鬼喰 ― たまはみ ―

面影の中に

 呟く声に、わたしは足を止めた。父の声だった。
 庭の片隅のその社に、父は語りかけている。
 それは以前からの慣習だった。
 祈るでもなく、ただじっとそれを見つめ、語り、微笑み、ため息をつく。
 その姿を、わたしは幼いころから知っている。
 わたしは場を離れようとした。
 音を立てず、息を殺し、そっと静かに。

 あれはわたしが三つのときだから、もう二十年以上前のことだ。
 今日と同じように、社の中でわたしには見えない何かと、父は語り合っていた。
 時折こぼされる微笑と、ため息と。
 何をしているの、と問いかけようとしたのだと思う。
 わたしは一歩を踏み出し、そのとき、足元に舞い込んできた枯葉を踏んだ。
 足と床板の間にはさまれ枯葉は、ぱり、と小さな音をたてた。
 踏んだ落ち葉に目を落とす。その瞬間だった。

「誰だ!! そこで何をしている!」
 雷に打たれたようにわたしの身は震えた。
 反射的に目を閉じてしまったのだと思う。振り返った父の顔は覚えていない。
 ただ、父の、恐ろしいほどに威圧的な声だけを、わたしの耳は記憶している。
 怒鳴られたことなど、後にも先にもそれきりだ。

 その声はわたしを縛り、締め上げる。
 驚きか、恐れか。
 逃げることも泣くこともできず、身を固くしていたわたしを見とめた父は、呆然とした様子で二度瞬きをした。
 口が、彩花、と、動いた。
 それからあわてて立ち上がり、わたしに駆け寄った。
 社の奥から走り出てきた父を見、わたしは座り込んでしまった。膝がこつんと板を打つ。痛みより、冷たさを思った。
 何かを言おうと思ったけれど声も言葉も出てこなかった。
 見上げるわたしの視線の先で、父は動揺と困惑を隠せないでいた。
 それから膝をつき、座り込んでいるわたしを、父は抱き上げた。
「ごめん、ごめんね。彩花」
 わたしの頭を撫でる父に木漏れ日が斑の影を落とす。
 風が枝を揺する。軽やかな音とともに木葉の影も揺れる。
 光と影が交互に織り成すその中に、ほんの一瞬、人影を見たように思うのだけれどさだかではない。

 ごめん、驚かせてしまったね、彩花だとは思わなかったんだ、本当にごめんね。
 一心にそれを繰返していた父はわたしの背をとんとんと軽く叩いてあやす。
 あまりにも一生懸命なその様子に、わたしは頷くしかできなかった。
 何をしていたの、誰とお話をしていたの、お客さまだったの、わたしはそれをじゃましてしまったの? わたしはじゃまだった?
 飲みこまれた問いは、長くわたしの中に蟠っていた。

「本当に。あなたがひとりで行ってしまうから、わたしは困ってるんです。新しい人をみつけろだなんて、簡単に言ってくれましたけど、冗談じゃない。あなたの代わりなんて、いやしませんよ」

 語りかけている相手が、母であることを、今のわたしは知っている。
 あれから幾度となく、社で一人語らう父を見た。叱られないように息を潜め、距離をおいて見ていたから、その内容は切れ切れにしか聞こえなかった。
 語りかけても返る声はなく、それでも眼前にその人がいるように笑い、相槌をうつ父が、思い出の中の母と語らっているのだと知ったとき、わたしははじめて母を恋しいと思った。
 そして母のいない寂しさを、わたしには一時も味わわせなかった父を思った。
 その寂しさは、すべて父が飲み下していてくれたのだと気づいたのだ。

「二十年です、二十年。あなたが去って、二十年」
 父と母があの杜(もり)で出会い、恋をし、結ばれて。
 わたしが生まれ、母はこの世から去ってしまったけれど、父は社を通し、思い出を通して今も母と語らっている。
 白いものが混じり始めたその髪に、秋の日差しが降りそそぐ。
 母と語らう父の邪魔をせぬよう、わたしはそっと後ずさる。
 落ち葉を踏まぬよう、砂も鳴らさぬよう、風も動かさぬように、そっとそっとゆっくりと。
 離れるわたしの耳に、父の切なげなため息が聞こえる。
「ずるいじゃありませんか。ずっと一緒にいてくださるとお約束したのに」
 未だに母を思い続けている父の一途さに、わたしの口元がふと緩む。
「このごろは彩花もわたしより彼につききりですしね。もうあの子にわたしは必要ないんでしょうかねぇ」
 そんなつもりは少しもなかったけれど、そんな風に思っていたのかと意外に思う。
「いっそ彼をたたき出してやろうかと、何度思ったことか。でもそんなことをしてあの子にまで出て行かれたら、わたしは本当に一人ぼっちです。……ええ、腹立たしい! それもこれも、あなたがいてくださらないからですよ」
 らしからぬ父のヤキモチに、わたしは苦笑を堪えられなくなった。
 かろうじて声はとどめたものの、可笑しさの衝動はわたしの足を伝って、砂を小さく鳴らす。

