鬼喰 ― たまはみ ―

Other Half

 あの大騒動の後、半日を寝て過ごした。目覚めたのは夕方だった。
 障子越しに薄い闇が下りる室内に人の気配を感じて俺はそっちをみた。
「……あんたか」
 起き上がるために布団を退けようと手を動かす。
 着物の縫い目が傷に擦れて、あやうく声をあげるところだった。
 なんとか声を呑みこむと、その人は布団を静かに退けてくれた。
「お加減はいかがですか」
 優しく問いかけられ、「悪くない」と答える。
 傷は痛んだが、痛むだけだ。鬼を食った後の気だるさも残ってはいたが、強くはない。
 痛みを堪えて起き上がり、湯冷ましを受けとった。
 かさついた口をそれで潤す。
 それからふと疑問に思った。
「ずっとここに?」
 はい、と答えが返り、俺はますます不思議に思った。
「あいつは?」
 尋ねると少し首を傾げ、「さあ」と言う。
 冷たくはない。鋭さもない。乱暴でもない。けれどどこか固い声だった。
 知らないのかと重ねて尋ねるのはどうしてか憚られ、「ふうん」とだけ応じる。

 腹は空いていないかと聞かれたが、特に空いているようには思わなかった。
 鬼を食った後はだいたいこんな感じだ。
 眠気とは違うだるさに俺の感覚は占領されていて、他に何かを求める気にはならないのだ。
 実のところ誰かと話すことも面倒臭い。
「もう少し休む」
 そういって横になろうとすると、お着替えを、と言われた。
 言われて俺は自分の埃っぽさに気がつく。乾いた血が引き攣れて気持ちが悪い。
「お借りしてきました」と見せられたれたのは、旅館にあるような浴衣だった。
 俺が持参したパジャマより、楽そうだった。
 他人のもののように感じる腕を上げてそれを受けとろうとした。
 だがその人は腕を伸ばした俺を制した。掛け布団を畳むと、立てますか、と聞く。
 悪いくせだとは思うのだが、できるかと聞かれると、どうしてだか俺はできると答えてしまう。
 全力で立ち上がる。
 とその人は手を伸ばし袴の紐を解いた。
 俺の。

 驚いて声も出せないでいると――その瞬間はだるさも感じなかった――次には着物の袷も解く。
「足を」
 言われたままに片足ずつあげると落ちた袴が抜き取られる。
「座ってください」
 座る動きにあわせて肩にかけていた着物も取り除かれる。
 一瞬「困った」と思ったのだが、じゃあ何に困るのか。よく考える気力も、きっとなかったのだろう。
 悔しいことに、肌寒さも覚えないくらい動転していた。
 呆然と見詰める先で、ポットのお湯をその人が手桶に注ぐ。湯気が少し立つだけのぬるま湯だった。そこに浸し絞ったタオルを手に、その人は俺の背後に回る。温かいタオルが首に触れ、俺の体は反射的に跳ねた。
 傷をこすらないようにタオルは動く。タオルに汚れを移し取るような動きだ。
 首を拭き、背を拭き、二の腕を拭く。
 前に回り咽喉元を拭いてくれようとする手を俺は止めた。
 自分でやるから、とかなんとか、言ったはずだ。いや、言えなかったのか。
 ともかくタオルを受け取って体を拭く。埃っぽさがある程度なくなると、疲労感も和らいだ気がした。

 俺が体を拭き終えるのを待って、タオルを受けとった彼女はそれを手桶の縁にかけた。
 血と砂埃で薄い茶色に染まっている。
 彼女は畳まれた浴衣を広げると俺の肩にかける。
 腕の傷に触れないよう、袖を大きく広げてくれた。両腕が袖に通ると衿を合わせ、手のひらくらいの幅の帯で腰を緩く留めた。
 胡坐を掻いていた足を伸ばす。
 なるほど座っている人間にも浴衣は着せられるのか、だから病院の寝巻きは浴衣式なんだ、とよくわからない納得をしたが、口をきくのも面倒臭くて俺は寝かされるままに横になった。
 布団を掛けられ、ほっとする。

