鬼喰 ― たまはみ ―

あひみむ秋の

 携帯にはある番号が表示されている。
 発信すれば、呼び出し音の後に相手が出るはずだ。
 一度もかけてみたことがないから、本当かどうかはわからない。
 表示された番号を見つめたままどれくらいの時間が過ぎたのだろう。
「なに、お姉ちゃんまたやってんのぉ? かけちゃえばいいじゃん」
 背後から突然かけられた妹の声にわたしは慌てて携帯を閉じる。
「覗かないでよ」
「見られて困るならどいてよ。いつまでもソファを独占してないでさ。リビングもソファもお姉ちゃんだけのものじゃないんだからね。やだやだ、暗くなってきたのに電気もつけないで。いくら夏だって六時過ぎれば日もかげるのに」
 一言言っただけで数倍になって返ってきた憎まれ口を聞き流す。
 ここで「ソファもリビングもあんたのものでもないでしょ」などと言い返した場合、どんなことになるのか。想像するのは簡単だ。
 暑苦しい。
 無益な言い争いはしないに限る。
 どうせ妹は暑い最中、連日の夏期講習で苛立っているだけなのだ。そのうえ「今年は勉強に専念しなさい」と意中の先輩――わたしの元同級生だったりするのだが――に突き放されたことでイライラはさらに募っている。今日の星祭りは朝から晩まで一人寂しくお勉強ですよ、と今朝方ぼやいていたことを思い出した。
「夏期講習お疲れさまでした。今日の復習、明日の予習もどうぞ頑張って」
「……ささやかに厭味だよね、それ」
 立ち上がってソファを勧めると妹はそこにどっかりと座り込む。
「うわ、お姉ちゃん、いつから座ってたの? なんか温いよ」
 一時間は座っていたと思う。
「大学生は暇でいいねぇ」
 厭味な口調も、暑い暑いと言いながらソックスを脱ぐ仕種も、脱いだソックスをそのまま床に置き去りにするのも、イヤになるほど父に似ている。
 片方ずつ脱ぎ散らかさないだけ、まだ父よりはマシかもしれない。
「あ。あたし麦茶ほしいー」
 リビングの灯りをつけるためにそちらに向かったわたしに、妹は先ほどとはうって変わった猫なで声でそう言った。
 ついでに淹れろ、ということだ。
 わたしはため息をつき、それでも携帯をカウンターに置くと冷蔵庫に足を向けた。
 言われてみれば咽喉も渇いている。手間は二人分用意したってかわらない。
 対面式のキッチンからはソファに座る妹が見える。
 背もたれに身を預け、リモコンでエアコンのルーバーの方向を調整している。
 日中の気温は三十五度を越えると天気予報では言っていた。そうとう暑かったのに違いない。
 冷凍庫を開ける。氷からうっすらとやわらかな湯気が細く立ち上る。
 調理台に二つのグラスを並べ、氷を入れると風鈴に似た涼やかな音がした。
 粗熱をとるために放置していたやかんの麦茶をそそぐ。氷が高い音を奏でてひび割れる。氷の中の泡が溶け出す微かなトレモロにわたしは耳を澄ます。
 ひとつをカウンターに置き、もうひとつのグラスをソファに座る妹に運んだ。
 もう一度どうぞと言ってグラスを差し出すと、妹は待ちわびたようにそれを受け取る。
 一息に飲み干してから、妹はありがとうと笑う。
「こぼれてる、口元。だらしないよ」
「ハンカチ」
 差し出された手をわたしはぱちんと叩いた。
 持って出なかったのと鞄を指差して問うと、持って出たハンカチは汗を吸っていてとても口元をふける状態ではないと言う。
 しかたなくポケットの中のハンカチを貸すと、妹はリップクリームのついた唇を、遠慮ナシに拭った。
 ……洗えば落ちる、洗えば落ちる、と胸のうちで繰り返し唱え、わたしはカウンターに置いた麦茶の元へと戻る。
 一口飲み、携帯に手を伸ばした時だった。
「それ、花束の人でしょ? まだかけてなかったなんてありえない」
「……桃子には関係ないでしょ」
 嫌な言い方、と桃子が口を尖らせる。
「確かにあたしには関係ないけどー」
 関係ないなら黙ってて、とわたしは言いかけた。でも
「かわいそうだよねー、その人」
 続けられた言葉に心臓がちいさく跳ねる。その動きに咽喉は音を紡ぎそこなう。
「かけて欲しいから教えたのに、返事もなくってさー。だからって自分からはかけられないしー」
「……だって、話すことなんてないもの」
 携帯を握る手に、知らず力が入ってしまう。
「あるじゃん。今どうしてるの、とか、そっちはどんな様子、とか」
「……わざわざ電話をかけてまで」
 友だちではなかった。今でも友だちと言うには距離がありすぎる。
 これまでだって声をかけるたびに断られ続けてきた。
 やっと少し近づいたような気がするのに、また距離が開くのは怖い。ちがう、距離があることを知りたくない。
 話したい。話すことがない。沈黙が怖い。退屈に思われるのは辛い。気まずくなるのはイヤだ。距離をおこうとしているように思われるのは、けれどもっと辛い。
 どうしたらいいのかわからない。
 考えが纏まらず黙ってしまったわたしに桃子は言った。
「お姉ちゃん。自分のことばっかり考えるのやめなよ」
「自分のことばっかりって……別に、そんな」
「番号を聞かれたわけじゃないから? かけてほしいとは言われてないから? 押し付けがましく思われたくない? 忙しそう? 邪魔しちゃ悪い? その人のため?」
 声に出したつもりはなかった。
 けれど桃子はわたしがこの五ヶ月、うんざりするほど繰返したイイワケを見事に言い当てる。
「ふうん。でもそれって結局自分のためじゃん。ようするに邪魔にされたくないんでしょ。邪魔にされて傷つくのがイヤなんだよね。相手のため、とか口では言いながら。そういうのってズルイと思う」
 答えられないわたしに桃子は怒ったような表情で言う。
「話すことがないなんて、その人だって同じだよ。それでも連絡がほしいって気持ち、もう少し考えてあげたら」
 わたしは逃げた。
 背中を向けたわたしに、桃子の声が被さる。
「そんなんじゃ、いつか手紙も来なくなるよ。そのときになって泣いたって遅いんだからね」
 桃子の口調に心の端を酷く打たれた気がした。

