バレンタインデーというイベントが菓子屋によって打ち上げられたのは、わたしが子供のころだった。
そしていつの間にやらホワイトデーなるイベントが拵えられていた。
それが本当にいつのことだか覚えがないのだが、ホワイトなる言葉に清々しさよりもむしろ白々しさを感じたことは良く覚えている。
白々しい贈り物に、白々しい返礼。白々しい一日。
プレゼントを選びながら、今朝斜向いのご主人と交わした言葉をわたしは思い出していた。
「ひと月まえのことを、忘れたようなフリで覚えてる。オカエシを狙う眼差しは、これ、まさに虎視眈々。義理は三倍返しが相場だと臆面もなく言い放ち、万が一、万が一ですが、うっかりオカエシを忘れようものなら翌年から、二月はわたし一人がオケラ確定」
いったい何のための行事なんでしょうねぇ、と項垂れる姿が痛ましかった。
「ひと月で三倍って、あなた、いまどきそんな利回りの取引が他にありますか? 闇金でももうちょっと安いんじゃないでしょうか」
どう思います、と問われ、「ええ、まあ、そうですね」とわたしは流す。
常々白々しいイベントだとは思っていたがそこまで厳密に考えてはいなかったのだ。
「あげくにセンスがどうだとか」
特大のため息には悲嘆しかない。
さもありなん。
その五百円の義理チョコを五個ももらえば、オカエシは七千五百円。
十個もらえば、一万五千円だ。
家計から出してもらえる人はいいが、「義理でも他の女からもらったモノのオカエシを女房に頼めますか!?」という人は、大変だろう。
「でも、岡田さん、チョコレートはご家族で召し上がったんでしょう?」
「わたしはひとかけらだって口にしちゃいませんよ。全部妻が食べました」
甘いものはそんなに好きじゃないんです。
……かわいそうに。
「まあ、世の中には見栄でオカエシを買うって人もいるようですけど……」
ふっ、と息だけで笑った岡田さんは言った。
「義理でもあるだけマシだなんて、香典じゃあるまいし。義理の痛みを知らないからこそ言えるセリフですよ」
岡田さんの背中を思い出し、わたしはため息をついた。
「たくさんの義理」の痛みも喜びも知らないわたしの悩みは岡田さんとは違うところにある。
贈り物が決まらない。
ちらりと腕時計に目を落とせば、ここに立ってかれこれ四十分は過ぎていた。
たしかにこれを五回も十回も繰返さなくてはならないとすると、まさに苦行だ、と思う。
再度軽くため息を吐くと、背後から、苛立ったような疲れたような呆れたような声が返ってきた。
「どうでもいいからさっさと決めろ」
そうは言われても。
選ぶ手を休めて志野を振りかえるわたしに、彼は舌打ちをする。
「あんた、たった一個選ぶだけにどれだけ時間をかければ気が済むんだ。俺はもうすんだぞ」
見れば志野は両手に紙袋を下げている。
「早いな」
「義理に真心で返すほど酔狂じゃない。向こうだってそんなものは期待しちゃいない。されても困る」
みもふたもない言い草に苦笑で返す。
「何人分だったっけ」
「サークルの連中とゼミの連中と近所のコと……」
個数を改めて確認する志野からわたしは手元に視線を移した。
こっちの方が柄の雰囲気は彩花さんに似合いそうな気がする。
でも、こっちの方が使い勝手がよさそうだ。
数え終わったのだろう。志野はため息をついた。
「いい加減にしろよ。もう一時間過ぎるぞ」
女子供の買い物じゃあるまいし、と続けられる愚痴を聞き流す。
「なあ、志野、お前ならどれを選ぶ」
候補を二つ並べると、志野は深々とため息を吐いた。
俺が選んだら意味がないだろ、と言いつつも見比べている。
しばらく無言で見詰めた後に、似合いそうなのはこれ、機能性ならこれ、とわたしと同じ結論にたどりついた。
「それで迷ってるんだ。どうしよう」
「言わせてもらうなら、根本から選択を間違えていると俺は思う。なんだそれ、母の日かよ」
「うーん。でもなあ」
「決め手にかける買い物はしないほうがいいって言うぞ」
それはその通りだが、他に思いつくものがない。
「物じゃなくてもいいだろ。どこかに遊びに行くとか、それこそ一日買い物に付き合うだけでもきっと満足するぞ。いや、むしろその方が喜ぶ。保証してもいい」
「詳しいな」
「ウチの親がそうだからな。何が楽しいんだか知らないが」
父や自分が買い物のお供をするだけで母はご機嫌だった、と志野は語る。
それもそうかもしれない。ものより思い出、というCMもあった。
