瑕(きず)― 言の葉にされざればなお ―


 出迎えたグァンドール帝を見つめ感慨深げに「陛下」と口にした妾妃ランドゥイスを目にしたセラナスはまず意外に思った。
 青宮アルデシールの整った容貌から想像していた青宮母とはまるで違っていた。
 女にはまさに凡庸という形容がよく似合う。
 美しくないといえば語弊があるが、ランドゥイスという女を語るときにその美貌が人々の口に上ることはおそらくないだろう。
 皇帝の妾妃と聞いて思うような華はなく、青宮の母と聞いて考えうる権だった印象もない。
 せいぜいが良家の内室といった風情だった。
 特に貶めるほどの欠点もないかわりに、これといって秀でたものも持たない。
 そんな女に思われた。
 ただ一点、その潰れた左半面を除いては。

 初め、セラナスの位置からその傷は見えなかった。セラナスは青宮の後方にいたからだ。
 青宮がランドゥイスの右手をとり輿から降りるのを手伝った。輿から降り立った女が己の足元からグァンドール帝へと視線を移す。
 その緩やかな動きにセラナスもまた伏せていた目を上げた。刹那垣間見た傷跡に、セラナスは軽く息を呑んだのだった。
 ――惨い。
 青宮母の顔に傷があることはすでに聞かされていた。
 今は僧院に篭められている先帝カウラ・アイン=トゥーランシヤの癇癪によるものだとも聞いている。
 顔に傷を持つ女はセラナスにとって珍しい存在ではなかった。当たり前というほどではなかったが、スゥルの女には顔を潰された者も決して少なくはなかった。
 したがって「傷がある」と聞かされたそのときも、単に「そうか」と思うのみだった。
 だが、よもや皇帝の妾妃、それも青宮の母ともあろう女の半面がこうまで無残に潰れていようとは、さすがに思いもしなかったのだ。
 セラナスが息を呑んだ直後、ほんのつかの間、女がセラナスを眺めた。
 妾妃とまともに視線を合わせてしまったセラナスは慌てて叩頭する。
 とくに咎めることも、声をかけることもなく女は穏やかにセラナスの上から視線をはずした。
 動悸を静め一瞬の動揺から立ち直ると、セラナスは習慣的にランドゥイスの顔に残る傷痕を窺っていた。
 直視を避けつつも視界の端から観察する。
 見るに、大きな得物でよほど力任せに顔を殴られたかの様だった。
 剣の腹だろうかとセラナスは思った。とすれば、明確な殺意はなかったのだろう。
 だがはっきりとした殺意もなくこれほどの暴虐がなされた事実を思い、セラナスは唇を噛んだ。
 光を失った左目と落ちくぼんだ頬。痛々しい痕をその顔に残す女は、しかし凄惨な顔貌に似合わぬおっとりとした物腰でグァンドール帝に礼をとった。
「お申し付けに従い、ただ今まかり越しましてございます。遅参いたしましたこと、お許しくださいませ」
 高すぎず、低すぎず、耳に心地よい穏やかなその声には、しかしはっきりとエルディア風の訛が聞き取れた。
 応じて「遠路よく参った」とグァンドールがランドゥイスを労う。
 それら定められた挨拶の後、グァンドール帝は自らの手をランドゥイスに差し伸べた。
 ランドゥイスもまた躊躇う様子なく、その思いのほか小さく柔らかげな手を皇帝の手のひらに重ねた。
 二人の姿は「青宮妃の姑となる女」への礼を慮ってというよりは、もっと身に馴染んだ、日常の光景のようにセラナスの目には映った。

「道中、伺いましたわ。陛下」
 ランドゥイスの口調は耳慣れぬ訛のせいか、セラナスの耳には歌のようにも聞こえる。
 その訛にセラナスはカルシュラート公――今はこの場にない青宮妃のことを思い出していた。
 それはランドゥイスのティエル・カン入城を数日後に控える午後だった。

