窓の外で歌うこおろぎの声が、冴え冴えと高い星空に響く。
その賑やかな静けさの中、わたしの部屋に上がりこんだまま何を話すでもなく志野は黙りこくっている。
足音もいつになく静かでゆっくりしていた。
どう切り出したものか考えながらここまで来て、まだ考えが纏まらないのだろう。
いったい何をそれほどに考え込んでいるのか。
乏しい表情からそれを察するのは難しい。
「なあ」
三杯目のお茶が冷めはじめるころ、志野はやっと口を開いた。
「あんた、いつから鬼を見てる」
「いつからって……」
亀さんたちに出会った最初の記憶は祖父の死後間もないころだ。
それ以前にも見ていたのかもしれないが、そのころ出会った誰が人で誰が人でなかったのかはわたしにはわからない。
「亀さんたちと会ったのは二歳か三歳か……祖父の死の前後だったと思うけど」
わかり得るもっとも遠い記憶を宙に探る。
「あいつらが鬼だと気づいたのはいつだ? きっかけは?」
「何がきっかけだったんだろう……覚えてないな」
だがそのとき味わった衝撃だけは今も容易に思い出すことができる。
『えっ!? 亀さんはお化けだったの!?』
鶴さんも? 熊さんも? 松さんも竹さんも鹿介さんも亥兵衛さんもみんな!?
墓地で日向ぼっこをしている人や、いつも橋のところにいるちょっと怖い人や、昇降口にいるどこの組にも名前のないあの子とか……
わたしはわたしの認知する存在の半数弱が、他の人にとっては存在しないものだと知り、数日間口が利けなかった。
誰がお化けで誰が人なのか区別できなかったからだ。
『そうじゃなあ。影をみるというのはのはどうかの。わしらには影がない、生きとる人には影がある』
熊さんのお墓の影で膝を抱えていたわたしに亀さんが教えてくれた。
『……雨の日や曇りの日は? 夜は?』
何日かぶりに聞いた自分の声は他人のもののようだった。
『そのときは家にでも篭っとれ』
鹿介さんは呆れたといわんばかりの口調だった。あの人は優しげな顔で結構みもふたもないことを言うのだ。
泣きそうになったわたしの頭を竹さんが撫でる。
『案ずるには及びませんよ。そのうちきっとわかるようになりますから』
『そのうちっていつ?』
困ったように口を閉ざした竹さんに、熊さんが後ろからこっそり耳打ちした。
『大きくなったら、と言っておけ』
耳で聞いているのではないから耳打ちしたところで筒抜けだ。
筒抜けだったが、たぶん大きくなるころには解決するのだろうと思いこむにはそれで十分だった。
大きくなって解決したかというとそうでもないのだが。
とにかくそういう経緯があって、わたしは人とそれ以外の存在の別を認識するようになった。
ときどき間違えることもあったが――橋のところにいるちょっと怖いおじさんは実は水門の管理人さんだったとか、お菓子やさんのご隠居だと思っていた人は先々代で、もう何年も前にこの世から隠居していたとか――呑気な人が多かったのだろう。「お山さんの坊ちゃんはおっとりしている」で不思議もなく通ってしまった。
おっとりしているの内訳は「いつもぼんやりしている」が七割、二割が「もしかすると少々足りないかもしれない」で、残る一割が善意だ。……詳しく思い出すのはやめておこう。
かいつまんでそれらを話すと志野はふむふむと頷いた。
それから春先に尋ねたわたしの故郷を思い出すように、少し視線を泳がせる。
「のんびりしたところだったしな。そうか。……なあ」
そこでまた言葉が途切れた。志野は温くなったお茶を一息に飲みほす。
痞えている何かごと飲み下したいのだろうか。
促さずにわたしは待つ。
たっぷりと十数秒をおいて志野はわたしを見た。いつものように真っ直ぐな視線だが、いつものような強さはなかった。
「誰も知らなかったんだろう? あんたが鬼を見ていることは」