実際お隣さんも物のやり取りではなく、折に触れては旅行に行ったり、食事に行ったりで楽しそうだ。
少なくとも岡田さんよりは幸せそうだった。
しかしそうやって連れ出すのも、神主さんの手前、なんとなく気がひける。
悩むわたしに志野は続ける。
「面倒くさいな。……両方買っちまえよ。それでダメなら後日一緒に買いに行け。夕食の買出しのついでにでも出かければ、文句はでないだろ」
「あ、なるほど」
たしかにそれはいい。
気に入った方を選んでもらえば良いし、二つとも気に入ったなら両方使ってもらうこともできる。
どちらも気に入らなかったら、まあ、自分で使ってもいいのだ。
「そうするよ」
そして白々しい日は白々しくやってくる。
「えーと、迷ってしまったので」
二つを広げて選んでもらう。
「色柄はこれかな、と思ったんですけど、使い勝手がよさそうなのはこっちで迷ってしまいまして」
首を傾げた彩花さんにバレンタインデーのお返しです、と説明する。
苦笑めいた複雑な表情に、やっぱりエプロンはまずかったかなあ、と反省した。
よくよく考えてみれば、「もっと働け」と言っているようにも解釈できなくはない。
「あ、包装はですね、選んでもらってからあらためてしますから」
リボンと包装紙もちゃんと買ってあります。
気まずさを誤魔化すために言い添えたわたしを見上げ、彩花さんは笑う。
「和さんは、どちらがお好きですか」
「うーん」
店頭での苦しみが再び襲いくるかと思いきや。
「……これ、ですね」
彩花さんが目の前にいると、一方はあきらかにかすんで見える。不思議なものだ。
「じゃあ、これにします」
彩花さんはもうひとつを丁寧にたたみ片付ける。
「よろしければ、どちらも使ってください」
ありがとうございます、と返された一方をわたしはあらためて贈呈した。
志野から彩花さんに渡されたのは映画のチケットだった。
二枚。
受けとった彩花さんが口を開く前に志野は、「俺は、今見たい映画はないから、友だちとでも行ってきたら」
見たい映画がないのにチケットを買ってくるのも贈り物としてはどんなもんだろう、と思う。
でも彩花さんが喜んでいたので、まあ、いいんだろう。
それから神主さんが彩花さんのために腕を振るった料理のご相伴に預かり、この日は暮れて行ったのだ。
ハプニングといえば、ただ一つ。
「岡田さんの奥様からいただいたお菓子のお礼はお済みですよね」
彩花さんに言われ、すっかりそのことを失念していたことにわたしたちは気づいたのだ。
どうしようと悩む間もなく、志野が言った。
「おい、あんたの買ったやつ、一枚余ってただろ」
「両方とも彩花さんに」
言いかけたわたしを置いて、志野は彩花さんに「どっちでもいいからひとつ譲ってくれ」と言った。
「や、でも、プレゼントの流用は」
一度進呈したものを返せだなどと、そんなことができようか。
うろたえるわたしには構わず、志野は彩花さんに交渉を迫る。
「待てよ、おい。プレゼントってのはその人のために用意するもので」
「黙っていればわからない」
「そうじゃなくて気持ちの」
「義理に真心で返す必要はない」
「だけど」
「いいか、聞け」
志野はわたしの言葉を遮って言った。
「あのな、これは『プレゼントをもらった』という事実がモノを言うイベントなんだ」
そこに込められる思いは、愛でも恋でも友情でも感謝でも憐憫でも、なんだって構わない、と。
「たしかに同情するにしたってある程度の好意があってこそではありますね」
神主さんが頷いた。
「そう。どんな形であれ、自分は好意を示されるに値する人間である。その証明がこのイベントの最重要点なんだ」
でなければ、義理やお返しがこれほどまでに浸透する謂れがない、と志野は主張した。
「つまり、とりあえずお返しをした事実さえあれば、この場合問題はない。面倒も起こらない」
「問題って……」
たとえばと例を挙げたのは神主さんだ。
「来年からうちだけ仲間はずれとかですかねぇ……町内の寄り合いの日がうちだけ間違って知らされたり、もしかしたら回覧板も回ってこなくなるかも」
「まさか!?」
「とは思いますが、現に岡田さんは、数年前うっかりしたために、翌年は奥様にまで無視されたそうですからねぇ」
まったくその可能性がないとは言い切れませんよ、と神主さんはお茶を啜った。
そういうことで、わたしたちはもう一枚のエプロンを包装すると、岡田さんの奥さんのもとへお届けにあがったのだ。
ちらりと顔を見せた岡田さんは、義理返しの苦行から解放されたのか、いい笑顔でこういった。
