叱咤して、俺はゆるゆると考える。
「でも、祭主はもう俺に任せてもらって……」
 ばーか、と隆正さんが俺の額を指で弾いた。頭がくらくらするのは、しかしその衝撃だけではない。
「現世のことも考えろ。これだけのものを」
 と、本堂と家屋を指す。
「譲渡で維持できるか。相続税でも青息吐息だったてのに」
 爺さんと瑞江が立て続けに逝っちまっただろ、あのあと数年、庫裏は火の車だったんだぞ、と隆正さんが言う。
「それでも『粥、粥、重湯』にならずにすんだのは、田崎の旦那、おまえの祖父さんのおかげさまさまよ」
 やっと話が見えてきた。相続とそれに絡む諸々の経費の話だ。
「あのときの俺たちの信用は大暴落の真っ最中。布施はちょろちょろ、喜捨もぱらぱら。仰木の連中は露骨にうちを避けやがるし、田崎のばあさんは閻魔も逃げ出す剣幕……そこへどかんと届いた米袋の山。表書きは陣中見舞い……いや、直裁に兵糧だったかな。どうせ誰も来やしねぇってんで、しばらく本尊をちょいと横へ退けて、その米を拝んだもんさ。これがまた田崎のばあさんに見つかって旦那ともども大目玉……」
「……ちょっと待ってください」
 俺は懸命に頭を動かした。
 普通に考えれば兄の祖父の死の時点で、ここの権利は隆正さんと瑞江さんの兄妹(戸籍上)で半分ずつ継いでいるはずだ。
 隆正さん:瑞江さん で 1:1
 瑞江さんが継いだ権利は伴侶の父と子の兄とで一対一の半分こ。
 つまり現状は 隆正さん:父:兄 の権利は 2:1:1 だ。
 この後隆正さんが亡くなったときは、彼の縁者は甥である兄一人(俺は瑞江さんの子ではないから隆正さんの甥にはあたらない)。
 父:兄 で 1:3
 父が亡くなれば俺と兄とで分けるから、……兄:俺 は 7:1 だ。
 これはこのまま俺たちの子の代に引き継がれてゆく。
 俺はぼんやりと隆正さんの顔をみた。
「計算できたか?」
 隆正さんのやけに嬉しそうな顔が、心底ムカつく。

 降りそそぐ温かな日差しにも関わらず、俺の心を寒風が吹き抜ける。
 兄夫婦に親夫婦。
 どちらも超のつくバカップル。
 行くも残るも……
「親の因果が子に報いとはよく言ったもんだぜ。おまえら、苦労するぞー」
「因果の一人がよくも……!」
 己を棚上げした隆正さんの言葉に、俺は抗議する。
「細かいところは気にするな、気にしたところで変わりゃしねえ」
 確定未来ということか。
 だが、しかし、この因果は俺が一人で報いるにはあまりにも……。

「……そういうことなら、せいぜい兄さんにも負ってもらわなきゃ」
「ああ、あいつも絶対この問題には気づいてないだろうからな。すっかり荷は下ろした気でいやがる」
 くつくつと隆正さんの咽喉が鳴る。
「なんのなんの、祭りはこれからが本番だってのになぁ」
「兄さんたちの話が纏まって、式も挙げて、旅行からも帰ってきて、新しい生活が始まるころに押しかける、っていうのはどう思います」
 押しかけていって相談するのは俺との養子縁組だ。
 そのまま数日は居座ってせいぜい邪魔をしてやる。これにはきっと義姉の父も協力してくれるに違いない。
 俺の計画を聞いた隆正さんが、そいつはいい、と高らかに笑う。葉を落とした木々の中にその声が響く。
「腰を抜かして、いや、ひっくり返って驚くぞ。結末を見ねえんじゃ終われねえなあ」
 山までもが笑い声を上げるかのように、枝々がさざめいた。
 木々を渡りゆく風音の中に、俺はやわらかな女性の声を聞く。
 隆正さんが何事かを呟いて頷いた。細められた目に映るのはきっと瑞江さんだろう。

 兄を、そして父や母を優しく温かく見つめてくれているだろうことを思わせるその声に、鼻の奥が少し痛む。
 隆正さんから目をそらし見上げた空は、高く明るく遠い。
 真実を知ったあの日から、ずっと心に引っかかっていた。
 彼女は彼女の運命を狂わせた父を怨んではいないだろうか、違えられた運命の上に生きる兄を、父母の時を恨んではいないだろうかと。
 そして彼女の未来を奪ったあの夏の先にしかない俺の命を、今はまた兄に代わろうとしているこの俺を、疎んじてはいないだろうか、憎んではいないだろうか、と、それを思いながら過ごしてきたのだ。
「……俺も……許してもらえてるといいんだけど」

 不意に風向きが変わった。
 背後から俺の身をやわらかく包んだ風は日差しを溶かして温かい。
 秋もとうに終り、冬も急速に深まってゆくのにその風は春の香りがした。蕾を開いたばかりの桜の匂いだ。
 ――愛しているわ
 ――あなたも、あなたの両親も
 ――直に生まれるあなたの妹も
 耳をくすぐるかすかな囁きが幻聴でないことを祈りたい。
「馬鹿だなあ、おまえは」
 隆正さんが俺の背を叩いた。
「誰もおまえを怨んじゃいねえさ。俺も、瑞江も、おまえの兄貴もな」
 幼いころのように、大きな手が俺の頭を乱暴に撫でる。

 うつ伏せた顔のすぐ傍らを、白いものが舞い落ちてゆく。
 雪だ。
 ひらりひらりと落ちる六つの花の注ぐ先を見る。
 胸の底まで差し込む光が目にしみた。

 その数日後、兄から帰省を伝える電話があった。
『寂しがって泣いてるんだって? 仕方がないなあ』
 勝ち誇ったようなその口調に、俺は先日の計画を深く固く胸に誓ったのだった。