「……誰です」
 振り返らない父の表情が、わたしにはわかる。
 きっとその頬は紅葉より、赤くなっている。それから瞼はしっかり閉じられて、眉間を封するように眉がぎゅっと寄せられている。口は一文字に結ばれて、わたしの声をその耳が待っているのだ。
「わたしです。お父さま」
 いつからそこに、と言いかけて、父は口を閉じた。
「……なにか用が?」
「用がなくてはお話させていただけませんか」
 切りかえしたわたしに、父はゆっくりとこちらを向き直る。
 軽くため息をついた後、わたしの頬に父は手を伸ばす。風に絡んだわたしの髪を梳きつつ、もう一度あからさまなため息をついて見せた。
「こんなに似ているのに」
 それはわたしの姿が母に、ということだろう。
 出会った頃の母は今のわたしと同じくらいだろう。
 梳かれた髪は後ろへと風に流れる。頬を撫でていた親指がふと止まる。
「中身はまるで似ていないなんて、どうした詐欺でしょうね」
「このごろわたしがつききりでお世話申し上げているらしいある人などに言わせると」
 言葉をなぞったわたしに、父はうろたえたように目を逸らす。
「ちかごろのわたしはお父さまにそっくりなんですって」
 これ以上はないくらいに微笑んで見せると、父は苦く、けれどどこかうれしそうに笑った。
 わたし(の内面)が、母に似ていないことを、それはまるで安堵するような表情にも見える。

 実のところ、母になど似ようはずもない。
 わたしが三つになる頃にはもう母はいなかったし、そのころからわたしは父を見て育ってきたのだから。
 だからこそ、せめてこの外見が、母に似ていてよかったと思う。
 薄い色の目も、この髪も。
 それはあまりにも朧な母の記憶につながるもの。
 けれどなによりも、父のために「母に似ていてよかった」とそう思う。
 写真の一枚さえ残さぬあの人の存在を、己の記憶にしか留めぬその面影を、ひとり追い続けていたのではきっと心が壊れてしまう。
 わたしは、母のいた証し。そして思い出への標なのだ。

 今でも父は、あまり母のことを語りたがらない。
 思い出すことが辛いのかもしれないし、単に照れくさいのかもしれない。
 それはわからないけれど、いつか話す気になってくれたら、そのときには聞きたいことがある。たくさん、たくさんある。
 その日が、早く来てくれることを、わたしはいつも願っている。

「お父さま」
 思いつき、わたしは言った。
「今日は二人で出かけませんか」
「それはまた……大変光栄ですが、なぜ急に?」
「今日の台所は、志野さんの当番なんです」
 わたしの言葉を吟味した父は、楽しげに笑う。
「それはそれは」
 頷く父は、形だけわたしに問いかけた。
「だけどそれでは、残される人は可哀そうですね」
 わたしは頬に落ちかかる髪を指先でつと跳ね上げて顎を逸らし――この仕種は母がよく見せたものだ。そういった断片は、わたしもかすかに覚えている――言った。
「ありがたみが増してよいではないか」
 記憶に残る母を精一杯真似たわたしを、父はぽかんと口を開けたまま見つめ、それから身を二つに折って笑い出した。

 父と二人、その日は遅くまで外出した。
 だからその日の台所事情を、わたしは知らない。
 ただわたしたちの帰宅を玄関で待っていた二人が見せた表情で、大方の察しはついた。
 漂う異臭が、その推測を裏付ける。その臭いから、鍋の手を焦しただろうことも知れる。
 明日は新しい鍋を買いに行かなくては、と算段するわたしの耳元で、父が囁いた。
「ありがたみは、随分増してるようですね」
 わたしの背を軽く叩き、父は先に上がる。上がり際、もう一度小声で囁いた。
「さて、ここでもう一押し。あなたのお母さんはそうした駆引きが、実にお上手でしたよ」
 咄嗟に言を返せなかったわたしを見下ろして、父は笑う。
 それから志野さんに向い、父は言った。
「手伝ってあげますからまずは台所を片付けましょうか。お茶を用意して、それからこれを皆でいただきましょう」
 渡された寿司の包みを手に、志野さんが常になく素直な様子でこくこくと二度、頷いた。
「これで潰した鍋は五つ目ですね、志野くん」
「四つだ」
「よくまあ、そんなにもダメに……」
「俺にやらせるのが間違ってる!」
 二人の声が遠ざかり、台所へと消えてゆく。

「おかえりなさい」
 かけられた声に、わたしはそちらを向く。
「はい。ただいま戻りました。遅くなり、ご心配をおかけいたしました」
 いつかその人が言ったことばを繰り返す。
「心配はしませんでした」
 素っ気無くも聞こえる言葉に、おや、と思う。
 わたしの荷物と上着を受け取り、少し間をおいてその人はつけたした。
「ちょっと寂しかっただけですよ。お腹が」
 最後のフレーズを強調するその声に、わたしは今日二度目の苦笑を、咽喉の奥に封じる。
 拗ねたようなその口調も、表情も、対応も。
 そのかもす空気がどことなく父に似ていることは、どちらにも告げる気のない、わたしだけの秘密。