鬼喰 ― たまはみ ―

見えない言葉

 カードが届いたのはクリスマスだった。
 友だちとのパーティー(なんておしゃれなものでもなかったけど)から帰宅したら、届いていた。
 誰からだろうと手にとってびっくりし、開いてからその素っ気無さにあいかわらずなんだ、と苦笑した。
 わたしが贈ったカードだって同じくらい素っ気無いものだったから、お互いさまではあるけれど。
「元気です、ありがとう……か」
 何度も開いて、何度も読んだ。たった三ヶ月のうちにカードの背は擦り切れてしまった。
「他に書けることなんて、ないものね」
 それはわかってる。わたしだって、散々悩んで一行だったのだから。
 特に親しかったわけじゃない。親しさを基準に知人をリストアップするなら、この十九年の人生の中で、彼はきっと最後の一行に記されてしまう。
 きっと返事なんて来ないと思っていたから、カードが届けられたときは、信じられなくて。次にはうれしくて。でも繰返し開くうち、寂しさを覚えてしまった。
 これは返信なのだ。わたしが贈らなければ来なかったはずのものだ。
 以前と同じように。
「仕方ないけどね」
 だって、そうでなかったことなんて一度もなかったのだから。
 ただ、たぶんこれからもないのだと思うと、少し寂しいのだ。

 開いて閉じてを繰り返し、季節はすっかり春めいた。
 ときおり冷え込むこともあるけれど、それでも切るような冷たさは風からは消えている。
 午後の日差しはのどかで温かい。
 わたしは新学期の準備のために、そろそろ寮に戻る準備を始める。
 それはそんな折のことだった。
 ちょっといらっしゃい、と母に呼ばれてリビングへと赴く。
「もう。何よ、忙しいのに」
 愛想のない返事をしてしまったのは、母のやけにうれしそうな顔のせい。
「今日は何の日でしょう?」
「知らないわよ、何よ」
「あら、知らないの」
 知っていて当たり前、という口調にわたしは首を傾げた。カレンダーを見る。お彼岸は来週だし、3月生まれの家族はいない。
「今日が何だって言うの」
「ホワイトデーでしょ」
 答えたのはちょうど帰宅したらしい妹だ。
 ただいまー、とブレザーをソファに脱ぎ捨てて、どっかりと座る。
「そんなことも知らないのぉ? ありえなーい」
「知ってるわよ、それくらい」
「知ってるだけなんだよねー、お姉ちゃんは」
 最近とみに可愛くない発言をするようになった妹をわたしは睨みつける。
 勝っても負けても、口でも腕でも、妹と喧嘩してももらえるのは母の小言だけだということを、わたしは知っている。
 だからこんなとき大概はわたしがため息を吐いて終わるのだ。
 だが、この日は違った。
「そうですホワイトデーでーす」
 語尾にハートマークでもついていそうな浮かれた口調で母は言う。
「正解〜。で、見て」
 今度は音符だ。
 そして後ろ手に隠し持っていたそれを、わたしたちに見せた。
「カワイー!!」
「……可愛い」
 それはオレンジ色の薔薇と黄色のチューリップをメインに作られた花束だった。
 春らしい彩りに、心がぱっと温かくなるような、そんな色だ。
「そこで第二問でーす。誰からだと思う?」
 目を輝かせて母が言う。口調までがきらきらしい。
 メールで打つならこんな感じかな、とわたしは「*・゚.・*:・。.:*゚」を思いうかべた。
 もう少し飾ってもいいかもしれない。
 妹とわたしは顔を見合わせる。
 選択肢は多くない。
「パパ?」
 妹が答えた。
「あの人がこんな気の利くことするはずないでしょ」
 ハートも音符も星もついていない口調で母は切って捨てる。
「お兄ちゃん?」
 だが父にこのうえなく似ている兄に、こんな芸当ができるとも思えない。
「はずれー」
「……おじいちゃん?」
「ぶーっ」
「じゃあ、京都のおじいちゃん」
「違いまーす」
 そのあと伯父さんとか叔父さんとか従兄とか従弟とか、母が通うテニスクラブのコーチとか――そんなことがあったら幸せよねえ、などと母は遠い目をしていたのだけれど――、果てはその飼い犬たちまでが候補に挙がったけれど正解はいなかった。
「もー誰よー」
 妹が音を上げる。
「わからない? わからない?」
「降参だってー」
「あなたも?」
 尋ねられ、わたしは頷いた。
「じゃあ、言ってもいい? 言ってもいいかしら?」
 いいから早く言いなよ、と妹が気だるげな声でいう。
「本当にいいかしら。じゃあ言っちゃうわよ」
 そしてわたしは思わぬ人の名をそこで聞いたのだ。