 出てゆくだろうと思ったその人は、布団の傍らに座る。
 特に何をするでもなく、ぼんやりと障子を見つめている。
 さすがにおかしいと気がついて俺は重い口を開いた。
「行かないのか」
 どこに、という意識はなかったが、もし前につけるならたぶん「あいつのところに」だったと思う。
「はい」
 固い声に俺は首を動かした。いつもは得体が知れないくらい穏やかに微笑んでいるその顔には表情がない。
 何かに耐えているようにも見えた。
「お一人でいたいこともあるでしょうから……ご迷惑でしたか」
「いや」
 腰を上げかけたその人を止める。
 迷惑ではない。どちらかといえば迷惑をかけている自覚はある。
 立ち上がるだけでふらふらしていた俺を支えてここまで連れてきてくれたのは彼女だし、布団を整えてくれたのも彼女だった。
 眠っている間もつきそってくれたことは、ありがたいと思っている。
 ただ、眠っている人間に、そしてこれから寝る人間の側に居ても退屈だろうと思っただけだ。
「迷惑じゃない」
 言葉にすると明らかに安堵した様子で彼女は息を吐く。
 その表情を見て、彼女は一人になりたくないのだと気がついた。
 見知らぬ家で、昨日今日会ったばかりの人間に側にいてくれとは言いにくいし、側にいてほしいとも思わないだろう。
 ここにいるのはそのせいだ。
「どうしたんだ」
 尋ねると気弱な笑みが浮んだ。らしくない。
「少し、思うことがあって」

 その先を強いて聞くつもりはなかった。
 だが俺の無言をどう受け止めたのか、彼女はもう一度小さくため息をついた。
 先ほどのため息よりも、幾分重い。
「……やっぱり長く一緒に居ると、ダメなのかな」
「何が」
 話が読めず、俺は問い返す。低く差す光は赤い。彼女は瞬くこともなく、膝の辺りを見つめている。
 俯いているのはその表情を見せたくないからかもしれない。
 だが横になっている俺からは丸見えだ。
 しばらくしてやっと、隆正さんが、と彼女は言った。
 思いがけない名前に俺はもう一度彼女の顔をみた。
「瑞江さんのことを、妹だと……わたしもそうなのかなって思ったら……だってもっと長く一緒にいるんですもの」
 そういうことか。
 でもそれは俺に答えられることではなく、俺が答えるべきでもない。
 俺が答えて納得するとも思えない。
 参った。
「ずっと一緒に居たから、そういう風にはみてもらえないのかもしれない」
 ぱたぱた、と何かがこぼれる小さな音がした。
 俺は天井に目を移す。