「生きている人はね。わたしは言わなかったから」
「誰にもか? どうしてだ」
重ねて問われ、わたしは軽く苦笑した。
「それは志野だってわかってるんじゃないのか?」
話したところで信じてはもらえない。冗談として聞き流されるならまだいい。辛いのは「嘘をつく人間」だとさげすまれることだ。
信じてほしい人に信じてもらえないだろう予感は、信じてほしいと願う人を信じられない心の現われでもある。
信じてはいない、信じてももらえない。
好悪と連動しない不信の虚しさは志野にも覚えのあるものだろう。
「まあな」
湯呑みに残るかすかな温かさに志野は両手でつかまっている。
もう一杯淹れよう、とわたしは湯呑みを受け取る。
「でもあんた」
わたしの手元を見つめたまま志野が言う。
「あいつには言ったんだよな。全部話してここに住むことになったんだろ」
「あいつって……ああ、神主さんのことか」
お茶の香りが室内に満ちる。
十六年前を思い出した。こうやってわたしも、話を聞いてもらったのだ。
「まあ、そのときは行きずりだったからね。どう思われても構わないっていう投げやりなところもあったと思う。そうでなくちゃ言えない」
当たり障りのない返答でここを立ち去ってしまえばそれきりの関係だった。信じてほしいとは思っていないかった。だから真実を打ち明け嘘だと言われても傷つかなくてすむ、という打算もあった。
もちろん「もしかしたら」という直観もあってことではあるのだが。
「なるほど、投げやりだな」と呟く声に笑いの要素が含まれていた。
志野の目元から力みが消える。
抜けた力ついでだろうか、小さく吐かれたため息が、淹れなおしたお茶の湯気をゆらした。
気づかぬ風を装って、わたしは話を続ける。
「なのにあっさり信じてもらえてしまって、こうして家にも住まわせてもらえて……」
図らずも得た信を手放すことができなくなってしまった。
「おかげで今も頭があがらない」
得てしまった安堵をわたしからは手放せないのだ。
「……ないものは失くしようがないからな」
こぼされた言葉が沁みる。
失う痛みを味わわぬよう、得ないことを選んできたのはわたしも同じだった。
家を出て十六年、帰れなかったのは理解や信頼を得るための働きかけを怠っていたからなのかもしれない。
怠けておいて「きっとわかってはもらえない」とは、随分な横着だったように思う。
わたしの反省にはかまわず志野はもう一度視線を手元に落とした。
「じゃあ、最初から知ってたのか」
志野の言葉は少ない。足りない言葉を補って聞くことにも最近は随分慣れてきた。
おそらくはこの家に暮らすもう一人のことを言っているのだ。
ふといつか見せてもらった葉書きが思い浮かんだ。
少し癖のある、だが素直な可愛らしい字でそれは綴られていた。
どうしているの、元気にしてるの、とただそれだけを文字は訴えていた。
「どうだろう」
あらためてお茶を勧めながら、わたしは首をそうとわかるように傾げてみせた。
「知らなかったと思うよ、最初はね。だってわたしは教えなかったし、神主さんも説明はなさらなかったし」
「じゃあいつ知ったんだ」
案の定、志野は食いついてきた。
「さあ。教えなかったけど、隠しもしなかったからなあ」
いつの間にか知られていた。
「バレてると思った最初は?」
「どうだろう」
思えば隠すことさえ考えなかったのは不思議なものだ。神主さんがあまりにも当たり前に接してくれたから、それに甘えてしまったのかもしれない。
わたしも軽く口を潤す。
「わからないんだ。変わらなかったからね」
「?」
志野が眉間に浅い皺をよせた。
「いつ知ったのかわからない。この十六年、どこにも不連続面がないから」
わたしが見ているもののことを知る以前と以後で、彼女の態度に僅かでも違いがあれば、その差が生まれた瞬間を突き止めることもできるだろう。