 カードもついてるんだけど、という母からカードと花束を奪い取り、わたしは部屋に駆け込んだ。
「ずるい〜、あたしにも見せてよ〜」
 と、追いかけてきた妹がドアの外で言う。
「見せない」
 えー、とか、ケチー、とか、いいじゃーん、とか、そんな声が聞こえるけれど、妹は飽きっぽい。二分もしないうちに静かになるだろう。
 念のためドアに背を向けて、体でカードと花束を隠すようにしてわたしは座った。
 カードに手を伸ばす。
 白い封筒を手に取った。
 そっとカードを取り出して、そっと開く。

 見開きのカードの左上のほうに一行。
「お元気ですか」
 それからずーっと空白が続いて、右下に一行。
「お元気で」

 吹きだしてしまった。
 何かを書こうとして、何を書いてよいのか迷って迷った覚えはわたしにもある。気持ちはわかる。
 空白のところどころに小さな点がうたれているのは、書こうと思ってペンをつけた跡だろう。
 書くぞと思ってペンをとり、結局何も書けなくて。
 わたしの机の引き出しにはそんな小さな点だけが打たれただけのカードが、ひと月前からしまいこまれたままだった。
 笑ってしまっては申し訳ない。けれど可笑しさは、あとからあとから湧いてくる。
「わかる、そうだよね、でも……」
 それにしたってこれはすごいじゃないですか。
 これだけ自己主張の激しい行間もめずらしいし、こんなカードをつけてしまう人もめずらしい。

 と、カーペットに座ったままお腹を押さえて笑いを堪えているわたしの手からカードが消えた。
 カードを追いかけると背後に妹が立っていた。こっそりと入ってきたらしい。
「ナニコレ。透かし? あぶり出し?」
 妹はわたしから取り上げたカードを日に透かす。
「こらっ」
 わたしは笑いすぎて零れた涙を瞬きで払う。
 立ち上がり返しなさいというわたしに妹は「待って、待って」と繰返す。
 裏を見て表を見て「ねえ、これなんなの、お姉ちゃん」と首を傾げた。
「ないしょ」
「ええぇー、いいじゃんイジワルしなくてもー、教えてよぉ」
「だめ」
「けちー」
 ケチだもーん、と母を真似る。
「じゃあ、これいらないんだ。せっかく持ってきてあげたのに」
 妹はわたしの机を振り返る。引き出しの中のカードを思い出しどきりとしたけれど、彼女が差し出したのは水の入った花瓶だった。
 どうやら一度リビングに戻り、花瓶に水を入れて持ってきてくれたらしい。
 手を伸ばすと妹はカードではなく花瓶を引き渡す。
 まあ、いいかと机の上に花瓶をあらためて置き直し、花束を隣に並べた。
 綺麗にラッピングされているからリボンを解くのはもったいなかったけれど、それで枯らしてしまうのはもっともったいない。
 花を傷つけないようにそっと包装紙を外す。
 開いてから、この花瓶では小さいかもしれないと思った。
「ねえ、誰ー? 友だち? でもこの名前、一度も聞いたことない」
 カードを封筒に戻し、妹は言う。
「そうだった?」
 とぼけて見せると妹は自信なさげに「聞いたっけ」と呟く。
「どうだったかなぁ」
「誰ー? ねー、だーれー?」
 おねえちゃーん、と声はすっかりおねだりの様相。
「高校三年間、同じクラスだった人」
「……それだけ?」
 きょとんとした表情で妹は呟いた。
「それだけ」
 うそー、本当にー、どうしてー、とくどいほど並べられる言葉に、どうしてだろうと自分でも思う。
 ずっと気になってはいたけれどそれだけだったし、何度も声をかけたけど一度も色よい返事は聞かせてもらったことがない。
 良くない話も聞かされたし――悪口と言うには抽象的過ぎて、はっきり言ってよくわからない話だった――、わたしが彼と親しくすることを友だちは好まなかったから、親しくなるきっかけもないままに三年が過ぎてしまった。
 そのままもう一年が過ぎて、二年が過ぎて、三年が過ぎて、いつの間にか忘れてゆくのだろうと思っていたのに。