 会いたいと思う。声が聞きたいとも思う。
 それは間違いない。
 送られた手紙を読むたびにその思いは強くなる。
 彼はここの住所しか知らないから、手紙はわたしが実家にいる時期にしか届かない。
 去年のクリスマスに一通、春休みに一通、ゴールデンウィークに一通、そして夏休みになってから一通。
 最初のカードから七ヶ月が過ぎて、やっと四通。片手の指にも届かない。
 わたしは机の引き出しから手紙たちを取り出した。
 少しずつ長くなった文面。しかし中身はないに等しい。
 当たり障りのない、まるで季節の挨拶だけを抜き出したような本文のない手紙だ。
 わたしから出す手紙も、同じ。
 苦笑がこぼれた。
 そんな手紙でもくれることがうれしい。だけど挨拶しかないことをどう解釈したらいいのだろう。
 挨拶しか書けないその意味を。
「倉沢菜々子さま」
 綴られた文字に指を沿わせた。
 彼はわたしの氏名を声にしたことはない。
 わたしの存在は彼にとって文字でしかない。
 痛い。
 わたしはズルい。卑怯だ。
 いつもは忘れているくせに、彼を思い出し考えるときには「文字でしかない」自分を嘆いている。

 リビングの電話が鳴った。
 遠いその音に、決して鳴ることのない携帯を思う。
 ため息をつくために大きく息を吸ったときだった。
 騒々しい足音がしたかと思う間もなく部屋のドアが勢いよく開いた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
 駆け込んできた桃子が床に座るわたしの肩に抱きついてきた。
 吸い込んだ息をたたき出され、わたしは咽た。
「お姉ちゃん、たいへん!」
「離して、暑い!」
 苛立っていたからだろう。わたしのキツイ言葉に桃子が驚いて手を離す。
「ごめん、汗臭くなっちゃうね」
 忙しく謝った桃子が小さくない目をさらに大きく見開いてわたしを見る。
 そして。
「電話! 電話、お姉ちゃん。電話なの!!」
「誰よ」
「ふた、二村さんって言ってた! 花束の人だよね!?」

