人が多く集まる場所は、苦手だった。
初詣も、縁日も、買い物客でごった返す年末年始の街中でさえ、俺は苦手だった。
人が嫌いなのではない。
恐ろしかったのでもない。
……恐ろしかったのは、自分が人とは違うことを、知られることだった。
おまえはどうする。
その顔には、「来いよ」と書かれている。
うれしいと思ったが、俺は断った。
「なんだよ、付きあえって」
「おまえがいるといないで、女の子の数も顔ぶれも変わるんだよ」
「帰省しないって言ってただろ」
口々に食い下がってもらえることがありがたかった。
「悪い。予定があるんだ」
マジかよ、と、複数の口が同じ言葉を紡ぐ。
「そういうことか」
仕方がないなとため息混じりにつぶやいたそいつは、俺の肩を叩いた。
「まあ、わからんでもない。あの人きれいだしなー」
「たしかにおまえには年上のほうが向いてるかもな」
「え? なになに」
「あ、そうか。おまえは知らないんだっけ」
こいつさ、と一人が俺を親指で指す。
「親戚ん家に下宿してんだけど、そこの娘さんってのがきれいな人でさー」
「夏にキャンプにいったとき、こいつ風邪で倒れただろ。あのあと見舞いに行ったわけ」
「そんなにきれいなんだ」
「もう、びっくり。今どき下宿ってどうよなんて思ってたんだけど、俺、あの家なら一生でも下宿したい」
口々に語り聞く連中が、何をどう勘違いしているのかわかったが、あえて訂正はしなかった。
こんな日に予定があるとするなら大概はそんなところなのだろう。
「一応、これ渡しとく」
差し出された紙には、場所と予定が記されていた。
「振られたら来い。女の子も来るし」
来ることを望んでもらえる、いや、来ないよう望まれないことがうれしかった。
「行かない」
うれしさが、声に混じる。
半ば笑いながらそう言うと、もう一度、今度は強く背を叩かれた。
「ちくしょう。んじゃ、まあ、メリークリスマス。お幸せに」
連中と別れ、帰途に着く。
行けばよかろうに、と雪白の声が聞こえた。
「行かない。気が進まない」
小雪まじりの風にブルゾンの前を閉じる。
悴む手をポケットに入れた。
帰る先は家ではない。家ではないが、家よりも居心地がいい。
あいつが十五年居候をし続けている理由がよくわかる。
昨年までを思い出すと、一人帰るその道も、暖かく思えた。
遠巻きにされていた。
嫌われるというよりは、恐れられていた。
人は聡い。己と異なるものを的確に嗅ぎわける。それは本能のように。
あいつ、なんかヘンだよ。
囁かれる声も、俺を憚ってか小さなものだった。
嘘じゃない。中傷だと思われることもわかってる。
でも、あいつはヘンなんだよ。
本当だって。
小さな声だったが、気づかぬほど俺も愚鈍ではなかった。
囁きは小さく、だが確実に広がり、皆の心に凍みこんでゆく。
三ヶ月だった。
最初の三ヶ月を過ぎると、友人は俺と距離を置くようになる。
その距離は次第にひろがり、やがて友人であったことさえ想起させない空間を作る。
溝を掘るほどにも近くないその空漠は、いつしか俺の一部にもなっていた。
「ねえ、二村くんは? 来ない?」
それでも気にかけてくれる人はいた。
いつもそうして声をかけてくれた。
だが、その人の後ろには俺が断ることを望む数多の目があった。
口には出せず、けれど切実に、来ないでくれと願うその眼差しは声なき声となって俺を怯ませる。
「ごめん。予定があるから」
残念とため息をつくその人の後ろで、同じように複数のため息が漏れる。
安堵のためにこぼれた息だ。
それじゃあ、と言って俺はその場を離れる。
「またね」
屈託なくかけられた声に、うん、とだけ返す。
いつまでこうして声をかけてくれるのか。
うれしさよりも、いつかその声が途絶えることへの怖ろしさが勝った。
振り返らないよう、足早に立ち去った。
ねえ、あの人誘うの、やめない?