 一通り騒ぎ終えると納得したのだろう。妹は言う。
「いいなあ。わたしも欲しいなあ」
 その声があまりにも物欲しげなのでわたしはまた笑ってしまった。
「半分、いる?」
 どうせこの花瓶に全てを生けることはできない。それなら分けて飾るのもいいだろう。
 綺麗な花だから、わたしの部屋にだけ飾るなんてもったいない。
「えーっ、もらえない、もらえないよそんなの」
 妹は両手を胸の前で忙しく振った。
「じゃあ、買ってくる?」
「違ーう。自分で買ってどうするの。くれる人が欲しいってこと!」
 いいなあ、ともう一度繰返された言葉を、そんなんじゃないわよ、と否定する。それに少しだけ傷ついてわたしは妹にはわからないようにため息をついた。
「そんなんじゃないのにくれるの?」
「くれたみたいね」
「信じられない、ありえない」
「でもあるじゃない。……着替えてきたら? 制服汚れるよ」
 ほとんどのおしべは摘まれていたけれど、開き始めたアルストロメリアにはユリによく似たおしべがある。うっかりつけてしまうとなかなか落ちないのもユリに似ている。ユリ科の花だからあたりまえか。
 花を生けながらそういうと、まだぶつぶつと言いながらも妹は着替えに向かった。
 往生際悪くドアの前で振り返る。
「どんな人?」
「無口で無愛想で不器用っぽそうな人」
「……そんな派手なことするのに?」
 言われてあらためて花束を見つめれば、たしかに地味とは言いがたい。
「不器用だから」
「そっか」
 そうだよねー、不器用っぽいよねーと妹は繰返す。
「携帯番号報せるだけで、そんな大きな花束贈るんだもんね」
「え!?」
 驚いて振り返るとカードの入っていた封筒を、妹は左手の人差し指と中指とで挟んでいる。
「こんなの入ってましたー!」
 そして右手でつまむその紙は、いかにも彼らしい飾り気のない紙で。

 その後、「返して!」「やっだよー」のじゃれあいが昂じて、十年ぶりに本気の喧嘩にまで発展した。
 すり傷と引っかき傷をお互いに何箇所も作りあったが、母のカミナリのような怒声に即座に停戦する。
 それから手分けして花を家中に飾ることにした。
 玄関にダイニングにリビング、階段の踊り場に出窓。
 キッチン脇の家事コーナーに飾ったら母はうれしそうにしていたし、父の書斎の一輪ざしにも生けておいたら締まらない顔で「おっ、祝い事か?」なんて間抜けたことを言っていた。お兄ちゃんは今日は仕事で遅くなるといっていた。本当に仕事かどうかはわからないけど、詮索するのはやめておく。
 妹の部屋にもオレンジ色の薔薇と薄いピンクのカーネーションが飾られている。
 好きなのを持っていっていいよ、と勧めたら、
「おねーちゃん、好きー。ありがとー、ごめんねぇ」
 などと言っていたけれど、これはどこまで本気やら。
 新学期までには消えてくださいと、わたしは鏡に映る額の引っかき傷に祈るばかりだ。
 忙しい一日だったけれど、傷も含めていい一日だったと思う。

 さっそく番号は自分の携帯に登録したけれど、かけるにはまだまだ時間がかかりそう。
 お元気ですか、以外の言葉を思いついたら、かけてみたいと思う。