 息を呑んだ。
 うそ、と呟いたつもりだったけれど声にはならなかった。
「ウソじゃない、ホント。ホントなの」
「も、桃子の友だちに二村って人は……」
 期待して出て、違っていたら堪らない。
「いない、いない。二村どころかハ行がいない」
「……お兄ちゃんの」
「違うって! ちゃんと言ってた、『菜々子さんはご在宅ですか』って。うわっ、早っ」
 わたしは桃子を置き去りにして電話に向かった。

 深呼吸をする。震える手を受話器に伸ばす。保留を解除する。
「はい」
 菜々子ですと名乗るべきか、倉沢ですと名乗るべきか。
 逡巡するわたしに懐かしい声が言った。
 ――倉沢……さん?
 彼が初めてわたしを呼ぶ。ためらいがちな呼びかけに、彼には見えはしないのにわたしは頷いた。
「はい」
 ――二村です
「はい」
 ――今日こっちに帰ってきたんだけど
「はい」

「桃子」
「だめ。ママへのコトヅケでしょ」
 玄関先で振り返ったわたしの言葉を桃子が遮った。
「だめだから、無理だから。あたしも行くし」
「なっ」
 まさかついてくる気なのかと絶句したわたしに桃子は人差し指を左右に振る。
「そこまで図々しくはありません。そうじゃなくて、あたしも先輩誘いに行ってみる」
「……勉強は?」
「Rome was not built in a day(ローマは一日にして成らず)」
 格言を持ち出した桃子の意図がわからずにわたしは首を傾げた。
「成功するには日々の積み重ねが大事。つまり一日くらい遊んだって、他の日に頑張れば大丈夫ってこと」
 いや、絶対違うから、それ。
 言葉もなく立ち尽くすわたしには構わず、桃子は両拳を握り小さくファイティングポーズをとる。
「きっと邪魔になったらイヤだって思ってるの。だから邪魔じゃないって言いに行く。我慢するのはもう厭きた」
「はあ」
「あーあ。あたしは受験生で勉強しなきゃいけないのに、余分なコトばっかり考えさせられて。ホントお姉ちゃんみたいに手のかかる人の相手はマジ面倒。世話が焼けるっていうかぁ。二村さんも大変だよ」
「……」
 なるほど、さっきわたしに向けたあの言葉の数々は、ようするに桃子が意中の彼に言いたかったことなのだ。
 二つも年下の桃子に叱られる元同級生を想像し、しみじみ気の毒に思う。
 邪魔に思われたくはないという保身があるにしても、桃子のためを慮ったことだって嘘ではないのだろうから。
「少しは手加減してあげなよ」
「少しはね。ほら、あたしも忙しいんだから、さっさと行っちゃってよ」
 シャワー浴びてお化粧して、外出するってメモ書いて、それから出かけると七時半か、本当にギリギリだ、と桃子は玄関脇の時計を見つめる。
「急げば花火には間に合うよ。八時からだって」
「うん」
「じゃあ、お先に」
「はいはい、行ってらっしゃい」
「桃子も……九時には帰ってくるのよ」
 わかってる、わかってる、と桃子はわたしの背中を押して玄関の外に追いやった。
 門の外に人影が見える。
「二村さんにはありがとって言っておいてね」
 桃子が耳元で小さくそう言った。

 桃子にハンカチを貸してしまったことを忘れて外出したわたしは、二村くんからハンカチを借りて帰宅した。
 かき氷のシロップを、うっかり服にこぼしてしまったのだ。
 慌てるわたしに彼は無言でハンカチを差し出した。
 とりあえず借りたものの、返却をどうしたものか悩むわたしに「次でいいから」と彼は言った。
 次の約束はしなかったけど、また次があることを期待できる安心感が心地よい。
 これからもただ季節の挨拶を交わし、約束もなく、思い立っては会いながら。
 そんな時間を重ねながら、少しずつ約束の届く距離に近づいてゆけるといいと思う。

 結局桃子の帰宅は十時を過ぎた。
 今も両親からこってりと叱られているけれどその表情は明るい。しばらくは八つ当たりの対象にされることはなさそうだ。
 受験生なのに何をやっているの、寝坊したら承知しないわよ、と母は声を荒げる。
 桃子の朝は早い。毎朝七時半からの講習に遅れないためには、六時半過ぎに家を出なくてはならない。
 寝坊するようなら起こしてあげようとわたしは携帯のアラームを六時にセットした。
 そのときだ。
 携帯が待ちわびたメロディーを奏でる。
 着信画面に表示された名前に思わず顔が緩んだ。