いつも忙しいみたいだし。
何度も断らせるの、かえって申し訳ないでしょ。
聞かないようにしていても、聞こえてしまうその声から逃げるために、歩調を緩めることはなかった。
帰省しないと決めたのは、あの中に戻りたくなかったからだ。
連中と一緒に行かないと決めたのも、今の平穏を壊したくはないからだ。
雪白がいる。
おかしなことは起こらない。
そう思っても、気が向かなかった。
なぜなら、今までに起きてしまったことをなかったことにはできないし、もし何事かが起きてしまったら、それもやっぱりなかったことにはできないからだ。
冷たい風が耳元を吹きすぎる。
寒い。
首をすくめて道を急いだ。
走りたい気さえしていた。
門柱が見えたとき、ほっとした。
逃げ込むようにそこを目指した。
門を押し開け、戸をあける。
ただいまと小声で言う。
ブルゾンを脱ぐまでのわずかの間に、おかえりなさい、と声を聞く。
靴を脱いで、そろえる。
上がり、居間に向かう。
出迎えてくれたその人は、お茶を淹れてくれる。
悴んだ指が湯呑みを包む。
咽喉を通るお茶が、背や肩の強張りをとく。
温かい。
人心地がついたのを見計らったように、その人は二枚の葉書きを卓に置いた。
ひとつは母からだった。
お正月は帰ってくるのでしょう? 用意をして待っているから、と書かれていた。
仕事で不在がちだった父も、今年は家にいるらしい。
里心がつく、というのは、こういうことなのだろうか。
冷たい外気になれた目に、暖気がしみる。
気持ちを落ち着けるために目を瞑り、お茶を飲む。
もう一枚を手に取り、俺は驚きに動きを止めた。
差出人の名を、何度も確かめた。
メッセージを繰り返し読んだ。
「お友だち?」
興味深げに俺を見る。
「……うん」
お久しぶりです。お元気ですか。
色鮮やかなクリスマスカードに添えられた、たった一言に胸が詰まった。
黙ったままカードから目を離せないでいる俺に、その人は言う。
「まだ間に合いますね」
「なにが」
「お返事、お書きになるでしょう? 今ならまだ、明日中には届きます」
柱にかけられている時計を振り返った。
午後二時を過ぎたところだった。
急げば昼の収集に間に合うだろう。
だが。
躊躇う俺にその人は言う。
「よかったら使ってください」
それは地味なくらい落ち着いたカードだった。少しずつ色目の違うカードが三枚、俺の前に並べられた。
プレゼントにつけるつもりだったのだけれど、と笑う。
「きっとご用意されていないと思って。書きこんでしまう前に、カードが届いてよかった」
ひとつを選ぶ。
白を基調にしたそのカードに、一体何を書いたらいいのだろう。
多すぎる余白をどうしたら。
とりあえず部屋に帰って考えようと席を立つ。
「ごちそうさま」
「少し早いですけど」
どうぞと渡された袋を受けとると、やわらかな重みが手のひらに伝わった。
口を結ぶリボンにはNoelと書かれている。
解き、中を見る。
マフラーと手袋だった。
ありがとうと言い、俺ははたと気づいた。
「何も用意してない……」
「貸しておきます」
たおやかなはずの笑顔に、その父親を思い起こし、俺はたじろいだ。
ポストへと走る。
文面を考えている間に、時計の長針は一周していた。
ポストの前に赤い車が止まっているのが見えた。
待ってくれ。
だが走り疲れ、声はでない。
「雪白、停めろ。行かせるな」
切れ切れに命じると、承知と短い声が返る。
と、局員は何かに気づいたように動きを止め、俺を振り返った。
にこりと笑い、俺が来るのを待っている。
手紙の入ったその袋を持つその姿がサンタに見えた。
来ているものは緑色だったがクリスマスカラーには違いない。
カラフルなカードを思い出し、俺はそう結論付けた。
辛うじて回収に間に合った。明日中にはなんとか届くだろう。
一時間以上も悩んだ末に、書けたのはたった一行だった。
元気です。ありがとう。
特別に語る思い出はない。
折に触れ声をかけてもらった。その度に断り続けた。
それだけの縁だ。
今はどうしているのと問えるような間柄ではなく、安否を問う共通の友人もいない。
ただ、ありがとう、と、それだけしか言えない。
帰省して、出会うことがあっても、挨拶をして素通りするしかない。
それでもあの凍てついた日々に、あなたの声がどれほど救いになっていたか、伝わるだろうか。
サンタの乗る赤い車を見送って、俺は今日二度目の帰途につく。
途中、花屋の前を通った。
貸しを貸しのままに放っておけばどうなるか。
あの人の父親のやり口を思いうかべると、これほど危険なことはない。
目についたその花で、花束を作ってもらった。
桜に似た色のその薔薇の――アリアンナとかいっただろうか――花束を手に帰宅する俺の姿を、連中は見ていたらしい。
「贈るなら赤かピンクかいっそ白だろう!!」
「どうしてそんな複雑な色を!」
休み明け、その首尾を熱心に問われ、苦笑もそこそこに俺は逃げ出すことになるがそれはまた別の折に。