 青宮母の里はバルクの南西にある。
 今は青宮の所領の一つだ。
「ルフティスと言う」
 そこはランガの真南でもあった。ガラムの東端の裾野にあるその街は、古くから隣接する二国に揺さぶられ続けてきた。
 ときにはバルクに先んじてエルディアに従い、またときにはバルクを追うようにしてキ・ファに順じた。
 それが許されるほどに小さな存在でもあったということだろう。
 どのようなところかと尋ねると、青宮は軽く目を閉じた。
「水だ」
「水、でございますか」
「水の豊かな土地だ。ルフティスは渓谷にある。湧き出で、流れる水を私はそこで初めて見た。十二のときだ。ガラムに育ったおまえには珍しくもなかろうが、バルクに生まれ育った私は少々臆するものを覚えた。谷川の両岸に聳えるいくつもの大岩、濃い樹木の匂い、轟々と音を立て流れ行く水に息が詰った。救いを求めて見上げた空に天の遠さを思った。わかるか」
 はい、とセラナスは青宮の感に同意を示した。
 セラナスは逆に、天と地が接するところまで遮るもののない景色をバルクの城壁から見たときに、開放感とともに寄る辺ない不安を覚えたのだ。
「ルフティスの領主だったウェルアードの祖父は戦場で父に破れ下った。服従の証として幼い娘と息子を差しだして。……ゆえに、東方は私が青宮であることに心中穏やかでない」
 兄である現皇帝とは異なり、青宮アルデシールにはキ・ファ帝室の血は一滴たりとも流れてはいないからだ。
 バルクもルフティスもキ・ファ国にとっては西の果てだ。時により他国に属するその地域に暮らす者を、彼らは同胞であるとは思ってはいなかった。先々帝ラージーンの末妹をバルクのグァンドールに降嫁させたことも、ラージーンや都の高官たちにとって体の良い厄介払いであり、決してバルクを重んじたためではなかった。
 しかし廃位された先帝カウラ・アイン=トゥーランシヤには子はなく、先々ラージーン帝の皇子皇女はトゥーランシヤ朝が立った際に屠られている。古きキ・ファ帝室の直接の流れを汲む者はもはやグァンドール帝を残すのみ。ラージーンの粛清を免れえたカーディイヤの「遠縁」らはそもそも没落して久しく、いまさら皇帝を輩出する力を彼らは残してはいない。
 そのため「ルフティスごとき辺境の、それもグァンドールに戦で破れ、人質として差し出された娘の子」とアルデシールを内心では侮っていても、それを口にすることはできなかった。
 これはあくまでも一時の処遇。
 皇帝にカーディイヤの血を引く息子が生まれるまでの間、アルデシール殿下には仮に青宮の座を温めておいていただくのだ、と東方の諸官たちは心を宥めざるを得なかった。
 彼らは皇帝の嫡子を得ることに懸命になった。
 キ・ファ帝室カーディイヤの血を絶やさぬためにとグァンドール帝の後宮には、その即位から日を置かず、宮女を含め百を超える美女が納められたという。すべての娘が数代を遡ればカーディイヤに繋がるという、まさに執念染みた成し様だった。
 ところがグァンドール帝は「百人もの女人を養う国力は今のキ・ファにはない」としてこれらの女たちを即日召し放った。
 さらに半年の後にはバルクへと都を移してしまう。
 旧皇都ナスラに置き去りにされた後宮にはグァンドールの寵を得た数人の妾妃たちが今もって留められているが、皇帝は誰ひとりにさえ二度の寵愛を与えなかった。
 遷都に伴いバルクへと召しだされた妾妃は青宮母ただ一人。だが、そのランドゥイスとの間にも子はない。
 もし殿下に弟君がいらしたなら、とセラナスが問うと、青宮は「喜ばしい」と端麗な口元をほころばせた。
「皇子が母上の子であれば私にとっては最善だが、そうではなくとも喜ばしく思う。むろん、その際には私は青宮を降りる」
「殿下」
「青宮であることに拘りはない。青宮でなくとも陛下の一兵として忠節を尽くす。陛下には再三申し上げたのだが……バルクの子である私では、東方は容易には従わぬとも」
 あるいは青宮の子にカーディイヤの血を入れることも――つまりはカーディイヤの血を引く娘を青宮妃に迎えることを――青宮は奏上したらしいが、皇帝はそれをも一蹴したという。
「カーディイヤの朝は滅した。この私の手によってだ。お前がカーディイヤの娘に惚れたのであれば考えぬでもないが、カーディイヤだけは避けてくれと、それが本音だ」
 いや、偽らぬところを申せばキ・ファの娘は誰であってもありがたくないとまで仰られたと、アルデシールは語った。
「が、しかしバルクの娘を青宮に入れるとなれば、これは東を刺激する」
 それも憚られ、今に至るまで青宮殿に迎えられた女人はない。