「長さじゃないからな。たぶん」
 答えがあるとは思っていなかったのだろう。きょとんとした顔で彼女は俺を見た。
 視界の端に映る顔は案外幼い。
「会ってすぐってこともあるだろうし、言葉を交わした回数でもない」
 現に一年同じ家に寝起きしていても、俺はこの目の前の女性にそういう気持ちは抱かない。
 だからといって姉や妹のように思ったこともない。血縁的には高祖伯父の……来孫だったか、まあ、従姉の少し向こうにいるはずだが、特にそれも意識したことはない。もちろん友人とも違う。
 ではまったく女性として意識しないのかと自問すると、決してそうではない。意識しているから、着替えを手伝ってもらうだけでもうろたえたりする。
 おそらく彼女から見る俺も、そんなところだろう。……いや、さきほどの手際からすると、もしかしたら彼女は俺を異性とは思っていないのかもしれないが。
 一緒に居ようと居まいと、その期間が長かろうが短かろうが、だからそんなことは全く関係ないのだ。
「直観、なんだと思う」
 目を閉じるとなんとなく思い浮かぶ顔があった。
 もう一年以上も見ていない。まじまじと顔を見つめたことも、親しく話したこともないのに思い出せるのは不思議だった。
 もしかしたら、多少想像が入っているのかもしれない。
 逆に言えば想像で埋められる程度には覚えているということだ。他のやつらにいたっては、顔どころか、姿かたちも定かでない。無理に思い出そうとしても「目が三つあるやつは居なかったはずだ」程度しか思い出せない。通りすがりの人間の顔を、いちいち覚えていないのと同じだ。
「……そうですね」
 落胆の声に俺は慌てて目を開く。
 こぼさないように堪えていたに違いない涙が、瞬きにあわせて再びぽろぽろとこぼれたところだった。
「いや、そうじゃなくて、違う」
 でも、と彼女は両手で顔を覆った。
 こういうのは、それこそあの坊主かあいつの小憎たらしい弟のほうがうまくあしらえるだろうに。
 どうして俺がと思うが、突放す気にもなれない。
 一宿一飯の恩義と言うなら、彼女(とその父親)には四百宿千二百飯の恩義があるし、同じ釜の飯を食う関係でもあるのだ。
 寝ているとどうしても顔が見えてしまう。
 泣き顔を見ながら話すのは心臓に悪い。
 俺は肘を突くと少し上体を起こした。
 そうすると俯く顔は髪に隠れ、泣き顔を直視することはなくなる。
「長く一緒だったから絶対ダメだってわけじゃない。時間は関係なくて」
 言葉を捜しながら俺は言う。
「半ばは妹のようなものだっていうのは」
 昨晩の坊主の言葉を借りると、怯えたように彼女の肩が震えた。「『半ば』は、妹の『ような』ものだというなら」とゆっくり繰り返し、俺はその意味を吟味した。
「じゃあ、残る半分はなんだ?」
 半分、と小さな声が返った。
 頬にかかる長い髪が俺の目から顔を隠している。
「半分だけだったから」
 続ける言葉に迷う。
 負けた、というのは何か違う気がしたし、譲った、というのもおかしい。身を退いた、でもしっくりしない。
 諦めるでも思い切るでもない。
 たぶん相手を半分しか見ていなかった、ということだと思うのだが、言葉を探すのが面倒になり俺は適当に誤魔化した。
「そうなったんだと思う。結果論だ。だから」
 俯いていた顔がこちらを向く。縋るような目で見つめられ、心臓の奥に殴られたような衝撃を感じた。
「ダメってことじゃない。ええっと、その、つまり泣くな」

 体を支える左手に体重を預けて、右手を伸ばす。
 伸ばした手で頭を撫でる。本当はもっと上のほうを撫でようと思ったのだが、左耳の後ろまでしか手が届かなかった。
 想像以上に柔らかい。そして滑らかだった。
 そういえば人の髪に触わるのは、初めてかもしれない。
 指の間をすべる髪が心地よかった。

