鬼喰 ― たまはみ ―

花の雨降る

 美しいとは言いがたい娘だった。
 髪も短く背の半ばにも至らない。目の色も浅く、肌も日に焼け、痩せていて、纏うものも質素というよりはみすぼらしい。
 袴もはかず、膝まで丈をつめた小袖を見苦しくさえ思ったものだ。
 なんと哀れな、と……。
 それでも伸びやかな手足で野を駆け森に跳ねる姿は愛らしく、わたしはいつしかこの娘に心惹かれていった。
「そなたはまるで兎のようだね」
 言うと頬を膨らませて怒るのだ。
「兎は嫌いなのかい」
「兎なんぞ、汁にしかならぬ。皮もろくに取れぬし、身も少なくて十羽とってもまだ足りぬ」
 女だてらに弓を扱う娘らしい言葉だった。
 手綱も鞍もつけぬ裸馬にまたがって射る矢が、なぜに的を外さぬのかと不思議に思った。
「殿は兎なんぞが好きなのか」
 首を傾げる娘にわたしは苦笑するしかない。
「そなたはなにが好きなのだ。鹿か、それとも雉か」
「鹿もよい、雉もよいが、わたしはそれより空を飛ぶ鳥になりたい」
 そうして手を大きく広げ、くるりと身を翻す。
 その言葉にわたしは白鷺を思い浮かべ、それよりは燕のほうが似合うだろうかと考えた。
 しかし娘は目を閉じて両腕を羽ばたくように数度泳がせると言った。
「鷹になるんだ。大きな羽で空を叩いて、大地を見下ろしてどこまでも飛ぶ。鋭い目を持つ鷹ならば、空からもきっと見つけられようし」
 何をと問うと、娘はついと顔を背けた。
「殿は都に戻られるのだろう。父上から聞いた」
「茅子」
 主の受領の任期はもう終わる。
 三年の勤めを終えて帰る日を、主は心待ちにしている。
 わたしは主に従ってこの地に赴任したのだから、主が都に帰るのならばその供をしなくてはならない。
「……茅子もともに都に参るか」
 尋ねると茅子はわずかの間、顔を輝かせた。
 しかし首を横に振る。
「父上を置いてはゆけぬ。母上も寂しがる」
 吉野も、と傍らの木を見上げた。
「茅子」
「それに殿には悪いが、都はわたしには窮屈だ」
 馬にも乗れぬし、弓も射れぬし、と続ける。その朗らかな笑顔がくしゃりと歪む。
「……それに都に戻られれば、殿には末を誓った姫もあると」
「……」
 三年前、こちらに赴くまえに父が定めた縁談だった。
「宮さまだと聞いた。殿もこの後は御出世なさるのであろうな」
「……姫の母上の御実家が、宮家に縁がおありだというだけだよ。それにわたしは武官だから、出世といっても先は知れている」
 茅子は「そうか」と呟く。
「茅子」
「わたしは行かぬ」
 そう言って茅子は桜に腕を回した。
 わたしはその小さな背を桜ごと抱きしめる。
 後ろから覗き込み、目もとの雫に口付けた。
 しかし茅子はわずらわしげにわたしの手を解く。そして言う。
「だが、もし殿が、都までの道のりを心細くお思いであるのなら、茅子が都までお守りするぞ」
 愛しさに胸が焼ける。
「そのまま都に住まえばよいのに。茅子のための館もすぐに用意させように」
 その髪をなで抱き寄せようとすると、茅子はわたしの手を跳ね除けた。
「いやだ」
「姫とのお話を断っても?」
「そうだ。帰る」
「一人で……帰ると? 賊も出るあの道を」
「茅子は賊など恐れはせぬ」
「わたしを都に置き去りにして?」
 意地悪く問いを重ねると、茅子は唇を噛んだ。
「わたしが置き去りにするのではない。殿が、わたしを」
 茅子は身を屈め膝を抱えた。
「茅子」
 なんだとくぐもった声が返った。
「ここで待っていなさい」

「受領を都にお送りしたら、わたしはきっとここへ戻ってこよう」

 茅子は無理だと顔を伏せたまま首を振る。
「必ず戻る。だから待っていておくれ」
「姫はいかがなされるおつもりだ。姫もきっと殿のお帰りを待っておろうに」
「もったいなくも宮のお血筋の姫君だ。わたしなぞよりも、もっと相応しい方とのお話もあろう」
 姫からの文は月を経るごとに減っていった。
 最後の文が届いたのは、もう一年も前のことだ。
「今さら戻っても、おそらく知らぬ顔をされるだけだろうしね」
 もともとが親の都合で定められた縁。都にあったころも、歌を二、三度交わしたのみで姿をみるどころか声を聞くこともなかった。
 家柄では到底及ぶべくもない。官位も低い。低く見られても仕方がない。そのつれなさに口惜しさも覚えたが、今はそれが幸いだったと思える。
 そんな、と茅子が顔を上げる。
「いいや、そんなはずはない。姫はきっと心待ちにしておられる。殿の帰りを待たぬことなどありはせぬ」
 それは姫の心ではなく、茅子の心だ。
 そうだろうかと重ねて問うと、きっとそうだと答えが返る。
「それでもわたしはここに帰りたいのだ」
 三度抱き寄せると今度は抗うこともなく、茅子はすっぽりとわたしの腕に収まった。
「待っていてくれるかい」
 声はない。茅子は頷いてわたしの肩に顔を埋めた。
「扶持もない、官位も失った男でも、お父上はお許しくださろうか」
「いやだなどと言うなら、父上を館から追い出してくれる」
 あんな沢蟹に、何を言わせるものかと眉を逆立てる。
 茅子なら本当にやりかねないだろう。
「茅子ほどにも馬に乗れぬ、能のない男だよ」
「でも弓はうまい。馬なら茅子が教えてやるし、それでもだめなら茅子が殿を養ってさしあげる。殿は時折、わたしのために笛を吹いてくださればよい」
 だから、と涙に濡れるその目で茅子はわたしを見つめた。
「きっと戻って」