 皇帝の弟であり、皇帝の事実上唯一の妃の子であるにも係わらず、アルデシールの立場は非常に脆く、難しい均衡の上に成るものでもあったのだ。
 グァンドール帝の重臣らが青宮に対し概ね厳しい理由もこれに端を発する。
 青宮殿下には完璧であってもらわねばならない。少なくとも、東方に難癖を許す真似だけはさせられないと気負っているからだ。
 青宮はその期待によく応えている。セラナスはそう思う。
 そして東方もまた「瑕を持つ皇子ではあるが、その心がけに免じて」青宮にあることを許容しているのだと察した。
「ルフティスの子倅が、エルディア王族の姫君を娶る。目付けもますます喧しくなろうが」
 言って苦笑を閃かせた青宮だが、次の一瞬にはそこに笑みはない。
「東方も騒がしくなろうな」
 ナスラに構える面々が青宮の婚儀に難癖をつけるには相手が大物過ぎる。隣国の姫君との婚儀、それも和平のための政策となればこれに反対を唱えるのは難しい。あからさまに反すれば国益を損なうと罰せられかねない。しかしこれを受け入れればキ・ファ国国主の血統は確実に変わる。
 一触即発とまでは行かぬものの、バルクとナスラの関係はこれまで以上に緊張をはらむものになるだろう。
 案じられるとはそのことであったのかとひと月ほど前のやりとりを思い出し、セラナスは息を吐いた。
「妃殿下はそれをお心得下さいますでしょうか。その……磐石なお立場であるとは言いがたいことを」
「公は」
 青宮は言いなおした。
「ありがたいことに姫は武人だ。直にかの姫の身を危うくすることはナスラの文官には難しい。あるいは青宮殿にカーディイヤの娘を押し込んでくることも考えられるが」
 と青宮は皮肉な笑みを浮かべた。
「娘には哀れなこととなるだろう。気の晴れぬことだ」
 カーディイヤの娘の手をとれば、それは即ち青宮がバルクではなくナスラを選んだと解される。
 それでは国が割れる。
 グァンドール帝がそれを望まぬ限り、青宮がカーディイヤの娘を受け入れることはない。
「さて、東方はどう出るか。……南方も黙ってはいまい」
 南方というのはガラ国のことだ。
 キ・ファ国青宮とエルディアの王女が結ばれるとなれば、ガラの北全てが一つの国ともなりかねない。
 それはかつてない規模の大国の誕生でもある。ガラにとってはこの上ない脅威ともなりうる。
 そんな事態をガラの高官たちが黙って見過ごすはずがない。
「難しゅうございますね」
「『女王』を立ててくるかもしれぬ。そうなる前に真(まこと)の女王を保護し、エルディアを確保したいものだ」
 同時にガラとの折衝に備えて東方を確実に掌握しなければならないと青宮は続けた。
 政と戦を語るとき、青宮の表情には冴え冴えとしたものが宿る。
 しかし青宮はそこで一つ息を吐いた。
「……不思議なものだな。祖父らがキ・ファ軍を前に潔く散っていれば、私は姫の一兵……いや、そもそもこの世にないか」
 そのように語った青宮の淡々とした表情から、その事実を青宮がどのように受け止めているのかを測ることはセラナスにもできなかった。
 ただ、青宮妃となるイルージア姫に対する青宮の複雑な感情は、これらに端を発しているらしいことは察せられた。
 青宮と姫は互いによく似ている。生まれも、育ちも、課せられる役割、求められる責務、そして味方であるはずの者から疎まれる理由もだ。似ているからこそ、青宮は姫の手を取ることにためらいを覚えたのかもしれないとセラナスは思った。
 己の傷を映し出す鏡が常に間近にあるのでは、心安らぐときがない。
 しかしそれには触れず、セラナスはウェルアードの「潔さ」について弁明した。
「ですが殿下。弱いものがより強いものに阿るのは、その、道理かと思います。恐れながらランガ公は殿下の祖父上をお守りくださらなかったのですから、祖父上がこれを見限られても致し方がないかと……祖父上は、潔く、下られたのではございませんか」
 セラナスの言に青宮が寄せていた眉を開いた。
「さても、おまえは恐ろしいことを易く言いのける。ウェルアードを強者に阿って当然の弱き者とは……叔父上が――バルクの宰相がこれを聞いたら何を思うであろう」
「グァンドールに比すれば、ということです」
「なるほど。そう言われれば腹を立てることはできぬな」
 言葉とは裏腹に青宮の口調は楽しげなものだった。
「存外、面白いかもしれぬ……ナスラへ向かうのは」
 青宮妃を伴ってという言葉を青宮は声にはしなかったが、セラナスには聞こえたような気がした。
「はい」
 言葉短かに答え、そうであればいいという祈りをさえセラナスは覚えたのだった。