けれど彼女にはそれがない。
初めてあった八歳の日から今日まで彼女は変わらないのだ。
もちろん成長に伴っての諸々の変貌はあるのだが。
「どこかで知ったんだろうけど、それが何時で何がきっかけになったのか、見当がつかない」
記憶の中にある彼女の成長をなぞろうとした心を伏せてわたしはそう答えた。
でもあんたは、と言いかけて志野の声は消えた。
なにが言いたかったのかは察しがついた。
探ろうと思えば、探れるはずだと言いたかったのだ。
人の内実は体という器に隠されてわからない。だが物に残された想念を追うだけならば容易い。
「うん。たぶんわかると思う。でも知りたいとは思わない。知ることに意味はないから」
わたしの目が映すものを知ることに、おそらくは彼女は意味を見出さなかったのだ。ならばわたしも何時から知られていたのかを突き止め、そこに意味を求める必要はない。
何故変わらなかったのかと考える理由もない。しかし
「俺は……知ることが、意味のないことだとは思えない」
ふいと逸らされた志野の顔はやけに大人びて見えた。けれど目は幼子のものだ。
「知ることそのものには意味はないよ。それはただの知識でしかない」
「そうだろうか」
「知りたいと思ってもらえることや、知ってもらいたいと思うことには意味があるだろうけれどね」
つまるところ、問題は知識ではなく思いにあるのだ。
なぜ知りたいと思うのか、なぜ理解されたいと願うのか、なぜ他でなくその人に求めるのか。
明らかにせずには進めない。明らかにするのに人の手を借りることもできない。
志野が自分でたどりつくしかない。
だから、とわたしは志野を見る。また何事か考え込んでいる。
「無理に打ち明けなくてもいいんじゃないか」
「そうかな」
「焦らず気長にやってゆくしかないと思うよ」
「……そうだな」
「わたしでよければ、いつでも相談にのるし」
「……うん」
たなびく湯気の行方をぼんやりと見ている志野に、わたしは訊いた。
「で、誰かヒミツを打ち明けたい人でもできたのか?」
一瞬にして志野の顔色が変わった。
紅潮する頬の理由は図星だったからなのか、からかわれて腹を立てたからなのか。
志野はまだ熱いお茶を無理に飲み干すと、音も高らかに湯呑みを卓に戻した。
そのまま無言で立った志野に追い討ちをかけるのはやめておく。
ぱん、と歯切れの良い音を残し志野の姿が襖の向こうに消える。
まだ仄かな湯気を立ち上らせている湯呑みに向かい、わたしは言った。
「だけど志野、おまえ、大変だぞ」
わたしは鬼を見るだけだが、志野は鬼を喰う。
いや喰うだけならそれほどのこともない。どうせ人には見えはしないのだから。しかし
「雪白さまと同体っていうのは、すこぶる問題じゃないか」
いつでもどこでも保護者同伴。
志野の見聞きするものは雪白さまにとっては夢の中のようなこと、とはいうが、夢の中であっても知られたくないことはある。そのうえ二人の意識がともに覚醒していることもある。つまり、全てが保護者に筒抜けに筒抜けるのだ。おそらくは今日のことも。
「まあ、それはわたしも大差ないか」
志野と雪白さまほどではないが、わたしの動向も彼には見透かされている。
だが大差ないからこそ志野にだけ上手をさせるのも悔しいではないか。
大恩ある家主の顔を思い浮かべると、頬は自然に苦笑を形作る。
ここ数ヶ月、和やかに変わりなく過ごしているように見えて、その実神主さんとわたしが話す機会は激減している。避けられているのだ。理由は確かめるまでもない。
だから志野にはまだしばらくは悩んでいてほしいと思う。
少なくともこちらが片付くまでは。
「十何年も待たせる気はないから、あと二、三年はそのままもたもたしててくれ」
湯呑みに満ちる穏やかな空にわたしはひっそりと笑った。