 約束は果たせなかった。
 帰るという約束も、そのあとはどうしようと相談したことも、何一つ叶えることはできなかった。
 わたしは都へと向かう旅路で命果てた。
 賊の狙いは主とその荷だった。
 逃げろと心は囁いた。
 それでもここで逃げたなら、茅子にあわす顔がないと思った。
 矢が尽きて、太刀は折れ、茅子の縫ってくれた衣も切り裂かれ。
 青天を飛ぶ鳥を、地面に転がったまま見ていた。
 視界はちいさくすぼまり、もう鳥しか見えない。
『鷹になるんだ』
 茅子の声が聞こえた。
『その鋭い目で殿を探しにゆく。そして大路を歩く殿の烏帽子をつまんでやるんだ』
 茅子……茅子……約束を果たせなくてすまない。
 ああ、どうか神よ、仏よ。
 わたしの身はここで朽ちるでしょう。
 ですが、どうぞ心変わりしたのではないことを、茅子にお伝えいただきたい。

 気がつけば、わたしは吉野の傍らにいた。
 茅子が幼子の手を引いていた。
「父様は、次の春にはお帰りになるでしょうか」
 幼子が茅子を見上げて尋ねた。
「そうだな。父様は、馬が上手とはとても言いかねるお方だったゆえ、まだしばし時がかかるやもしれぬな」
「父様は、馬が下手だった?」
「そう。でも弓はお上手だ」
 母様よりも、と幼子が茅子に問う。
「いいや、母様のほうが上手だぞ」
「本当に?」
 嘘だと思うなら、父様に聞いてみよと茅子が笑う。
「父様はここには居られないのだから、お聞きできません」
 何を言う、と茅子は笑い、わたしを指差した。
「『吉野』に問えばよい」
 幼子の頭を、茅子はなでる。
「『吉野』がそなたの声を父様に伝えてくれよう」
「都まで、届くかしら」
「神の宿る木だ。きっと届けてくれようよ」
 幼子がわたしに……『吉野』に駆け寄った。
「『吉野』、『吉野』。父様に伝えて。早くお戻りになってください。母様は馬も弓もお上手だけれど、お歌も笛も下手なのです」
「これ」
 窘める茅子をいたずらめいた笑顔で振り返る。
「ほんにそなたは父様にそっくりだ。なんとまあ意地悪なことをお言いか」
 のう、勝竹どの、と茅子が『吉野』を撫でた。

 茅子。
 わたしの声なき呼びかけに茅子が微かな笑みを浮かべる。
「母様?」
 幼子が……わたしの息子が茅子に駆け寄った。
 ああ、伸びやかな姿は茅子によく似ているね。きっと馬も弓も上手なのであろうね。
 立派な武者になるだろう。
「そなたは笛も歌も殿に似てうまい、お顔立ちも雅だ」
「お祖父様は、女子のようだと申します」
「なに、あの方は御自分がつぶれた沢蟹のようなお顔をしていらっしゃるので、そなたが羨ましいのだよ」
 吹きだした子に茅子は語る。
「母もあの父には似ずにすんでよかったと、幼いころから繰り返し思ったものだ。沢蟹ではそなたの父様も母から逃げたであろうしな。それではそなたを授かることもなかっただろう。まあ、お祖母さまはほんにお情けの深いご立派なお方じゃのう」
 笑いころげる子を撫でる。「さあ、母様のために、笛を吹いておくれ」
 子は頷いて笛をとる。
 子が途切れ途切れに奏でる曲は、わたしが茅子に教えたものだ。
 構え方も知らぬ茅子の手を取って。

『この笛は音がならぬ!』
『……茅子にも鳴らせる笛があるとよいのにねぇ』

 わたしは幼子の構える笛に手を添える。
 もう少し深く構えて、息は強く吹き込まず、背を立てて、肩は楽に。そうそう、肘を張らぬようにね。
 ほらよい音が鳴るだろう。
 笛の音が変わったことに気付いたのだろうか。俯いていた茅子が首を跳ね上げてわたしを振り返った。
 殿、と声には乗せずわたしを呼ぶ。

 吉野が花の雨を母子に注ぐ。
 ああ、わたしは帰ってきたのだ。
 茅子の元に。
 ここで吉野とともにそなたたちを見守ってゆこう。
 ずっと、ずっと。