 グァンドール帝に手を取られ共に歩みながら、ランドゥイスは出迎えの兵やそれを遠巻きに見守る民には聞こえぬよう、小さな声で尋ねた。
「陛下、姫はこちらにはおられませんのでしょう? 残念なこと。わたくしもお会いしとうございましたのに」
 どこか楽しげなその声からはグァンドール帝への信頼が、そして同じだけ己も信頼されていることの自信が窺えた。
 大人しいだけの女ではないことが、その言でセラナスにも察せられる。
 思えば、あれほどの傷を隠すことをせぬだけでも並々ではない。
 美をもって寵を得た女ではないということか。
「わざわざ足を運ばせたのにすまぬな」
 半歩後ろを歩くランドゥイスにちらと目を向けた帝もまた砕けた口調でそれに応じる。いくつか年嵩の、糟糠の妻はグァンドール帝にとり気の置けない存在のようだ。
「無事婚約が成されたことでご油断召されましたかしら。いけませんわね」
「あれがそう書簡にしたためたか?」
 あれというのは青宮のことだろうか。セラナスが青宮の様子を目の端で窺うと、青宮は皇帝に目礼で詫びていた。
「いいえ。書簡には姫はお住まいを移されたとだけ。でも、聞かずともわかります。陛下はいつも詰めが甘うございますもの」
 ランドゥイスの子供を諭すような声音にセラナスは意識を二人からそらした。
 仲睦まじいやり取りに、閨を垣間見てしまったかのようなばつの悪さを覚えたのだ。
「特に『エルディアの方』に関しては」
 笑い含みの口調には言葉面ほどの棘はない。
「これは手厳しい」
 ほのかな苦笑を見せたグァンドール帝にもう一度たおやかな笑みを向けた後、ランドゥイスはつと歩みを止めた。
「殿下」
 ランドゥイスは右の肩越しに、後ろを歩いていた青宮を呼ぶ。
 セラナスの数歩前にいた青宮がランドゥイスにゆっくり二歩、歩み寄った。
 すいと広げた羽扇の陰で、青宮母は振り返ることなく肩越しに息子に囁いた。
「陛下が惑わされるくらいですもの、姫はとてもよいお方でいらっしゃるようですね。よろしかったこと」
 青宮は答えない。しかし
「ぜひ捕まえておいでなさいませ」
「……かしこまりました」
 続けられた言葉には半眼を伏せてそう答えた。
 短く返した青宮の両眼を、ランドゥイスの唯一つの目がひたと捉えている。
 その大地の色のまなざしは穏やかで温かだが、優しいだけではない。
「姫は殿下の半身となられるお方」
 無言で頭を下げた青宮に、ランドゥイスは変わらず穏やかな口調で、さらに難しい注文をつけたのだった。
「姿ばかりのことではありません。そのお心をこそ、得ていらっしゃいますように。それが国の、また御身のためと申すもの」
 よろしいですね、と念を押した国母に、青宮は無言で頭を垂れた。