「あの」
 控え目に声をかけられて俺は手を止めた。
 さわり心地のよさにうっかりしていた。無意識に指に絡めた髪を離す。
 するりとすべり落ちた髪の、小さな音まで聞こえたような気がした。
「ごめんなさい。ご心配をおかけいたしました」
 指先で睫に絡む雫を払い、気恥ずかしさを誤魔化すように彼女は笑った。
 言う気はないがきれいだと思う。
 それでもやはりそういう対象にはならない。それが不思議なことなのか、それともよくあることなのか、俺にはわからない。
 それこそ直観が違うと告げているのだろう。
 手を下ろすついでに、もう一度撫でる。
 あいつも、もう少し安心させてやればいいのに、とも思った。
「一人でいたいときでも、誰かが居てくれると安心するものだぞ」
 暗に「あいつもそうだ」とこめる。
 彼女は首を傾げた。そして何かに気づいたように俯いて小さく笑うと、何度か忙しく瞬いて涙を払う。
「そんなものでしょうか」
「特にあんなことのあった後だからな」
 そうですねと頷き、彼女は俺を再び寝かせた。
 傷を負うのは体だけではないことを、俺はよく知っている。
 今も俺の内側では食われまいと暴れる鬼が、俺を壊そうとしている。この不快はおそらく誰にもわからない。
 あいつも今回はあの靄に、随分蝕まれたらしい。それは雪白から聞いている。
 あの空洞を抱えて誰かといるのは苦痛なのだが、一人でいるのも同じく苦痛なのだ。
 側にいて何も求めないでくれるなら、それが一番ありがたい。ワガママでしかないのだが。
 それだけじゃない。
 俺の両親は健在だから、親を二度も失うということがどんなものなのかわからない。
 けれどそう簡単に思い切れるものでないことくらいは想像がつく。
「すみません。ご迷惑をおかけして」
 少しも迷惑だとは思わない。誰かが側に居てくれるのは、ほっとする。
「志野さんにも、そんな方が?」
「……わからない」
 ごまかそうと俺はそう答え、それが真実だと気付く。
「わからない。いつもは忘れてる。ときどき思い出す。思い出すと懐かしい」
 俺が応えるとは思っていなかったのだろう。驚いて、微笑んで、不躾を申しました、と彼女は頭を下げる。 「……ありがとうございます」
 きっと立ち上がり、あいつのところに行くだろうと思った。
 しかし彼女は布団の隣に座ったまま去ろうとはしない。
 訝しみ、見上げると布団の上の――中に入れると布団の重みで傷が痛む――俺の手をとった。
「あんなことのあった後ですから。お休みになるまでお側に居ます」
 手は温かく心地よかった。
「いいのか」
 訊くと彼女は笑う。少し寂しげに見えた。
「たまにはあの人がわたしを案じればよいのです」
 違いない。
 だいたいあいつは自分だけ安心しすぎなのだ。いつも、誰に対しても。
 そのくせ人を頼らない。まったく腹立たしい。
 それでも一応のフォローを俺は口にする。
「信用されてるんだろ」
 その瞬間、彼女がふと湛えた笑顔を形容する言葉を俺は持たない。
 鮮烈、凄絶、いや、そんな表現では生易しい、とにかく形容に困るほど冴えのある……。
「ときどき」
「ときどき?」
 気おされたまま鸚鵡のように繰返した俺に彼女は言った。
「ときどき、裏切ってやりたくなります」

 反対も、まして同意もできず……できずというよりは、単に声も出ないほど中てられていたのかもしれないが、とにかく黙る俺の手の甲に、ふ、とこぼされた彼女の息が触れる。
 ぞくりと身は震えたのに、頭が熱い。
 手を握っていた彼女にもそれは分ったのだろう。
「冷えますか? 熱が」
 一方の手は俺の手を握ったまま、もう片方の手で俺の額に触れて「まあ」という。
 お医者様をと立ち上がるその手を握って引き止める。
 首を傾げて俺の名前を呼ぶ彼女に言った。
「いつものことだから。眠れば治る」
 いつものこと、というのは半分嘘だ。熱の原因は鬼でも傷でもない。
「……少し、心配させてやれ」
 くすりと笑った彼女が座りなおす。
「はい」
 その気鬱の晴れた笑顔をもう少し眺めていたいと思ったが、眠れば治るといった以上、いつまでも目を開けてはいられない。
 俺は静かに目を閉じた。
「おやすみなさいませ」
「……おやすみ」

 瞼に映る面影は、手を握ってくれている人に少し似ている。
 手を繋いで一緒に居るのに、それぞれに別の存在を思っていることに、ふとした可笑しさを覚えた。
 お互いが半分心を寄せて、残る半分はここにない。
 そしてきっと、ここにない半分が「本心」なのだ。
 もっとも、彼女があいつによせる思いほど、俺の気持ちは明らかではないのだが。

 そういうのも、悪くない。

 俺が覚えているのはそこまで。
 翌朝、俺を起こしにきたあいつが、俺の手を握ったまま、布団の隣でうとうととしている彼女を見たときのあの表情。
 その可笑しさと哀れな誤解、その顛末については、俺が話すより彼女に聞くほうが、よほど面白いのではないかと思う。