「のどもと過ぎれば、でしょうが、終わってしまえばいい一日でしたよ。義理でもなんでも人が喜ぶ顔というものは、実に良いものです」
そして。
一週間が過ぎたころ、わたしは彩花さんに誘われて、映画を見に行った。
麦がボディーガードをしてくれるので、鬼の脅威は格段に減った。
もはや外出は怖いものではない。
志野には申し訳ないと思いつつ、その数時間を充分に楽しんだ。
ついでに彩花さんが気に入ったらしい髪飾り……バレッタ、だっただろうか。それを買って、プレゼントでのお返しも果たせた。
しかしわたしの安堵とは別に、家ではとんでもないことが起きていたらしい。
夕方の上映に間に合うように出かけ、そのまま食事をしてきたわたしたちが帰宅した後、神主さんが話して聞かせてくれたところによると。
「うちの優秀な賄さんが外出。聞けば先週志野くんが用意したチケットのお陰だとか。ということは、そういう状況を生むに至った志野くんこそに、今夜の食糧難を解決する義務が生じるわけです。そこで、わたしは彼にお願いした。責任とって作ってください、と」
相槌をうつわたしと彩花さんの顔を確認し、神主さんは続ける。
「ところが、結果は……和さん、あなたはご存じですね」
言われて思い出したのは半年ほど前の出来事だった。
神主さんと彩花さんが外出したあの日のことだ。
「それなりに食べられるものを用意できるはずのあなたが、なにゆえ空腹を抱えて玄関で座り込むはめになったのか」
神主さんは視線を足元に落とし、吐息だけで力なく笑った。
「わたしは甘く見ていたようです」
それから彩花さんを見て悲しげに微笑んだ。
「あなたが楽しめるならそれでよかった。この事態は、わたしも覚悟のうえでしたから」
「おそれいります」
にこりと微笑んであっさりと返した娘に、その父親はため息をつく。
「覚悟の上のことでしたが、それはもう、予測を大きく上回る凄まじさ」
いったい何を、と神主さんは言う。
「彼はいったい何を作ってくれようとしたのでしょう。いや、はたしてあれは本当に食べ物だったのでしょうか」
そこからすでにわからない、と眉を顰める。
「それが気になって、不味さは存外気になりませんでしたが」
不味かったんですね、とつっこむ隙は紙一枚ほどの厚さもなかった。
いや、むしろここは「食べたんですね」と言うべきなのだろうか。
わたしの声なき二つの疑問に神主さんは頷いた。
「作ってくれとお願いした以上は、食べきるのは礼儀です。たとえ、それが、どれほど、不味かろうとも」
そこで一拍置いた神主さんは、じっと――見つめるというほど温かくはなく、睨むというほど熱くない――眼差しをわたしに注ぐ。
「わたしはなんだか気分が優れないので、片付けは賄さんを連れ出した方にお願いしたいのですが」
「畏まりました」
苦笑とともに答え、わたしは台所の惨状を思い浮かべた。
台所に視線をやれば、なんとはなしにけぶってみえる。
うっすらと煙の立ち込めるその中に、遠目にも黒く焦げ付いた鍋が見えた。
わたしは台所を片付けながら調味料と野菜の切りくずを検分し、志野がいったい何を作ろうとしたのか考えている。
鍋には、かつて大根か蕪(かぶ)だったらしき物体が、醤油色に染まって焦げ付いていた。
ところどころつぶつぶと固まっているのはひき肉だろうか。
醤油と大根とひき肉と、椎茸、筍、……これは分葱か?
わからない。
何を作るつもりだったのか。
ついでにつまんでみたが、見た目ほどには不味くはなかった。いや、見た目の凄まじさに比べれば、ということで、決して美味いということではない。しかし原形をとどめている部分があるだけでも前回よりは確実に上達している。
とりあえず、食べられそうな部分だけ皿に移し、残りは捨てることにする。もったいないが仕方がない。
焦げた鍋底を磨きつつ、わたしは窓の外に見える月を見る。
空に滲む春の月は、どこか優しく暖かい。開花間近の花の香りがした。
こうして短い夜は更けゆくのだ。
翌朝何事もなかったかのように片付いた台所から響くのは、彩花さんの奏でる包丁とまな板の軽やかなギャロップ。
「おはようございます」
と振りかえった笑顔に、わたしは岡田さんの言葉をかみしめる。
人の笑顔は、いいものだな、と。
たぶんこれがこの世で一番いいものだと思う。
(それから数日、神主さんと志野は腹の不調を訴え、苦みばしった顔をしていたけれど、大事には至らなかったし、まあ、いいか)