「ザレーディールはその手記に次のように記している」
 老人は手記を繰る。
 少女は机に手を付き、身を乗り出してその指し示す先を見た。

 青宮妃、カルシュラート公はまさに公であり、将であられた。
 かの姫君の出奔は、しかし称えるほどの知略の末であったとは思われない。むしろ出し抜かれた己らが愚かであっただろう。だが、真に鮮やかなものであった。
 まず一つに、静かに、穏やかに、大人しく籠められた部屋でキサラを奏でるかの姫君が「ファ・シィンの娘」であることを、我々はいつの間にか忘れさせられていたのだ。

 謁見のあの日、非の打ち所のない姫君の姿で兵の前に現れたことも、おそらくは策のうちだったに違いない。セラナスはそう思う。
 高貴な姫君としての振る舞いを見せられたことで、兵たちの間からはおよそ「高名な武人を捕えている」緊張が消されてしまったのだ。
 キ・ファの男にとって女はすべからく守るべき存在であったことも、青宮妃に味方した。
 今となっては女王(エルディアナ)を探せと言う青宮妃の要求が、そもそもこのためであったようにもセラナスには思われた。
 女王の探索を公に求められたことで、結果としてティエル・カンにある兵を割くことになったからだ。
 ガラの動向を抑えるためガライダルに展開した兵は動かせず、ソーマへと向けた兵も一部を除いてはサハンにある。
 バルクに残した軍には、主街道の保護を申し渡した。
 となれば、女王探索にはティエル・カンの兵を割くしかない。
 皇帝も青宮も長けた武人だった。
 万が一にもエルディアの残党に害をなされることはありえないと考えていた。
 ゆえにティエル・カンの城下には、治安を図る必要最小限の部隊があればよいと思われたのだ。
 もちろん青宮妃は念入りに籠めた。婚約を済ませ、正しくキ・ファの青宮妃として迎えられて以降も、その待遇に代わりはなかった。そのつもりだった。
 市街から遠く、城壁からも離れ、皇帝や青宮の居室からも距離のある官邸の一室。間道がないことは真っ先に調べていた。そして幾重にも兵を配置した。
 しかしティエル・カン城に育った青宮妃にとって、城のすべては己の家のようなものであったのだろう。
 キ・ファ軍の封じは青宮妃にはまるで無意味だった。
 青宮妃は実にやすやすと抜け出した。
 城を去るまでの間に、誰一人とも剣をあわせなかった。いや、その姿を兵の前に晒すことはなかった。
 夜半、キサラの音がないことに気がついた青宮が、青宮妃の元に人を遣わしたそのときにはもう居なかった。
 そこには青宮妃につけた侍女が一人、窓辺に佇んでいるだけだったという。
 侍女を糺したものの、これがまた強情な女で青宮妃の居所については頑として口を割らなかった。
 聞けばこの侍女、元はカルシュラート公に仕えた兵士であったようだ。退役し、葬神殿の装飾を手がける職人の妻になったのが数年前。
 なるほど、仕えたことがあると聞き、カルシュラート家に侍女奉公をしていたのだと思ったのはこちらの手落ちだが、しおらしい様子で青宮妃の世話を焼いていたそのすべてが演技であったとはいっそ見上げたものだとセラナスは感心したほどだった。
 ともかくも、この城を出る青宮妃と会ったのはただ一人。喪神殿のグァンドール帝だけだ。
 青宮妃は皇帝に対し「いとまの挨拶」をしたのだとセラナスは聞いている。

「ご挨拶を、なさったのですか……陛下に」
 青宮妃がティエル・カンを抜け出した翌早朝――それはセラナスがルフティス及びナスラとバルクの関わりを聞いたその翌日のことでもあった――、前晩の騒動の収拾から戻った青宮は疲れた様子でそれを語った。
「ああ。父上様にはご機嫌麗しゅう、今宵はしばしのお暇をいただきに参りました、と。エルディアでは青宮妃にとって兄上は兄ではなく、義父にあたるのだろうな。ではご息災でと言い残して去ったそうだ」
 これを青宮から聞かされたときは、セラナスであっても即座に述べるべき言葉を見つけられなかった。
 厭味にしても、やることが常軌を逸している。
「それは、なんと……」
 しばらく考えた後にやっと出てきたのは次の言葉だった。
「では殿下にはご挨拶なさらぬままに?」

 青宮は何か苦いものでも噛んだような表情でセラナスを見つめた。

 表向きには青宮母ランドゥイスがイルージア姫の身を預かる、婚儀の日取りは姫がキ・ファの文化に親しんでから、と布告されることとなった。
 そのことに特に疑いを持つ者は現れなかった。
 王族や貴族の婚礼は婚約が成されてから数年を準備に掛けることも珍しくないためだ。
 ファ・シィンの娘が事実上キ・ファに下ることを惜しむ声は聞かれたが、「下ること」そのものに疑問を投げかける声も聞かれなかった。
 継室に預けられたイルージアが姿を現さなくなったことも、ただ「キ・ファの慣習なのだろう」と受け止められただけだった。
 ただ一人。
 それを伝えたときに、こう言った者があった。
「あの方がキ・ファに親しんでから……それでは軽く四、五年は有しましょう。御子のご誕生までとなれば、あるいはもっと……」
 ハン執政官――前王アズライルの妻、リセル・ターガの父――だった。
 西方から戻ったハンは、堂々とグァンドール帝に帰還の「報告」をした。
 なぜ私に報告をすると訊ねたグァンドールに、「国主に命じられた任を、国主に返すことに何の不思議がございましょう」とハンは言い返した。
「私はこの国の官です。エルディア国王の私物ではない」
 断言したハンに、僅かではあったがグァンドール帝が懐かしいものをみるように目を細めたことをセラナスは青宮の陰から見ていた。
 そのハンが、セラナスに言う。
「いつとも知れぬ間、沈みゆく国の底辺をわが身を挺して支えよとおっしゃるか。ザレーディール殿」
「国の礎に沈むるは王族の誉れ、と公……青宮妃殿下は仰いました。ですが、どうやらハン殿は違うご意見をお持ちのご様子ですね」
 セラナスの応えにハンは数度瞬きし、薄い笑みを口元に浮かべた。
「私は生粋の王族ではありませんので。もとを正せば市政の民。遡ればこの国の者でさえない。はたして王族と名乗ってよいものやら」
「王の娘を娶れば、王族に名を連ねる。なぜなら、それは王位につくこともありうる立場となるから。覚悟もなしに継承者(エルディアニア)の手を取られたとは、ハン殿も大胆でいらっしゃる」
 セラナスにはそんなつもりはなかったが、結果として王位を蹴り娘婿にそれを押し付けた形になっていたハンには痛烈な皮肉にもなった。
 しかしハンは笑みの中から酷薄さを消すと頷いた。
「なるほど。これは痛いところを突かれました。よろしい、では私が務めから逃げた十年をお返ししよう。しかしそのために必要なものはご提供いただけるのでしょうな」
「可能な限りにおいてお約束いたします」
「しかしあなたのお約束では心もとない」
「青宮殿下の名代として本日はお目にかかっております」
 セラナスの言葉に、ふとハンの目元が緩んだ。
「では」
 ハンが席を立った。
「あなたがこちらにお立ちになるべきでしょう」
 上座を譲ったハンがセラナスに対し、貴人への礼を取った。
「あらためて拝命いたします。五年はこの国を保たせるとお約束いたしましょう。しかし残念ながら十年、いや八年は難しいことをご承知おきいただきたい。王でないものが国を預かり得るのは、それが限りです」
 以後エルディアの政は、青宮の下でエリスハル=ハンが預かることとなった。
 エルディア領内が目に見えて落ち着きを取り戻すまで、長い時間はかからなかった。

 さて、と老人は孫娘を見る。
「青宮妃イルージアは出奔した。向かった先はどこだと書かれていたかね」
 ザレーディールの手記を手早く開き、フィル=シンは答えた。
「サレアよ」

 妃殿下がおそらくは北へ向かわれたことを察し、殿下もまたエルディア北部に峰を連ねる二つの山脈に馬を進めた。
 王女が北に向かったのであるのなら、妃殿下もまた北を目指すだろうと思われたのだ。
 その推察は正しかった。
 ティエル・カンからほぼ真北にはルギア渓谷がある。
 それぞれソナ(豪雪)とサレ(氷壁)の名を持つ長大な山脈のわずかな合間だ。
 エルディアの者でさえ、その先に進むことは稀だといわれるその険しい山間を、妃殿下は一人、徒(かち)で越えた。
 しかしその確証が得られたのは妃殿下が我等の前に再び現れて後のことであった。
 このとき殿下は公を再び捉えることができなかったのだ。

 姿を消した青宮妃と青宮が再び合い見えるのは、奇しくもハンとセラナスが約した五年の後。
 互いに馬上でのことであったと、ザレーディールの手記には綴られている。